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≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』を読んで その2 私のブック・レポート≫

2020-08-16 17:46:37 | 私のブック・レポート
≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』を読んで その2 私のブック・レポート≫
(2020年8月16日投稿)

【西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』はこちらから】

二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む



【はじめに】


 今回は、西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』(河出書房新社、1994年)の第四章から第六章までの要約を紹介しておく。

 「第四章 自分の眼で見る」では、『モナ・リザ』のよさを知るために、その類似品との相違を具体的な作品を列挙しつつ、解説している。
 そして、「第五章 画家の眼で見る」においては、絵画の鑑賞者として、考え得る最もきびしい眼を得るための訓練、画家の筆力の不備を見抜く眼を養うための訓練について、『モナ・リザ』を素材として、説明している点は参考となろう。
 また、「第六章 謎の貴婦人」においては、『モナ・リザ』のモデルと制作年代の問題を解説している。諸説を検討した結果、レオナルドが『モナ・リザ』を最後まで手元に置いた事実を受けて、「この作品は誰か特定の個人の肖像であることをやめてしまったと見るべきであろう」と、西岡氏はみている。
 西岡氏の興味は、むしろこの「誰でもない」肖像に、晩年のレオナルドが、いかなる思いを託していたかということの方にある。このことを知るために、レオナルドの女性観というものを知っておく必要があるといい、次章以下、レオナルドの女性観を、生い立ちから探りつつ、その流転の生涯を眺めている。




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


第四章 自分の眼で見る
・人間の美意識と『モナ・リザ』のよさ
・『モナ・リザ』の類似品との相違

第五章 画家の眼で見る
・グレーズとインパスト
・テンペラとフレスコと油彩という技法
・スフマートという手法
・絵画の描写の基本
・レオナルドの『岩窟の聖母』について
・レオナルドの『モナ・リザ』について

第六章 謎の貴婦人
・『モナ・リザ』のモデルと制作年代の問題
・ヴァザーリの「列伝」にある『モナ・リザ』の記述
・枢機卿秘書官ベアティスの記述
・西岡文彦氏による解釈
・『モナ・リザ』と、レオナルドの他の肖像画との比較
・イザベラ・デステ説について
・レオナルドの自画像説について
・西岡文彦氏の見解

※節の見出しは、必ずしも紹介本のそれではなく、要約のためにつけたものも含まれることをお断りしておく。






第四章 自分の眼で見る


人間の美意識と『モナ・リザ』のよさ


『モナ・リザ』は、フランスの歴代の国王や皇帝が眺めた名品である。
フランソワ1世が、フォンテーヌブロー宮の浴室で眺め、ルイ14世がヴェルサイユ宮殿の画廊で眺め、ナポレオン1世がルーヴル宮(ママ)の寝室で眺めた。
また、17世紀には、英国大使バッキンガム公が英国王の結婚祝いに入手を画策し、ルイ13世の側近に阻止されている。
かつて、この絵の前に立つことは、至上の特権であった。

ところで、現在、この名画は分厚いガラス越しに見ることができるが、レオナルドがその手で描いた実物として実感すること自体がかなりむずかしいと西岡氏はいう。ガラスの反射で画面の筆触が見えにくいこともあるが、何より画面を印刷物で見慣れ過ぎていることにもよるらしい。ルーヴルを訪れても、最初は『モナ・リザ』の複製が飾ってあるようにしか見えないのではないかと危惧している。

もともと名画は名画であるほど、その「よさ」がわかりにくいといわれる。レオナルドに限らず、ゴッホ、レンブラントにせよ、一流の名画とされる作品は、画集などの印刷物を通して、私たちの眼に触れ続け、そのイメージを脳裏に焼きつけてしまっている。
名画としての真価を理解できる以前から、「いいもの」として見せられ過ぎた結果、画面は「暗記」されてしまっている。受験勉強で機械的に暗記した古典や漢文が鑑賞の対象になりにくいように、教科書でなじんだ名画の「よさ」に、自分なりに感動することは、かなりむずかしいと西岡氏は憂慮している。

ところで、人間の美意識や審美眼の成長は、一種の不可逆反応であるといわれる。いったん変化してしまうと、もとの状態へは戻れない。一度いいものを見てしまった目や、一度いい音を聴いてしまった耳は、二度とそれより劣ったものに惑わされることはないものらしい。

西岡氏によれば、感覚というものは、徐々に「肥える」のではなく、いいものに触れた時に、一瞬にして高度化してしまい、以降、それより劣ったものを、頑として受け付けなくなってしまうという。感覚というものに多くを依拠した人間の営みは、この不可逆反応の原則に貫かれているとみている。
絵を見る眼にも、この不可逆反応は起きる。

実物の『モナ・リザ』の前に立ち、その名画としての「よさ」に、実感として感動したいのであれば、対面に先立って、自分自身の鑑識眼の実態を知っておく必要があるそうだ。この自覚を得るのに効果的な方法が「類似品」の鑑賞であるという。
(西岡、1994年、48頁~52頁)

『モナ・リザ』の類似品との相違


絵画史上、『モナ・リザ』ほど、多くの画家に模写され模倣された作品はない。その構図とポーズは、人物画における最も完成した様式として、同時代から現代に至るまで、模倣が繰り返されている。
その類似品を6点紹介している。
① 作者不詳『モナ・リザ』模写 17世紀 ヴァーノン・コレクション アメリカ
② 作者不詳『モナ・リザ』模写 16世紀 プラド美術館 マドリッド
③ サライ『裸のモナ・リザ』16世紀 エルミタージュ美術館 レニングラード
④ ラファエロ『若い婦人の肖像』1505年頃 ボルゲーゼ美術 ローマ
⑤ ラファエロ『マッダレーナ・ドーニの肖像』1506年 ピッティ美術館 フィレンツェ
⑥ コロー『真珠の女』1870年頃 ルーヴル美術館 パリ

① 作者不詳『モナ・リザ』模写(ヴァーノン・コレクション アメリカ)は17世紀の模写である。神秘的な『モナ・リザ』の微笑が、なぜか小ずるい含み笑いにしか見えない。同じ微笑を浮かべていても、表情に微妙さというものが乏しいと評される。
一方、『モナ・リザ』の顔が、左右で別個の表情を浮かべていることはよく指摘される。
『モナ・リザ』の顔を半分ずつ隠して見ると、右半分の表情は楽しげであり、左半分の表情は、憂いを含んでいる。この表情の分裂が微笑を微妙きわまりないものにしているとされる。
原画の微妙な表情を再現するには、この左右の表情の分裂を描く必要があるのだが、これがほとんどの模写では描き切れていないそうだ。大半の『モナ・リザ』の模写が表情の微妙さに欠けているのは、そのためであるという。
② 作者不詳『モナ・リザ』(模写 16世紀 プラド美術館 マドリッド)は、16世紀の模写である。
原画にあった背景の壮大な風景を省略して、ただの黒バックにしているために、画面は一見して、スケールの小さい無思想な印象を与えると評される。
一方、『モナ・リザ』は、背後の風景においても、画面の左右で表情を変えて描かれている。左側の地形の起伏の激しさに比べると、右側の風景の地形はずいぶんとおだやかである。そして、右の風景に見上げる視点で描かれた水面と、左の風景に見下ろす視点で描かれた水面との不一致が、左右の空間に不連続感を与えている。この不連続感が、単なる実景の写生にはない微妙な雰囲気をかもしだし、風景に幽玄なるイメージを与えている。
この背景を失っては、『モナ・リザ』の神秘的な魅力も半減してしまう。

③ サライ『裸のモナ・リザ』(16世紀 エルミタージュ美術館 レニングラード)は、レオナルドの「愛人」とも噂される弟子サライによる、裸のモナ・リザである。
無理に正面を向けたために、ねじれて見える首といい、贅肉のついた二の腕の露出といい、悪趣味としか見えぬ趣向である。それでも、さすがに背景は、師レオナルドの画風の片鱗を残している。景観は原画とは違っているが、達者な筆致で、それなりにスケール感のある空間を描き出し、直接に指導を受けた者の強みを見せていると、背景については高く評価している。

④ ラファエロ『若い婦人の肖像』1505年頃 ボルゲーゼ美術 ローマ
⑤ ラファエロ『マッダレーナ・ドーニの肖像』1506年 ピッティ美術館 フィレンツェ
この2作品は、レオナルド、ミケランジェロと並ぶルネッサンスの巨匠ラファエロの作品である。
モナ・リザ様式で描かれているが、描写は、拙劣の一語に尽きると西岡氏は酷評している。微妙さに欠けた表情は、よそよそしく、眺める視点の低すぎる背景は、空ばかりが広く見え、荒野か廃墟のように殺風景である。

もともとラファエロは、巨匠と呼ばれる画家たちの中では、その初期作品の拙劣さで群を抜いているようだ。レオナルドやミケランジェロが、その初期作品において、超絶した技巧を見せているのに対して、ラファエロの初期の作品は、凡庸そのものであると西岡氏は評している。
(ただ、このラファエロがいかなる習練の賜物か、その晩年に、絵画史上ほとんど唯一『モナ・リザ』の画境に匹敵する作品『バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像』(1515年頃 ルーヴル美術館)を残したとも付言している。詳しくは、第十六章参照のこと)

⑥ コロー『真珠の女』(1870年頃 ルーヴル美術館)は、近代写実主義を代表する画家コローの作品である。
気品のある表情と質素な衣装の組み合わせが好感の持てる画面を演出し、ファンも多い
佳品ではある。
しかし、やはり表情の描写は一面的で、なにやら重苦しい気分を感じさせると評している。
顔の仕上げのていねいさに比べて、体や背景の筆づかいが荒いため、全体が均一に仕上がった印象がなく、未完成作品に見えるという。
採光といい、背景の空間の閉塞感といい、同時期(1870年代)急速に発達してきた写真(肖像写真初期の巨匠ナダール『ジョルジュ・サンドの肖像』1877年、国際写真美術館、ニューヨーク)に酷似している。これは時代の反映であるようだ。
モデルの神秘性が、コローの画面では皆無である。画面は、単なる「無名」のモデルの肖像としか見えない。描かれた人物の素性について、人々の好奇心を喚起する、品格と神秘性が欠けているためであると説明している。

さて、『モナ・リザ』のモデルはなお不明である。
※この西岡氏の本は、1994年の出版である。2016年に出版された近著、西岡文彦『謎解きモナ・リザ』(河出書房新社、2016年)の「第3章 モデルの正体――解明された美術史上最大のミステリー」(44頁~61頁)において、「モデル論争に決着」と題して、ハイデルベルク大学図書館で発見された文書について言及している。

詳しくは、【読後の感想とコメント】を参照してもらいたい。
また、中野京子氏も、この件について触れていた。中野京子『はじめてのルーヴル』(集英社、2016年[2017年版]、233頁~235頁)を参照のこと。
【私のブログはこちらから】
≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで その6 私のブック・レポート≫

【西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社はこちらから】

謎解きモナ・リザ (河出文庫)


このように、実物の『モナ・リザ』とその類似品との差異を確認することを通して、鑑識眼を高度化させていけばよいようだ。
「暗記」してしまった『モナ・リザ』との対面には、さしたる感動はない。この実物をじっくり眺めて、写真や印刷では、絶対に復元できない部分を、さがしてみる。
(さがすまでもなく、思っていたより大きいとか、逆に小さいといった印象があれば、すでに自分なりの印象を得たことになる。この印象が感動への第一歩であるという)

ここで、西岡氏は、初めてのルーヴルで、初めて『モナ・リザ』を実見した時の印象録を紹介している。
□まず驚くのは、小さいことである。基本的に、すぐれた絵画ほど、印刷物では実物より大きく見えるので、これは当然のことである。
□続いて驚くのは、モナ・リザが、印刷で見るよりかなり痩せていることである。
□印刷物で見るモナ・リザは、どっしりと広い肩幅の持ち主である。ところが、実物で見ると、画面に向かって右の肩の線に見えているのが、肩に掛けたレースのマントであることがわかる。印刷物ではわかりにくいが、実際の肩の線は、このマントのかなり内側に、ほっそりと描かれている。
□印象よりはるかに、モナ・リザのポーズは横を向いているのである。
□やはり見事なのが表情の描写で、とりわけ有名な微笑を浮かべる口もとは、どれだけ眼をこらしてみても、人間が筆で描いたものとは思えない。
□どうしても、写真か印刷にしか見えないのである。

以上が、西岡氏の印象録である。『モナ・リザ』が実物であることを、自分なりに実感できずに終わり、かなりの打撃であったそうだ。しかし、日本へ帰国後しばらくして、実物でありながら実物に見えない点こそ、『モナ・リザ』の真価が発揮されていることに気づいたという。
つまり、『モナ・リザ』の真価は、手描きでありながら手描きに見えない点にこそ、発揮されている。これは、レオナルドの絵画が歴史的に担った役割から必然的に導かれ出された、画風上の特色であるという。
『モナ・リザ』の鑑賞は、実物を前にしながら実物に見えない、そのはがゆさを実感することからしか始まらない。このはがゆさを真に実感できた時点で『モナ・リザ』の鑑賞は、絵を描く側からの視点をも含む、広く深い奥行きを得ることになると西岡氏は主張している。
次の第五章では、その理由と具体的な鑑賞の方法を説明している。
(西岡、1994年、52頁~63頁)

第五章 画家の眼で見る


グレーズとインパスト


『モナ・リザ』の画面には、モネやゴッホやルノワールのような、画家の手の温もりを感じさせる、いきいきとした個性的なタッチがないと西岡氏は評している。
油絵に特有の絵の具の盛り上がりもなく、人間の手で描かれたという実感に乏しい。そのせいで、画面は間近で眺めても複製に見えてしまうともいう。

そもそも実物の油絵と印刷された複製の最大の違いは、絵の具の盛り上がり加減にあるといわれる。
ただ、油絵は最初からこの絵の具の盛り上がりの迫力を売り物にしたわけではない。油絵に独特の絵の具を盛り上げる描き方は、「インパスト( IMPASTO)」と呼ばれる。
もとはイタリア語で、イン( IM)は強調用の接頭語、パスト( PASTO)は英語のペースト(ねりもの)を指す(小麦粉をねったスパゲッティをパスタというのも、語源は同じ)。
絵の具をペースト状に厚塗りすることから、この名がついた。

一方、正反対の技法が、透明な絵の具を重ね塗りする「グレーズ( GLAZE)」である。まるで写真のように筆跡が見えない『モナ・リザ』のぼかしは、このグレーズの極致である。

薄塗りの極致としてのグレーズを完成したのは、ルネッサンスのレオナルドである。そして、厚塗りの極致としてのインパストを完成したのが、バロックのレンブラントである。

ここで西岡氏は、レオナルドの『モナ・リザ』と対照的な作品であるレンブラント晩年の『自画像』(1660年、ルーヴル美術館)を取り上げている。
レンブラントの『自画像』は、ルーヴルで、『モナ・リザ』のあるドゥノン翼のちょうど反対側、『モナ・リザ』の位置から約100メートルほど西北に寄ったリシュリュー翼の2階第3室にある。

レンブラントの晩年の作品は、絵の具の厚塗りで知られている。
そして、ルーヴルの自画像は、レンブラント晩年の「黄金期」の名品である。暗い背景に、白い頭巾をかぶった自画像である。ひときわ目を引くのが、頭上からの光を受けた頭巾の輝きである。
遠くから見ると、布の結び方までわかるこの頭巾が、近くに寄ると、豪快なインパストで描かれている。つまり厚塗りの絵の具の量感を誇示している。
筆の跡も生々しく画面に置かれた白い絵の具が、離れて眺めると、見事に頭巾の形を描き出し、画家の筆の冴えを見せつけるという。
つまり、間近で見れば荒々しく盛り上がった絵の具が、渾身の筆勢を伝え、距離を置いて眺めれば、的確無比の写実性を発揮している。その筆致は、画家の妙技を誇示するアクロバティックな手法として、現代にまで愛用されているようである。

ここで、西岡氏は、近世絵画と近代絵画の特徴について考えている。
近代絵画の歩みは、このインパストによって、絵柄(えがら)以上に、画家の絵筆の跡が強調されるところから始まっている。
近代絵画の名画の筆致は、描かれたもの以上に、画家の「手」そのものの痕跡を画面に刻むことを、目的として描かれている。ここに近代絵画の最大の特徴があるといわれる。
例えば、ゴッホ、ルノワールのタッチについて言及している。
〇ゴッホ『自画像』1890年 オルセー美術館
〇ルノワール『陽のあたる裸婦』1876年 オルセー美術館
ゴッホ『自画像』では、筆致が渦巻く苦悩の肖像である。ルノワールの『陽のあたる裸婦』では、その柔和なタッチで、人物の輪郭が周囲に溶け込んでいる。また、モネの作品は、光のうつろいを軽やかな筆触で描いている。

これに対して、レオナルドが完成した近世絵画の目的は、むしろ画面から「手」の痕跡を排除することにあったと西岡氏はみる。
これが近代と近世の絵画の違いである。
可能な限り筆致を画面から消すことで、自然を自然以上に自然に描くことこそが、レオナルドの挑戦した課題であった。
(近代絵画のタッチに見慣れた者にとって、レオナルドの画面が「手」の温もりを感じさせないのは、このためであるという)
(西岡、1994年、64頁~68頁)

テンペラとフレスコと油彩という技法


奔放なインパストの登場以前、レオナルドの時代にあっては、油絵の魅力は、むしろ画面に、筆の跡を残さず描ける点にあった。
油彩はレオナルドの誕生の少し前、当時の北ヨーロッパ絵画の中心、フランドル(現ベルギー)地方で完成された技法である。

それまでの絵画は、板絵(いたえ)がテンペラ、壁画がフレスコという技法で描かれていた。
テンペラは、絵の具を卵黄で溶く技法である。フレスコは水性の絵の具を漆喰(しっくい)に塗り込める技法である。いずれも、油絵にくらべると、絵の具の伸びが悪いために、ぼかしがきれいに描けず、絵の具の混ぜ合わせも不自由であった。
〇ボッティチェルリ『若い婦人の肖像(美しきシモネッタ)』1485年頃、丸紅本社、東京
これはテンペラ画である。

これに対して、油彩は絵の具の伸びがよく、細かい筆の運びが可能で、精密な描写に向き、混色も自在であった。なにより画期的なのが、溶き油の量を調整することで、絵の具の濃度を自由に変えられる点であった。油彩の絵の具は溶き油を多くすれば透明になり、溶き油を少なくすれば不透明になる。

透明絵の具を塗り重ね、下地の色を生かしながら、極薄(ごくうす)のガラスを重ねたような微妙な階調を描くことができるのは、油彩のみである。逆に、真っ黒に塗った上から真っ白の絵の具で描いて、ほとんど白が濁らないのも、油彩の特徴である。ハイライト技法というのがある。暗部の要所に白く輝く点を描き、ガラスや宝石のきらきらした光の反射を表わす技法で、不透明の油彩の特性を最大限に生かした手法である。
例えば、油絵の創始者とされるファン・アイクのハイライト技法を使った作品として、『ゲント祭壇画』(1432年、聖バヴォン大聖堂、ゲント[ベルギー])がある。
その聖母の宝冠部分は、テンペラで描かれたボッティチェルリの『若い婦人の肖像』よりは、宝石の輝きの迫力がある。

透明と不透明の絵の具を使い分け、画面の色彩や陰影の微妙な階調と鮮烈な対比によって、人物や静物の質感や立体感、風景の遠近感の描写に、油彩ほど効果的な絵の具はない。
レオナルドは、この油彩の表現を極限まで追求した画家である。そして、その境地をあますところなく示すのが、『モナ・リザ』の画面である。
(西岡、1994年、68頁~70頁)

スフマートという手法


『モナ・リザ』の神秘的な表情は、「スフマート」という手法によって描かれている。
これは、透明に近い絵の具を、柔らかい筆で、数十回、数百回にわたって塗り重ね、筆の跡を残さず、無限の階調を描き出す、究極のグレーズ手法であると西岡氏は説明している。

そもそもスフマート(SFMATO)は、煙をいうイタリア語FUMOに由来する言葉で、ただよう煙のように微妙なぼかしを意味している。従来のテンペラやフレスコが、画面から消すことのできなかった筆の跡は、このスフマートの出現によって、完全に画面から排除されることになった。

レオナルドは、画面に画家の手の痕跡をいっさい残さず、描かれた人物や自然が、あたかもそこに実在するかのように見える絵画を描こうとした。
近代の画家たちが、独自の筆致で個性を主張したのに対して、レオナルドは、筆致そのものを画面から消そうとした。
これが、『モナ・リザ』に、人間の手で描いた実感の乏しい理由の第一であるという。
そして、実物の『モナ・リザ』が複製に見える第二の理由として、レオナルドの写実的な描写が、文字通り人間わざの域を超えている点を指摘している。
(西岡、1994年、70頁~71頁)

絵画の描写の基本


上記のことを実感するには、絵画の描写の基本を知っておく必要があると西岡氏はいい、この点について解説している。
絵の勉強は、デッサンというものから始まる。石膏像や静物やモデルを、木炭や鉛筆で正確に写生する勉強である。
このデッサンの不備をいうのに、「汚れに見える」という言葉があるそうだ。描かれた影が、影ではなく「汚れ」に見えることを指す。
デッサンの基本は紙に塗った木炭や鉛筆の黒い色が、「汚れ」ではなく、きちんと影に見えるように、ものの形と陰影の状態を観察し、写生することにある。これができていない陰影の表現が「汚れに見える」と批判される。
逆にいうならば、巧妙に描かれた陰影は、人間が描いたものに見えない。レオナルドの画面に手の跡が見えないのは、このためであるという。同時代すでに「奇跡」と賞された、レオナルドのスフマートが精妙に過ぎる。

ただし、この精妙な画面も、背景は違うとみる。つまり背景には、後世のインパストを予見するような、厚塗りの筆が自在に躍るタッチを見せている。
例えば、山岳や雲の細部には、19世紀英国ロマン派の巨匠ターナーや印象派の開祖モネの画面を思わせる、奔放なタッチが見られる。

このように、『モナ・リザ』の画面は、筆の跡を残さぬグレーズの完成型を示しつつ、奔放な近代の筆致を予見し、油彩の表現力の幅の広さを見せつけていると西岡氏は鑑賞している。
(西岡、1994年、71頁~72頁)

レオナルドの『岩窟の聖母』について


グラン・ギャルリーを『モナ・リザ』の右に50mほど行った奥に、「サロン・カレ」という部屋がある(盗難当時、『モナ・リザ』が掛かっていた部屋である)。
この部屋のなかほどの仕切り壁に、4点のレオナルドの作品が展示されている。この部屋では、ガラス越しの『モナ・リザ』ではわからないレオナルドの「生」の迫力を味わえる(4点のうち、2点はガラスなしの至近距離で眺められる)。

30代半ばの作品『岩窟の聖母』を中心に、右に40歳前後の『貴婦人の肖像』、左に60代半ばの『聖ヨハネ』、上にレオナルドが下絵のみを描いたと見られる『バッコス』が掛かる。『岩窟の聖母』が祭壇画であることも手伝って、小規模ながら礼拝堂の祭壇を思わせる展示になっている。
実際に、現存作品が極端に少ないレオナルドの完成作品を、これだけ揃えて見られるのは、世界中でここのみである。その意味では、この一角は、「レオナルド礼拝堂」と呼ぶにふさわしい。
(ただし、上に掛かる『バッコス』は、位置が高すぎる上に、ガラスが反射するので、画面をじっくり眺められない。左側に掛かる『聖ヨハネ』も表面の光沢が強過ぎ、暗い画面が鏡のように反射して、見やすくはない。右側の『貴婦人の肖像』は、額にガラスが入っているので、『モナ・リザ』同様、画面をじかに見れない)

自然に、視線は中心の『岩窟の聖母』に集中することになる。この『岩窟の聖母』の制作年は、『モナ・リザ』の約15年前で、1486年である。板に油彩で描かれている。
この絵で、レオナルドの「手」を実感させるのが、画面に散在する植物の描写であると西岡氏は注意を促している。暗い背景に明るい色で、下描き風の線描が走り、筆の運びがよくわかるという。
ともかく流麗であるが、意外に装飾的である。正確な観察に基づきながら、単なる写生ではなく、「文様」としての工芸的な洗練がなされている。

しかし、こうした線の生彩や地肌の迫力に反して、人間の顔や体の陰影描写は、精緻に過ぎる(画面に顔が触れるほどの至近距離でも、筆づかいが見えてこない)。
とりわけ、幼児イエスの描写は見事であると評している(陰影描写の精緻さは写真なみだが、実際の写真に、この品格は望めない。この品格に満ちたイエスの前では、ルーヴルのいかなる作品の幼児イエスや天使といえど、早熟な子供の媚態としか映らないそうだ。)

西岡氏は、レオナルドの実物を見ることの真の醍醐味について述べている。つまり、画面の間近に顔を寄せ、板の凹凸や亀裂の迫力に「実物」を実感しつつも、絵柄に人間の筆触を実感できないというはがゆさにあるという。
もしガラスのケースを出たなら、『モナ・リザ』の画面は、この『岩窟の聖母』の幼児イエスをはるかに上回る、はがゆさを喚起するとみている。

ところで、『岩窟の聖母』は、レオナルド30代はじめの作品である。『モナ・リザ』のおよそ15年前に描かれている(だから、15年分の描写の未熟も見せているという)。
聖母マリアの顔を見ると、鼻の下には影があるが、かすかながら、この影は「汚れ」に見えると、西岡氏は評している。無論、並みの画家には及びもつかぬ描写ながら、それでも「汚れ」に見えるという。
一方、『モナ・リザ』の鼻の下の影が、「汚れ」に見えることはあり得ないとも付言している。
(この違いが、はっきりと見えてくれば、読者の視線は、画家なみの精度を得たことになるようだ)
(西岡、1994年、73頁~76頁)

レオナルドの『モナ・リザ』について


『モナ・リザ』の顔は、人間の描き得た、最も精妙なる顔である。

ただ、画面で、未完成が歴然としているのは、背景であるといわれる。そして、背後のバルコニーの手すりは、輪郭が定かではなく、陰影も粗雑であるそうだ。左の柱は暗過ぎ、右の柱は透き通っている。手すりの上あたり、風景の前景も、かなりラフである。ただし、遠景の風景のインパストは、未完ではなく、意図した奔放の筆致であると断っている。

そして、『モナ・リザ』で見きわめたいのが、スフマートの粋を結集した人物の、手の部分の未完成である。すなわち、右手は輪郭線の決め込みにおいて未完成であり、左手は陰影の描き込みに未完成であると指摘している。衣服の袖の部分の仕上げも、ラフである(最初は、なかなかこの顔と手の仕上げの違いが見えてこない)。

この違いを、人間の鑑識眼の不可逆反応を利用して、確認してみることを勧めている。
まず、『モナ・リザ』の顔の部分をじっくりと眺めてみると、口の両側から頬にかけての陰影の微妙なスフマートは、人間が描いたものとは思えないほどである。
この奇跡の描写力を堪能した後で、すばやく画面下側の手の部分に眼を転じてみると、この手の描写はいささか大雑把に映るそうだ。つまり『モナ・リザ』の顔と比較すると、欠点が見えてくる。

例えば、わかりやすいのが、下側に置かれた手の人差し指の描写である。やさしく握るように中指の先にのぞくこの指は、明らかに太過ぎる。というより、陰影が不完全で、円筒ではなく肉厚の板が、中指の向こう側に立っているように見える。
試みに、その人差し指の下側に、暗部を加筆すれば、もはや人差し指は、肉厚の壁のようにそそり立たず、指の丸みを持って、折れ曲がるはずだという。
そして、明らかに『モナ・リザ』の右の手の描写は不完全である。
(右手人差し指の輪郭線と、ドラペリ(襞)の描線の1本が微妙に接していて、まぎらわしい。西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社、2016年、86頁~87頁を参照のこと)

【西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社はこちらから】
謎解きモナ・リザ (河出文庫)

さて、描写の不足は、中指にも薬指にも小指にもあるそうだ。中指も板状に見え、藥指は付け根と第二関節の間が不自然に長く、小指には立体感が乏しい。
加えて、両手首から肘にかけての袖の襞の描写もラフである。上にある左の袖は、陰影の仕上げが不完全であるために、襞を描く黒々とした線が目につく。
右袖は、襞全体の方向が不自然にそろい、全体が「流れた」ような造形に見え、腕の丸みを包んでいるようには見えない。しかもその右袖の襞一本は、左の手の人差し指と微妙に接して、見方によっては、人差し指の描き損じの輪郭線にさえ見えるという。描線が下描きの域を出ていないと西岡氏は評している。

ただ、これらの欠点は、『モナ・リザ』の顔と比較してこそ、初めて見えてくる。大半の絵画は、この『モナ・リザ』の未完成部分にも遠く及ばぬ域である。
『モナ・リザ』の顔の描写に眼を慣らすことは、同じ画面の手の描写に限らず、画家の筆力の不備を見抜く眼を養うための訓練になる。つまり絵画の鑑賞者として、考え得る最もきびしい眼を得るための訓練になってくれるはずだという。

そして、手の不備がはっきりと見えてきたならば、さらに『モナ・リザ』の顔の眉間のあたりを見ると、わずかながらのデッサンの不備があるとつけ加えている。つまり、精妙に描かれたものは存在しないはずのこの顔の描写にも不備がある。
左の眼と鼻の間の影の部分、鼻筋の明るい部分から、眼の窪みの影への階調に、わずかながら不連続が生じている。きびしく見れば、この部分の陰影は、影というよりは濃いめのアイシャドウに見える。デッサンが「汚れ」に見えていると西岡氏は述べている。
このように、この絵画史上最高の作品にも、筆力の不備があり、こうした不備を見抜く眼力を獲得することが大切であるようだ。この眼力の獲得は不可逆反応である。
(西岡、1994年、76頁~81頁。)


第六章 謎の貴婦人


『モナ・リザ』のモデルと制作年代の問題


『モナ・リザ』のモデルは、現在なお不明であると西岡氏は記している。
このモデル問題については、西岡氏は、まず2つを取り上げている。
① ヴァザーリ説
② 枢機卿秘書官べアティス説

① ヴァザーリは伝記集『画家・彫刻家・建築家列伝』(通称『美術家列伝』、1550年)を出版した。レオナルドの死の30年後のことである。
その中で『モナ・リザ』という作品は、「モナ・リザ」こと「リザ夫人」の肖像という。
そして、『モナ・リザ』は1505年頃にフィレンツェで制作されたことになる。
② レオナルドを死の直前に訪れた枢機卿(法王最高顧問のこと)秘書官は、本人の口から、この作品はジュリアーノ・デ・メディチの愛人の肖像だと聞いたと書いている。
ジュリアーノは、ルネッサンス芸術のパトロンとして名高い、豪華王ことロレンツォ・デ・メディチの息子である。
枢機卿秘書官の説では、それより10年ほど遅い1515年頃にローマで制作されたことになる。

両者にも弱点がある。ヴァザーリの「列伝」の弱点は、ヴァザーリ自身が『モナ・リザ』を実際に見ていない点にある。
一方、枢機卿秘書官の説の弱点は、制作年代に疑問が残る点にある。

この他にも、次のような説がある。
③ マントヴァ公妃イザベラ・デステの肖像とする説
彼女は同時代有数の芸術の庇護者でモードの女王でもあった。
④ レオナルドの自画像説
⑤ 弟子サライ(レオナルドの愛人と噂される美少年)の面影を見出す試み
記録マニアのレオナルドは、このサライが、財布からくすねる小銭の額まで綴っている。しかし、そのレオナルドは『モナ・リザ』に関する記述は一行も残していない。

このように、『モナ・リザ』のモデルについては、無数の推理、憶測が重ねられてきた。
作品自体にも、タイトル、日付、署名のいずれも書かれておらず、モデルや制作年代を確定する決定的な証拠は何一つない。
(西岡、1994年、82頁~83頁)

ヴァザーリの「列伝」にある『モナ・リザ』の記述


ヴァザーリの「列伝」は、ルネッサンス期の芸術家の生涯と作品を網羅し、ルネッサンス美術史研究には必須の文献として知られている。
ヴァザーリ自身は画家・建築家でもあったが、その芸術家肌を反映してか、挿話には脚色が目立つ。年代にも誤記が多く、史料というより、説話集として読むべき書物といえると西岡氏はみなしている。

ちなみに、建築家としてのヴァザーリの代表作品は、総合庁舎ウフィッツィである。今日、このウフィッツィが、まさに「列伝」を地で行く美術館になっている。それは“歴史の奇遇”ともいえる。

ヴァザーリの「列伝」は、『モナ・リザ』について、次のように記す。
「レオナルドは、フィレンツェの貴族フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻リザの肖像を描いたが、四年を費やしても完成することができなかったので、作品は画家の手もとに残されることになった。
この作品は、現在、フォンテーヌブロー城のフランス王フランソワのもとにある。

文中のフランチェスコ・デル・ジョコンドの妻のフルネームは、エリザベッタ・ディ・アントン・マリア・ディ・ノルド・ゲラルディーニである。
エリザベッタの愛称がリザで、これに貴婦人の敬称モナをつけた『モナ・リザ』で、「リザ夫人」を意味している。

着手時期と推測される1503~5年にエリザベッタは、幼い娘を亡くしている。この事実と、レオナルドが彼女を楽しませようと楽士と道化を雇ったとの「列伝」の記述を合わせて、『モナ・リザ』の微笑の、喜びとも哀しみともつかぬ表情の由来が説明されることは多い。

ラファエロによる『モナ・リザ』様式の作品も、ヴァザーリ説を裏付けている。明らかに『モナ・リザ』の影響を思わせる素描と油絵を、1505年前後にラファエロが描いている。これが『モナ・リザ』を1515年前後の制作とする枢機卿秘書官の説と矛盾している。
(西岡、1994年、83頁~84頁)

枢機卿秘書官ベアティスの記述


レオナルドを死の2年前に訪ねた枢機卿ルイジ・タラゴーナは、レオナルドから3点の作品を見せられている。
この3点が、現在ルーヴルにある『聖アンナと聖母子』、『聖ヨハネ』、『モナ・リザ』であることは、ほぼ確実と見られている。
この時、随行した枢機卿秘書官アントニオ・デ・ベアティスが、レオナルド自身が、『モナ・リザ』を「ジュリアーノ・デ・メディチの依頼で描いたフィレンツェのさる夫人」と説明したと書いている。これが、1515年前後のローマ制作説である。

ジュリアーノの愛人としては、フランカヴィラ公妃コンスタンツァ・タヴァロスが知られている。しかし、レオナルドがジュリアーノの庇護のもと、ローマにあった1515年前後だと、彼女はすでに45歳になる計算である。画面の女性は、これより若いので、ジュリアーノと縁浅からぬ、別の知られざる女性の肖像ということになる。
しかし、この説では、10年先行する『モナ・リザ』様式のラファエロ作品の説明がつかない。

ところで、ヴァザーリは、レオナルド本人にも、『モナ・リザ』にも未見に終わったが、レオナルドの死を看取った晩年の弟子フランチェスコ・メルツィには会っている。
メルツィは、レオナルドの最も忠実な弟子であり、師の遺言により、膨大な手記のすべてと絵画と素描(デッサン)全点を贈られている。フランソワ1世は、このメルツィから『モナ・リザ』を買い上げている。

メルツィはレオナルドの手記を聖遺物のように保管していたが、ヴァザーリがこのメルツィに会ったのが、1566年である。「列伝」の『モナ・リザ』に関する記述に誤りがあれば、2年後の1568年の改訂版で、ヴァザーリがこれを正さなかったとは考えにくい。
(レオナルドに関する他の記述に削除と修正を加えている改訂版に、『モナ・リザ』に関する訂正がないのは、間接的とはいえ、メルツィの了承したものと西岡氏は解釈している)

そうすると、ベアティス説は、聞き間違い以外に説明がつかなくなる。
実際にベアティスはレオナルドが左利きであることに気づかず、卒中の後遺症で麻痺した右手を見て、レオナルドが制作不能の状態にあると見誤っている。
また当時65歳のレオナルドを、70歳以上と見誤っていることもあり、ベアティス説を、聞き間違い、記憶違いとする見方もある。

結論は、ヴァザーリ説を創作と見るが、ベアティス説を誤記とするにかかってくる。
(西岡、1994年、84頁~86頁)

西岡文彦氏による解釈


この二説の対立について、西岡氏自身は、いずれも正しいと思っている。
以下、暴論のそしりは覚悟の上で、その理由を述べている。

もし、レオナルド自身が故意に作品の来歴を偽ったとすれば、ベアティス説は聞き間違いではないことになるという。
フランソワ1世の庇護により、アンボワーズ近郊の館と生活の安定は得たといえ、この枢機卿と面会した時期のレオナルドは、結局は不遇に終わった画家としての人生の、最晩年期にさしかかっている。
これに先立つ、レオナルドの画家としての最後のチャンスが、ベアティス説にいう『モナ・リザ』制作時期の1515年前後の、ローマ滞在期であったと西岡氏は捉えている。

ロレンツォ・デ・メディチの息子ジョヴァンニの法王レオ10世即位を機に、レオナルドは仕事の依頼を期待してローマ入りした。すでに60歳を過ぎていた。
その当時、40歳前のミケランジェロはヴァティカン宮殿内のシスティナ礼拝堂の天井画『天地創造』(1511年)という畢生の超大作を描き、また30歳前のラファエロはヴァティカン宮殿の法王執務室の壁画『アテネの学堂』(1510年)を描いていた。二人とも、ヴァティカン宮殿で、生涯の代表作を描いていた。それに対して、レオナルドはほとんど顧みられることなく、無為の日々を過ごしている。
法王の弟ジュリアーノ・デ・メディチの口利きで、ヴァティカン宮殿内の居室とわずかな給金を得たものの、このローマにおける不遇が、レオナルドに失望を与えたであろうと西岡氏は想像している。

やがて、庇護者ジュリアーノは他界し、レオナルドは法王庁にとどまる理由がなくなった。そしてレオナルドは、ミケランジェロやラファエロが多忙を理由に断ったフランソワ1世の招きに応じ、このローマ暮らしに見切りをつけて渡仏する。
ここで、西岡氏は、画家レオナルドの心理について、次のように推測している。
「そのレオナルドが、フランソワ1世の庇護のもとに晩年を送る異国の地で、晩年ルネッサンス芸術の中心であり、キリスト教世界の中心であるローマで依頼された、架空の仕事について語ったとしても、画家の心理としては不自然ではない」と。

そして、枢機卿との会見で、レオナルドは自身の手記の出版について語っており、「営業的」な意味で、さりげなく法王の弟の名前が語られた可能性は否定できないと付言している。
西岡氏、自らの解釈について、万能の天才レオナルドのイメージを、著しく損ねる解釈とも見られるかもしれないが、当時の芸術家の生活は、そうした俗事から超然とするには、あまりに逼迫していたという。
巨匠らしからぬ目端(めはし)の利き方という点で、レオナルドが30歳の時に、ミラノ公に宛てた有名な自薦状を例として挙げている。レオナルドは、ミラノ到着後、まもなく口述した自薦状は、抜け目なく自身の軍事的才能を強調している。
レオナルドに限らず、当時の画家は建築家や工芸家、商業デザイナーを兼ね、彫刻家はその鋳造技術で武器製造家を兼ねていた。レオナルドのこの自薦状は、当時の芸術家のそうした処世の苦労をしのばせている。

また、手記の出版は、死を2年後に控えた老レオナルドの唯一の希望であった。この出版の意義を説くレオナルドの言動に、ルネッサンスの事業家としての側面がのぞいたとしても、不思議はないともいう。

以上が、西岡氏が、ベアティス説を聞き間違いでないとする推測の論拠である。つまり、『モナ・リザ』はリザ夫人の肖像としてフィレンツェで描き始められ、その未完成ゆえか画家の心境の変化のゆえか、レオナルドの手もとに残り、晩年の枢機卿との面談の折りに、法王の弟ジュリアーノからの依頼と説明されたと、西岡氏は考えている。
(西岡、1994年、86頁~91頁)

『モナ・リザ』と、レオナルドの他の肖像画との比較


上記の憶測は限られた資料によるこじつけの域を出るものではないと断りつつ、真の解答は、むしろ画面そのものにこそ、求められてしかるべきだと主張している。
改めて『モナ・リザ』を観察してみると、画面に、人物を特定する情報がいっさい描き込まれていないことに気づく。
喪服を思わせる黒い服のみが、ヴァザーリの「モナ・リザ」説を裏付けている。
一般の肖像画であれば、描き込まれていなくてはならないはずの、人物特定のヒントになる紋章や衣服や持ち物類が、いっさい見当たらない。髪すらも結っていない。
これは、レオナルドの他の肖像画と比較しても、異例の処置であるようだ。

ここで西岡氏は、次の肖像画と比較している。
〇レオナルド『ジネヴラ・デ・ベンチの肖像』(1475年頃 ワシントン・ナショナル・ギャラリー)
〇レオナルド『白テンを抱く婦人像』(1490年 ツァルトリスキー美術館 クラクフ[ポーランド])
〇レオナルド『音楽家の肖像』(1490年 アンブロジアーナ図書館 ミラノ)

『ジネヴラ・デ・ベンチの肖像』は、レオナルドが20代前半で描いた作品で、背景の木の名前「ジネブロ(杜松)」がモデルの名前の語呂合わせになっている。
『白テンを抱く婦人像』は、30代前半の作で、ルドヴィコ・スフォルツァの愛人の肖像である。画面には、スフォルツァ家の紋章である白テンが描かれている。
『音楽家の肖像』は、30代終盤に描いた作で、モデルが手に持つ楽譜とそこに書かれた詩句が、職業と人名を特定するヒントになっている。モデルはミラノ大聖堂楽長と推測されている。

こうしたヒントが、『モナ・リザ』の画面には一切見当たらない。
(西岡、1994年、91頁~93頁)

イザベラ・デステ説について


そうなると、唯一の材料である顔を、視覚的な論拠に、イザベラ・デステ説を主張するむきもある。
当代きっての才媛イザベラ・デステは、レオナルド筆のルドヴィコの愛人の肖像『白テンを抱く婦人像』に感嘆し、再々にわたって肖像画を依頼している。レオナルドの素描も残っている。
〇レオナルド『イザベラ・デステの肖像』(1500年)
素描のみ現存する、このイザベラ像の完成作こそが、『モナ・リザ』とする説である。その論拠のひとつに、素描のイザベラ像と『モナ・リザ』の画面の一致がある。
事実、横顔のイザベラの素描と、斜め向きの『モナ・リザ』を並べると、顔の位置、手の位置、目鼻だちの比率はほぼ一致している(顔も、そういわれれば似ていなくもない)。
しかし、この一致は、身体の比率から顔の表情まで、厳密な理想型を定め、50歳前後からは、全作品がその理想の追求と化した感のあるレオナルドの画歴を考慮すれば、同一人物とする根拠としては、やや弱いと西岡氏はコメントしている。
(西岡、1994年、92頁)

レオナルドの自画像説について


『モナ・リザ』をレオナルドの自画像と見る説もある。
この説は以前からあったが、1986年に米国ベル研究所のリリアン・シュワルツが、画像処理コンピュータで『モナ・リザ』を反転し、レオナルドの自画像と重ねて、目鼻だちから髪の生え際までが完全に一致することを証明して、にわかにその説得力を増した。

ただ、このシュワルツ解析は、『モナ・リザ』のモデルの特定ではなく、むしろレオナルドの絵画論の視覚的な実証に貢献したといえる。レオナルド自身が、画家の描く人物は画家の分身であると書いているからであると西岡氏は解説している。

画家の描写は本来的に自己の身体を反映するもので、画家本人の持っている長所も短所も、すべての画家の描く人物に現れるといわれる。
(この言い分からすれば、すべてのレオナルドの人物画は、潜在的にレオナルドの自画像であり、完成度の高い分、『モナ・リザ』の自画像度も高いということになる)

シュワルツ解析は、この自画像度の高さを立証しており、レオナルドの絵画論を知る上では興味深いものの、モデル探しに関しては、あまり意義を持たない解析であると西岡氏はみなしている。
(西岡、1994年、92頁~95頁)

西岡文彦氏の見解


以上のように、『モナ・リザ』のモデルに関する仮説を西岡氏は説明する。
ヴァザーリ説をくつがえすには至らず、この作品は、とりあえず、『モナ・リザ』すなわち「リザ夫人」と呼ばれ続けている。
誰の肖像から出発したにせよ、最終的にはモデルにも発注者にも手渡されず、高額の提示にもレオナルドが売却を拒否し続けた以上、途中から、この作品は誰か特定の個人の肖像であることをやめてしまったと見るべきであろうと、西岡氏はみている。

西岡氏の興味は、むしろこの「誰でもない」肖像に、晩年のレオナルドが、いかなる思いを託していたかということの方にあるという。このことを知るために、レオナルドの女性観というものを知っておく必要があるといい、次章以下、レオナルドの女性観を、生い立ちから探りつつ、その流転の生涯を眺めている。
(西岡、1994年、96頁)



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