歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪推理小説『オリエント急行殺人事件』と英語≫

2021-12-21 18:12:36 | 語学の学び方
≪推理小説『オリエント急行殺人事件』と英語≫
(2021年12月21日投稿)

【はじめに】


 今回のブログでは、アガサ・クリスティーの有名な推理小説『オリエント急行の殺人』と英語について考えてみる。
その際に、次の文献を参照した。
〇アガサ・クリスティー(山本やよい訳)『オリエント急行の殺人』早川書房、2011年
〇Agatha Christie, Murder on the Orient Express: A Hercule Poirot Mystery, Harper Collins Publishers, 2011.

なお、映画のDVDとしては、次のものを鑑賞した。
〇私も購入したDVD『オリエント急行殺人事件』(パラマウント・ジャパン、1975年公開、シドニー・ルメット監督、アルバート・フィニー主演)




【アガサ・クリスティー(山本やよい訳)『オリエント急行の殺人』早川書房はこちらから】

オリエント急行の殺人 (クリスティー文庫)

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Murder on the Orient Express (Poirot) (English Edition)

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アガサ・クリスティーの孫マシュー・プリチャード氏の序文



文庫本に、マシュー・プリチャードが、「『オリエント急行の殺人』によせて」と題して、序文を記している(アガサ・クリスティー(山本やよい訳)『オリエント急行の殺人』早川書房、2011年、4頁~7頁)。

マシュー・プリチャードは、アガサ・クリスティーの娘ロザリンドの息子である。つまりアガサ・クリスティーの孫である。1943年生まれで、アガサ・クリスティー社の理事長を長く務めているという(7頁)。
彼によれば、『オリエント急行の殺人』はアガサ・クリスティーのもっともお気に入りの作品の一つであったという。この作品の精緻なプロットを誇りにしていたからだけではなく、不幸に終わった最初の結婚に区切りをつけ、母の死という悲劇を乗り越え、考古学者のマックス・マローワンとの新たな結婚生活の門出を祝うという意味あいもあったからだと述べている。

アガサ・クリスティーは「列車はつねにわたしの大好きなものの一つであった」と自伝の中で述べている。『オリエント急行の殺人』は1933年に書かれ、翌1934年にイギリスで刊行されたものである。アガサの旅行に対する愛情、とりたてて列車に対する憧れをもっとも反映した作品のひとつである。
現代でこそ、オリエント急行の旅は優雅なものであるが、1930年代にロンドンからイスタンブール、さらにその先に列車で向かうことは現在とは比べものにならない危険を伴う冒険であったようだ。
フランスからイタリア、トリエステを経由して、バルカン諸国、ユーゴスラビア、イスタンブールまでのオリエント急行は交通手段であるだけでなく、異文化との出会いの場でもあった。当時の旅行は、道連れになった人と友人となったり、停車した駅でお土産を売っている地元の人と交流したりする社会的な一大イベントであった。旅は人生そのものであり、冒険であった(4頁~5頁)。

アガサ・クリスティーの優れた点は、オリエント急行という、彼女自身が実際に体験し、社交の場として楽しんだ旅のなかに、殺人という悲劇的な出来事を取り入れた点であると、孫のマシュー・プリチャードは見ている。
今日では、金持ちの乗客がこれほど多く乗り合わせていたことは想像しにくいことだが、1930年代にはまったくありえないことではなかったようだ。かくして容疑者たちが乗り合わせた列車は雪のために足止めを食うことになる。やがて殺人事件が起き、事件解決のためにエルキュール・ポアロの登場と相成る。
アガサ・クリスティーの作品には、「孤絶」という設定が多く見られるが、列車という舞台設定はその典型といえる。

しかし『オリエント急行の殺人』は違った意味でアガサ・クリスティーの典型的な作品のひとつであるという。それは下僕や労働者、遺跡発掘現場での作業員といった抑圧された人々への共感であり、社会正義への配慮でもあった。
時代の雰囲気や個性的な多くの登場人物に目を奪われがちだが、作品中に登場する、アメリカで誘拐されて殺されたデイジー・アームストロングの話を忘れてはならない。このデイジー・アームストロングの事件は名前こそ変えてあるが、かの有名なリンドバーグ事件がモデルになっている。フィクションの中とはいえ、誘拐殺人者に正義の鉄槌を下すことで、祖母アガサ・クリスティーは溜飲を下げたにちがいないと、孫のマシュー・プリチャードは推測している。

1974年の映画版でも冒頭にセピア調で描かれたデイジー・アームストロング事件は、そこからはじまる人間ドラマを予感させる印象深いものだった。
アガサ・クリスティーは魅力的な舞台設定と鋭い社会観察で高く評価されている。彼女の小説には、犯罪の犠牲者に対する配慮や、社会正義への願望、生命の尊重といった思想が根底に流れている。時代の雰囲気をとらえた娯楽小説と犯罪の邪悪さを描いたミステリーといったこの二つの融合こそがクリスティー作品の人気の秘密といえると孫のマシュー・プリチャードは捉えている(6頁~7頁)。


『オリエント急行殺人事件』の有栖川有栖氏の解説


大雪のためユーゴスラヴィアの山中で立ち往生した豪華国際列車・オリエント急行で、殺人事件が発生した。殺されたのは忌まわしい過去を持つアメリカ人富豪であった。列車会社の重役は、同じ列車に乗り合わせていたエルキュール・ポアロに事件の捜査を依頼した。そして、カレー行き車両の乗客全員を尋問することになる。地元の警察に通報する前に犯人を突き止めるよう、依頼されたのである。

この推理小説『オリエント急行殺人事件』について、「華麗なる名作」と題して、作家の有栖川有栖氏が解説している(アガサ・クリスティー(山本やよい訳)『オリエント急行の殺人』早川書房、2011年、409頁~413頁)。

<ミステリの女王>アガサ・クリスティーは数多くの傑作・秀作を遺したが、その中でも『オリエント急行の殺人』(1934年)は舞台や登場人物の華やかさ、結末の意外性、作品の知名度で群を抜いている。
本作の魅力を要約すると、エキゾチックで、レトロで、サスペンスフルの3つになると、有栖川氏はまとめている(411頁)。華麗なる名作と呼ぶにふさわしい作品だと絶賛している(409頁)。

ただ「しかし、実はこの作品にはそれを超えるインパクトがある。胡散臭(うさんくさ)く、スキャンダラスな一面によって。」(411頁)という断りを付け加えてはいる。この作品は、現実の世界ではさほど意外ではないはずのことが、ミステリの世界でのみ意外性を帯びるというパラドックスが光っているという。この<ミステリの女王>は、「あなたたちと、そんな約束をした覚えはないわ」と不敵で凄みのある笑みを浮かべていたかもしれないと、有栖川氏は想像している(412頁~413頁)。

「アームストロング誘拐事件」


ところで、本作では、殺害されたラチェットが引き起こした「アームストロング誘拐事件」(第一部事実)には、実際に起こった事件をモデルにしている。
有栖川氏は次のように解説している。
「スキャンダルと言えば、本作の背景となっている誘拐事件は、実際にあったリンドバーグ子息誘拐事件をモデルにしている。当時、世界を震撼させた悲劇を、クリスティーはすばやく自作に取り込み、ミステリとしての「問題作」を書き上げた。抜群の作家的反射神経である。レトロスペクティヴな風味を楽しみながら、その点にも留意したい。」(413頁)。

私がこの作品を一言で要約すれば、「孫娘を殺された祖母の壮大なる復讐劇」ということになるのではないかと思う。この事件の背景にあるのは、やはり「アームストロング誘拐事件」(The Armstrong Kidnapping Case)であろう。
そして、事件解決に向けて、重要な記述は次のエルキュール・ポアロの推理であろう。

The first and most important is a
remark made to me by M. Bouc in the restaurant car
at lunch on the first day after leaving Stamboul ― to
the effect that the company assembled was interest-
ing because it was so varied ― representing as it did
all classes and nationalities.
“I agreed with him, but when this particular
point came into my mind, I tried to imagine whether
such an assembly were ever likely to be collected
under any other conditions. And the answer I made
to myself was ― only in America. In America there
might be a household composed of just such varied
nationalities ― an Italian chauffeur, and English
governess, a Swedish nurse, a French lady’s maid
and so on. That led me to my scheme of ‘guessing’ ―
that is, casting each person for a certain part in the
Armstrong drama much as a producer casts a play.
Well, that gave me an extremely interesting and sat-
isfactory result.
(Agatha Christie, Murder on the Orient Express: A Hercule Poirot Mystery, Harper Collins Publishers, 2011, pp.301-302.)

【Agatha Christie, Murder on the Orient Expressはこちらから】

Murder on the Orient Express (Poirot) (English Edition)


翻訳本によれば、次のようにある。
「まず、もっとも重要な点として挙げておきたいのは、イスタンブールを発車した日に食堂車で昼食をとっていたとき、ムッシュー・ブークがわたしに言った言葉です。ここにいる人たちの顔ぶれがおもしろい、変化に富んでいて、あらゆる階級とあらゆる国の人々が集まっている、というような意見でした。
 わたしも同意しましたが、あとになってこの点が心に浮かんだとき、このようにさまざまな人が集まる場合がほかにあるだろうかと考えてみました。すると、答えが浮かんできました――あるとすれば、アメリカぐらいのものだ。アメリカなら、いろいろな国籍の人を使用人として住まわせている一家があってもおかしくない――イタリア人のお抱え運転手、イギリス人の家庭教師、スウェーデン人の乳母、フランス人の子守など。これでわたしの“推理”の輪郭ができました。つまり、プロデューサーが芝居の配役を決めるように、
アームストロング事件というドラマの役を一人一人に割り当てていったのです。おかげで、きわめて興味深い、満足できる結果が得られました。」
(アガサ・クリスティー(山本やよい訳)『オリエント急行の殺人』早川書房、2011年、390頁~391頁)。


【アガサ・クリスティー(山本やよい訳)『オリエント急行の殺人』早川書房はこちらから】

オリエント急行の殺人 (クリスティー文庫)


名探偵エルキュール・ポアロの人物設定


名探偵エルキュール・ポアロ(Hercule Poirot)は、アガサ・クリスティー作の推理小説に登場する架空の名探偵である。ベルギー南部のフランス語圏(ワロン地方)出身とされているベルギー人である。ベルギーのブリュッセル警察で活躍し、署長にまで出世した後、退職していた。
 
名前のエルキュール(Hercule)は、ギリシア神話に登場する怪力の英雄「ヘラクレス」のフランス語形である。
(フランス語ではHは発音しないのが鉄則。だからHeは「エ」。)
ただ、クリスティーは、小男であるポアロにわざとこの名前をつけたそうだ。
また、日本では、“Poirot”について、「ポアロ」と「ポワロ」の二つの表記が存在する。
フランス語でoiは「オワ」という感じに発音するため、後者のほうが原音に近い。そして末尾のtはフランス語では発音しないのが鉄則。
以前は、「ポワロ」と表記することが多かったが、「ポアロ」表記している早川書房が翻訳独占契約を結んだため、「ポアロ」という表記が世間に広まったという。


『オリエント急行殺人事件』とフランス語


名探偵エルキュール・ポアロ(Hercule Poirot)が、ベルギー南部のフランス語圏(ワロン地方)出身ということもあってか、『オリエント急行殺人事件』の英語版でもフランス語が登場する。

乗客と車掌との会話で、頻度の高いフランス語が使われている。
たとえば、
“Bonne nuit, Madame”(「おやすみなさい(ボンヌ・ニュイ)、マダム」)(訳本65頁、原書p.44.)
“Bon soir, Monsieur”(「おやすみなさい(ボン・ソワール)、ムッシュー」)(訳本67頁、原書p.45.)
“De l’eau minerale, s’il vous plait”(「ミネラルウォーターを頼む(ドゥ・ロー・ミネラル・スイル・プレ)」)(訳本66頁、原書p.44.)
ただし、正しくは、minerale,はminéraleで、plaitはplaîtである。

もう少し、長いフランス語として、次のようなものもある。
0時40分ごろ、ムッシュー・ラチェットがベルを鳴らして車掌がノックすると、ドアの内側から、フランス語で、
「ス・ネ・リアン。ジュ・ム・スィ・トロンペ(Ce n’est rien. Je me suis trompé.)」
という大きな声がしたので、車掌は中に入らずに立ち去ったと証言している。
(訳本126頁~127頁、原書p.92.)

このフランス人の車掌ピエール・ミッシェルの証言は、ポアロのメモにも明記され、0時37分まではラチェットは生存していたものと推測されている。そのメモにも、
「0 :37 ラチェットの部屋のベルが鳴る。車掌が駆けつける。ラチェット、「なんでもない。間違えたんだ(ス・ネ・リアン。ジュ・ム・スィ・トロンペ)」と言う(訳本173頁、原書p.128.)

しかし、このフランス語は果たしてラチェットが話したものか、疑問を抱かれるに至る。
「ラチェットはフランス語が話せなかったのですよ。それなのにゆうべ車掌がベルに呼ばれていくと、『なんでもない。間違えたんだ』と、フランス語で返事があった。しかも、いかにもフランス語らしい表現で、片言しかできない人間とはぜったい使えないものだ。『ス・ネ・リアン。ジュ・ム・スィ・トロンペ』」(訳本頁308、原書p.233.)

原書には次のようにある。
M.Ratchett spoke no French. Yet, when the conductor came in answer to
his bell last night, it was a voice speaking in French
that told him that it was a mistake and that he was
not wanted. It was, moreover, a perfectly idiomatic
phrase that was used, not one that a man knowing
only a few words of French would have selected. ‘Ce
n’est rien. Je me suis trompé.’
(Agatha Christie, Murder on the Orient Express: A Hercule Poirot Mystery, Harper Collins Publishers, 2011, p.233.)

「いかにもフランス語らしい表現」とは、代名動詞を指すのではないかと思う。

DVD『オリエント急行殺人事件』(パラマウント・ジャパン)について


私も購入したDVD『オリエント急行殺人事件』(パラマウント・ジャパン、1975年公開、シドニー・ルメット監督、アルバート・フィニー主演)についても紹介しておく。
この版は、グレタ・オルソン役でイングリッド・バーグマン、アーバスノット役でショーン・コネリー、マクイーン役でアンソニー・パーキンスといった名優が共演している。
なお、イングリッド・バーグマンは1974年度アカデミー賞助演女優賞を受賞した。

アガサ・クリスティーが書いた推理小説の映画化は、国際派スターが総出演し、いわくありげな乗客たちを見事に演じている。

系図
ハバード夫人(芸名リンダ・アーデン、本名はゴールデンバーグといいユダヤ系)~ドラゴミロフ公爵夫人と親しかった。
娘 アームストロング夫人(ソニア・アームストロング)~夫人の娘デイジーを誘拐され殺されたショックで流産、死亡
末娘 アンドレニ伯爵夫人(ヘレナ・ゴールデンバーグ)~アンドレニ伯爵が大使館員としてワシントンに駐在していたときに結婚
  名付け親はドラゴミロフ公爵夫人
孫 デイジー(3歳のときに誘拐される。身代金20万ドルを払った後、死体で発見される)

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なお、『オリエント急行殺人事件(2017年の映画)』の方は、監督・主演はケネス・ブラナーがポアロ役を務め、ラチェット役をジョニー・デップが演じたことで話題を集めた。



《参考文献》
アガサ・クリスティー(山本やよい訳)『オリエント急行の殺人』早川書房、2011年
Agatha Christie, Murder on the Orient Express: A Hercule Poirot Mystery, Harper Collins Publishers, 2011.
DVD『オリエント急行殺人事件』(パラマウント・ジャパン、1975年公開、シドニー・ルメット監督、アルバート・フィニー主演)



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