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名は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと) 歴史の中の経緯・29

2023年10月24日 | 歴史の中の「経緯」

まったく、丸どりで申し訳ないのですが・・・

https://blogs.yahoo.co.jp/caroline_a_go_go/37419318.html

 

今日は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)という、頭に角の生えた一風変わった神様に関わるお話です。
 
 日本書紀、垂仁天皇の条にその話はあります。
 
 崇神天皇の御世。
 額に角のある人物が、越の国の笱飯の浦(福井県の敦賀)につきました。
 ツヌガアラシトは角がある人という意味で
 敦賀(つるが)の由来は角がある人が来たから敦賀(ツヌガ→つるが)という地名になったとか。
 現在敦賀の駅前には、ちゃんとこのツヌガアラシトの像が建っており、一度は伺いたい場所の一つです
 ツヌガアラシトいわく、
「私は大加羅国の王の子、名は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、またの名は于斯岐阿利叱智干岐(うし
きありしちかんき)という」
 この難しい言い方のほうは、きっと古朝鮮語でしょう。
 日本語はまだこの時点では当て字ですが、当時の発音を表そうとするので、中国語では分からない(中
国語は表意文字ですから)、当時の発音の一端を知ることが出来、古代アジアを調べる人たちにとっても
大変興味ぶかい資料となります。
 さて、この王子さま、日本をあちこち渡り歩いたすえ天皇に仕えていたようです。
 いざ国に帰るという段になり、垂仁天皇から
「お前の本国の名を改めなさい。御間城(みまき)天皇(アラシトが会えなかった前の天皇、崇神天皇の
こと)の名をとって、みまなという国にしなさい」と言われました。
 任那(みまな)の名前の由来はここにあるようです。
 
 そして日本書記では、次に天日槍(あめのひぼこ)の話に入りますが、
 実はこのアメノヒボコ、
 上記のツヌガアラシトと同じではないかと言われています!
 
 古事記と日本書紀において、このようなほぼ同じ説話が乗っています。
 
      朝鮮からやってきた王子さまで、女の子を追いかけてきてやってきた。
 
 大筋はこんなとこです。
 が、ニュアンスこそ違え、ほぼ同じとしか思えない話なのに、記紀で人の名前が違う。
 
 その名前が古事記ではアメノヒボコ
 日本書紀ではツヌガアラシトで書かれているのです。
 
 そしてアメノヒボコが持ってきたという神宝からみてみると、また新たな人物が同一神ではないかと疑われてきます。
 
 日本書紀ではこのような記述があります。

 アメノヒボコは新羅の国の王子で、七つの神宝を持ってやってきた。
 七つの神宝とは、羽太の玉、足高の玉、鵜鹿鹿(うかか)の赤石の玉、出石の小刀、出石の鉾、日鏡、
熊の神籬(ひもろぎ)である。
 
 古事記では八種類の宝をアメノヒボコが持ってきています。

 珠が2つ、浪振比礼(ひれ)、浪切比礼、風振比礼、風切比礼、奥津鏡、辺津鏡の八種。

 そして『先代旧事本紀』において、ニギハヤヒが十種の神宝(とくさのかんだから)という、アメノヒボコとほ
ぼ同じ宝を授かるという記述があります。
 
沖津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)、 八握剣(やつかのつるぎ)、生玉(いくたま)、
死返玉(まかるかへしのたま)、足玉(たるたま)、道返玉(ちかへしのたま)
蛇比礼(おろちのひれ)、蜂比礼(はちのひれ)、品物之比礼(くさぐさのもののひれ)
 
 微妙にネーミングは違いますが、大体玉、ヒレ、剣、鏡とアイテムが似ていることが分かります。 
 
 ここからニギハヤヒをアメノヒボコ、ツヌガアラシトと同一神とする意見もあり、一緒だとすると、ニ
ギハヤヒの人物像が一層広がり、また興味をそそられます。
 いったい、ニギハヤヒはいくつの名前を持っているのでしょう。
 
*******
ウガヤフキアエズ王が、饒速日ではないかと試考しているところもある代理。
その
饒速日が素戔嗚であり、大国主命であり
もしかすると、
国常立ではないか?
 
もう、むちゃくちゃな展開になっているとは思うのですが・・・・
国常立が艮金神といわれていたことと
素戔嗚の文字解釈から
エンマ大王でもある。
と、とらえていきますと、
角がある「つぬがあるしと」は
なにか、「鬼」のように感じて来ますので、
冥界の人物?
エンマ大王?
やはり、同一人物のような「イメージ」をもたらせてきます。
 
そこで、もう少し、しらべてみますと・・・
 
http://d.hatena.ne.jp/Hyperion64+singularity/20160528
 
都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)は「三国史記」にも出ているのか 

 歴史時代になっても記紀には得たいの知れない人物が出入りする。
 日本書紀の巻六「垂仁天皇」の条に、越(新潟から越前まで)に頭に角が生えた奇体な人物が漂着した。今の敦賀市付近とされる。

崇神天皇の御世に、額に角の生えた人が、ひとつの船に乗って越の国の響鰤の浦についた.それでそこを名づけて駕ぽという。「何処の国の人が」と尋ねると、「大加羅の王の子、名は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)またの名は宇斯岐阿利子智干岐(うしきありちかんき)という


 垂仁天皇の三年にこの人物は本国に帰りたいと申し出る。ツヌガアラシトとは変わった名前である。「つのがあるひと」の古語かもしれない。
 別の名のほうも変だ。そもそも二つの名に共通性がない。地元民にはたいそう偉丈夫に見えたのだろう。地元で畏怖され、それが敦賀という地名に継承されるのだ。

赤織の絹を阿羅斯等に賜わり、元の国に返された.だからその国を名づけてみまなの国というのは、この縁によるものである。


 つまり、釜山というか伽耶の人であったのだろう。この布が「みまな=任那」の語源だというのは「風土記」的発想である。さらに続けて日本書紀はこの布を新羅が奪ったことを書き記している。つまり、新羅に渡ったわけである。
 さらに『日本書紀』の一書ではこうあるという。

童女を婦とし、そのあとを追って日本に来たが、童女は難波に至り比売語曾社の神となり、豊国の国前郡に至り比売語曾社の神となって、二処に祭られた

 つまり、あとから奥さんが追っかけてきたのだ。それが神社の神に祭られたとある。

 類似の出来事が『三国史記』にも出ている。『三国史記』は記紀と同じ位置づけにある朝鮮の歴史書である。
 日本書紀と同じではないが、日本と朝鮮をまたいで生きた人物が描かれているのだ。朝鮮半島から日本に渡り、一切れの布が半島に戻る。
 「東海」とは半島の日本海側のことだ。新羅日本海沿岸の北陸や山陰はかねてより半島や大陸と神話時代から交流がある。


 さて、もう一方の『三国史記』では新羅神話時代の出来事だ。東海に延烏(えんう)という漁師がいた。磐に乗って大和までやってくる。延烏は大和のに地で偉くなり、妻の細烏を呼び寄せる。
 どうしたことか、新羅では日月が空から消え失せてしまった!
 実はこの夫婦は日月の精であったのだ。新羅王は日本から二人を呼び迎えることにした。延烏はそれを聞いても今更に帰国もできないが、せめてもの救いということで綾絹を使者に手渡した。新羅王がその布をお祭りすると日月が再び輝きを取り戻した...。

 夫婦ともども日本に来朝し、「布」が新羅に渡るという出来事が上記の日本書紀共通性があることに注意を喚起したい。
 どうであろう。
 都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)と延烏(えんう)は、同じ人物を日朝両方から別々に描いたといえないだろうか?
 それも不思議ではない。なぜなら、日本書紀の編纂者は百済からの渡来人とされ、大和朝廷の史書としての体裁を整えるのに当時の百済や新羅等の史書を参照したと歴史家たちは指摘しているからだ。
 でも、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)と延烏(えんう)の同一性や類似性の指摘は他の歴史関係者の本では見たことがなかったので、ここに書き残す次第です。

**********

これは、驚いた。

延烏(えんう)

妻の細烏

二人が日本に行ってしまったら、

どうしたことか、新羅では日月が空から消え失せてしまった!

**********

ここを読むと、天照の岩戸隠れを思わせる。

その時、月はどうであったか、しらないが・・・

日がなければ、月も照り返されずみえなくなるだろうwww

そのあたりには、一切ふれていない記紀ではあるが・・・

 


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