「ひとりの男」オリアーナ・ファラーチ:著 望月紀子:訳 講談社/1982年
Original title:Un Uomo
1984~85年 ニューヨークに住んでいた時
フェタ・チーズやカラマタ・オリーブを買っていたなじみの
ギリシャ食料品店のオレガノやバジルの香りが充満した奥の隅っこに
ギリシャ音楽のコーナーがありました。
ダララスやアレクシウ、ヤニス・パリオスの新曲が出る度に
私はなけなしの給与をはたき、レコードやカセットテープを
その店で買いこんでいました。
そんな日本人客はきっと珍しかったのでしょう。
ある時、店主が一枚のパンフレットをくれました。
『ミキス・テオドラキス・イン・マディソン・スクエア・ガーデン』
と書いてありました。
当時の私には高額だったチケットを買って会場にいくと
端っこでしたが、一番前の席でした。
ニューヨークのクイーンズ地区には大きなギリシャ系移民の
コミュニティーがあり 小さなダイナーやピザの店を開き
年中無休で身を粉にして働いているギリシャ人がたくさん住んでいました。
マディソン・スクエア・ガーデンはそんな人たちで満員で
会場は熱気があふれていました。
マリア・ファランドゥーリが数曲唄ってから、テオドラキスが
小さな椅子を手に舞台に現れました。とても背が高い彼が運ぶ
質素な木の椅子はとても小さく見えました。
テオドラキスはその椅子を舞台の中心に置き、こういいました。
「この椅子を 今は亡きアレコス・パナグーリスの為に」
すると観客が皆 故人に敬意を払って立ち上がり、
軍事政権下で抵抗の歌として唄われた
テオドラキスの曲ΑΡΝΗΣΗ:アルニシやΚΑΗΜΟΣ:カイモスを唄ったのでした。
今でもこれらの曲を聴くと、あのときの会場の雰囲気がありありと
想いだされます。
「ひとりの男」アレクサンドロス(アレコス)・パナグーリスを
いったいどう紹介すればいいのでしょうか。
wikipediaには詩人、政治家という肩書きがありますが、
ギリシャの独裁政権下では 彼は最も危険なテロリストでした。
他者を職業や思想、性別で規制のカテゴリ-に分けて認識し、
どれにも属さない者には危険人物というレッテルを貼るのが
世の中の常のようです。
独裁者パパドプーロスの暗殺をひとりで企てて失敗し、
囚われ、厳しい拷問を受けながらペンも紙もない獄中で、
インクの代わりに自分の血を使って抵抗の詩を書き続けた男。
メリナ・メルクーリやイレーネ・パパスの呼びかけにより
国際的な世論の圧力がかかり、パナグーリスは死刑を免れますが、
待っていたのは死ぬよりつらい終わることのない拷問でした。
軍事政権が倒れた後は、どの派閥とも相容れず
独自の政治活動を続けながら
1974年から2年間 国会議員を務めます。
最後は36歳の若さで不審な交通事故により亡くなりますが
軍事政権の保安軍に関する機密を証明するファイルを手にしていて
数日後には発表する予定であったことから
口封じのために暗殺されたと多くの人が信じ、
私もまたそう思っています。
彼の死によりファイルも真実も 闇に葬られてしまったのです。
すべてのカテゴリー分けを拒否して
自分の信念のみを希求して生きた彼の
伝記を Un Uomo「ひとりの男」という
これ以外考えられないタイトルを付けて書いたのは
アメリカのキッシンジャー長官、PLOのアラファト議長、
イランのホメイニ師など20世紀のリーダーたちへの
挑発的なインタビューで知られるイタリアのジャーナリスト、
Oriana Fallaci:オリアーナ・ファラーチです。
獄中から解放されたばかりのパナグーリスをインタビューするために
彼をアテネ郊外グリファダの自宅に訪ねたファラーチは
最初の出会いで孤独なこの男に強く惹かれます。
強烈な自我と個性を持つふたりの人間は男女として愛し合い、
同志として思想を磨きあい、蜜月を過ごし、激しい喧嘩で傷つけあい、
仲直りと別離を繰り返し、その関係は彼の突然の死で終わりを迎えます。
ファラーチはなにか不思議な力で彼の伝記を書くために選ばれ、
彼の前に現れ恋に落ちたのだ、と私には思えてなりません。
彼女の著作なしにパナグーリスがこれほど理解され、
早すぎる死の後も人々の記憶に残ったとは考えられないからです。
世界的なジャーナリストが個人として、女性として、
愛したひとりの男の生と喜び、苦悩と死を一番近くから
目撃しながら書いたこの本にはスピードと臨場感があり、
読者に一気に読み進ませる力を持っています。
彼の葬儀の場面から始まる二段組み536ページの大作を
読み終えた時、胸に響くのは、リアリスティックな政治的ジャーナリズム
という高音部の主旋律を 動かしていく愛と情熱のリズムです。
この本はギリシャの暗い時代を背景とした 数奇な運命をたどる
恋人たちの骨太のラブ・ストーリーとして読んでもらいたいと思います。
ただし 美しく哀しいメロドラマではありませんので、覚悟して・・・。
主な公共図書館で 見つかると思います。
関連する過去のブログ:
ギリシャの本 1 「ギリシャ わが愛」メリナ・メルクーリ著
ギリシャの本 2 「予兆の島」ロレンス・ダレル著
人物について:
Oriana Fallaci/英語
wikipedia:アレクサンドロス・パナグーリス/日本語
アレコス・パナグーリスと同じ大学を卒業し、彼のお母さんにもあったことがあるの夫には、アレコス・パナグーリスは英雄の中の英雄です。私も、ぜひこの本を読んでみたいと思います。
こちらのブログにお越しいただいてありがとうございます。
お料理のコラムいつも楽しく拝見させて
いただいています。
これほど迫力のある本は世界中に
そう何冊もないと思います。
特に冒頭の葬儀の部分
(プロローグの14ページ)
では読みながら まるで自分が
その場に立って 葬列の群衆にまきこまれて
いるような臨場感に、鳥肌が立つような
感覚を覚えます。ここで、完全に
この本に引き込まれてしまいます。
そういえば この本にある
パナグーリスが暗殺される直前
最後の食事をした
グリファダの「ツァロプロス」という
タベルナに食事にいきましたが
今もあるのでしょうか?
だんなさまに
いつかパナグーリスについて
お話を伺いたいです。