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歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪中国文化史(下)~高校世界史より≫

2023-09-03 18:00:28 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪中国文化史(下)~高校世界史より≫
(2023年9月3日投稿)

【はじめに】


 今回のブログでは、高校世界史において、中国文化史(宋代から清代まで)について、どのように記述されているかについて、考えてみたい。
 参考とした世界史の教科書は、次のものである。

〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]
〇木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]

 また、前者の高校世界史教科書に準じた英文についても、見ておきたい。
〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]




【本村凌二ほか『英語で読む高校世界史』(講談社)はこちらから】
本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社






〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]
【目次】

本村凌二『英語で読む高校世界史』
Contents
Introduction to World History
1 Natural Environments: the Stage for World History
2 Position of Japan in East Asia
3 Disease and Epidemic
Part 1 Various Regional Worlds
Prologue
The Humans before Civilization
1 Appearance of the Human Race
2 Formation of Regional Culture
Chapter 1
The Ancient Near East (Orient) and the Eastern Mediterranean World
1 Formation of the Oriental World
2 Deployment of the Oriental World
3 Greek World
4 Hellenistic World
Chapter 2
The Mediterranean World and the West Asia
1 From the City State to the Global Empire
2 Prosperity of the Roman Empire
3 Society of the Late Antiquity and Breaking up
of the Mediterranean World
4 The Mediterranean World and West Asia
World in the 2nd century
Chapter 3
The South Asian World
1 Expansion of the North Indian World
2 Establishment of the Hindu World
Chapter 4
The East Asian World
1 Civilization Growth in East Asia
2 Birth of Chinese Empire
3 World Empire in the East
Chapter 5
Inland Eurasian World
1 Rises and Falls of Horse-riding Nomadic Nations
2 Assimilation of the Steppes into Turkey and Islam
Chapter 6
1 Formation of the Sea Road and Southeast Asia
2 Reorganizaion of Southeast Asian Countries
Chapter 7
The Ancient American World

Part 2 Interconnecting Regional Worlds
Chapter 8
Formation of the Islamic World
1 Establishment of the Islamic World
2 Development of the Islamic World
3 Islamic Civilization
World in the 8th century
Chapter 9
Establishment of European Society
1 The Eastern European World
2 The Middle Ages of the Western Europe
3 Feudal Society and Cities
4 The Catholic Church and the Crusades
5 Culture of Medieval Europe
6 The Middle Ages in Crisis
7 The Renaissance
Chapter 10
Transformation of East Asia and the Mongol Empire
1 East Asia after the Collapse of the Tang Dynasty
2 New Developments during the Song Era ―Advent of Urban Age
3 The Mongolian Empire Ruling over the Eurasian Continent
4 Establishment of the Yuan Dynasty

Part 3 Unification of the World
Chapter 11
Development of the Maritime World
1 Formation of the Three Maritime Worlds
2 Expansion of the Maritime World
3 Connection of Sea and Land; Development of Southeast Asia World
Chapter 12
Prosperity of Empires in the Eurasian Continent
1 Prosperity of Iran and Central Asia
2 The Ottoman Empire; A Strong Power Surrounding
the East Mediterranean
3 The Mughal Empire; Big Power in India
4 The Ming Dynasty and the East Asian World
5 Qing and the World of East Asia
Chapter 13
The Age of Commerce
1 Emergence of Maritime Empire
2 World in the Age of Commerce
World in the 17th century
Chapter 14
Modern Europe
1 Formation of Sovereign States and Religious Reformation
2 Prosperity of the Dutch Republic
and the Up-and-Coming England and France
3 Europe in the 18th Century and the Enlightened Absolute Monarchy
4 Society and Culture in the Early Modern Europe
Chapter 15
Industrialization in the West and the Formation of Nation States
1 Intensified Struggle for Economic Supremacy
2 Industrialization and Social Problems
3 Independence of the United States and Latin American Countries
4 French Revolution and the Vienna System
5 Dream of Social Change; Waves of New Revolutions

Part 4 Unifying and Transforming the World
Chapter 16
Development of Industrial Capitalism and Imperialism
1 Reorganization of the Order in the Western World
2 Economic Development of Europe
and the United States and Changes in Society and Culture
3 Imperialism and World Order
World in the latter half of 19th century
Chapter 17
Reformation in Various Regions in Asia
1 Reform Movements in West Asia
2 Colonization of South Asia and Southeast Asia,
and the Dawn of National Movements
3 Instability of the Qing Dynasty and Alteration of East Asia
Chapter 18
The Age of the World Wars
1 World War I
2 The Versailles System and Reorganization of International Order
3 Europe and the United States after the War
4 Movement of Nation Building in Asia and Africa
5 The Great Depression and Intensifying International Conflicts
6 World War II

Part 5 Establishment of the Global World
Chapter 19
Nation-State System and the Cold War
1 Hegemony of the United States and the Development of the Cold War
2 Independence of the Asian-African Countries and the "Third World"
3 Disturbance of the Postwar Regime
4 Multi-polarization of the World and the Collapse of the U.S.S.R.
Final Chapter
Globalization of Economy and New Regional Order
1 Globalization of Economy and Regional Integration
2 Questions about Globalization and New World Order
3 Life in the 21st Century; Time of Global Issues
The Rises and Falls of Main Nations
Index(English)
Index(Japanese)




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・中国文化史(宋代から)の記述~『世界史B』(東京書籍)より
・中国文化史(宋代から)の記述~『詳説世界史』(山川出版社)より
・英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より






中国文化史(宋代から)の記述~『世界史B』(東京書籍)より


〇宋代の文化


 儒学では、万物生成の理法や人間の本性を論理的に追究する宋学が、北宋の周敦頤(1017~73)らによっておこされた。南宗の朱熹(朱子、1130~1200)は、宋学を大成し(朱子学)、君臣上下の秩序を絶対視する大義名分論を唱え、儒学の経典として四書(『大学』『中庸』『論語』『孟子』)を重視した。また、朱子はきびしい国際情勢に対応して、周辺諸民族に対する中華帝国の優位論を展開した。朱子学は、その後、儒学の正統とされ、日本や朝鮮半島、またベトナムにも伝えられ、官学として繁栄した。客観的な事物の理を追究する朱子に対して、陸九淵(陸象山、1139~92)は心(主体性)の確立を主張し、実践を重視するその思想は、のちの陽明学に影響を与えた。北宋の司馬光(1019~86)は、歴史のうえから大義名分を説き、編年体の通史『資治通鑑』を編纂した。仏教では、禅宗と浄土宗が栄えたが、禅宗は道教に刺激を与え、修養を重んじる全真教が金治下の華北で創始された。文学では、散文がさかんとなって欧陽脩(1007~72)・王安石(1021~86)・蘇軾(蘇東坡、1036~1101)らの名文家が輩出し、韻文では、唐代の詩に対して、民謡から発展した叙情的な詞が流行した。また民間では、一種の歌劇である雑劇がさかんとなった。
 手工業の発達を背景に、美術工芸も発展をとげた。絵画では、宮廷の画院を中心に写実的で装飾性の強い院体画(北宗画)が成立し、文人や禅僧の間では水墨画の手法による文人画(南宗画)が全盛となった。工芸の面では、すぐれた漆器や織物のほか、景徳鎮などで青磁・白磁に代表される高度な水準の陶磁器(宋磁)がつくられた。科学技術も発達し、五代以来の木版印刷の技術はさらに発展して普及し、大量の書物が出版された。また火薬と磁針(のちの羅針盤)が実用化され、これらの技術はムスリム商人を介して西方に伝えられた。

<「桃鳩図」と「漁村夕照図」>
・「桃鳩図(とうきゅうず)」~北宋の徽宗皇帝は画院を保護し、自らもすぐれた絵画を残した。図は、彼が描いた院体画の代表作である。
・「漁村夕照図」~南宋の禅僧である牧谿(もっけい)の作品。日本の室町期の水墨画に大きな影響を与えた。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、177頁~178頁)

〇元代の社会と文化  


 元は、農耕社会の統治にあたって、遊牧系の軍事政権でありながら、中華帝国の伝統そのままに、官僚制による中央集権体制を採用した。しかし、モンゴル語を公用語とし、政府の高官や地方長官にはモンゴル人をあて、中央は遊牧系の近衛兵で固め、実際にはモンゴル伝統の側近政治を行った。中央アジアや西アジアの出身者(色目人)はとくに優遇され、ムスリム商人出身のイスラーム教徒を、徴税や物資の流通の面で活躍させた。ただし、こうした出身にもとづく差別は、必ずしも厳格なものではなく、有能な人材であれば、民族を問わずに要所に採用した。同様に、初期には儒教を重視せず、科挙を廃止したが、やがて、膨大な官僚なくしては大陸統治は困難であることから、とくに江南の地では、儒教を学ぶ学院(廟堂)の設立を奨励し、14世紀初頭には科挙を復活させた。
 元は、徴税請負人を使ってきびしく徴税したが、農耕社会の内部にはあまり干渉せず、佃戸制はそのまま維持された。また駅伝制(ジャムチ)によって交通・交易網は整備され、大運河をはじめ運河の修復にも努め、都市の商工業もさかんであった。貨幣経済はいっそう進展し、元が発行した紙幣(交鈔)は、銀との交換が保証されたため普及し、ときには西アジアでも流通した。
 宋代からの庶民文化は、モンゴル人の統治下でもひきつづき発展し、モンゴル支配への抵抗を秘めた民謡や雑劇(元曲)が流行した。元曲の代表作品としては、封建的な束縛に抗して自由な恋愛をえがく『西廂記』、匈奴に嫁いだ王昭君の悲劇を劇化した『漢宮秋』、琵琶を弾きつつ出世した夫との再会を果たす女性を主人公とした『琵琶記』などがある。また民間での講談もさかんであり、『水滸伝』『西遊記』『三国志演義』の原型がつくられた。書画の分野では、東晋の王羲之の伝統をつぐ趙孟頫(趙子昂、1254~1322)や文人画の黄公望(1269~1354)、倪瓚(1301~74)などがあらわれ、物語の挿絵として流行した細密画(ミニアチュール)は、イル=ハン国を通して西方に影響を及ぼした。いっぽう、イスラーム天文学の知識にもとづいて郭守敬(1231~1316)が授時暦をつくり、この暦は、日本の江戸時代、渋川春海(安井算哲、1639~1715)が作成した貞享暦の基礎となった。
 宗教は、唐・宋の時代とおなじく道教と仏教が民間でさかんであった。ただ、チベット仏教サキャ派の法王、パスパ(パクパ、1235ごろ~80)がフビライの帝師となったことで、モンゴル貴族層の信仰を集めたのはチベット仏教であり、これへの過度の帰依・寄進が元末の財政破綻の一因となった。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、184頁~185頁)

〇明代の思想と文化


 産業の発達は都市の発展を促し、とくに江南では豊かな郷紳層や商人を中心とする都市文化が生まれた。喫茶の習慣や陶磁器が普及し、大衆芸能や木版印刷による出版がさかんになり、戯曲、小説がひろく読まれ、『水滸伝』・『三国志演義』・『西遊記』・『金瓶梅』の四大奇書が完成した。また、科学技術への関心が高まって実用的な学問(実学)が発達し、李時珍(1523ごろ~96ごろ)の『本草綱目』、宋応星(1590ごろ~1650ごろ)の『天工開物』、徐光啓(1562~1633)の『農政全書』などが刊行された。
 こうした科学技術の発展の背景には、ヨーロッパからの刺激がある。16世紀半ばから、イエズス会系の宣教師の来航があいつぎ、イタリア人のマテオ=リッチ(Matteo Ricci、利瑪竇、1552~1610)、ドイツ人のアダム=シャール(Adam Schall、湯若望、1591~1666)らが、布教の手段として西洋の科学技術を伝えた。明の士大夫も刺激を受け、徐光啓はマテオ=リッチとともに、エウクレイデスの幾何学を翻訳した(『幾何原本』)。
 思想面では、朱子学が知識や教養を重視したのに対して、16世紀初頭に王守仁(王陽明、1472~1528)が、子どもや庶民が心にそなえているという真正なる道徳を実践する「知行合一」説を説く陽明学をおこした。
 キリスト教、科学技術、実用書、陽明学のいずれもが日本など東アジア諸国にも広まっていった。

<マテオ=リッチとアダム=シャール>
・明の皇帝は、天文学、暦学、地理学、数学、砲術などの新知識の受容を認めた。マテオ=リッチは『坤輿万国全図』を作成して、世界の地理・地誌を地球球体説とともに紹介した。アダム=シャールは『崇禎暦書』の編纂を指導した。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、229頁)

〇清代の経済と文化


 明は、16世紀の世界経済の発展に対して十分に適応できないまま衰退したが、清は現状肯定的な政策を採用した。まず、満洲人の王朝であり、モンゴル人を体制内にとりいれていたため、北方防衛の負担が少なかった。また、海上貿易は、1684年に海禁を解いて民間貿易を認めたので、ふたたび活発となった。清からは、生糸や陶磁器、茶が輸出され、多量の外国銀が流入した。
 1757年、清は欧米諸国との貿易を広州一港に限定した。特許商人組合である公行(広東十三行)を中心に対外貿易を請け負わせたり、広州ではなくマカオに外国人商人や家族を居住させて貿易の際に広州に出入りさせたりするなど、欧米からみれば強い管理のもとに置かれた。18世紀後半には清からの茶の輸入が増加したイギリスは、清に対して貿易に関する障壁を撤廃するように求めた。
 税制では、明の後期からすでに一条鞭法など銀納に移行していたが、清もこれを継承した。18世紀初頭には丁銀(人頭税)が地銀(土地税)にくりいれられ(地丁銀)、やがて廃止されて課税対象が土地に一本化された。そのため、国家は小農の家族を把握する必要がなくなり、郷紳を通じた徴税や治安維持にたよるようになった。
 清代には明にひきつづき、郷紳や商人らによる都市文化が発展した。彼らの生活は、社会の上層家庭の日常生活における感情の機微を描いた『紅楼夢』や科挙と社会生活をあつかった『儒林外史』などに描きだされている。また短編の怪奇小説を集めた『聊斎志異』も歓迎された。陶磁器や工芸品などの品質や技術も向上したが、その意匠はしだいに繊細で精緻なものとなっていった。
 思想では、明末清初という政治激動期に、顧炎武(1613~82)や黄宗羲(1610~95)らが、より現実的な学問のあり方を主張し、清の体制を批判して考証学の道を開いた。この考証学は、清のきびしい思想統制のもとで、純学問的な古典研究へと性格をかえたが、清の中期にはその厳密な史料批判の方法が歴史学の発展をもたらし、銭大昕(1728~1804)などによる史学(清朝考証学)が栄えた。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、234頁~235頁)

中国文化史(宋代から)の記述~『詳説世界史』(山川出版社)より


【宋代の文化】


 唐代を代表する陶磁器の唐三彩と、宋代を代表する白磁・青磁をくらべてみると、色彩豊かで具象的な唐三彩に対し、宋の白磁・青磁はすっきりした理知的な美しさをもっている。それは、外面的な装飾をそぎ落とし、ものごとの本質に直接せまろうとする宋代文化の特徴をあらわしている。このような変化は、学問・思想から美術までさまざまな分野にみられるが、唐代後期以来のこの文化革新の流れを担ったのは、貴族にかわり官界に進出した士大夫、すなわち儒学の教養を身につけた知識層であった。
 儒学では、経典のなかの一つ一つの字句の解釈を重んずる訓詁学にかわって、経典全体を哲学的に読みこんで宇宙万物の正しい本質(理)にいたろうとする宋学がおこった。それは北宋の周敦頤(しゅうとんい、1017~73)に始まり、南宋の朱熹(朱子、1130~1200)によって大成されたので朱子学ともいわれる。朱子学はその後長く儒学の正統とされ、日本や朝鮮の思想にも大きな影響を与えた。経典のなかでは、とくに四書(『大学』『中庸』『論語』『孟子』)が重んじられるようになった。宋代の儒学の発展は、社会秩序を正そうとする士大夫の実践的意欲とも結びつき、華夷・君臣・父子などの区別を重視する大義名分論が盛んになった。宋代の歴史学を代表する司馬光(1019~86)の『資治通鑑』は、君主の統治に資する(役立つ)ことを目的に書かれた編年体の通史である。唐末以来の古文復興の動きを受け継ぎ、宋代にも欧陽脩(1007~72)・蘇軾(1036~1101)らの名文家が出た。
 美術では、宮廷画家を中心とする写実的な院体画とならんで、士大夫による文人画も盛んになった。水墨あるいは淡彩で自由な筆さばきをたっとぶ文人画は、対象のたんなる模写ではなく、観察をつうじて作者の心がつかみとった自然の生気をうつし出そうとするものであった。工芸では、白磁や青磁など、高温で焼いたかたい磁器の生産が盛んになった。
 都市商業の繁栄を背景に庶民文化も発展し、小説・雑劇や、音曲にあわせてうたう詞が盛んにつくられた。宗教では禅宗が官僚層によって支持され、また金の統治する華北では、儒・仏・道を調和した全真教(開祖は王重陽(1113~70))が道教の革新をとなえておこった。唐代頃に始まった木版印刷は宋代に普及し、また活字印刷術も発明された。同じ頃にすすんだ羅針盤や火薬の実用化の技術は、イスラーム世界をつうじてヨーロッパに伝わった。

<院体画(「桃鳩図」)>
「風流天子」といわれた徽宗の作。
宋代には美術を愛好する皇帝が天下の巨匠を画院に集め、写実や装飾性を重んずる画風をうみだした。

<文人画(墨竹図)>
書家・文豪としても知られる蘇軾の作。
胸のなかにある竹のイメージを墨一色で一気に描きあげた作品である。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、163頁~165頁)

【元の東アジア支配】


 相続争いを経て即位した第5代のフビライ(Khubilai, 在位1260~94)は、自分の勢力の強い東方に支配の重心を移し、大都(現在の北京[ペキン])に都を定め、国名を中国風に元(1271~1368)と称し(1271年)、ついでに南宋を滅ぼして中国全土を支配した。(中略)
 元は中国の統治に際して、中国の伝統的な官僚制度を採用したが、実質的な政策決定は、中央政府の首脳部を独占するモンゴル人によっておこなわれた。また、色目人と総称される中央アジア・西アジア出身の人々が、財務官僚として重用された。金の支配下にあった人々は漢人、南宋の支配下にあった人々は南人と呼ばれた。武人や実務官僚が重視され、科挙のおこなわれた回数も少なかったため、儒学の古典につうじた士大夫が官界で活躍する機会は少なかった。
(中略)
 元の政府は、支配下の地域の社会や文化には概して放任的な態度をとったので、大土地所有も宋代以来引き続き発展し、また都市の庶民文化も栄えた。なかでも戯曲は元曲として中国文学史上に重要な地位を占め、『西廂記』『琵琶記』などがその代表作として知られる。

【モンゴル時代の東西交流】


 モンゴル帝国の成立により、東西の交通路が整備されたため、東西文化の交流が盛んになった。当時十字軍をおこしていた西ヨーロッパは、イスラーム地域を征服したモンゴル帝国に関心をもち、ローマ教皇はプラノ=カルピニ(Plano Carpini, 1182頃~1252)、フランス王ルイ9世はルブルック(Rubruck, 1220頃~93頃)を使節としてモンゴル高原におくった。またイタリアの商人マルコ=ポーロ(Marco Polo, 1254~1324)は大都にきて元につかえ、その見聞をまとめた『世界の記述』(『東方見聞録』)はヨーロッパで反響を呼んだ。
 モンゴル帝国ではムスリム商人がユーラシアの東西を結んで活躍し、キプチャク=ハン国やイル=ハン国のモンゴル君主はイスラームに改宗した。また当時、元にきた色目人にイスラーム教徒が多かったことから、中国にもイスラーム教がしだいに広まった。イスラームの天文学を取り入れて郭守敬(1231~1316)がつくった授時暦は、のち日本にも取り入れられた(江戸時代の貞享暦)。また元からはイル=ハン国に中国絵画が伝えられ、それがイランで発達した細密画(ミニアチュール)に大きな影響を与えた。
 イル=ハン国はその初期にネストリウス派のキリスト教を保護し、ヨーロッパのキリスト教諸国やローマ教皇庁と使節を交換していたが、これがきっかけとなって、13世紀末にはモンテ=コルヴィノ(Monte Corvino, 1247~1328)が派遣され、大都の大司教に任ぜられた。中国でカトリックが布教されたのは、これがはじめてであった。
 モンゴル支配下の広大な地域では、漢語・チベット語・トルコ語・ペルシア語・ロシア語・ラテン語など多様な言語がもちいられていた。モンゴル語を表記するパスパ文字は、フビライの師であったチベット仏教の教主のパスパ('Phagspa, 1235/39~80)がつくったものであるが、しだいにすたれて、ウイグル文字でモンゴル語を表記することが一般的になった。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、167頁~169頁)

【明後期の社会と文化】


 国際商業の活発化は、中国国内の商工業の発展をうながした。長江下流域では綿織物や生糸に代表される家内制手工業が盛んになり、原料となる綿花や養蚕に必要な桑の栽培が普及した。このため、明末には長江中流域の湖広(現在の湖北・湖南省)があらたな穀倉地帯となり、「湖広熟すれば天下足る」と称せられた。また江西省の景徳鎮に代表される陶磁器も生産をのばした。生糸や陶磁器は、日本やアメリカ大陸・ヨーロッパに輸出される代表的な国際商品であった。
 商業・手工業の発展にともない、山西商人や徽州(新安)商人など明の政府と結びついた特権商人が全国的に活動して巨大な富を築いた。大きな都市には、同郷出身者や同業者の互助や親睦をはかるための会館や公所もつくられた。税の納入も銀でおこなわれるようになり、16世紀には各種の税や徭役を銀に一本化して納入する一条鞭法の改革が実施された。貨幣経済の発展とともに都市には商人や郷紳など富裕な人々が集まり、庭園の建設や骨董の収集など文化生活を楽しんだ。明を代表する画家・書家の董其昌(とうきしょう、1555~1636)のように、高級官僚を経験しながら芸術家として名声を得た文化人も多かった。
 木版印刷による書物の出版も急増し、科挙の参考書や小説、商業・技術関係の実用書などが多数出版されて書物の購買層は広がった。『三国志演義』『水滸伝』『西遊記』『金瓶梅』などの小説が多くの読者を獲得し、庶民向けの講談や劇も都市の盛り場や農村でさかんに演じられた。儒学のなかでは、16世紀初めに王守仁(王陽明、1472~1528)が、無学な庶民や子どもでも本来その心のなかに真正の道徳をもっている(心即理)と主張し、外面的な知識や修養にたよる当時の朱子学の傾向を批判した。ありのままの善良な心を発揮し(致良知)、その心のままに実践をおこなう(知行合一)ことを説いた陽明学は、学者のみならず庶民のあいだにも広い支持を得た。
 明末文化の一つの特色は、科学技術への関心の高まりである。『本草綱目』(李時珍[1523頃~96頃]著)、『農政全書』(徐光啓[1562~1633]編)、『天工開物』(宋応星[1590頃~1650頃]著)などの科学技術書がつくられ、日本など東アジア諸国にも影響を与えた。当時の科学技術の発展には、16世紀半ば以降東アジアに来航したキリスト教宣教師の活動も重要な役割をはたした。日本でのキリスト教普及の基礎を築いたイエズス会宣教師のフランシスコ=ザビエル(Francisco Xavier, 1506頃~52)は、中国布教をめざしたが実現せず、その後マテオ=リッチ(Matteo Ricci, 1552~1610)らが16世紀末に中国にはいって布教をおこなった。キリスト教が庶民層にまで広まった日本と異なり、中国では、ヨーロッパの自然科学や軍事技術に関心をもつ士大夫層がキリスト教を受け入れた。リッチが作製した世界地図の「坤輿万国全図」は、中国に新しい地理知識を広め、日本などにも伝えられた。西洋暦法による『崇禎暦書』や「ユークリッド幾何学」の翻訳である『幾何原本』なども刊行された。

<郷紳>
科挙の合格者や官僚経験者は、郷里の名士として勢力をもった。このような人々を郷紳という。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、182頁~184頁)

【清代の社会と文化】


 三藩の乱の鎮圧と台湾の占領によって清朝の支配が安定すると、清朝は海禁を解除し、中国商人のジャンク船による交易やヨーロッパ船の来航をつうじて、海上貿易は順調に発展した。生糸や陶磁器・茶などの輸出によって中国には銀が流れこみ、国内商業の発展を支えた。東南アジアとの貿易をおこなう福建や広東の人々の一部は、清朝の禁令をおかして東南アジアに住み着き、農村と国際市場を結ぶ商業網をにぎって経済力をのばし、のちの南洋華僑のもとになった。18世紀半ばになると乾隆帝はヨーロッパ船の来航を広州1港に制限し、公行(こうこう、コホン)という特定の商人組合に貿易を管理させた。
 18世紀には政治の安定のもと、中国の人口は急増した。アメリカ大陸から伝来したトウモロコシやサツマイモなど、山地でも栽培可能な新作物は、山地の開墾をうながして、人口増を支えた。しかし土地の相対的な不足は多くの土地なし農民をうみだした。税制では、18世紀初めの地丁銀制により、丁税(人頭税)が土地税にくりこまれて制度の簡略化がはかられた。
 明代後期の文化が動乱期の世相を反映してダイナミックな力強さを感じさせるとすれば、それに比較して清代の文化はおちついた繊細さをみせているといえる。明清交替の混乱を経験した顧炎武(1613~82)など清初の学者は、社会秩序を回復するには現実を離れた空論でなく、事実に基づく実証的な研究が必要だと主張した。実証を重視するその主張は清代中期の学者に受け継がれ、儒学の経典の校訂や言語学的研究を精密におこなう考証学が発展し、銭大昕(1728~1804)などの学者が出た。『紅楼夢』や『儒林外史』など清代中期の長編小説も、細密な筆致で上流階級や士大夫たちの生活を描写している。
 清朝はイエズス会の宣教師を技術者として重用した。暦の改定をおこなったアダム=シャール(Adam Schall, 湯若望, 1591~1666)やフェルビースト(Verbiest, 南懐仁, 1623~88)、中国全図の「皇輿全覧図」作製に協力したブーヴェ(Bouvet, 白進, 1656~1730)、ヨーロッパの画法を紹介したり円明園の設計に加わったカスティリオーネ(Castiglione, 郎世寧, 1688~1766)らはその例である。イエズス会宣教師は布教にあたって中国文化を重んじ、信者に孔子の崇拝や祖先の祭祀などの儀礼を認めたが、これに反対する他派の宣教師がローマ教皇に訴えたことから、儀礼に関わる論争(典礼問題)がおこった。教皇はイエズス会宣教師の布教方法を否定したため、これに反発した清朝は雍正帝の時期にキリスト教の布教を禁止した。
 一方、宣教師たちによってヨーロッパに伝えられた儒教・科挙など中国の思想・制度や造園術などの文化は、ヨーロッパ人のあいだに中国に対する興味を呼びおこした。18世紀の啓蒙思想家のあいだでは、中国と比較してヨーロッパの国家体制の優劣が論じられ、また芸術のうえでもシノワズリ(chinoiserie, 中国趣味)が流行した。

<円明園>
円明園は雍正帝から乾隆帝の時期に北京郊外に建設された離宮。
バロック様式の西洋建築を含む広大な庭園であったが、アロー戦争の際の英仏軍の略奪・破壊によって、廃墟と化した。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、191頁~192頁)

英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より


〇宋代の文化


(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、177頁~178頁)
 Culture of the Song Dynasty
In Confucianism, the Song Study(宋学) which studied the theory of generation of all things in
the universe as well as human nature, was theoretically founded by Zhou Dunyi (周敦頤) and others
of the Northern Song. Zhu Xi (朱熹 Zhuzi 朱子) of the Southern Song reconstituted the Confucian
tradition and shaped Neo-Confucianism (朱子学) where he justified the order between the sovereign
and subjects as an absolute principle and attached importance on the Four Books (四書、the Great
Learnig (大学), Doctrine of the Mean (中庸), the Analects (論語) and Mencius (孟子)) as the Confucian classics. Zhu Xi extended the theory of superiority of China over surrounding peoples corresponding to
the severe international environments. Zhu Xi’s Neo-Confucianism became the legitimate
Confucianism in China, and was introduced to Japan, the Korean peninsula and Vietnam,
and was prospered as bureaucratic learning. As opposed to Neo-Confucianism which
studied the principles of things objectively, Lu Jiuyuan (陸九淵) claimed the establishment of mind
(subjectivity) putting importance on practice, and his thought later influenced the philosophy
of Wang Yang-ming (陽明学). Sima Guang (司馬光) of the Northern Song justified the “theory of legitimate reasons” using Chinese history and compiled Zizhi Tongjian (資治通鑑, Comprehensive Mirror for Aid in Government) , a chronological historiography text of China. In Buddhism, the Zen sect
and the Pure Land sect prospered, and the Zen sect spurred a Taoism, and Quanzhen school (全真教)
which respected moral culture was founded in North China under the Jing government. In
literature, the prose style became popular, and masters of style such as Ouyang Xiu (欧陽脩), Wang
Anshi (王安石) and Su Shi (蘇東坡、蘇軾) appeared. In verse style, unlike the poems in the Tang period,
lyrical Ci (詞), evolved from folk songs, became popular. Among the common people zaju (a kind of
Chinese classical opera) became popular.
Arts and crafts developed with the handicraft manufacturing development as a
background. In paintings, very realistic and decorative yuan ti hua (the Northern Song school of painting, 院体画, 北宗画) materialized. This was led by the painting institute of the royal court,
and paintings by literary artists (the Southern Song School of paintin,文体画, 南宗画)
based on technical skills of China ink painting most prospered among writers and Zen priests.
In handicrafts, magnificent lacquerware and textiles were produced, and high quality ceramics (Song ceramics 宋磁) represented by celadon porcelain (青磁) and white porcelain (白磁) were produced mainly in Jingdezhen (景徳鎮). Scientific technologies also developed, woodblock printing techniques (木版印刷) from the Five Dynasties developed even further, and thus many books were published. Gunpowder and the magnetic needle were put to practical use, and such technologies were transferred
to the western area through Muslim merchants.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、139頁~140頁)

〇元代の社会と文化


(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、184頁~185頁)
Society and Culture of the Yuan Dynasty
With regards to the governing of agricultural society, the Yuan dynasty, being a nomadic
military regime, nevertheless adopted centralism based on the bureaucracy following that of
Chinese Empire tradition. However, the Mongolian language was designated as the official
language, and Mongol people were appointed as government’s high officials and local
governors, and the central government was guarded by the Imperial guards. Thus actually
Mongolian traditional politics by close associates was carried out. People from Central
Asia and West Asia (Semu) were treated favorably among others. Muslim merchants were
entrusted with tax collection and trading goods. Mongols were positioned highest in the
ranking system at least initially, however, capable and talented people could be employed
and placed in key positions regardless of race. In the same way, initial Confucianism was
not well respected and thus the Imperial Examination system was abolished. But gradually
realizing it was not practical to govern the vast continent without enormous number of
bureaucrats, the Yuan promoted the establishment of institutes for studying Confucianism,
especially in Jiangnan, and in the beginning of the 14th century the Imperial Examination
was revived.
The Yuan dynasty collected tax strictly employing tax collectors but did not intervene in
the internal agricultural society much, and maintained the tenant farmer system as it was.
Also, traffic and trade networks were consolidated by the station relay system (jamchi) and
canals including the Grand Canal were restored. Because of this, urban commerce and
industry flourished. A monetary economy further developed. Paper money issued by the
Yuan, which guaranteed its convertibility into silver, was widely used, and sometimes
circulated even in West Asia.
The culture of common people continuously developed since the Song period even
under Mongol’s control, and folk songs and Zaju (雑劇, Yuan musical 元曲) concealing resistance
against Mongolian control became popular. Representative Zaju were, among others,
Xixiang Ji (西廂記), or Tale of the Western Chamber depicting free love rebelling against the
feudal restraint, Han Gong Qiu (漢宮秋, The story of the Han palace) dramatizing a tragedy about
Wang Zhao Jun who married to the Xiongnu and Pi Pa Ji (琵琶記, The Lute), a story about a
heroin who, with playing a lute, finally could meet again with her husband. Private
storytelling was also popular and original forms of Water Margin (水滸伝), Journey to the West
(西遊記) and Romance of the Three Kingdoms (三国志演義) were created. In the field of drawings and paintings, Zhao Mengfu (趙孟頫) succeeding traditions of Wang Xizhi (王羲之), and Huang Gongwang
(黄公望) and Ni Zan (倪瓚) of literati paintings appeared. And miniatures, which became popular as
illustration of stories, influenced the western world through the Il Khans. On the other hand, based on
the knowledge of Islamic astronomy, Guo Shoujing (郭守敬) made The Lunar and Solar Calendar
(Shou shi li 授時暦). This was used as the base for the Jokyo Calendar, which was made by Harumi
Sibukawa(渋川春海) in the Edo period of Japan.
In terms of religion, Taoism and Buddhism were popular among people the same as the
time of Tang and Song period. However as Phags-pa (パスパ), a pope of Sa skya sect of Tibetan
Buddhism, became a teacher for the emperor of Khubilai (帝師), Tibetan Buddhism prevailed
among Mongolian aristocrats. The excessive belief in and contribution to this religion was
one of the reasons for the financial bankruptcy in the final stage of the Yuan dynasty.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、144頁~145頁)

〇明代の思想と文化


(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、229頁)

Thoughts and Culture in the Ming Period
Development of industries prompted growth of cities, and especially in Jiangnan. Urban
culture evolved with rich local gentries and merchants as the cores. Tea drinking became
customary and the use of pottery spread and public entertainment, as well as publishing
by wood printing, became prosperous. Due to this, dramas and novels were broadly read,
resulting in completion of the Four Great Classical Novels: Outlaws of the Marsh (水滸伝), Three
Kingdoms (三国志演義), Journey to the West (西遊記), and The Golden Lotus (金瓶梅), as interests
in scientific technologies rose, practical studies (practical science) advanced, and Compendium of
Materia Medica (Bencao Gangmu 本草綱目) by Li Shizhen (李時珍), Tiangong Kaiwu (天工開物)
by Song Yingxing (宋応星) and Nong Zheng Quan Shu (農政全書) by Xu Guangqi (徐光啓) and others
were published.
Such development of scientific technologies were influenced by Europe. Since the
middle of the 16th century, missionaries of the Society of Jesus visited the Ming one after
another, and the Italian Matteo Ricci (マテオ=リッチ, Li Madou 利瑪竇) and German Adam Schall
(アダム=シャール, Tang Ruowang 湯若望) introduced western scientific technology as a means of
propagation. The Ming scholar-bureaucrats were also stimulated, and Xu Guangqi (徐光啓) translated
Euclid’s Geometry (エウクレイデスの幾何学) (Original Geometry 幾何原本) together with
Matteo Ricci.
In the aspect of thoughts, while Neo-Confucianism emphasisized knowledge and culture,
in the beginning of the 16th century, Wang Yangming (王陽明) started the Philosophy of
Yang-Ming (陽明学), which preached that “Awareness comes only through practice”.
Genuine morality, with which the hearts of children and the general public were said to be
endowed, was to be executed.
Christianity, scientific technology, technical manuals and the Philosophy of Yang-Ming
all spread to Japan and other East Asian countries.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、171頁)

〇清代の経済と文化


(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、234頁~235頁)

Economy and Culture of the Qing
The Ming declined, being unable to adapt to the development of a world economy in the
16th century, while the Qing adopted policies to acknowledge the status quo. Firstly, since
it was a Manchu dynasty and Mongolians were incorporated into the state structure, the
burden of defending the northern area was small. Also, regarding sea trade, the ban on the
maritime trade was lifted in 1684 and private trade was also allowed. Raw silk, potteries
and teas were exported from the Qing. In exchange a huge amount of foreign silver flowed
in.
In 1757, the Qing restricted trade with Western countries to the Guangdong (sic 広州) port only.
Foreign trade was undertaken by the Gong Hang (公行(コホン), Guangdong Thirteen Gong Hang (広東十三行)), a guild of licensed merchants. Foreign merchants and their families were allowed to live in
Macao (マカオ) but not in Guangzhou. They were forced to come in and go out from Guangzhou
for trading business, and thus, from a Western point of view, they were placed under strong control of
the Qing. In the latter half of the 18 th century, when import of tea from the Qing increased,
England requested to lift trade barriers to the Qing.
Regarding the tax system, the Qing succeeded the tax payment by silver such as the
Single-whip System (一条鞭法) which was already adopted in the late Ming period. In the beginning
of the 18 th century, a per capita tax (丁銀) was incorporated into the land tax (地丁銀) and subsequently
abolished to become a single tax on the land only. Therefore, the government did not
necessarily know the number of the small farmers’ family members, and became dependent
on local gentries for the tax collection and maintenance of public peace.
During the Qing period, urban culture, led by the local gentries and merchants,
continued to develop following the Ming period. Their lives were described in A Dream
of Red Mansions (紅楼夢) which depicted the secrets of human nature in daily lives of Manchu
aristocrats and Scholars (儒林外史), which dealt with the higher civil service examination and social
lives. Strange Tales from the Liaozhai Studio (聊斎志異), a collection of short weird novels, was well
received. The quality and techniques of potterymaking and industrial art objects were
improved, and their design gradually became more sophisticated and precise.
Regarding thoughts, during between the end of the Ming and the beginning of the Qing,
when political situation was highly unstable, Gu Yanwu (顧炎武) and Huang Zongxi (黄宗羲) insisted that study and learning be realistic, criticized the Qing’s governing system and paved the way
for the study of historical investigation (考証学). This study of historical investigation changed
character to the academic bibliographical study of Chinese classics under tight thought
control by the Qing, but its strict critical method of historical materials brought about the
development of the study of history, and historical science (Study of Historical Investigation of
the Qing dynasty (清朝考証学)) by Qian Daxin (銭大昕) and others flourished.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、176頁~177頁)


≪中国文化史(上)~高校世界史より≫

2023-09-01 19:00:03 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪中国文化史(上)~高校世界史より≫
(2023年9月1日投稿)

【はじめに】


 前回のブログまでで、西洋史を一応終え、今回以降から、いわゆる東洋史に関する世界史をみてゆきたい。
 今回のブログでは、高校世界史において、中国文化史(唐代まで)について、どのように記述されているかについて、考えてみたい。
 参考とした世界史の教科書は、例によって、次のものである。

〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]
〇木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]

 また、前者の高校世界史教科書に準じた英文についても、見ておきたい。
〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]

 なお、中国文化史の【補足】は、(上)(下)を終えてからにする。
中国以外にも、次のようなテーマでまとめていく予定である。
●インドの歴史と文化
●イスラーム
●東南アジアの歴史




【本村凌二ほか『英語で読む高校世界史』(講談社)はこちらから】
本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社





さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・中国文化史(唐代まで)の記述~『世界史B』(東京書籍)より
・中国文化史(唐代まで)の記述~『詳説世界史』(山川出版社)より
・英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より






中国文化史(唐代まで)の記述~『世界史B』(東京書籍)より


 福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』(東京書籍、2016年[2020年版])から、中国文化史の項目を抽出すると、次のようになる。このうち、今回は、唐代までを取り上げてみる。

【中国文化史】
〇黄河文明のあけぼの/邑制国家の誕生
 (福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、78頁~80頁)

〇諸子百家の群像
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、81頁)

〇漢代の文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、84頁)

〇南北朝の文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、86頁~87頁)

〇唐代の社会と文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、89頁~91頁)

〇宋代の文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、177頁~178頁)

〇元代の社会と文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、184頁~185頁)

〇明代の思想と文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、229頁)

〇清代の経済と文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、234頁~235頁)




第4章 東アジア世界 1東アジアにめばえた文明
【黄河文明のあけぼの】


 おおよそ秦嶺山脈から淮河にいたる線を境として、その北部の黄河流域一帯(華北)は、冷帯から温帯に属し、降雨は夏期に限られる乾燥度の強い地域であり、モンゴル高原から季節風によって運ばれてきた黄土が分厚く堆積している。黄土は畑作に適した肥沃な土壌であり、黄土地帯では、水さえ上手に使えば、石や木などの粗製農具によっても、アワ・キビなどの穀物の栽培ができた。
 淮河以南の長江の流域一帯(華中)は、温帯に属し、照葉樹林と湖沼が広がる湿潤な地域であり、一部の地域には、古くから個性的な諸文化が生まれた。長江下流域(江南)では、前5000年ごろに新石器文化がめばえ、稲作が成立していたことが確認できる。前3300年ごろに出現した良渚文化では、巨大な祭壇や精巧な玉器がつくられた。
 いっぽう華北の新石器時代は、前6000年ごろにさかのぼり、黄河流域の広い範囲に、穀物を栽培し豚や犬などの家畜を飼養する文化が生まれ、半地下式の竪穴住居の集落が形成された。黄河文明の出発点をなすこの農耕文化は、二つの文化期に分けられる。最初にあらわれるのが、前5000年から前3000年ごろの仰韶文化(ヤンシャオ、ぎょうしょう)であり、明るい彩色文様の土器をともなうところから彩陶文化ともいわれる。仰韶文化は、前2900~前2000年ごろに出現した竜山文化(ロンシャン、りゅうざん)に受けつがれた。この文化は、粗製ではあるが実用的な灰陶と、良質の研磨土器である黒陶によって特徴づけられる。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、78頁~79頁)

【邑制国家の誕生】


 黄土地帯で、最初に集落を営むことができたのは、洪水の危険が少なく、小さな河川や湧き水を利用できる台地などに限られていた。このために、黄河中・下流域では小規模な集落(邑[ゆう])が数多く点在することになり、おのおの氏族制のもとで共同体的な生活が営まれた。竜山文化の末期に各地の農耕文化が衰退するなか、四方の文化を吸収し、アワやキビ・稲・大豆などの多様な穀物を栽培していた中原地域では、竜山文化が発展をとげ、周辺の邑を服属させ、城壁をめぐらす都市国家(大邑)もあらわれた。こうして新石器時代の農耕文化は、一つの文明としての姿を整えたのであり、多くの邑は軍事や交易面で連携をすすめて、より強力な年国家のもとに組織化された。黄河文明が生みだした最古の王朝として確認される殷(商)は、前1600年ごろ、商という大邑を中心に成立したこれらの都市国家の連合組織(邑制国家)であった。
 殷王朝後期の遺跡である殷墟(河南省安陽市)からは、捕虜か奴隷を殉葬したらしい竪穴式の巨大な墓が発掘されており、出土した甲骨には、殷王が天帝の神意を占った内容が、漢字の原型となった甲骨文字で記録されており、当時の王権の大きさや独特な政治のあり方を知ることができる。また青銅器時代はこのころにはじまり、殷代の精巧な青銅製の祭器類は、はるか長江流域や四川盆地からも出土している。

<甲骨文字の刻まれた牛骨>
専門の占い師が、獣の肩甲骨や亀の腹甲にできるひび割れで神意を読みとり、その結果を文字で刻んだ。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、79頁~80頁)

第4章 東アジア世界1東アジアにめばえた文明
【諸子百家の群像】


春秋戦国時代の激動は、政治や社会のあり方をめぐる多彩な思想をよびおこし、諸子百家とよばれる思想家たちがあらわれた。
 春秋時代末期の魯の思想家で、儒家の祖となった孔子(前551ごろ~前479)は、家族道徳(孝)の実行を重視し、為政者にも仁徳をもって統治することを求めた(徳治主義)。『論語』は、孔子とその弟子の言行を編集したものである。孔子の思想を受けた孟子(前372ごろ~前289ごろ)は、上古には行われたという善政(王道)を理想とし、生来の善なる心をのばすべきとする性善説の立場から、力による政治(覇道)を批判したが、荀子(前298ごろ~前235ごろ)は、人は生来悪となりやすいので礼をもって導かなければならないとする性悪説の立場から、君主による民の教化を容認した。商鞅(?~前338)や韓非(?~前233)などの法家は、法律による統治(法治主義)を説き、秦の強国化に貢献した。これに対して、墨子(前480ごろ~前390ごろ)を祖とする墨家は、博愛主義(兼愛)や絶対平和(非攻)を主張し、老子や荘子(前4世紀ごろ)などの道家は、あるがままの自然に宇宙の原理(道)を求めて、政治を人為的なものとして否定した(無為自然)。また、兵家(兵法家)の孫子や呉子(呉起)、外交術を駆使した縦横家の蘇秦(?~前317)や張儀(?~前309)、陰陽五行説を唱えた陰陽家の鄒衍(前305~前240)、また論理学派である名家の公孫竜(前4世紀~前3世紀ごろ)、新しい農業技術を普及させた農家なども登場し、時代の要請にこたえた。この時代に編集された文学作品として、周の王室の儀式の歌と黄河流域の民謡を集めた『詩経』、楚の詩人屈原(前340~前278)の詩や長江流域の詩歌を集めた『楚辞』があり、それぞれ華北と華中・江南の風土が反映されている。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、81頁)

〇漢代の文化


 漢代には、五経などの儒教の経典が新たに編集され、後漢の鄭玄(127~200)らによる字句の解釈をめぐる学問(訓詁学)が発達した。漢王朝の正統化のために史書の編集が奨励され、前漢の司馬遷(前145ごろ~前86ごろ)の『史記』と後漢の班固(32~92)の『漢書』は、のちの歴史書の模範となった。後漢期には、科学技術の面でも進歩がみられ、張衡(78~139)は天球儀や地震計を考案し、蔡倫(?~121ごろ)は紙の製法を大幅に改良した。また、官営工場を中心に精巧な絹織物、漆器、銅鏡がつくられ、その技術や製品は西方にも伝播した。この時代、海・陸両路による東西交渉が活発であり、仏教がインドから西域経由で中国に伝来したのは、後漢期のこととされる。

<『史記』と『漢書』>
・『史記』は上古から武帝期までの通史。『漢書』は前漢一代の歴史書であり、叙述の形式は、帝王や皇帝の年代記(本紀)と重要人物の伝記(列伝)で構成される紀伝体である。

(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、84頁)

〇南北朝の文化


 江南の呉と東晋、および南朝の四つの王朝が交替した六朝時代には、貴族が主導する六朝文化が花開いた。詩の陶潜(陶淵明、365ごろ~427)、書の王羲之(307ごろ~365ごろ)、絵画の顧愷之(344ごろ405ごろ)らがこれを代表し、散文では、四六駢儷体という華麗な文章が好まれた。梁の昭明太子(501~531)が編集した『文選』は、古来のすぐれた詩文を集めたもので、日本文化にも大きな影響を与えた。貴族の間では、「竹林の七賢」の言行にみられる清談がもてはやされ、老荘思想が歓迎された。これに対して北朝では、北魏の歴史地理書『水経注』や農業技術書『斉民要術』のような、現実的で実用的な文化が開花した。
 仏教は、南北朝時代の社会不安のなかで、中華文明の世界に根をおろした。華北では、五胡十六国時代に西域の亀茲(クチャ)出身の仏図澄(ぶっとちょう、ブドチンガ ?~348)や鳩摩羅什(くまらじゅう、クマラジーヴァ、344~413)らが布教に努め、身分を問わず平安を願う多くの人々に受けいれられた。江南では、インドにおもむいた東晋の求法僧法顕(337ごろ~422ごろ)の活躍もあって、老荘思想をとおして理解され、貴族の間に流行し、南朝の首都の建康には仏寺が林立した。北魏で国教とされたのは、寇謙之(363~448)によって大成された道教であったが、やがて仏教が国家の庇護を受けることになり、首都洛陽を中心に多くの寺が建立された。敦煌(甘粛省)の石窟寺院の造営は、五胡十六国時代にはじまり、北魏の雲崗(山西省大同市の西郊)・竜門(洛陽市の南郊)をへて、のちの時代に受けつがれた。

<法顕>
・法顕は、399年に長安を出発して陸路インドに入り、海路シンハラ(現在のスリランカ)をへて412年に帰国し、『仏国記』(法顕伝)を著した。

(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、86頁~87頁)

〇唐代の社会と文化


 唐の中ごろから、農業生産が一段と発展した。華北では、冬小麦を裏作とする二毛作が普及した江南では、水稲栽培の技術も向上し、水田地帯はさらに南方に広がった。水陸の交通網は一段と整備され、都市間の物資流通が充実した。また、首都長安の市(西市・東市)のように、都城内の一定の区域に限定されてはいたが、各種の商店や手工業の工房も繁栄した。対外交易も発展し、西域経由の東西貿易が安定したほか、広州や泉州を中心に南海貿易もさかんになり、やがて広州には国家が貿易を管理する市舶司が設置され、アラビアやペルシアのムスリム商人の来航も多くなった。こうして首都長安は、東西の人々の行きかう国際都市となった。
 経済の発展に支えられて文化も栄えた。唐代の文化の特色は、華北と江南の文化が融合した点にあったが、同時に東西交易の盛況を背景として国際色豊かであった。儒教は、国家の保護を受け、支配者層の必須の教養科目となった。科挙の試験科目となったこともあって、経典類の編集・研究がすすみ、孔穎達(574~648)らによる欽定の注釈書『五経正義』が編集された。文学では、六朝時代の形式美がすたれ、韓愈(韓退之、768~824)や柳宗元(773~819)らは古文の尊重を唱えた。また科挙で詩賦が重視されたこともあって、唐詩が隆盛し、李白(701~762)・杜甫(712~770)・王維(701ごろ~761)・白居易(白楽天、772~846)らの詩人が活躍した。
 美術では、書の褚遂良(596~658)・顔真卿(709~786ごろ)、絵の閻立本(?~673)・呉道玄(8世紀)らが出た。絵画の題材には山水が好まれ、水墨の技法による山水画が発達した。工芸では、唐三彩で知られる陶器に特色があらわれた。
 宗教では、仏教が前代につづいて発展した。玄奘(600ごろ~664)や義浄(635~713)らのように仏典を求めてインドにおもむく僧も多く、仏典の漢訳と教理の研究もすすんだが、浄土宗や禅宗などの新しい宗派が誕生し、最澄(767~822)や空海(774~835)が日本に伝えた天台宗と真言宗は、平安仏教に大きな影響を与えた。いっぽう、道教も帝室の保護のもとに発達し、民間には仏教以上に広まった。また西方諸国との交流がさかんになると、祆教(ゾロアスター教)・マニ教・回教(イスラーム教)・景教(ネストリウス派キリスト教)なども伝わり、それらの寺院も建てられた。

<玄奘と義浄>
・玄奘の行路は往復とも西域経由のルートであり、帰国後に『大唐西域記』を著して、中央アジアやインドの事情を伝えた。義浄は往復とも海路を使い、『南海寄帰内法伝』を著して、インドや東南アジアの状況を報告した。

<コラム「木簡から紙へ」>
春秋戦国の時代になると、官僚制度が整って行政文書が飛びかうようになり、また諸子百家などの各種の書物が流布するようになった。この事情に応じて、戦国時代のころから、一般の書物から行政文書にいたるまで、うすくけずった木や竹の札が、広く、大量に使用されるようになった。
 これらの木簡や竹簡では、墨で文字が書かれ、書きそんじたら小刀でけずって訂正された。役人たちが「刀筆の吏」とよばれたのはこのためである。いく枚かの札でまとまりがつくと、それらを縦にならべて2~3本の糸で横に綴る。その姿が「冊」であり、これを巻くと「巻」になる。こうして形をなした書冊を何度も繙くと、綴り糸が切れることもおこる。「韋編(いへん、綴り糸)三絶」とは、よく勉強したという意味である。
 ぼろ布や亜麻の繊維などをすいてつくられる紙は、後漢の宦官、蔡倫の発明とされる。しかし、粗製ながらも前漢期の紙が発見されており、文献にも、蔡倫より以前の紙の記録がある。たしかに紙は、後漢時代から急速に普及していった。しかし、それ以降にあっても、木簡や竹簡が紙とならんで使用されつづけた。近年、つぎつぎと発掘・発見される大量の木簡は、戦国末期から三国時代にまでいたっている。
 751年、タラス河畔の戦いで唐軍がやぶれたとき、製紙技術者が捕虜となり、製紙法は西方に伝わったともいわれている。バグダードには製紙工場がつくられ、その後、エジプトからアフリカ北部沿岸をへて、12世紀半ばにイベリア半島に伝わった。この間に改良を重ねながら、製紙法がヨーロッパ各地へと普及していったのは、13世紀以降のことである。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、89頁~91頁)


中国文化史の記述(唐代まで)~『詳説世界史』(山川出版社)より


「第2章アジア・アメリカの古代文明」の「3中国の古典文明」
【中国文明の発生】


 前6000年頃までに、黄河の流域ではアワなどの雑穀を中心として、また長江の流域では稲を中心として、粗放な農耕が始まっていた。前5千年紀には、気候の温暖化とともに農耕技術も発展し、数百人規模の村落がうまれてきた。黄河中流域では、彩文土器(彩陶)を特色とする仰韶(ぎょうしょう、ヤンシャオ)文化が有名であり、長江中・下流域でも、同じ頃に人工的な水田施設をともなう集落がつくられていたことが、明らかになっている。
 前3千年紀には、これら地域間の交流はしだいに緊密化した。黄河下流域を中心に、南は長江中・下流域、北は遼東半島にいたるまで分布する黒色磨研土器(黒陶)はそれを示すものである(竜山(りゅうざん、ロンシャン)文化)。交流にともなう集団相互の争いは、それぞれの地域で政治的統合をうながした。この時期の遺跡にみられる大量の武器や戦争犠牲者の埋葬跡、また集団作業で土をつき固めた城壁や支配層の巨大な墓は、政治権力の集中と階層差の拡大を反映している。
 

【初期王朝の形成】


(前略)
 現在確認できる最古の王朝は、夏につづいておこったとされる殷(商、前16世紀頃~前11世紀頃)である。20世紀初めの殷墟(河南省安陽市)の発掘によって、甲骨文字を刻んだ大量の亀甲・獣骨や、多数の人畜を殉葬された王墓および大きな宮殿跡が発見され、殷王朝が前2千年紀に実在したことがはっきりと証明された。
 殷王朝は、多数の氏族集団が連合し、王都のもとに多くの邑(ゆう、城郭都市)が従属する形で成り立った国家であった。殷王が直接統治する範囲は限られていたが、王は盛大に神の祭りをおこない、また神意を占って農事・戦争などおもな国事をすべて決定し、強大な宗教的権威によって多数の邑を支配した。現在の漢字のもとである甲骨文字はその占いの記録に使われたものであり、複雑な文様をもつ青銅器の多くも祭祀用の酒器や食器であった。
(下略)
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、66頁~68頁)

【春秋・戦国時代の社会変動と新思想】


(前略)
 戦争の続く時代のなかで、人々は新しい社会秩序のあり方を模索した。また、独創的な主張によって君主に認められる機会も多かった。その結果、春秋・戦国時代には多様な新思想がうまれ、諸子百家と総称される多くの思想家や学派が登場した。
 諸子百家のなかで後世にもっとも大きな影響を与えたのは、春秋時代末期の人、孔子(前551頃~前479)を祖とする儒家の思想である。孔子は、親に対する「孝」といったもっとも身近な家族道徳を社会秩序の基本におき、家族内の親子兄弟のあいだのけじめと愛情を広く天下におよぼしていけば、理想的な社会秩序が実現できるとした。孔子の言行はのちに『論語』としてまとめられ、その思想は、万人のもつ血縁的愛情を重視する性善説の孟子(前372頃~前289頃)や、礼による規律維持を強調する性悪説の荀子(前298頃~前235頃)など、戦国時代の儒家たちによって受け継がれた。
 その他、血縁をこえた無差別の愛(兼愛)を説く墨子(前480頃~前390頃)の学派(墨家)、あるがままの状態にさからわず(無為自然)すべての根源である「道」への合一を求める老子(生没年不明)・荘子(前4世紀)の道家、強大な権力をもつ君主が法と策略により国家の統治をおこなうべきだとする商鞅(?~前338)・韓非(?~前233)・李斯(?~前208)らの法家などがあり、いずれもその後の中国社会思想の重要な源となっている。さらに論理学を説いた名家、兵法を講じた兵家(孫子)、外交策を講じた縦横家(蘇秦・張儀)、天体の運行と人間生活の関係を説いた陰陽家、農業技術を論じた農家など多様な分野で思想・学問の基礎が築かれた。『詩経』『春秋』など儒家の経典をはじめとする諸子百家の文献に加えて、『楚辞』などの文学作品もまとめられた。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、70頁)

【漢代の社会と文化】


(前略)
 漢代の初めには法家や道家の思想が力をもったが、武帝の時代には、董仲舒(前176頃~前104頃)の提案により儒学が官学とされ、礼と徳の思想による社会秩序の安定化がめざされた。儒学の主要な経典として五経が定められ、とくに後漢の時代には、鄭玄(127~200)らの学者により、経典の字句解釈を重んずる訓詁学が発展して、経典の詳しい注釈書がつくられた。
 当時の書物はおもに竹簡に書かれていたが、後漢の時代に製紙技術が改良されて紙がしだいに普及した。文字は、今日の漢字と大差のない隷書に統一され、辞書もつくられた。漢代以前の歴史をわれわれに伝えるもっとも重要な書物は、武帝の時期の人、司馬遷(前145頃~前86頃)がまとめた『史記』で、太古から武帝期にいたる歴史を紀伝体で叙述し、個性ある人物群をとおして動乱の時代をいきいきと描いている。『史記』とそれにつづく後漢の班固(32~92)の『漢書』以後、紀伝体が中国の歴史書のもっとも基本的な形となった。

<紀伝体>
皇帝の事績(本紀)と功臣などの伝記(列伝)を中心に構成される歴史書の書き方をいう。これに対し、年月順に記すものを編年体という。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、73頁~74頁)

【魏晋南北朝の文化】


 魏晋南北朝の動乱時代は、国家の統制も弱まり、多民族がまじりあう状況のなかで、多様な思想・文化が花開いた時期であった。仏教はすでに1世紀頃には西域から伝えられていたが、中国で広まったのは4世紀後半からである。仏図澄(?~348)や鳩摩羅什(344~413)は西域からやってきて華北での布教や仏典の翻訳に活躍し、法顕(337頃~422頃)は直接インドに行って仏教をおさめ、旅行記『仏国記』を著した。仏教の普及にともない、華北では多くの石窟寺院がつくられた。敦煌では粘土製の塑像と絵画により、北魏の時代から造営された雲崗・竜門では石像と石彫により、仏教の世界が表現された。華北では仏教は庶民にまで広まったが、江南では貴族の教養として受け入れられた。仏教の普及に刺激されて、この頃道教が成立した。道教は古くからの民間信仰と神仙思想に道家の説を取り入れてできたもので、道士の寇謙之(363~448)は教団をつくって北魏の太武帝に信任され、仏教と対抗して勢力をのばした。
 当時の文化の一つの特色は、精神の自由さを重んずるということである。貴族のあいだでは、道徳や規範にしばられない趣味の世界が好まれた。魏・晋の時代には世俗を超越した清談が高尚なものとされ、文化人のあいだで流行した。文学では田園生活へのあこがれをうたう陶潜(陶淵明、365頃~427)や謝霊運(385~433)の詩が名高い。対句をもちいたはなやかな四六駢儷体が、この時期の特色ある文体であり、その名作は梁の昭明太子(501~531)の編纂した『文選』におさめられている。絵画では「女史箴図」の作者とされる顧愷之(344頃~405頃)、書では王羲之(307頃~365頃)が有名で、ともにその道の祖として尊ばれた。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、84頁~85頁)

【唐代の制度と文化】


(前略)
 首都長安は、皇帝の住む宮城から南にのびる大通りを軸に各種の施設が東西対称に配される広大な計画都市で、東アジア各地域の首都建設のモデルとなった。長安には、周辺諸国からの朝貢使節・留学生や商人たちが集まり、仏教寺院や道教寺院のほか、キリスト教の一派の景教(ネストリウス派)や祆教(ゾロアスター教)・マニ教の寺院もつくられた。とくにササン朝の滅亡時には多くのイラン人が長安に移住し、ポロ競技などイラン系風俗が流行した。イラン系風俗の流行は、当時の絵画や唐三彩の陶器にも反映されている。外国人がその才能を見こまれて官僚に取り立てられることもあり、長安はアジア諸地域の人々を結びつける国際色豊かな都市であった。一方、海路中国にいたるアラブ・イラン系のムスリム商人も増え、揚州・広州など華中・華南の港町が発展した。
 唐代には仏教が帝室・貴族の保護をうけて栄えた。玄奘や義浄はインドから経典をもち帰り、その後の仏教に大きな影響を与えた。もともと外来の宗教であった仏教はしだいに中国に根づき、浄土宗や禅宗など中国独特の特色ある宗派が形成されてきた。
 科挙制度の整備にともない、漢代以来の訓詁学が改めて重視され、孔穎達(くようだつ、こうえいたつ, 574~648)らの『五経正義』がつくられた。また、科挙で詩作が重んじられたこともあり、李白(701~762)・杜甫(712~770)・白居易(772~846)らが独創的な詩風で名声を博した。唐代の中期からは、文化の各方面で、形式化してきた貴族趣味を脱し、個性的で力強い漢以前の手法に戻ろうとする気運がうまれてきた。韓愈(768~824)・柳宗元(773~819)の古文復興の主張、呉道玄(8世紀頃)の山水画、顔真卿(709~785頃)の書法などはそのさきがけといえる。

<玄奘>
玄奘は西域経由でインドに17年間にわたる旅行をおこない、仏教を深く学ぶとともにインド各地の仏跡を訪れた。インドからもち帰った大量の仏典をもとに、帰国後、大翻訳事業をおこない、中国の仏教学の水準を飛躍的に高めた。その旅行の記録である『大唐西域記』は、当時の西域・インドの状況を詳しく伝えている。

<顔真卿の書>
彼は従来の典雅な書風を一変させて、書道史上に一時期を画した。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、89頁~90頁)

英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より


 福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』(東京書籍、2016年[2020年版])と村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)との対応関係は、だいたい次のようになる。

【中国文化史】
〇黄河文明のあけぼの、邑制国家の誕生
 (福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、78頁~80頁)
 Dawn of the Huang He Civilization/Emergence of Village-Based States
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、63頁~64頁)

〇諸子百家の群像 
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、81頁)
 Brief description of a Hundred Schools of Thought
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、65頁~66頁)

〇漢代の文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、84頁)
 Culture in the Han Period
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、69頁)

〇南北朝の文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、86頁~87頁)
 Culture in the Southern and Northern Dynasties
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、71頁)

〇唐代の社会と文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、89頁~91頁)
 Society and Culture of the Sui and Tang Dynasty
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、73頁~74頁)

〇宋代の文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、177頁~178頁)
 Culture of the Song Dynasty
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、139頁~140頁)

〇元代の社会と文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、184頁~185頁)
Society and Culture of the Yuan Dynasty
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、144頁~145頁)

〇明代の思想と文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、229頁)
Thoughts and Culture in the Ming Period
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、171頁)

〇清代の経済と文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、234頁~235頁)
Economy and Culture of the Qing Dynasty
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、176頁~177頁)

それでは、唐代までの文化史の記述をみてみよう。

中国文化史について
〇Chapter 4:The East Asian World 1 Civilization Growth in East Asia
■Dawn of the Huang He Civilization



North China or the drainage area of the Huang He (Yellow River, 黄河) is located in the northern part of the Huai River-Qin Mountains line. The area, which belong to the subarctic and temperate zones, is very dry, has rain only in summer. There lies a thick loess (黄土) which the monsoons brought from the Mongolian plateau. Loess tend to develop in very rich soils which is suitable for agriculture. In the loess area, it was possible to raise foxtail millet, proso millet or other crops if only by conserving water and preventing its waste, and with simple agricultural tools of stone or wood.
Mid-China, the drainage area of the Changjiang River (長江), which is located to the south of the Huai River, has a cool or warm temperate climate. There are glossy-leaved forests and lakes. The area was wet and the humidity was high. Old and original culture
developed in some of the area. In the lower reaches of the Changjiang River (Jiangnam),
Neolithic cultures developed in about 5000 BC, and rice is found to have been cultivated.
However, since higher technologies were required for the further development of rice
farming, it was difficult to make paddy field with primitive tools, so that the cultures in the Changjiang River basin were not able to develop into a unified culture.
On the other hand, there were Neolithic cultures in North China in 6000 BC. In wide
area of the Huang He, the cultures, which raised crops and livestock such as pigs and dogs,
developed. Villages of pit-dwellings (semi basement type) were formed. This agricultural
civilization, which the beginning of the Huang He civilization (黄河文明) was divided into two periods. The Yangshao culture (仰韶文化) emerged first in the period from 5000 BC to
3000 BC. Since bright color potteries were made during this period, this culture is also called the colored earthenware culture. The Yangshao culture was inherited by the Longshan culture (竜山文化), which emerged from 2900 BC to 2000 BC. A feature of the
Longshan culture was its grey pottery, which was rough but very practical, and black pottery, which was of good quality and finely polished.

■Emergence of Village-Based States


In the loess area, in early days, people could make villages only on plateaus which were
relatively safe from flood; this made it possible to use small rivers and springs. Therefore,
there were many small villages (邑) in the middle and the lower reaches of the Huang He.
The villages were run on a clan system as a community. In the end of the Longshan culture,
there also emerged city states (large cities) which ruled surrounding villages and constructed walls around the city. In this way, the Neolithic farming culture established a distinct form of civilization. Villages were connected to each other through military affairs
and trade. They were organized under the powerful city states. The Yin dynasty (殷, the Shang dynasty 商) is considered the oldest Chinese dynasty which was an alliance of states
(village states) formed under a larger village state, Shang, in about 1600 BC.
Huge tombs with burial pits were discovered in Yinxu (殷墟 Anyang, Henan), an archeological site of the late Yin dynasty. They contained skeletons of slaves or captives who seemed to be buried with their superiors. Animal bones and tortoise carapaces excavated from the tombs had oracles which were divined by the Yin Emperor in writing with oracle bone script (甲骨文字). This script was considered a prototype of Chinese characters (漢字). Through the oracle bone script, we can see the range of the Yin sovereignty and its unique political system. The Bronze Age (青銅器時代) started around this time; precise bronze ritual utensils of this period were found even in distant locations such as the Changjiang River basin or the Sichuan Basin.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、63頁~64頁)

〇諸子百家の群像
■Brief description of a Hundred Schools of Thought


 The convulsion of the Spring and Autumn Period and Warring States period brought out
various thoughts on politics and society. Thinkers in this period called Hundred Schools of
Thought(諸子百家) emerged.
Confucius(孔子) was a thinker from the state of Lu in the end of the Spring and Autumn
Period who originated Confucianism(儒家). He made much of execution of family ethics (filial piety, xiao) and asked rulers to govern people with rende (perfect virtues and humanness). The Lunyu (論語 Analects) was the collection of saying and ideas attributed to Confucius and his followers. Mencius(孟子) was influenced by Confucianism. He thought the rule of right which was practiced in ancient China, was ideal. He asserted the innate goodness of the individual, and criticized the rule of power. Xunzi(荀子) believed that the nature of man is evil; his goodness is only acquired by training based on li (propriety). He allowed rulers to train people. The School of Law, such as Shang Yang(商鞅) and
Han Fei(韓非), said that rulers should rule people with laws (Legalism).
Legalism(法家) supported the states of Qin to be a strong state. Mo Jia(墨家) was originated by Mozi(墨子), and promoted philanthropy (impartial love ) and peace at any
price (condemning aggression). Taoists(道家) such as Laozi (Lao Tsu老子) and
Zhuangzi(荘子) sought the principle of the universe (way, tao) in the nature as it was and denied political movement as unnatural (inaction and spontaneity). Sunzi(孫子)
or Wuzi (呉子 Wuqi) created Bingjia (兵家 Bingfajia). Su Qin(蘇秦) and
Zhang Yi(張儀) were experts in strategy (diplomacy). Zou Yan(鄒衍) proposed yin-yang theory(the School of Naturalist) saying that universe consisted by yin-yang and the Five Phases (wuxing); namely wood, fire, earth, metal and water. Gong Sunlong(公孫竜)
was a member of the School of Logicians or School of Names. Agriculturalism, or the School of Agrarianism, introduced new agricultural technologies. All schools of thoughts were created by the demand of the times. Some of literary works were as follows. The Shijing (詩経 Classic of Poetry) was a collection of songs and poems from the ceremonies of the Zhou dynasty and from folk songs of the Huang He region. Words of the Ch’u
(楚辞) was a collection of poems by Qu Yuan(屈原) from Ch’u and of poems and songs of the Changjiang River basin. The former reflected the scenery and climate of North China; the latter reflected those of Middle China and Jiangnam.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、65頁~66頁)



  Hundred Schools of Thought 諸子百家
儒家 Confucius 孔子
  The Lunyu (Analects) 論語
  Mencius 孟子
  Xunzi 荀子
法家 Shang Yang 商鞅
  Han Fei 韓非
墨家 Mozi 墨子
道家 Laozi (Lao Tsu) 老子
  Zhuangzi 荘子
兵家(兵法家) Sunzi 孫子
  Wuzi (Wuqi) 呉子
縦横家 Su Qin 蘇秦
  Zhang Yi 張儀
陰陽五行 Zou Yan 鄒衍
Gong Sunlong 公孫竜
     
人と作品 Shijing 詩経
  Qu Yuan 屈原
  Words of the Ch’u 楚辞
地名・地域 the Changjiang River 長江
  Jiangnam 江南


〇漢代の文化



 Culture in the Han Period
 In the Han period, the Five Classics (Wujing) and other Confucian Classics were newly
compiled. In the Later Han period Zheng Xuan (鄭玄) and others discussed interpretations of
Chinese letters and phrases and this movement developed to exegetics. Editing history
was encouraged to justify the Han dynasty. The Shiji (史記, “Historical Records”) by Sima Qian (司馬遷) of the Former Han period and Han-shu (漢書) by Ban Gu (班固) of the Later Han period became the
models of later history books. Scientific technologies progressed in the Later Han period.
Zhang Heng (張衡) invented armillary sphere and seismoscope. Cai Lun (蔡倫) greatly improved paper
making processes (紙の製法). Precise silk fabrics, lacquer ware and copper mirrors were produced
in government operated factories and elsewhere. Their technologies and products spread
even to the Western Regions. In this period, transportation between east and west became
active on both land and sea. It was said that Buddhism was officially introduced from India
through Western Regions to China in the Later Han period.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、69頁)

〇南北朝の文化


 Culture in the Southern and Northern Dynasties

In the period of Six Dynasties, when the Wu and the Eastern Jin in Jiangnan, and four
dynasties of the Southern dynasties came to power in turn, the culture of the Six Dynasties,
led by nobles, blossomed. Tao Qian (Tao Yuanming, 陶淵明) of poetry, Wang Xizhi (王羲之) of calligraphy, Gu Kaizhi (顧愷之) of painting were among others. In prose, people preferred luxuriant writing called siliu pianliti (a Chinese style of composition with alternating lines of four and six characters to other styles). Zhaoming Crown Prince of the Liang dynasty compiled Wen Xuan, which
was an anthology of ancient Chinese poetry, and even influenced Japanese culture. Qingtan,
like the speech and behavior of the Seven Sages of the Bamboo Grove, became very
popular among nobles. They also hailed Taoism. In contrast, during the Northern dynasties,
Shuijingxhu, a book of commentaries on the waterways classic, and Qiminyaoshu, a book
on the Chinese agricultural teachings, of the North Wei, and other practical cultures,
flourished.
With the social unrest during the Southern and Northern dynasties period, Buddhism
took root in the Chinese cultures. In North China, during the Five Barbarians and Sixteen
Kingdoms period, Fotucheng (仏図澄, ブドチンガ) and Kumarajiva (鳩摩羅什, クマラジーヴァ) from Kucha (Quizi) in the Western Regions, endeavored to propagate Buddhism. It was accepted by
many people who had hoped for peace, regardless of their social rank. In Jiangnan, partly because of
missionary activities of Faxian (法顕), a dharma-seeking Buddhist monk of the Eastern Jin, who had
traveled to India, people in Jiangnan understood Buddhism through Taoism. Buddhism became popular
among nobles and many temples were constructed in Jainkan, the capital of the Southern
dynasties. In the Northern Wei, the Taoism (道教) propagated by Kon Qianzhi (寇謙之) became an official state religion. But eventually Buddhism became protected by the Northern Wei, and many
Buddhist temples were constructed in the capital of Luoyang and its surrounding area.
Construction of Buddhist stone-cave temples in Dunhuang (敦煌), Gansu Province, started in the
Five Barbarians and Sixteen Kingdoms period. Yungang (雲崗) caves (Datong City, Shanxi Province)
in the Northern Wei period and Longmen (竜門) caves (southern suburb of Luoyang City) followed
and the construction of Buddhist cave temples continued in later periods.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、71頁)

〇唐代の社会と文化


 Society and Culture of the Tang Dynasty

 From around the middle of the Tang dynasty, agriculture began to develop even
more. Double cropping system, in which winter wheat could be harvested during the off
season, was popularized in North China. In Jiangnan , technologies on wet rice cultivation
developed and paddy fields expanded further south. Transportation on land and water
developed further. Distribution of goods between cities became smooth. Some areas in the
capital Chang’an such as Markets (市) (the West Market and East Market), had various prospering
shops and handicraft workshops. Foreign trade developed. Through the Western Regions,
trade between east and west became stable. Guangzhou and Quanghou were the center
of trade between China and countries in the southern area. Eventually, state government-
controlled public offices managing maritime trade (shibosi) were placed in Guangzhou.
Many Muslim merchants from Arabia or Persia visited it and the capital Chang’an became
an international city.
Based on the development of economy, many fields of culture also became prosperous.
One of the features of the culture during the Tang dynasty period was a fusion of the
cultures of North China and Jianguan, but it was also an international culture against a
backdrop of the prosperous trade between east and west. Confucianism was protected by
the state and Confucian Classics became essential subjects for the Establishment. Editing
and study of the Classics advanced partly because Confucian Classics became the subjects
of the Imperial Examination. Officially authorized version of the annotated Correct
Meaning of Five Classics was edited by Kong Yingda and others. In literature, beauty of
form in the Six dynasties went out. Han Yu and Liu Zongyuan were the founders of the
classical prose movement. Poetry became an important subject of the Imperial Examination
and the Tang poetry prospered. Li Bai (李白), Du Fu (杜甫), Wang Wei (王維) and Bai Juyi
(白居易、白楽天) were all well known poets in the Tang dynasty.
In art, Chu Suiliang and Yan Zhenqing were leading calligraphers and Yan Liben and Wu
Daoxuan were famous artists. Landscapes were favorite subjects for artists and landscape
paintings with China ink wash painting techniques developed. In craft, ceramics such as a
famous three-colored painting (sancai) were distinguished in the Tang dynasty.
In religion, Buddhism developed in the same way as the previous Sui dynasty period.
Many monks such as Xuanzang (玄奘) and Yijing (義浄) went to India seeking for the texts of Buddhism. Chinese translations of the Buddhist scriptures and the studies of the Buddhist doctrines
advanced. New schools of Buddhism such as the Jodo sect and the Zen sect originated.
The Tendai and Shingon sects were transferred to Japan b Saicho and Kukai respectively.
Buddhism in China influenced Japanese Heian Buddhism to a significant extent. Taoism
also developed under the protection of the Tang dynasty and spread to become more
popular among people than Buddhism. When interaction with western countries became
active, Zoroastrianism (祆教、ゾロアスター教), Manichaeism (マニ教), Islam (回教、イスラム教), and Nestrorianism (景教、ネストリウム派キリスト教) were transferred to China
and their temples were constructed.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、73頁~74頁)


≪【補足 その2】フランスの歴史~フランスの絵画を中心に≫

2023-08-31 19:20:00 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪【補足 その2】フランスの歴史~フランスの絵画を中心に≫
(2023年8月31日投稿)

【はじめに】


 今回のブログでは、フランスの歴史の中でも、とりわけフランスの絵画に中心にして、その文化史について、補足しておきたい。

 参考とした世界史の教科書は、次のものである。
〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]
〇木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]
〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]

 今回のブログで、フランスの歴史の中でも、とりわけフランスの絵画に中心にして、その文化史について、補足しておきたいと考えた理由は、教科書に次のような記述があったからである。

 たとえば、ナポレオンとダヴィッドという画家との関係は、それぞれの教科書で次のように言及されている。
●福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』(東京書籍)において、第15章の【革命政治の推移とナポレオン帝政】の項目で、次のように言及されている。
<ナポレオンのイメージ戦略>
現代の政治ではイメージ戦略が大きな役割を演じているが、すでにナポレオンは、イメージの重要性を理解していた。革命の推移をつぶさに見ていた彼は、政治が国民の支持なしには困難であり、支持を得るためにはイメージアップが必要なことがわかっていた。ダヴィッド(David, 1748~1825)らの画家にくりかえし描かせた肖像画や戦闘画、あるいは前線から本国に送らせた戦闘状況の速報は、彼が勇敢に身をなげうって国民の先頭に立ち、革命の成果を守るリーダーだというイメージを、鮮明にうったえるように表現されていた。

「アルプス越えをするナポレオン」
ダヴィッドが描いた精悍な騎馬像の足元には、ボナパルトとならんで、カール大帝やハンニバルの英雄名が描きこまれている。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、280頁)

●本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)において、Chapter 15の【■Transition of Revolutionary Politics and the Napoleonic Empire】の項目で、<Coronation of Joséphine by Napoleon (by David) >と挿絵を載せて、次のように言及されている。

  Napoleon, who damaged the coalition against France with expeditions to Italy and
Egypt, gained more and more prominence. On November 9, 1799 (18 Brumaire, the French
Revolutionary calendar), he established a new government, the Consulate, and seized
autocracy by appointing himself as the first Consulate in 1802, he then took over the
emperor by the referendum in 1804 (the French First Empire, 第一帝政).
<Coronation of Joséphine by Napoleon (by David) >
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、pp.223-224.)

●木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』(山川出版社)において、第10章の【皇帝ナポレオン】の項目で、次のように言及されている。

1802年に終身統領となったナポレオンは04年5月、国民投票で圧倒的支持をうけて皇帝に即位し、ナポレオン1世(Napoléon I, 在位1804~14,15)と称した(第一帝政)。
 
 そして、ダヴィド作の「ナポレオンの戴冠式」の挿絵(部分図)が掲載されている。
<「ナポレオンの戴冠式」ダヴィド作>
ナポレオンが図中央にたち、皇后ジョゼフィーヌにみずから冠を授けようとしている。ローマ教皇ピウス7世はナポレオンのうしろにすわっており、儀式の中心をなすのがナポレオンであることを示している。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、253頁)


 フランスの絵画に中心にして、解説する際に、次の著作を参考とした。
〇中野京子『はじめてのルーヴル』集英社文庫、2016年[2017年版]
 その中から、フランスの歴史に関係のある、次の3点を紹介しておきたい。
 ●フランソワ1世の肖像画
 ●ヴァトー
 ●ダヴィッドの『ナポレオンの戴冠式』

※これらは、以前、私のブログで取り上げたものであることをお断りしておきたい。
それは、≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで その1 私のブック・レポート≫
(2020年4月1日投稿)である。

ダヴィッドの『ナポレオンの戴冠式』の写真【筆者撮影 2004年】





さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・世界史高校教科書の記述の復習~とくにフランス近代文化史に関連して

≪中野京子『はじめてのルーヴル』(集英社文庫)より≫
●フランソワ1世の肖像画
●ヴァトー
●ダヴィッドの『ナポレオン戴冠式』






世界史高校教科書の記述の復習~とくにフランス近代文化史に関連して


今回のブログで、参考とした世界史の教科書は、次のものである。
〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]
〇木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]
〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]


福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』(東京書籍)の記述



第15章 欧米における工業化と国民国家の形成
4 フランス革命とウィーン体制
5 自由主義の台頭と新しい革命の波

4フランス革命とウィーン体制
【フランス革命の背景】
革命前の旧体制(アンシャン=レジーム, Ancien Régime)では、身分制のもとで第一身分(聖職者)と第二身分(貴族)は国土の大半と重要官職を占有しながら、免税特権をもっていた。人口の9割以上にあたる第三身分(平民)のなかでは、事業に成功した豊かなブルジョワ階層が経済活動の自由を求める一方、大部分を占めた農民は領主への地代や税負担に苦しみ、都市民衆もきびしい生活を送っていた。
 18世紀後半には、イギリスとの対抗上も、社会や経済の改革、とくに戦費負担からくる国庫赤字の解消と財政改革が必要であった。改革派には、身分や立場のちがいを問わず啓蒙思想の影響が広まっていた。ルイ16世(Loui XVI, 在位1774~92)は、重農主義者テュルゴ(Turgot, 1727~81)や銀行家ネッケル(Necker, 1732~1804)など改革派を登用して財政改革を試みたが、課税を拒否する貴族など特権集団の抵抗で、逆に政治的な危機が生じた。しかも、凶作などを原因とする経済的・社会的な危機が重なった。

【立憲王政から共和政へ】
危機回避のために国王が招集した三部会は、1789年5月、ヴェルサイユで開会されたが、議決方式をめぐる対立から議事に入れなかった。平民代表は『第三身分とは何か』の著者シェイエス(Sieyès, 1748~1836)の提案で、第三身分の部会を国民議会と称し、憲法制定まで解散しないことを誓った(球戯場の誓い)。国王は譲歩してこれを認め、聖職者や貴族からも同調者が合流して憲法制定国民議会が成立したが、反動派に動かされた国王は、軍隊でおさえこもうとした。武力制圧の危険を感じたパリの市民は、1789年7月14日、バスティーユ要塞を襲って武器弾薬の奪取に成功した。この報が伝わると、各地で農民が蜂起し、領主の館を襲撃した。8月、国民議会は封建的特権の廃止と人権宣言の採択をあいついで決めた。ここに旧体制は崩壊し、基本的人権・国民主権・所有の不可侵など、革命の理念が表明された。
 地方自治体の改革や教会財産の没収、ギルドの廃止など、当初はラ=ファイエット(La Fayette, 1757~1834)やミラボー(Mirabeau, 1749~91)など自由主義貴族の主導下に、1791年憲法が示すように立憲王政がめざされた。しかし憲法制定の直前、国王一家がオーストリアへ亡命をくわだてパリに連れもどされるヴァレンヌ逃亡事件がおこり、国王の信用は失墜した。
 1791年に発足した制限選挙制による立法議会では、立憲王政のフイヤン派(Feuillants)をおさえて、ブルジョワ階層を基盤にした共和主義のジロンド派(Girondins)が優勢となった。ジロンド派は、1792年春、内外の反革命勢力を一掃するためにオーストリアに宣戦布告し、革命戦争を開始した。革命軍が不利になると、全国からパリに集結した義勇兵と、サン=キュロットとよばれる民衆は、反革命派打倒をうたってテュイルリー宮殿を襲撃し(八月十日事件)、これを受けて議会は王権を停止した。男性普通選挙制によって新たに成立した国民公会では共和派が多数を占め、王政廃止と共和政が宣言された(第一共和政、1792~1804)。

【革命政治の推移とナポレオン帝政】
1793年1月にルイ16世が処刑され、春には内外の戦局が危機を迎えるなか、国民公会では、急進共和主義のジャコバン派(Jacobins、山岳派)が権力を握った。ジャコバン派は、封建的特権の無償廃止を決め、最高価格令によって物価統制をはかった。しかし、民主的な1793年憲法は平和到来まで施行が延期され、革命の防衛を目的に権力を集中した公安委員会は、ロベスピエール(Robespierre, 1758~94)の指導下にダントン(Danton, 1759~94)ら反対派を捕らえ、反革命を理由に処刑した(恐怖政治)。
 強硬な恐怖政治はジャコバン派を孤立させ、1794年7月、今度はロベスピエールらが、穏健共和派などの政敵によって倒された(テルミドールの反動)。革命の終結を求める穏健派は1795年憲法を制定し、制限選挙制にもとづく二院制議会と、5人の総裁を置く総裁政治が成立した。しかし、革命派や王党派の動きもあって政局は安定せず、革命の成果の定着と社会の安定を求める人々は、より強力な指導者の登場を求めた。この機会をとらえたのが、革命軍の将校として頭角をあらわしたナポレオン=ボナパルト(Napoléon Bonaparte)であった。
 イタリア遠征により対仏大同盟に打撃を与え、ついでエジプト遠征で名をあげていたナポレオンは、1799年11月9日(共和暦ブリュメール18日)、クーデタで統領政府を樹立すると、自ら第一統領となって事実上の独裁権を握った。1802年に終身統領となったナポレオンは、04年5月には国民投票によって皇帝に即位した(第一帝政)。
 ナポレオンは、ローマ教皇と宗教協約(コンコルダート(Concordat)、1801)を結んでカトリック教会と和解し、貴族制(1808)を復活させる一方、フランス銀行の設立(1800)など行財政や教育制度の整備を推進し、さらに近代市民社会の原理をまとめた民法典(ナポレオン法典、1804.3)を制定し、革命の継承を唱えた。
 革命理念によるヨーロッパ統一をかかげるナポレオンにとって、最大の敵はイギリスであった。イギリスは、1802年に結ばれた英仏和平のアミアン条約を翌年に破棄し、対立を強めた。トラファルガー沖の海戦(1805)でイギリスにやぶれたナポレオンは、大陸制圧に転じ、1806年には西南ドイツ諸国を保護下に置いてライン同盟(Rheinbund)を結成させ、神聖ローマ帝国を名実ともに解体した。同年にベルリンで出した大陸封鎖令は、大陸諸国とイギリスとの通商を全面的に禁止し、イギリスに対抗して、大陸をフランスの市場として確保しようとするものであった。

<ナポレオンのイメージ戦略>
現代の政治ではイメージ戦略が大きな役割を演じているが、すでにナポレオンは、イメージの重要性を理解していた。革命の推移をつぶさに見ていた彼は、政治が国民の支持なしには困難であり、支持を得るためにはイメージアップが必要なことがわかっていた。ダヴィッド(David, 1748~1825)らの画家にくりかえし描かせた肖像画や戦闘画、あるいは前線から本国に送らせた戦闘状況の速報は、彼が勇敢に身をなげうって国民の先頭に立ち、革命の成果を守るリーダーだというイメージを、鮮明にうったえるように表現されていた。

「アルプス越えをするナポレオン」
ダヴィッドが描いた精悍な騎馬像の足元には、ボナパルトとならんで、カール大帝やハンニバルの英雄名が描きこまれている。

【国民意識の形成】
フランス革命では、自由・平等の理念とともに国民国家の原則がうちだされた。革命以前には、人々は職能・地域・身分などの集団の一員として暮らし、国家はこれらの集団を通じて社会を統治していた。革命は、これらの自律的な集団や身分を廃止して、個々人を国民として国家に結びつけることを追求した。革命下には、グレゴリウス暦にかわる共和暦(革命暦)や、歴史的な州制度にかわる県制度、数学的な合理性にもとづくメートル法など、時間や空間を区切る全国統一の制度が新たに導入され、地域言語は否認されて国語教育が強調された。これらを通じて新たな国民意識の形成が追求された。
 フランスによる大陸制圧は、フランス以外の各地にもこのような考え方を広める一方、侵略者フランスに対するナショナリズム(nationalism)をめばえさせることになった。スペインの反乱は、フランス軍をゲリラ戦の泥沼にひきこんだ。国家滅亡の危機に瀕したプロイセンではシュタイン(Stein, 1757~1831)やハルデンベルク(Hardenberg, 1750~1822)が、行政改革や、農民解放など一連のプロイセン改革を実施し、フィヒテ(Fichte, 1762~1814)は連続講演「ドイツ国民に告ぐ」を通して国民意識の覚醒をうったえた。
 大陸封鎖令で穀物輸出を妨害されたロシアが離反すると、ナポレオンは1812年に遠征してモスクワを占領したが、ロシア軍の焦土作戦と反撃にあって敗退した。これを機に諸国民が一斉に解放戦争に立ちあがり、1813年、ライプツィヒの戦い(諸国民戦争)でフランス軍をやぶり、翌年にはパリを占領した。ナポレオンは退位してエルバ島に幽閉され、ルイ18世(Louis XVIII, 在位1814~24)が即位して、フランスにはブルボン朝が復活した。1815年、エルバ島を脱出したナポレオンは一時再起したが(百日天下)、ワーテルローの戦いで大敗し、今度は大西洋の孤島セントヘレナに流され、孤独のうちに没した。


【ナショナリズム・自由主義・ロマン主義】
フランス革命とナポレオン戦争の時代に各地でめばえたナショナリズムは、広く国民の一体性と自主的な政治参加を求める点で、ウィーン体制とは対立し、自由主義とつながる側面をもっていた。19世紀には、多民族国家のオーストリアやオスマン帝国内で少数派の位置にあった人々は、自治権や独立を求める運動をおこした。また小国家群に分裂していたドイツやイタリアでは、政治的統一を求める動きが活発になっていった。
 ナショナリズムの台頭は、民族の歴史的個性や伝統、人間の熱情や意志を称揚するロマン主義(Romanticism)の思潮とも呼応しあった。ロマン主義は、19世紀ヨーロッパの政治、文学、芸術など、広い分野で基調をなす考え方となり、いっぽうでは過去を美化する尚古趣味や、国土の自然や民族(国民)文化の称揚などにあらわれ、他方では、自己犠牲や英雄崇拝、社会変革への夢とも結びついて、ナショナリズムと呼応しあったのである。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、277頁~282頁)

本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)の記述


ナポレオンとダヴィッドとの関連で、<Coronation of Joséphine by Napoleon (by David) >に関した英文を引用しておく。

■Transition of Revolutionary Politics and the Napoleonic Empire
Louis XVI was executed in January 1793. In spring the Jacobins, radical republicans,
took power in the National Convention during when the tide of the internal and external
wars turning against the French army. The Jacobins (ジャコバン派) determined gratuitous abolition of
feudal privileges, and attempted price control by a maximum price order. Enforcement of
the democratic constitution of 1793 was postponed until the coming of more peaceful times.
The Committee of Public Safety (公安委員会), which concentrated power for the purpose of defense of
revolution, captured opponents including Danton (ダントン) under the mentorship of Robespierre
(ロベスピエール), and executed them because of counterrevolution (the Reign of Terror, 恐怖政治).
The extreme reign of terror made the Jacobins isolated. In July 1794 Robespierre and his
radical followers were defeated by the political enemy like the moderate Republicans in
turn (the Thermidorian Reaction, テルミドールの反動). Moderates, who sought the end of revolution,
established the 1795 constitution, and a bicameral legislature based on the limited election system
and the Directory with five Directors were established. The political situation was not
stable because of movement of revolutionaries and royalists. People, who sought to fix
revolutionary achievements and social stability, demanded a stronger leader. The person
who took this opportunity was Napoleon Bonaparte (ナポレオン=ボナパルト), who made his mark
as a general of the revolutionary army.
Napoleon, who damaged the coalition against France with expeditions to Italy and
Egypt, gained more and more prominence. On November 9, 1799 (18 Brumaire, the French
Revolutionary calendar), he established a new government, the Consulate, and seized
autocracy by appointing himself as the first Consulate in 1802, he then took over the
emperor by the referendum in 1804 (the French First Empire, 第一帝政).
<Coronation of Joséphine by Napoleon (by David) >

(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、pp.223-224.)

木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』(山川出版社)の記述


第10章 近代ヨーロッパ・アメリカ世界の成立
3 フランス革命とナポレオン


【フランス革命の構造】
アメリカ独立革命につづいて、有力な絶対王政の国であったフランスで、旧制度(アンシャン=レジーム)をくつがえす革命がおこった。

※アンシャン=レジームということばは、革命前のフランスの政治・社会体制の総称として使われる。

革命以前の国民は、聖職者が第一身分、貴族が第二身分、平民が第三身分と区分されたが、人口の9割以上は第三身分であった。少数の第一身分と第二身分は広大な土地とすべての重要官職をにぎり、免税などの特権を得ていた。各身分のなかにも貧富の差があり、とくに、第三身分では、その大部分を占める農民が領主への地代や税の負担のために苦しい生活をおくる一方、商工業者などの有産市民層はしだいに富をたくわえて実力を向上させ、その実力にふさわしい待遇をうけないことに不満を感じていた。そこに啓蒙思想が広まり、1789年初めには、シェイエス(Sieyès, 1748~1836)が『第三身分とは何か』という小冊子で、第三身分の権利を主張した。

フランス革命(1789~99)は、こうした状況下に王権に対する貴族の反乱をきっかけに始まったが、有産市民層が旧制度を廃棄して、その政治的発言力を確立する結果となった。農民・都市民衆は旧制度の廃棄に重要な役割をはたしたが、同時に、有産市民層が推進した資本主義経済にも反対した。フランス革命はこのように、貴族・ブルジョワ(有産市民)・農民・都市民衆という四つの社会層による革命がからみあって進行したために、複雑な経過をたどることになった。


【革命の終了】
ジャコバン派の没落後、穏健共和派が有力となり、1795年には制限選挙制を復活させた新憲法により、5人の総裁からなる総裁政府が樹立された。しかし、社会不安は続き、革命ですでに利益を得た有産市民層や農民は社会の安定を望んでいた。こうした状況のもと、混乱をおさめる力をもった軍事指導者としてナポレオン=ボナパルト(Napoléon Bonaparte, 1769~1821)が頭角をあらわした。ナポレオンは96年、イタリア派遣軍司令官としてオーストリア軍を破って、軍隊と国民のあいだに名声を高め、さらに98年には、敵国イギリスとインドの連絡を断つ目的でエジプトに遠征した。

1799年までにイギリスがロシア・オーストリアなどと第2回対仏大同盟を結んでフランス国境をおびやかすと、総裁政府は国民の支持を失った。帰国したナポレオンは同年11月に総裁政府を倒し、3人の統領からなる統領政府をたて、第一統領として事実上の独裁権をにぎった(ブリュメール18日のクーデタ)。1789年以来10年間におよんだフランス革命はここに終了した。

自由と平等を掲げたフランス革命は、それまで身分・職業・地域などによってわけられていた人々を、国家と直接結びついた市民(国民)にかえようとした。革命中に実行されたさまざまな制度変革と革命防衛戦争をつうじて、フランス国民としてのまとまりはより強まった。こうして誕生した、国民意識をもった平等な市民が国家を構成するという「国民国家」の理念は、フランス以外の国々にも広まるとともに、フランス革命の成果を受け継いだナポレオンによる支配に対する抵抗の根拠ともなった。

【皇帝ナポレオン】
ナポレオンは、革命以来フランスと対立関係にあった教皇と1801年に和解し、翌年にはイギリスとも講和して(アミアンの和約、1802)、国の安全を確保した。内政では、フランス銀行を設立して財政の安定をはかり、商工業を振興し、公教育制度を整備した。さらに04年3月、私有財産の不可侵や法の前の平等、契約の自由など、革命の成果を定着させる民法典(ナポレオン法典)を公布した。02年に終身統領となったナポレオンは04年5月、国民投票で圧倒的支持をうけて皇帝に即位し、ナポレオン1世(Napoléon I, 在位1804~14,15)と称した(第一帝政)。

<「ナポレオンの戴冠式」ダヴィド作>
ナポレオンが図中央にたち、皇后ジョゼフィーヌにみずから冠を授けようとしている。ローマ教皇ピウス7世はナポレオンのうしろにすわっており、儀式の中心をなすのがナポレオンであることを示している。

1805年、イギリス・ロシア・オーストリアなどは第3回対仏大同盟を結成し、同年10月にはネルソン(Nelson, 1758~1805)の率いるイギリス海軍が、フランス海軍をトラファルガーの海戦で破った。しかしナポレオンは、ヨーロッパ大陸ではオーストリア・ロシアの連合軍をアウステルリッツの戦い(1805.12, 三帝会戦)で破り、06年、みずからの保護下に西南ドイツ諸国をあわせライン同盟を結成した。またプロイセン・ロシアの連合軍を破ってティルジット条約(1807年)を結ばせ、ポーランド地方にワルシャワ大公国をたてるなど、ヨーロッパ大陸をほぼその支配下においた。

この間、ナポレオンはベルリンで大陸封鎖令を発して(1806年)、諸国にイギリスとの通商を禁じ、フランスの産業のために大陸市場を独占しようとした。彼は兄弟をスペイン王やオランド王などの地位につけ、自身はオーストリアのハプスブルク家の皇女と結婚して家門の地位を高めるなど(10年)、その勢力は絶頂に達した。封建的圧政からの解放を掲げるナポレオンの征服によって、被征服地では改革がうながされたが、他方で外国支配に反対して民族意識が成長した。まず、スペインで反乱がおこり、またプロイセンでは、思想家のフィヒテ(Fichte, 1762
~1814)が愛国心を鼓舞する一方、シュタイン(Stein, 1757~1831)・ハルデンベルク(Hardenberg, 1750~1822)らが農民解放などの改革をおこなった。

ナポレオンは、ロシアが大陸封鎖令を無視してイギリスに穀物を輸出すると、1812年に大軍を率いてロシアに遠征したが、失敗に終わった。翌年、これをきっかけに、諸国は解放戦争にたちあがり、ライプツィヒの戦い(諸国民戦争)でナポレオンを破り、さらに翌14年にはパリを占領した。彼は退位してエルバ島に流され、ルイ16世の弟ルイ18世(Louis XVIII, 在位1814~24)が王位についてブルボン朝が復活した。翌15年3月、ナポレオンはパリに戻って皇帝に復位したが、6月にワーテルローの戦いで大敗し、南大西洋のセントヘレナ島に流された。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、248頁~255頁)

第11章 欧米における近代国民国家の発展
4 19世紀欧米の文化


【貴族文化から市民文化の時代へ】
 フランス革命とその社会がもたらした政治的・社会的激変は、文化の領域においても大きな転換をもたらした。皇帝や国王などの宮廷や、貴族などの社交の場で展開されたアンシャン=レジームの貴族(宮廷)文化にかわって、19世紀には市民層を担い手とするあらたな市民文化が主流となった。
 市民文化は、貴族文化の成果を引き継ぎそれらを市民層や広く国民に伝える役割をはたした。さらに、美術・文学・音楽などの分野で、それぞれの言語文化や歴史を重視する国民文化の基礎をつくった。(下略)

【文学・芸術における市民文化の潮流】
 フランス革命・ナポレオンによる大陸支配は、革命を支えた啓蒙主義や、革命思想の普遍主義・合理主義への反発をまねき、各民族や地域の固有の文化や歴史、個人の感情や想像力を重視する傾向を広くうみだした。それらはロマン主義と総称される。ロマン主義は19世紀初頭までのゲーテ(Goethe, 1749~1832)など古典主義の成果を学び、やがて文学・芸術における大きな流れとなり、国民文学や国民音楽に結実する国民文化を形成した。
 19世紀後半になると、市民社会の成熟、近代科学・技術の急速な発達が文学・芸術活動にも影響を与えるようになり、ロマン主義に対抗して人間や社会の現実をありのままに描く写実主義(リアリズム)がとなえられた。さらに写実主義の延長上に、19世紀末には人間や社会を科学的に観察し、人間の偏見や社会の矛盾を描写する自然主義がフランスなどにあらわれ、各国に広がった。外光による色の変化を重視したフランス絵画の印象派もこうした流れのなかからうまれた。


19世紀のフランス文化一覧表  
【美術】  
ダヴィッド 「ナポレオンの戴冠式」
ドラクロワ 「キオス島の虐殺」
クールベ 「石割り」
ミレー 「落ち穂拾い」
ドーミエ 版画「古代史」シリーズ
モネ 「印象・日の出」
ルノワール 「ムーラン=ド=ラ=ギャレット」
セザンヌ 「サント=ヴィクトワール山」
ゴーガン 「タヒチの女たち」
ロダン 「考える人」(彫刻)
   
【音楽】  
ドビュッシー 「海」「月の光」
   
【文学】  
ヴィクトル=ユゴー 『レ=ミゼラブル』
スタンダール 『赤と黒』
バルザック 「人間喜劇」
ボードレール 『悪の華』
ゾラ 『居酒屋』
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、279頁)

(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、278頁~279頁)

【近代大都市文化の誕生】
 19世紀後半になると、列強諸国の首都は近代化の成果や国家の威信を示すために、近代技術や土木工学を結集して上下水道を普及させ、都市計画によって道路や都市交通網を整備し、大都市文化の誕生の環境をととのえた。フランス第二帝政期のオスマン(Haussmann, 1809~91)によるパリ改造や、ウィーンの都市計画はその代表的事例であり、古い街区や城壁を取りこわし、近代的建築や街路を整備して、他都市のモデルとなった。またロンドンでは最初の地下鉄が開通し、近代的都市交通の先頭を切った。1851年の第1回ロンドン万国博覧会につづいて、パリ・ウィーンでも万博が開かれ、近代産業の発展だけでなく、首都の近代的変容を人々に示した。こうした便利で快適な都市の生活環境の進展は、農村から都市への人々の移動を加速させ、首都だけでなく、中小都市の人口増をもたらした。
 大都市では近代的改造に加えて、博物館・美術館・コンサートホールなどの文化施設・娯楽施設の拡充もすすみ、市民文化の成果を示す場となった。20世紀にはいると発行部数を飛躍的に増大させた大衆向けの新聞によって、さまざまな情報が伝えられ、映画などの新しい大衆娯楽や、デパートなど大規模商業施設も普及しはじめた。
 19世紀末には、成熟した市民文化のなかから、新しい現代大衆文化の萌芽が姿をあらわした。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、282頁)

≪中野京子『はじめてのルーヴル』(集英社文庫)より≫



〇中野京子『はじめてのルーヴル』集英社文庫、2016年[2017年版]
 その中から、フランスの歴史に関係のある、次の3点を紹介しておきたい。
 ●フランソワ1世の肖像画
 ●ヴァトー
 ●ダヴィッドの『ナポレオン戴冠式』

【中野京子『はじめてのルーヴル』はこちらから】



はじめてのルーヴル (集英社文庫)

 
本書の目次は次のようになっている。
【目次】
第① 章 なんといってもナポレオン ダヴィッド『ナポレオンの戴冠式』
第② 章 ロココの哀愁       ヴァトー『シテール島の巡礼』
第③ 章 フランスをつくった三人の王 クルーエ『フランソワ一世肖像』
第④ 章 運命に翻弄されて     レンブラント『バテシバ』
第⑤ 章 アルカディアにいるのは誰? プッサン『アルカディアの牧人たち』
第⑥ 章 捏造の生涯   ルーベンス『マリー・ド・メディシスの生涯<肖像画の贈呈>』
第⑦ 章 この世は揺れる船のごと  ボス『愚者の船』
第⑧ 章 ルーヴルの少女たち    グルーズ『壊れた甕』
第⑨ 章 ルーヴルの少年たち    ムリーリョ『蚤をとる少年』
第⑩ 章 まるでその場にいたかのよう ティツィアーノ『キリストの埋葬』
第⑪ 章 ホラー絵画        作者不詳『パリ高等法院のキリスト磔刑』
第⑫ 章 有名人といっしょ     アンゲラン・カルトン『アヴィニョンのピエタ』
第⑬ 章 不謹慎きわまりない!   カラヴァッジョ『聖母の死』
第⑭ 章 その後の運命       ヴァン・ダイク『狩り場のチャールズ一世』
第⑮ 章 不滅のラファエロ     ラファエロ『美しき女庭師』
第⑯ 章 天使とキューピッド    アントワーヌ・カロンまたはアンリ・ルランベール『アモルの葬列』
第⑰ 章 モナ・リザ        レオナルド・ダ・ヴィンチ『モナ・リザ』
あとがき
解説 保坂健二朗

この案内本は、【目次】からもわかるように、17章に分かれているが、今回、関連しているのは、第1章~第3章の次の各章である。(順番は歴史上の年代順に紹介する)
●なんといってもナポレオン ダヴィッド『ナポレオンの戴冠式』
●ロココの哀愁       ヴァトー『シテール島の巡礼』
 ●フランスをつくった三人の王 クルーエ『フランソワ一世肖像』




第③章 フランスをつくった三人の王 クルーエ『フランソワ一世肖像』


クルーエ『フランソワ一世肖像』
1530年頃/96cm×74cm/シュリー翼3階展示室7

フランスをつくった三人の王


「フランスをつくった三人の王」と題して、フランスのイメージ(広い国土、壮麗な宮殿、英雄崇拝、ファッションや芸術といった文化的優位)をつくりあげた、歴代の国王のうち、3人の肖像画を取り上げている。

・ヴァロア朝5代目シャルル7世(1403~1461)~イギリスの侵略から国を守る
 ジャン・フーケ『シャルル7世の肖像』ルーヴル美術館、リシュリュー翼3階

・ヴァロア朝9代目フランソワ1世(1494~1547)~フランス・ルネサンスの花を咲かせた
 クルーエ『フランソワ一世肖像』1530年頃/96cm×74cm/シュリー翼3階

・ブルボン朝3代目ルイ14世(1638~1715)~太陽王として君臨した
 リゴー『ルイ14世肖像』ルーヴル美術館、リシュリュー翼3階

シャルル7世


・ヴァロア朝5代目シャルル7世(1403~1461)~イギリスの侵略から国を守る
 ジャン・フーケ『シャルル7世の肖像』ルーヴル美術館、リシュリュー翼3階

シャルル7世は、英仏百年戦争に勝利して中世の幕を引いた。若いころは、無気力で弱々しく、外見もぱっとしなかった。
フーケによる肖像画も40代半ばだが、何を考えているか定かでない眼つきなど、どこかしら鵺(ぬえ)的な表情である。
このシャルル7世の一生は、女難と女福の両方を極端に浴びたものだったとして、中野氏は捉えている。
最たる女難は、自分の母親イザボー・ド・バヴィエールである。彼女は夫のシャルル6世が狂気に囚われたのをいいことにして実権を握ろうと、息子を廃嫡してしまう。百年戦争の真只中で、ロワール川以北のフランスはすでにイギリスに支配され、オルレアンが落とされれば南部まで一気に奪われる絶対絶命の状況である。
シャルルは戦う気力もなかったが、そこへ農家の娘ジャンヌ・ダルクが「神の声」を聞いて、奇蹟のように登場する。17歳のジャンヌは、フランス兵を鼓舞して、オルレアンを解放した。その上、ランス大聖堂でシャルル7世の戴冠式を挙行した。
(アングル『シャルル7世の戴冠式とジャンヌ・ダルク』ルーヴル美術館ドゥノン翼2階展示室77)
しかし、19歳のジャンヌが魔女裁判で火刑に処せられることが決まっても、彼は何も手を打たなかった。さぞや大きな神罰が下っただろうと思えば、これまたさにあらず、次なる女福アニエス・ソレルが舞い降りる。彼女はフランス史上、初の公式寵姫となる。と同時に、政治に関与し、軍費の増強を進言したりして、シャルル7世を「勝利王」へと導いた
(カレーだけを残して、他の全ての領地を取り戻した)。
同じフーケによるアニエスの肖像が残されている。アニエスを聖母マリアに見立ててある『ムーランの聖母』(ベルギーのアントワープ王立美術館蔵)がある。

フランソワ1世


・ヴァロア朝9代目フランソワ1世(1494~1547)~フランス・ルネサンスの花を咲かせた
 クルーエ『フランソワ一世肖像』1530年頃/96cm×74cm/シュリー翼3階

フランソワ1世は、シャルル7世から4代下り、フランスが富を蓄えはじめた時代の王である。この華やかな王様がいなければ、ルーヴル美術館に『モナ・リザ』はなかった。
(モナ・リザのいないルーヴルなんて想像すると、フランソワ1世の貢献度がわかるという)

フランソワは遊び人として有名だが、勇猛果敢な騎士でもあった。即位してすぐイタリア遠征する。神聖ローマ皇帝カール5世の版図拡大を阻止するため、イタリアを舞台とした対ハプスブルク戦を挑み、30歳で屈辱的な虜囚生活も送ったことがある。
国内的には、着々と中央集権化を進め、絶対王政を強化してゆく。いまだ文明後進国でろくな芸術家もいなかったフランスに、文化振興のため、イタリア人美術家を高額の報酬を提示して招致した。中でもレオナルド・ダ・ヴィンチを三顧の礼で迎え、館と年金によって安穏な余生を保証した(3年足らずだったが)。
レオナルドはフランソワ1世の腕の中で永眠した、との伝説さえ残ったほどである。
(その見返りが、『モナ・リザ』、『洗礼者ヨハネ』、『聖アンナと聖母子』だとしたら、イタリアは歯噛みしたくなるとも、中野氏は付言している)

また、フランソワ1世はフォンテーヌブロー宮殿を大改修して、内部装飾をイタリア人画家にまかせた。それがフォンテーヌブロー派である。
中でも、もっともよく知られている作品は、『ガブリエル・デストレとその妹』(ルーヴル美術館リシュリュー翼3階展示室10)である。

劇作・オペラとフランソワ1世


「恋と狩猟と戦争と生」を愛したフランソワ1世は、絢爛たるフランス宮廷文化の礎を築いた。美しい女性たちで、王の城は陽気さと華麗さに満ちあふれていたようだ。
だから、ヴィクトル・ユゴーは、フランソワ1世をモデルにして、劇作『王は愉しむ』を後世、書いた。さらにそれジュゼッペ・ヴェルディが『リゴレット』としてオペラ化した。『椿姫』と並ぶ、ヴェルディ中期の傑作である。

ストーリーは次のようなものである。
若くてハンサムなマントヴァ公(=フランソワ1世)が、美女と見れば見境なく誘惑し、相手の心の傷など何とも思わない。捨てられた乙女の父リゴレットが復讐しようとするが、娘は自分の命を捨ててまで公を愛し抜く。
そうとも知らず、公は、「風のなかの羽根のように/いつも変わる/女ごころ」とお気楽に歌っている。

ユゴーは王の女遊びを道徳的に許しがたかったらしい。ただ、このような自由なフランス宮廷スタイルは、いかにも、フランス人らしく、フランソワ1世の今に至る人気の高さも理解できよう。

クルーエの『フランソワ一世肖像』


クルーエ(1485/90頃~1541頃)が描いた『フランソワ一世肖像』を見てみよう。
これは30代の王の姿である。「狐の鼻」と言われた大きな鼻が特徴である。細面(ほそおもて)のノーブルな顔立ちだが、抜きん出た魅力は感じられないが、繊細な美しい手が官能的であると中野氏は評している。

内面性に乏しい肖像画だが、最新流行の豪奢な衣装はみごとに表現されており、フランソワ1世のファッションセンスの良さが証明されていると中野氏は注目している。
ヘンリー8世やカール5世に比べて着こなしも格段に粋だという。
中野氏は、このフランソワ1世の衣装について、詳細に解説している。
例えば、次のように記している。
「金糸で刺繍したサテンの上衣には、胸元にも袖にもたくさんのスラッシュ(切れ込み)が入っており、その楕円形の切り口からは中の白いリネンの下着をふんわり出して装飾にしている。このスラッシュは、もともとは傭兵たちが戦場で腕を動かしやすいようにと布に切れ目を入れたことから始まったと言われる(現在のような伸縮性のよい布は無かった)。それがこうして素晴らしく装飾へ転じたのだから面白い。
イタリアに憧れたフランソワ1世が、いつしかヨーロッパのファッションリーダーになったのがわかる。」(52頁)

中野氏自身、ファッションに対して、特に関心が強いためか、この本の中で、絵画に描かれたファッションに関する叙述は、詳細で冴えを感じさせる。
例えば、縦縞模様の衣服について、西洋文化における縞模様はふつう隷属や不名誉の印として、身分の低い従者などが身につけるとされたが、断続的に縦縞だけが、高貴な模様とみなされた。また手袋は、国王が授ける狩猟権や貨幣鋳造権の象徴とされており、片方の手袋をにぎった王の肖像画は多いと指摘している。

ルイ14世



ブルボン朝3代目ルイ14世(1638~1715)~太陽王として君臨した
 リゴー『ルイ14世肖像』ルーヴル美術館、リシュリュー翼3階
フランソワ1世から百年ほど経ち、7人の王が入れかわり、王朝もヴァロア家からブルボン家に代わり、ルイ14世にいたり、絶対王政は確立する。
若き日に太陽神アポロンに扮して踊ったところから、「太陽王」の異名をたてまつられた。「朕は国家なり」、国とは自分を指すのだと豪語したと伝えられる。ルイ14世の代でようやくフランス人はスペインを凌駕し、ヨーロッパ最強国になった。

リゴー(1659~1743)が描くルイ太陽王は、この時63歳である。ルイ14世の時代は男性ファッションが女性のそれを上回った時代で、鬘(かつら)とハイヒールの時代だったそうだ。儀式用マント(青ビロード地に百合の花を散らした表現、裏地は白テンの毛皮)をはおっているため、中の衣服に付けている宝石などまで見えないが、ただ豪華を誇示し、趣味が悪いと中野氏は評している。フランソワ1世の粋はもはやどこにもないという。

ヴェルサイユ宮殿の途方もない豪奢は、ルイ14世にして初めて可能だったようだ。ヴェルサイユはヨーロッパ宮殿の模範となり、各国の王侯貴族たちはルイ太陽王に憧れた。
それでもフランスはなおまだイタリアに憧れ続けた。ルイ14世が創設した国家芸術振興のための奨学金付き褒賞は「ローマ賞」と呼ばれ、受賞者はイタリアに留学できた。この賞は20世紀後半まで存続した(アメリカ人はフランスに憧れ、フランス人はイタリアに憧れ、イタリア人はギリシャに憧れた)。
(中野、2016年[2017年版]、41頁~56頁)

第②章 ロココの哀愁 ヴァトー『シテール島の巡礼』


ヴァトー『シテール島の巡礼』
1717年/129cm×194cm/シュリー翼3階展示室36

ヴァトーと印象派のモネ


印象派のモネは、ルーヴルで一作選ぶなら、ヴァトーの『シテール島の巡礼』だと言った。
画面を吹きわたる風、草花の香り、けぶるような靄、えも言われぬ色調は、まさにモネが追求しようとする世界のお手本である。繊細で震えるような筆致、早描きと薄塗りも、印象派を先取りしているといわれる。

ただし、150年という時の開きがあるので、ヴァトーと印象派の主題は違う。
印象派なら描くはずのない小さなアモル(=キューピッド)が描かれている。また、この絵にみられる典雅な宴や光満ちた美しい風景も、決して現実をそのまま写し取ったものではない。そして登場人物の動きは演劇的である。まさに夢の一場である。
そして心には哀愁の残香(のこりが)が沈潜し、曰く言いがたいその物悲しさ、華やぎに添う哀感こそが、ヴァトーの魅力の核であると、中野氏は理解している。

『シテール島の巡礼』について


この絵の舞台は、伝説の島シテール(キュテラ)である。それは、海の泡から生まれた美と愛欲の女神ヴィーナスが流れついて住まう、恋の島である。
(画面右端に、野薔薇を巻きついたヴィーナス半身像が立っている)

聖地詣でをした8組のカップルが、島で熱いひとときを過ごし、帰ってゆくところである。
当時、ヨーロッパの巡礼者は、肩にかけた短いゆったりしたケープだったそうだ(ペリーヌと呼ばれ、フランス語のペルラン[巡礼者]からきた)。それから長く太い杖を持っている。これは旅路で獣から身を守るにも役立った。画面右手前、草地に置かれたものは、必携の巡礼者手帳(巡礼の証明書)であるようだ。

画面右の3組は、恋の様相の3つの形が呈示されているといわれる。物語は右から左へ進行しており、恋の始まり、成就、幸せな結婚(犬は忠実のシンボル)をあらわす。恋は、言い寄る男とためらう女の駆け引きから始まり、愛の営みを終えて男は先に立ち上がり、余韻にひたる女はどこか名残り惜しげに後ろをふりかえっている。

船着場では、早くも2組のカップルが到着している。舟の漕ぎ手は神話から抜け出たような若者であり、上空ではアモルたちが飛びかい、ヴィーナスに願いを聞き届けてもらった恋人たちを祝福している。

ところで、ヴァトーが本作を描くにあってインスピレーションを受けたのは、1700年にパリで初演されたダンクール作『三人の従姉妹』だそうだ。
劇中、巡礼の身なりをした貴族・市民・農民といった各階層の男女が、シテール島への舟に乗り込むシーンが出てくるようだ。
(本画面中央あたりの各カップルが、服装から見て明らかに貴族でない理由はこの劇に由来すると中野氏はみている)

さて、『シテール島の巡礼』は絶讃され、32歳のヴァトーはアカデミー正式会員に選ばれた。同時に、フェート・ギャラント(fêtes galentes)というジャンルが画壇に確立される(ふつう「雅宴画」と訳される)。

自然の中での着飾った男女の恋の駆け引きがテーマにもかかわらず、ヴァトーは単なる風俗画から、芸術の高みへと引き上げた。これにより、フランス絵画はようやくイタリアやフランドルやスペインと肩を並べうる独自性を主張したと中野氏は解釈している。

なお本作完成、翌年、ヴァトーは画商からヴァージョン制作を依頼され、主役の3組は変わらないが、他は大幅に変更が加えられ、オリジナルに比べ、はるかに賑やかになった。このヴァージョンは、あのフランスかぶれのプロイセン大王フリードリヒ2世の手に渡り、ベルリンのシャルロッテンブルク城に展示されることになる。マリア・テレジアから「悪魔」「モンスター」と罵られ、歴史上強面のイメージのあるフリードリヒ2世だが、フランス語で会話し、ロココの美をこよなく愛し、ヴァトーを深く理解した。大王はヴァトー最後の傑作『ジェルサンの看板』までも購入している。

ロココ様式について


ヴァトーは、それまでの壮麗なバロック様式を一掃し、ロココの最初にして最大の画家である。ただし、生前のヴァトーが「ロココ」という言葉を知っていたわけではない。
ロココとは、貝殻や小石を多用したインテリア装飾ロカイユが語源である。繊細で優美な貴族趣味だったため、フランス革命後にダヴィッドら新古典派が台頭すると、ロココは享楽的女性的感覚的退廃的と全否定され、蔑称として使われた。ただし現在は、18世紀フランス文化の主流を指す美術用語となっている。

ロココ最盛期は、ルイ15世と寵姫(ちょうき)ポンパドゥール夫人の時代である。つまりヴァトーの死後である。ヴァトーの活動期は短くわずか20年足らずにすぎない。太陽王ルイ14世最晩年から、「摂政時代」(幼いルイ15世の代わりに、ルイ14世の甥オルレアン公が摂政政治を行なった時代)に相当する。
早くから胸を病んでいたヴァトーは、ロココを切り拓きながら、ロココの爛漫を見ずに、36歳の若さで亡くなる。肺結核が悪化し、長くは生きられないとの悲観が、この世の全てを非現実的に見せたということはありうるが、ヴァトーの鋭い感受性が夢の終わりを予見したのかもしれないと中野氏は推察している。

ヴァトーという画家


ヴァトーは謎めいている。「人に隠れて生きようとした」とヴァトーの死を看取った画商ジェルサンは言っている。ヴァトーは生涯を独身で通した。女性との艶聞はひとつもなく、
辛辣かつ鬱気味で慢性不眠症であったらしい。加えて金銭に無関心で、自画像も残さず、自らを語ることもなかった。

作品における高度な洗練と、いかにもフランス的な感覚から、ヴァトーは生粋のフランス人と思われがちだが、正確にはフランドル人である。生地のヴァランシエンヌは、彼が生まれる、つい6年前にフランス領になったばかりだった。
フランドルといえば、偉大なる画家を多数輩出した。例えば、ファン・エイク、ブリューゲル、ルーベンス、ヴァン・ダイクなど。ヴァトーはこのことを意識していたようで、特にルーベンスを多く模写して学んだ。『シテール島の巡礼』における群像の配置の妙は、大先達の影響が見られる。

ヴァトーはフランドル人で、貧しい屋根葺き職人の息子であった。17歳でパリへ出て、人生を自分ひとりで切り拓かねばならなかったので、室内装飾家や舞台画家に弟子入りし、芝居の世界と深く関わった。

その後、『シテール島の巡礼』で晴れてアカデミー正会員に登録されるが、残された寿命はわずか4年しかなかった。貴族や富豪の雅な遊宴を手がけながら、ヴァトー本人が宮廷に出入りすることはなかった。ロココを引き継いだ派手なブーシェが、ポンパドゥール夫人のお気に入りとして、宮廷人になったのとは正反対である。ヴァトーは人気が出れば出るほど、画商ジェルサンがいみじくも語ったように、「人に隠れて生きようとした」。

ヴァトーは下層労働者階級出身のフランドル人であり、教育はなく、死病に冒されていた。また雅宴画の第一人者とはいっても、社会の上層部と直接交流はなかった。絵のモデルは役者なので、身分の世界はあくまで演劇上の雅にすぎなかった。

ヴァトーの『ピエロ』


ルーヴル美術館には、このようなことを物語るヴァトーの絵がある。それが『ピエロ』(旧称『ジル』)である。
画面の奥行きは浅く、戸外というより舞台が連想される。木々も空も書割であり、真正面に若いピエロがただ突っ立っている。切ない眼をしており、見る側の物悲しさは募る。服の白さはヴァトーの無垢のあらわれに思え、丸い帽子は聖なる光輪にさえ感じられる。身じろぎもしない姿勢は、ヴァトーの放心と悲哀に重なると中野氏はみている。人生は思うにまかせない。その嘆きが「悲しき道化」の姿に集約されるという。

この絵は、注文主もテーマも不明だそうだ(タイトルは後世の通称である)。
当時のパリは、コメディア・デラルテ(イタリア即興演劇)が人気を博しており、ピエロを演じた役者から、引退してカフェを開く際の看板画として依頼されたのではないかとの推測もあるようだ。ヴァトーの作品としては並外れて大きく、ピエロが等身大に描かれているのがその理由とされる。

しかし、中野氏は、この説に賛同しない。一度見たら忘れがたい、その悲しみの表情が看板画のイメージに一致しない。だから、実在の人物の肖像ではなく、ピエロに託したヴァトー自身の精神的自画像とする推測に同意している。ヴァトーにとって現世は生きにくく、このピエロのように身に合わない服を強制されるのに等しかったであろうからとする。

なお、ヴァトーの肖像画としては、死の数ヶ月前、イタリアの女性画家ロザルバ・カリエラが描いたものがある。
その『ヴァトー肖像画』(イタリアのトレヴィーゾ市立美術館蔵)を見ると、ヴァトーはまさに作品のイメージどおりの風貌だったと中野氏は述べている。
(中野、2016年[2017年版]、27頁~40頁)





第①章 なんといってもナポレオン ダヴィッド『ナポレオンの戴冠式』


ダヴィッド『ナポレオンの戴冠式』
1805~1807年/621cm×979cm/ドゥノン翼2階展示室75

中野京子氏の筆の冴え


最初から、この美術案内書では、饒舌で、リズム感あふれる“中野節”がさく裂し、読者が圧倒される。例えば、ナポレオンの人生について、次のようにまとめ上げてしまい、舌を巻く。

「実際、ドラマティックな人生であった。ありとあらゆる要素が彼の一生には詰まっていた。辺境の地で貧乏貴族の子に生まれ、容貌はぱっとせず背も低く、差別され、学業成績はふるわず、しかし天才的な軍事の才に恵まれ、連戦連勝、壮大な野望を抱き、皇帝となり、ヨーロッパ中を戦争に巻き込み、恋人愛人数えきれず、権威付けのためハプスブルクのお姫さまを強引に妃にし、息子を得、やがて戦(いくさ)に負けはじめ、引きずり下ろされ、島流しとなり、まさかの復活を果たしてパリへ凱旋、人々を恐慌に陥れ、再度引きずり下ろされて、ついにセント=ヘレナ島で無念の死。」(13頁)

中野京子氏といえば、2007年に発表された『怖い絵』を端緒としたシリーズでよく知られた作家である。
私も、テレビ出演した中野氏を何度か拝見したことがあるが、作品解説を、立て板に水のように、雄弁に話しておられたのが印象的であった。それを文章化すると、こうなるのだろう。
そのベースには、ドイツ文学者としての素養と技量があるからであろう。あのツヴァイクの名著『マリー・アントワネット』を新たに翻訳されただけのことはある。
人の一生を簡潔に文章にまとめあげる技量は、文学者として、歴史上の人物と対峙し、表現化する努力の賜物であろう。その技量に感服する。

ところで、保坂健二朗氏(東京国立近代美術館主任研究員)の「解説」(243頁~249頁)によれば、「魅力的な作品解説」において大事なことは、ディスクリプション(作品叙述)であるという。
絵になにがどのように描かれているかについて見える範囲のことを中心に書くことである。どこを見せたいかを判断し、どのような順序で見れば=書けば効果的かを考えた上で、ちょっと主体的に叙述していくことが、「魅力的な作品解説」には求められているとする。保坂氏によれば、中野京子氏は、この「ディスクリプションがすこぶる上手い」と評している(245頁)。

画家ダヴィッドの諸作品


ナポレオンは「稀代の英雄」としてのイメージがある。幸いにして同時代には、傑出した才能を持つ画家ダヴィッドがいた。
ダヴィッド自身がナポレオンの英雄性に心酔していたため、肖像画を描くにあたって力を入れていた。
例えば、
・「サン・ベルナール峠を越えるナポレオン」1801年、マルメゾン宮国立美術館
 アルプス越えにおける馬上の勇姿
・「書斎のナポレオン」1812年、ワシントン・ナショナル・ギャラリー
 執務室で手を上着の胸元に入れてリラックスする様子
・「鷲の軍旗の授与」1810年、ルーヴル美術館
 鷲の軍旗授与におけるローマ皇帝を髣髴とさせる姿
 
※「サン・ベルナール峠を越えるナポレオン」が叙事詩的英雄としてのナポレオンを、一方、「書斎のナポレオン」が立法者としてのナポレオンを表す、一対の寓意画であるという捉え方がある。この2点の肖像画は外征と内政に携わる、武人と統治者としてのナポレオンの2つの顔を描き出しているとされる(鈴木杜幾子『画家ダヴィッド――革命の表現者から皇帝の首席画家へ――』晶文社、1991年、185頁、229頁、233頁~234頁)。

このように、さまざまなシチュエーションでオーラを放つナポレオンを造型し、人々の眼を眩ませた。そうした絵画群のうちの最高峰として、『ナポレオンの戴冠式』を中野氏は位置づけている。

【鈴木杜幾子『画家ダヴィッド』晶文社はこちらから】


鈴木杜幾子『画家ダヴィッド―革命の表現者から皇帝の首席画家へ』

『ナポレオンの戴冠式』について


ルーヴル美術館で誰もが絶対に見落とせない、三作品は、『モナ・リザ』、『ミロのヴィーナス』、そして『ナポレオンの戴冠式』といわれる。

何しろ大きい。縦6.2メートル、横9.8メートル、床に置いたら60平方メートルほどになる(日本の2DKアパート並み)。制作に3年かかったのも道理であろう。
完成作を見たナポレオンが、「画面の中に入ってゆけそうだ」と満足をあらわした。事実、最前列右の数人は身長2メートルほどの大きさで描かれているので、本物の人間が画面に入っても収まる。
ナポレオンはまたこうも言っている。「大きいものは美しい。多くの欠点を忘れさせてくれる」と。
(ただ、このサイズはルーヴルで2番目の大きさである。1番大きな絵は、6.8×9.9メートルのヴェロネーゼ『カナの婚礼』である。ナポレオンがヴェネチアを征服した際、修道院の壁からはがしてフランスへ持ち出した)

さて、このダヴィッドの作品は、まことにプロパガンダ絵画のお手本である。ヒーローとヒロインであるナポレオンとジョゼフィーヌは、魅力たっぷり描かれ、人々の視線を一身に浴びている。150人とも言われるおおぜいの登場人物も、ひとりひとりかなり克明に描き分けられている。荘厳で記念碑的なこの大作は、冷ややかで破綻がない。

1804年12月2日、パリのノートルダム大聖堂において、35歳の若きナポレオンは絢爛豪華な戴冠式を挙行する。
歴代フランス王は、9世紀のルイ1世から25代にわたり、パリの北東に位置する町ランスにあるノートルダム大聖堂で戴冠式を行なってきた。ナポレオンはブルボン家の後継者とみなされるのを嫌い、「王」ではなく「フランス人民の皇帝」を名乗った。したがって、ランスでの戴冠式など論外である。

14年前のローマ皇帝カール大帝(シャルルマーニュ)に倣い、古式にのっとった宗教儀式を行なうことにした。つまりランス司教ではなく、ローマ教皇による戴冠式である。
(ちなみにフランス語のNotre-Dameは英語のOur Ladyにあたる。「我らが貴婦人」すなわち聖母マリアを意味する。したがって、ノートルダム(聖母マリア教会)という名のカトリック教会はフランス語圏各地にある)。

ところで、カール大帝でさえ、自分のほうからヴァチカンに赴いたのに、ナポレオンは教皇をパリへ呼びかけた。呼びつけて戴冠式に列席サンドさせ、三度の塗油の儀だけさせると、教皇が祭壇上の帝冠に手を伸ばすより早くそれを奪い取り、自分で自分に戴冠してしまう。次いで、妃ジョゼフィーヌに、自らの手で冠を与えた(かぶせる動作のみ)。
「ヨーロッパの覇者」としてナポレオンがローマ教皇より上位にあることを内外に見せつけたことになる。教皇ピウス7世の恥辱は尋常ではなかったであろうし、式に参加した各国代表なども一様に驚いた(仇敵イギリスには、おちびのナポレオンが両手で自分の頭に冠をのせようとする諷刺画が出回った)。

『ナポレオンの戴冠式』の構図


さて、ダヴィッドは新古典派の大御所にして宮廷首席画家であるから、ユーモアなど無い。彼は英雄礼讃のための盛大なる美化を厭わなかったし、皇帝の威光を損なうものは排除した。ただ、やはりナポレオン自らによる戴冠が問題になってくる。ダヴィッドも一度はその構図で下絵を描いてみた。しかし、そうした異例を後世に残すのを、疑問と感じ、ローマ・カトリックへのあからさまな反逆を絵画化するのを危険と思ったようだ。
こうしてナポレオンが誰によって戴冠したかは曖昧なまま、皇帝による皇妃戴冠の構図が決定された。

『ナポレオンの戴冠式』の登場人物


絵の中の登場人物について解説している。
・ナポレオンは月桂冠を被り、端正な横顔を見せ、まさに古代ローマ皇帝の表情をしている。身長も数十センチは嵩上げされている。鷲の模様をちらした真紅のマント、裏が白テンの毛皮なのは、ブルボン家の大礼服用マントに似せたようだ。

・その前に跪く年上の愛妻ジョゼフィーヌは、この時41歳だった。8年前に、未亡人としてナポレオンと出会い、エキゾティックな美貌で彼を虜にして、今やフランス皇妃である。

・ナポレオンのすぐ後に、62歳のピウス7世が浮かぬ顔をして、右手の指で祝福のポーズをしている。しかし、教皇はこれ以前からナポレオンと対立しており、この所作ダヴィッドの創作である。

・もうひとつの創作は、本当はここに居なかったナポレオンの母を、描いていることである。正面2階の貴賓席で微笑んでいるが、母は息子が皇帝になるのに大反対で、戴冠式には出席しなかった(捏造写真の先取りと中野氏は記す)。

・ダヴィッド本人は、ナポレオンの母の席のすぐ上階、斜め左に描かれている。ひとりスケッチ帳を構え、式次第をスケッチ中である。

・右手前に居並ぶ男たちは、いずれもナポレオンの側近たちだが、中でも右端で真っ赤なマントを着て目立つのが、タレーランである。鼻先がツンと上向いた特徴的な横顔である。
(タレーランのこの鼻は、隠し子と言われるドラクロワに受け継がれたそうだ)

・タレーランはナポレオンの信頼あつく、外務大臣と侍従長を兼ねたほどなのに、本作完成後まもなくナポレオンを見限って失脚に追い込んだ。ナポレオン追放後も、フランス政治の中枢に居続け、40年にわたり国の舵取りを行なった。『ナポレオンの戴冠式』における真の勝者は、このタレーランかもしれないと中野氏はみている。うっすらした笑みがいかにも意味ありげである。
(中野、2016年[2017年版]、13頁~26頁)


≪【補足 その1】フランスの歴史~木村尚三郎『パリ』より≫

2023-08-30 19:00:10 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪【補足 その1】フランスの歴史~木村尚三郎『パリ』より≫
(2023年8月30日投稿)

【はじめに】


 今回のブログでは、高校世界史におけるフランスの歴史について、補足しておきたい。
次の著作により、補足説明しておく。
〇浜林正夫『世界史再入門』講談社学術文庫、2008年[2012年版]
〇木村尚三郎『西欧文明の原像』講談社学術文庫、1988年[1996年版]
〇木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年

 パリの中心、シテ島に建つノートル・ダム大聖堂(Cathédrale Notre-Dame de Paris)の尖塔が焼失するニュース映像が、2019年4月15日に報道されているのを見て、“フランスの魂”が崩れ落ちるかのように感じた。
 パリのノートル・ダム大聖堂がいかにフランス人の精神的支柱であったことか。
 ノートル・ダムとは、フランス語で「我らが貴婦人」つまり聖母マリアを指す。
 かのヴィクトル・ユゴーは、『ノートル=ダム・ド・パリ』(1831年)で、架空の人物カジモドという鐘つき男を主人公に、15世紀のノートル・ダム大聖堂を舞台にして、愛情と嫉妬が渦巻く衝撃的な小説を書いた。そして、これを原作に、『ノートルダムの鐘』としてアレンジされ、映画やミュージカルで有名な作品となった。
 また、来年2024年には、パリ・オリンピックが開催され、再びパリが注目されている。
 いま一度、パリの歴史をフランスの歴史の中で振り返ってみることは有意義かと思う。
 その際に、〇木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』(文芸春秋、1998年)は格好の著作であろう。受験とは直接的には関係ないかもしれないが、興味のある人は読んでみてはどうだろうか。




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・フランス革命以降の歴史の捉え方~浜林正夫『世界史再入門』より
・ジャンヌ・ダルク~木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』より
・フランス史の一つの見方~木村尚三郎氏のエッセイ「パリは三度光る」より
・フランス革命の補足~木村尚三郎『西欧文明の原像』講談社学術文庫、1988年[1996年版]

<木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』>からのエッセイ
〇ルテティア
〇ノートル・ダーム大聖堂
〇フランス・ルネサンス
〇フランス・ルネサンス期の伊達男フランソワ1世
〇コンコルド広場
〇ルソーとパリ
〇ルソーと子ども受難時代
〇マリー・アントワネットとパン
〇コンシエルジュリーとマリー・アントワネットとロラン夫人
〇フランス革命の標語「フラテルニテ」
〇「自由の木」
〇レカミエ夫人とダヴィッドとジェラール
〇セーヌ県知事オスマン
〇ラ・デファンスに関連して
〇「門」の思想

※執筆項目のタイトルは、もとの著作の見出しとは異なる。内容にそったタイトルを筆者がつけたものである。







フランス革命以降の歴史の捉え方~浜林正夫『世界史再入門』より


浜林正夫『世界史再入門』(講談社学術文庫、2008年[2012年版])から、フランス史について、補足しておく。

第5章近代世界の成立 【フランス革命】


【フランス革命】
フランスはカトリックの国であるにもかかわらず、オーストリアのハプスブルク家に対抗するため、三十年戦争のときにはプロテスタントの側を支援し、アルザス地方に領土をひろげ、またスペインのハプスブルク家のカルロス2世が1700年に死去したあと、ルイ14世の孫をスペインの王位につけて勢力を拡大した。(中略)

ついにルイ16世は貴族の免税特権に手をつけようとしたが、貴族たちはこれに抵抗し、1615年以来ひらかれていなかった三部会の召集を要求した。1789年5月、174年ぶりに三部会がひらかれたが、第三身分(平民)の代表は身分制にもとづく三部会を国民議会に変え、憲法を制定するよう要求し、7月に憲法制定議会が成立した。しかし国王は武力によってこの議会を解散させようとくわだてていたので、7月14日、パリの民衆はバスチーユの牢獄をおそって武器を奪い、農民もまた各地で蜂起したので、議会は8月4日封建的特権の廃止を決議し、8月26日「人間および市民の権利の宣言」を採択した。
国王はこれらの決議や宣言をみとめようとしなかったので、パリの民衆はふたたび蜂起し、10月5日から6日にかけて女性が中心となってヴェルサイユ宮殿まで行進し、国王をパリへつれもどし、1791年フランス最初の憲法を制定した。この憲法は立憲君主制をさだめたものであったが、選挙権は一定額以上の国税を納めるものに限られていた。これにたいして国王は王妃マリー・アントワネットの実家であるオーストリアの援助をもとめようとして国外逃亡をはかったがとらえられ、こういう国王の裏切りに怒った革命派のなかでは穏健派のフイヤン派に代わって急進派のジロンド派が主導権を握るようになり、92年、オーストリア・プロイセン連合軍との戦争がはじまった。
一方、国内では王権は停止され、1792年9月、憲法制定会議のあとをついだ立法議会も解散されて、普通選挙による国民公会が成立し、君主制を廃止して共和制の樹立を宣言し、翌年1月、国王は処刑された。このころ、イギリス軍も革命干渉戦争に加わり、国内では食料危機などのため民衆蜂起がつづいて、ジロンド派は権力を維持することができず、これに代わって民衆蜂起に助けられてジャコバン派が権力を握った。ジャコバン派は1793年憲法を制定し、封建的特権の無償廃止、物価統制、買い占め禁止などの政策を強行し、これに反対する人びとをつぎつぎと処刑する独裁的な恐怖政治をおこなったため、ますます支持を失い、94年7月、その中心人物ロベスピエールらはとらえられて処刑された。
ここでフランス革命の進展はとまり、反動化がはじまる。革命をさらにすすめ、私有財産制を廃止しようとするバブーフの陰謀はおさえられ、もともと革命派の軍人であったナポレオンがクーデタによって1799年統領の位につき、つづいて1804年皇帝となって共和制は終わりを告げた。ナポレオンはオランダ、スペイン、イタリア、プロイセン、オーストリアを征服し、ヨーロッパ各国へ革命を「輸出」したが、ロシア遠征に失敗し、1813年、プロイセン・オーストリア・ロシア連合軍に敗れ、エルバ島へ流され、いったんこれを脱出したものの、1815年、ワーテルローの戦いでウェリントンのひきいるイギリス軍にうちまかされて、セント・ヘレナ島へ流され、そこで世を去った。
(浜林正夫『世界史再入門』講談社学術文庫、2008年[2012年版]、156頁~159頁)

〇第5章「近代世界の成立」12「世界史における近代」


12「世界史における近代」(172頁~175頁)
・一国の歴史でも世界史全体についても、これを古代、中世、近代というように、時代区分をするのがふつうである。
 しかし、この時代区分は西ヨーロッパ諸国についてはわかりやすいが、それ以外の地域にこれをあてはめようとすると、難しい問題がでてくる。
 たとえば、日本の場合、中世というのはいつからいつまでであろうか。
 徳川時代というのは中世だろうか、近代だろうか。
 中国やインドの場合には、どう区分すれがよいのか。

・じつは、古代、中世、近代という三区分がいわれるようになったのは、ルネサンス期以降のヨーロッパ人の発想によるものであった。
 ルネサンス期のヨーロッパ人は当時の社会やその思想を批判するために、キリスト教以前の社会を理想化し、その理念の再生をはかったのである。
 そのために古代と現代とのあいだの時期を中間の時代(ミドル・エージ)とよび、これを暗黒時代とみたのであった。
 したがって、古代、中世、近代という時代区分は西ヨーロッパ人の歴史観にもとづくものであると著者は主張している。
 それ以外の地域にこの三区分を適用しようとすると、どうしても無理が生ずるというのは、当然のことであるという。

・ただ、ルネサンスの時代にこういう歴史観が生まれたのは、偶然ではなく、それなりの根拠があった。
 それは封建社会が危機におちいり、新しい人間と社会のあり方がもとめられていたということであった。彼らの歴史観の土台には、それなりの社会的な変化があった。
 ルネサンスからなお数百年かかって、イギリスとフランスで革命がおこり、ここでようやく新しい社会が成立する。それは、市民社会とよばれる社会であった。

・市民社会の市民というのは、もともと都市の住民という意味であるが、市民社会というのは都市だけをさすのではなく、教会の支配にたいして世俗的な社会という意味である。
 領主・騎士の軍事支配にたいしては文民という意味であって、市民社会の政治的側面は民主主義であった。
 民主主義を思想的に準備したのは、17、8世紀のイギリスやフランスにあらわれた自然法思想であった。
 イギリスではトマス・ホッブズが『リヴァイアサン』(1651年)で生存権を自然権とし、国家は生存権を保障するための契約によってつくられるという社会契約説をとなえた。
 ジョン・ロックは『統治二論』(1690年)で生命・自由・財産を自然権として人民主権論を主張した。
 フランスでは、モンテスキューが『法の精神』(1748年)で三権分立をとなえ、ルソーが『社会契約論』(1762年)で人民主権論を徹底した。
 またディドロらは全28巻の『百科全書』を編集し、絶対王政をはげしく攻撃した。
〇こういう思想を背景として、基本的人権と国民主権という民主主義の原理を確立したのが、アメリカの独立宣言(1776年)とフランス革命の人権宣言(1789年)であった。
(浜林正夫『世界史再入門』講談社学術文庫、2008年[2012年版]、172頁~175頁)

〇第7章「現代の世界」13「世界史をふりかえって」


13「世界史をふりかえって」(269頁~276頁)
 世界史をふりかえって、何が見えてくるのか。
 この点について、著者は次のように考えている。

 世界史には、さまざまな社会、国の興亡があった。歴史のドラマをつくりだした英雄たちの活躍に目をひかれがちだが、生活を支えてきたのは黙々と働きつづけていた民衆であった。
戦争のときでも革命の最中でも、誰かが労働と生産をつづけていた。
 そうした労働と生産のあり方に関心をむけることが、もっとも基本である。
 労働と生産をつづけるにあたって、人間はひとりで働くのではなく、ほかの人びとと協力して働く。そこに人と人との関係ができあがる。これが社会である。
⇒人びとが生産をつづけるにあたって、どういう社会をつくったのか。
 そして生産の発展にともなって社会はどのように変化してきたのか。
 これが世界史の主要なテーマであると、著者は考えている。

・労働と生産をすすめるにあたって、人びとはまず血縁的なつながりによる共同体を構成する。
 この共同体は血縁からしだいに地縁的な関係にうつる。そして生産力のいっそうの発展によって、共同体的な関係がくずれる。
個人(あるいは小家族)を基礎単位とする連合体的関係へと変化していく。
生産力の発展がこのような社会関係の変化をつくりだす。逆に社会関係のあり方が生産力の発展あるいは停滞を生みだす。
※世界史の基調にあるのは、このような社会のあり方とその変化であって、この基調のうえに多様な文化が成立する。

・共同体の内部からは私有制のいっそうの展開にともなって、たえず豪族層があらわれてくる。
 古代国家は、「公地公民」制により、あるいは官僚制によって、こういう豪族層をおさえ(あるいは、とりこみ)、共同体国家を維持しようとする。
 それに成功したところでは、私有制の発展もおさえられ、生産力の発展も停滞する。

※古代国家や古代帝国が成立しなかったところでは、豪族層は封建領主に成長する。
 そのなかの最有力者が国王となって、封建国家が形成される。
 これらの地域では、一般的にいって奴隷制段階は経由されず、氏族共同体の解体から豪族の領主化にともなって、農奴が生まれる。さらに農奴の自営農民化によって、領主制そのものも危機におちいる。
 この危機は絶対王政の成立によって、いったん克服される。 
 だが、やがて市民革命によって、絶対王政は打倒される。
 資本主義社会が誕生し、私有制が完成されるとともに、生産力の未曾有の発展をもたらす。
 近代以降、西ヨーロッパ諸国が世界を支配することができたのは、このような生産力の発展のためであったと、著者は主張している。

※市民革命は、またフランス革命の人権宣言に典型的にみられるように、生存、自由、平等というような新しい価値理念を表明した。
 これらの理念は、奴隷の蜂起や農民一揆や、あるいは哲学者や神学者などによって、さまざまな形で、地域や時代に表明される。
 だが、それが体系的にまとめられ、かつ社会変革のイデオロギーとして力を発揮したのは、西ヨーロッパ諸国(とくにイギリスとフランス)の市民革命においてであった。

・近代西ヨーロッパが、この理念を十分に実現することができなかったのは、双生児として生まれた民主主義と資本主義との表裏一体の関係が間もなくくずれはじめたためである。
 封建制が倒され、資本主義という新しい社会ができあがると、賃金労働者の搾取のうえになりたっている資本主義的な生産力の発展にとっては、労働者の生存権や自由、平等の主張は、かえって邪魔物になってくるからである。
 こうして生存、自由、平等という価値理念を真に実現していくためには、資本主義社会をのりこえなければならないと考えるところから、社会主義の主張が生まれ、生産力もまた資本主義的な私有制の枠から解放される方が、いっそう発展すると主張された。
 
【著者の人類史に対する考え方】
・人類史の長い道のりは、一面では生産力の発展の過程であるとともに、もう一面では、生存と自由と平等をもとめる努力のつみかさねであったと、まとめている。

 このことを象徴的にしめしているのは、君主制の衰退ということである。
 かつては、アメリカやスイスのように、建国当初から共和制であった国を除いて、世界のほとんどすべての国が世襲制の君主によって支配されていた。
 人間は平等であるというよりは、人間はほんらい不平等であり、支配に適した人と服従に適した人とがいるというのが、むしろ常識であった。
 しかし、まず君主の権限をおさえることからはじまり、やがて君主制そのものを否定する動きがひろがる。現在、君主制の国は、世界中の国の2割弱という圧倒的少数派となった。
 長いスパンでみれば、生存と自由と平等をもとめる人類の歩みは、おしととめることのできない前進をつづけている。これらの理念を普遍的とよびうる根拠もここにある。

・さらに、人類はいま地球規模での環境破壊や資源浪費などという問題に直面している。
 しかし環境破壊の問題を人間と自然とのかかわり一般の問題に解消してしまうのは誤りであるという。
 それでは問題解決の展望はみえてこない。
 問題はむしろ、資本主義のもとでの大資本の利潤追求と、これまでの社会主義の国ぐにの無秩序な生産第一主義にあったのである。環境保護のために生産力の発展そのものをおさえようとするのは、正しくないのみでなく、不可能であると、著者はいう。

 生産力の発展はほんらい人類にとって望ましいものであり、生産手段の私有制のもとでは、たしかにマルクスがいったように、生産力は「人びとにたいしてよそよそしい姿」をとるのだけれども、生産力をおさえるのではなく、生産力の発展をどのようにして人類共通の利益に合致させることができるのか、ということこそが、今日の課題であるとする。

※世界史はこのような歩みをへて、いまこのような問題状況にあるという。
 これをどう打開していくのかが、いま問われている。
(浜林正夫『世界史再入門』講談社学術文庫、2008年[2012年版]、269頁~276頁)

ジャンヌ・ダルク~木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』より


なお、ヨーロッパのフランス史について、木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』(文芸春秋、1998年)により、補足説明しておく。

 フランス史の碩学である木村尚三郎先生のエッセイ集である。ジャンヌ・ダルクとナポレオンとの関連を指摘し、フランス史の一つの見方を提示しているので、紹介しておこう。

〇「サン・トノレを攻撃したジャンヌ・ダルク」(236頁~241頁)
いま高級服飾店が立ち並ぶフォーブール・サン・トノレ通りも、その始点であるロワイヤル通り(観光客の誰もが通る、マドレーヌ寺院とコンコルド広場を結ぶ道である)に、堅固なサン・トノレ第3城門があったからである(1733年取り壊し)。城門の内側がパリ市内のサン・トノレ通り、城外がフォーブール・サン・トノレであった。
 サン・トノレ通りは、パリ中央市場の創設に従って出来た、パリを東西に結ぶ重要な道であり、市場に近いためにさまざまな業種の商人が店を連ねていた。(中略)
 パリ経済の心臓部とあって、サン・トノレ通りは厳重に三つの城門で固められていた。第1門は145番地、オラトワール通りと交差するところ、第2門は161番地のロアン通りとの交差点、そして第3門はロワイヤル通りとぶつかるところであった。
第1門はフィリップ・オーギュストの城壁門として1190年に作られ、1545年から48年に取り壊されている。この第1門は、サン・タントワーヌ門、サン・ドニ門、サン・ジャック門と並んで、パリ四大門の一つであった。
 サン・トノレ第2門は、1380年に国王シャルル5世の城壁門として作られたものである。ときは百年戦争の時代であり、1429年9月8日、ジャンヌ・ダルクもこの第2門を攻撃している。「イギリス軍に占領されているパリを奪い返す」ためであった。1866年の検証によれば、ジャンヌ側の大砲による、直径8センチと17センチの、二つの石の弾丸跡が、城門に残っていたという。
 城門の周りには 5.5メートルの深さがある空濠(からぼり)と、より城壁沿いのもっと深い水濠とがあった。その水濠の深さを槍で計ろうとしたとき、ジャンヌは城壁上から射かけられた矢に腿をやられ、ジャンヌの軍勢は退却している。ジャンヌ刑死(1431年)の後1433年10月8日、ジャンヌが味方した、国王シャルル7世をいただくアルマニャック勢は再度このサン・トノレ第2門を攻撃しているが、同じく失敗に終っている。
 ジャンヌ・ダルクはサン・トノレ第2門攻撃の前夜から当日の朝にかけ、前線基地であったパリ北方の「ラ・シャペル村」で、サン・ドニ・ド・ラ・シャペル教会(現在パリ18区、ラ・シャペル通り16番地)に、夜通し祈りを捧げている。負傷して同地に帰ってからも、彼女は同教会に祈りを捧げていた。
 そのときの模様を、恐らくパリの聖職者が書いた同時代の貴重な史料、『パリ一市民の日記』は、非難の思いをこめてつぎのように記している。
 
 (ジャンヌは)何べんも、完全に武装したまま、教会(サン・ドニ・ド・ラ・シャペル)の祭壇から聖なる秘蹟を受けた。男装をし、髪を丸く刈り、穴のあいた頭巾、胴着、沢山の金具つきの紐で結わえつけられた真紅の股引きといった恰好で、である。この物笑いの服装について、何人もの立派な貴紳や貴婦人が彼女を非難した。そして彼女に対し、このような恰好の女性が秘蹟を受けるのは、主を尊ばぬことになると告げた……。

 ジャンヌに対し、パリ市民は不快感、嫌悪感、敵意といったものを抱いていた。彼女が15世紀初め突如として歴史に登場したとき、パリないし北フランスは、イギリスと同盟関係にあった。したがってジャンヌを悪魔女、乱暴女として恐れおののいた。彼女が北のコンピエーニュで捕まって宗教裁判にかけられたとき、パリ大学神学部も彼女を激しく糾弾し、彼女を刑死にいたらしめている。当時のパリは終始、アンティ・ジャンヌ・ダルクであった。
 にもかかわらず今日、ピラミッド広場をはじめとして、パリ市内合計4カ所にジャンヌ・ダルク像が立っているのは、なぜであろうか。それは400年近くも経って、ナポレオンが現われたからである。
 彼は1804年、フランス史上はじめて、「皇帝」という位につこうとするとき、前年に「モニトゥール」紙に根回しをした。まったくといっていいほど無名だったジャンヌ・ダルクを歴史から拾い出し、栄光の座につけ、自分をジャンヌになぞらえながら、ともに新興ナショナリズムのヒーロー、ヒロインとして、祀(まつ)り上げたのであった。ピラミッド広場のジャンヌ像も、1874年フレミエの作である。
 18世紀一杯までは、彼女に救われたオルレアンとか彼女の生地ドンレミ村など、ほんの一部を除いては、フランス人の誰もが、ジャンヌ・ダルクの名を知らなかった。フランス各地の広場や教会に沢山見られる「愛国の乙女」ジャンヌ像は、原則として、19世紀のものである。
 19世紀近代のナショナリズムが作り出した「神話」のジャンヌ像とは違って、ジャンヌ個人はきわめて信心深く、頭もいいが、文字はAもBも知らなかったのが、実像であった。彼女は
、問題の1429年9月8日、午前8時ごろ「ラ・シャペル村」を出発し、「モンソー村」を通って、サン・トノレ門を攻撃している。(下略)
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、236頁~240頁)

フランス史の一つの見方~木村尚三郎氏のエッセイ「パリは三度光る」より


木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』では、フランス史の一つの見方を提示している。
すなわち、「4 十九世紀の輝き――近代のパリ」の「パリは三度光る」において、木村尚三郎氏は、フランスの歴史について、次のようにまとめている。

(前略)
ところがパリは、これまでに二度光っている。そして1989年のフランス革命200年祭をきっかけに、三度目の光を放ち出している。一度目は、シテ島のサント・シャペルに代表される12・13世紀の輝き、二度目はこれから述べる、19世紀後半・20世紀初頭の輝きである。エッフェル塔がこの時代を象徴している。あるいはつぎのように、パリはこれまで4代の先祖によって担われ、いま5代目が光りつつある、といったほうが正しいのかも知れない。
 1代目は、古代ケルト人がシテ島に住みついた前4、3世紀から、古代ローマ人、フランク王国が支配した10世紀までの原初時代である。それは今日のパリに生きているというより、痕跡として意識の奥深くに横たわっているといったほうがいい。
 2代目は男として光った、10世紀末から14世紀初にかけての、カペー王朝の時代である。農業上の技術革新にもとづく、豊かな「成功した時代」であり、現代パリの、原風景が形づくられたときであった(前章)。
 3代目は中世末から19世紀前半にいたる、長い「成功しない時代」である(第2章)。
ジャンヌ・ダルクの出現した百年戦争のころ(14、15世紀)から、16世紀のフランス・ルネサンス期、ルイ14世に代表される17・18世紀の絶対王政とサロン文化の時代、そしてフランス革命期は、みなこのなかに入る。技術が成熟してよりよい生き方を求め、人びとが、飲み、食べ、踊り、祭りし、旅し、文化に熱中し、そして大革命という、民衆の血ぬられた祭りまでも敢えてやったときである。コミュニケーション・交通・会合が発達し、さかんとなった、いわば女性的感覚によって、美しく装われた時代であった。
 第4代は、19世紀後半の産業革命とともに始まり、20世紀初頭の「ベル・エポック」(良き時代)に、文字通り最高の輝きを見せる。第2代とともに、「男が光ったとき」であるが、光り方が違う。
 第2代、つまり中世パリの光は、現代人に多少なりともの違和感があり、考え、勉強し、少し身構えながら味わう光である。これに対し第4代の近代パリの光は、理屈抜きで親近感を覚え、誰にも予備知識なしに受け入れうる光である。万人にすぐ分り、日常感覚にとりこみうる光、すなわち現代パリの直接の出発点が、第4代の19世紀パリである。
 エッフェル塔が、それを象徴している。最近はライトアップされ、文字通り夜目にも美しく光り輝くようになった。いまから1世紀前、フランス革命100年を記念して、1889年5月6日パリに開催された、万国博覧会のために建設されたものである。設計者は、当時57歳のアレクサンドル・ギュスターヴ・エッフェルであった。(下略)
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、249頁~251頁)

フランス革命の補足~木村尚三郎『西欧文明の原像』講談社学術文庫、1988年[1996年版]


ナポレオンとジャンヌ・ダルク


「第六章 近代の神話」の「ナポレオンによる国民的英雄化」より
〇ジャンヌ・ダルクに関するおびただしい数の研究書・文献が出現し、同時に愛国の乙女、国民的英雄、フランスの守護神としてのイメージが形づくられ、定着したのは、19世紀になってからのことである。
 これにはじめて火をつけたのは、ほかならぬナポレオンであった。
 彼は、オルレアン市民が1792年に破壊されたジャンヌ・ダルク像を再建しようとしていることを知って、これに賛意をあらわし、同時にジャンヌ・ダルク祭の復活を祝して、1803年『モニトゥール』紙(1789年11月24日創刊)につぎの一文を寄せた。
 フランスの国家的独立を危うくされるとき、偉大なる英雄が救いをもたらすのは、けっして奇蹟ではない。かの著名なジャンヌ・ダルクはこのことを証明した。一致団結するかぎり、フランス国民はかつて敗れたことはなかった。しかし隣国のものどもは、われらが特性である素直さや誠実さにつけこみ、われわれの間につねに不和の種をまきちらす。そこから英雄ジャンヌが生きた時代の禍いや、歴史にのこるすべての災難が生まれたのである。

 すなわち、ナポレオンは、ジャンヌ・ダルクを介してみずからがフランスの英雄であることの正統化をおこない、翌年における皇帝登位のための一布石としたのであった。
 そして、この一文こそは、ジャンヌについてフランス国家の側から公にされた最初の讃辞であった。
 こんにちのジャンヌ・ダルク像は、19世紀フランスに復活したもの、否もっと正確には、当時の国民主義的風潮、英雄崇拝の時流に乗って、新たに創造されたものであった。19世紀は、市民的国民国家が頂点をきわめた時代であった。
 ジャンヌが生きた14、15世紀の時代は、このフランス国民国家が形成への第一歩、したがって、また新たな対内的、対外的な緊張と対立の第一歩を大きく踏み出したときであった。近代国民国家の体現者ナポレオンによって、ドンレミ村の一少女が新たな生命を賦与されたのは、彼女の歴史的宿命だったといえるかもしれない。
(木村尚三郎『西欧文明の原像』講談社学術文庫、1988年[1996年版]、355頁~357頁)

フランス革命について


「第二章 ヨーロッパの原像」の「農民の防衛的戦闘性」において、木村尚三郎氏は次のように述べている。

 革命のはじまる前年、フランスはたいへんな凶作であった。そのため翌年の春からは深刻な穀物不足、穀物価格の高騰、そして飢餓がおとずれ、全国の農村は、強盗団が穀物を奪いにくるのではないかとの思いから「大恐怖」とよばれるパニック状態におちいった。こうしてすべての農村がいっせいに武装をはじめ、穀物をとられることの恐怖にかられて領主への年貢支払いを拒否したばかりでなく、領主館まで襲って年貢のもとである証拠文書を焼きすてたのである。凶作が全国の農民にひとしく自衛、土地防衛の行動を起こさせ、結果として領主権を攻撃せしめたことこそ、フランス革命を準備し、そして成功させた最大の原因であったといえよう。
 この点でE・H・カーが引用している、19世紀イギリスの歴史家カーライルの『フランス革命』におけるつぎのことばは、一見古めかしいが見事にことの本質をついている。

「2500万人の人々を重たく締めつけていた飢え、寒さ、当然の苦しみ。これこそが――哲学好きの弁護士や豊かな商店主や田舎貴族などの傷つけられた虚栄心とかチグハグな哲学とかではなく――フランス革命の原動力であった。どこの国のどんな革命でも同じことであろう」
(E・H・カー、清水幾太郎訳『歴史とは何か』岩波新書)。

(木村尚三郎『西欧文明の原像』講談社学術文庫、1988年[1996年版]、186頁)

<木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』>からのエッセイ


ルテティア


「古代ローマいらいの道、サン・ジャック通り」(225頁~229頁)より

 古代ローマ人が紀元前1世紀半ばにやってくるまで、パリにいた先住民族は、前3、4世紀ごろからシテ島に住んだケルト族の一派、パリシイ(Parisii)とラテン語で表記された人たちである。ここから、パリという都市名がのちに生じる。
 フランスの都市名には、このようにケルトの部族名に起源を持つものが少なくない。たとえば、大聖堂のステンドグラスで有名なシャルトル(パリ西南88キロ。パリを訪れたら、ヴェルサイユとともにぜひ同市をも訪ねたい)は、カルヌテス族(Carnutes)、リヨンはルグドネンシス族(Lugdnensis)、リモージュはレモヴィケス族(Lemovices)という名からそれぞれ発している。
 ケルト人自身はパリをルテティアと呼んでいた。前52年ローマ軍がシテ島からケルト人を追い払ったあとも、ローマ人によるガリア(今日のフランス・ドイツ)支配の時代(ガロ・ローマ時代)には、パリは同じくルテティアと呼ばれていた。いま、ルテティアとかリュテースという名の宿屋とか酒場がフランスにあったとすれば、みな申し合わせたように場末の、うらぶれた存在である。その点、サン・ジャック通りの今日と、奇妙に意味合いが符合している。(中略)
 ルテティアとはケルト語で、「水の中の住い」という意味だという。つまりは「中之島」である。確かにシテ島は、セーヌ川に浮かぶ船の形をしている。後ろにサン・ルイ島を従えて、西へ、川上へと、舳先を向けている。先述の「たゆたえども沈まず」というパリの標語と、帆かけ舟のパリの標識は、現実の情景にピタリ一致している。
 ケルト人の住みついたシテ島が、パリの原点、心臓部だとすれば、古代ローマ人の住んだ川南のサント・ジュヌヴィエーヴ山一帯は、カルチエ・ラタンとしてパリの頭脳・知性を形づくる。ローマ人はローマでも、カピトリヌス(カンピドリオ)、パラティヌス(パラティノ)をはじめ「七つの丘」にまず定住した。丘陵地帯が好きだったのである。
 いまその遺跡を、サン・ミシェルとサン・ジェルマン二本の並木大通りが交差するあたりにある、共同浴場跡(紀元200年ころ)に見ることができる。セーヌ川沿いにあるサン・ミシェル駅から並木通りの坂を上っていけば、いやでも左側に目に入る。これに隣接するクリュニー美術館は、中世美術の宝庫であり、ぜひ訪ねたい。クリュニー修道院長館として建てられたものであり、先述のサンス館、マレー地区のジャック・クール館と並んで、15世紀の品良く美しい建物である。
 クリュニー美術館には、第11室にある評判の「貴婦人と一角獣」のタピスリーなどのほかに、第10室と第11室のあいだの「ローマの大部屋」に注目したい。そこにはユピテル神に捧げられた、石柱の一部がある。
それはなんと、ノートル・ダーム大聖堂内陣下から、1711年に発掘されたものである。時代は第2代ローマ皇帝の、ティベリウス帝(在位14~37)のときで、奉献したのはやはりセーヌ川の舟乗りたちであった。そこから私たちは、セーヌ川がすでにローマ(ガロ・ローマ)時代から交通・運輸の動脈であり、舟乗りたちが大きな経済力を持っていたこと、そしてキリスト教文化が文字通りローマ文化の上に成り立っていることを知ることができる。パリの国際性・普遍性も、もともとはここにローマ文化があったからである。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、225頁~229頁)

ノートル・ダーム大聖堂


 「3 パリの原風景――中世のパリ」の「仰ぎ見るノートル・ダーム」(187頁~191頁)

 パリのノートル・ダーム大聖堂は、名実ともにパリの中心である。
 パリをはじめて訪れた人は、まずここに駆けつけ、その端正な姿を飽かず眺め、同時に、セーヌ川を往き来する観光船(バトー・ムーシュ)との取り合わせで、何枚かの写真を撮る。これじゃ絵葉書と同じだなと内心思いながら、しかしカメラを向けさせないではおかない魅力が、ノートル・ダーム大聖堂にはある。
 大聖堂は、セーヌに浮かぶ中之島のシテ島に、スックと立ち上る。そしてパリが政治・行政上、あるいは文化的・経済的な中心であるばかりではなく、精神的にもフランスの中心であることを、堂々と示している。フランスもパリも、歴史上激情のほとばしりを何度も経験したが、ノートル・ダーム大聖堂はつねに穏やかで、つねにバランスが取れ、つねに美しい。
 大聖堂前の広場、「パルヴィ・ノートル・ダーム」は、今は長さ135メートル、幅100メートルの広さがあるが、中世では今の6分の1しかなかった。それが1747年には今の4分の1にまで拡げられ、さらに1865年、オスマン・セーヌ県知事の都市計画によって、現在の形に拡大された。
 ノートル・ダーム大聖堂は1163年から1345年まで、約2百年かけて建立されている。ただし、大聖堂すなわちカテドラルは司教座の置かれている、つまり司教のいる聖堂であるが、1622年まで司教座はサンス(パリの東南118キロ)にあり、パリではない。大聖堂に限らず一般にヨーロッパの教会堂は、大半が中世の最盛期、12、13世紀に建てられたか建てられはじめたかしたものである。しかしもともと教会堂の前に、広場らしい広場は作られなかったのがふつうである。広場がなければ、その全景をカメラに収めることができない。しかしそれは、現代人の歪んだ発想である。
 教会堂の周りには、ノートル・ダーム大聖堂もそうであるが、もともと家が建てこんでいた。教会堂は、遠くから離れて客観的に眺めるものではない。すぐそばから、仰ぎ見るものである。少くともこれを建てた中世人は、そうやって見ていた。広場の必要などなかったのである。
 カテドラル(大聖堂)の真下から真上を仰ぎ見ると、何が見えるか。
 もしそれが晴れた夕方なら、入口上部空間のタンパンで演じられる、夕日に照らし出された石の彫像によるドラマが見えるはずだ。キリスト教は光を求める宗教であり、入口から中央通路(身廊)を真直ぐ奥に行ったところにある祭壇(内陣)は、太陽の出る東を向いている――ノートル・ダーム大聖堂の場合は、少し南に傾いてはいるが――。したがって入口(ファサード)は、当然西向きということになり、夕方にならないと陽光が回ってこない。これは、ヨーロッパのどこの教会堂でも同じである。
 タンパンというフランス語は、楽器のティンパニーとか鼓膜のティンパヌムと同じ語源の建築用語で、教会の入口上部に、ちょうど鼓の上半分のような形をした空間があるところから、名づけられた。ノートル・ダーム大聖堂の場合は、三つあるファサードすなわち入口のうち、右入口のタンパンにある彫刻が、大聖堂のなかでもっとも古く、1170年ころの作である。タンパンには物語やドラマが刻まれており、ノートル・ダーム大聖堂では、左のタンパンが聖母マリア、中央が最後の審判、そして右が聖母マリアとキリストの情景となっている。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、187頁~191頁)

フランス・ルネサンス


 「セカンド・ルネサンス、すなわち第二の稽古の時代」(35頁~37頁)
 パリは中世いらい、フランスの首都という以上にヨーロッパの首都であった。その歴史的事実が、いま新たに強い力を発揮しつつある。なぜなら現代は、過去掘り起し(ルネサンス)の時代だからである。第一のルネサンスはフランスで16世紀前半、そしてイタリアではそれより早く、14・15世紀であった。その意味では、いまセカンド・ルネサンスのときが到来しつつある、といっていい。
 ルネサンスとは再び生まれる、復活、掘り起しの意味である。ファースト・ルネサンス、つまり本来のルネサンスのときは、中世いらいの開墾運動がストップし、穀物の生産量が伸びず、人びとが栄養失調に陥り、病気に対する抵抗力を失って、疫病(ペスト)でバタバタと倒れたときであった。当時は、というより19世紀一杯までは、フランスでも穀食が中心で、肉食ではなかったからである。
 農業技術は成熟し、つぎの農業革命は18世紀初めまで、産業革命にいたっては19世紀半ばまで起らないという先行き不透明の時代にあって、人びとは真剣に生きる知恵を過去に求め、人間の生き方研究に熱中した。ギリシア・ローマの古典が掘り起され、学ばれ、それを肥やしとしてその時代に生かすルネサンス運動がさかんとなった所以である。
 古典を通しての人間の生き方研究こそ、日本で「人文主義」と訳されている、ヒューマニズム、ユマニスムの内容である。フランスの子どもたちが親しむ古代ギリシアの『イソップ物語』は、直接にではなく、17世紀の詩人ラ・フォンテーヌ(1621~95)の『寓話』を通してである。そこには、人間の生き方が書かれているのだ。古(いにし)えを考えて今日に生かすことが、漢字の「稽古」の本当の意味であるが、フランスの16・17世紀は、まさに稽古の時代であった。
 そこで学ぶに値する、クラスでもっとも上等な稽古本、それがクラシック(古典)の本当の意味である。16・17世紀は、フランス人・ヨーロッパ人にとっての古典が生まれた、稽古本の時代であった。因みに、繰り返し学ぶに値する稽古曲が、クラシック曲である。そして先行き不透明のいま、ふたたび稽古の時代が訪れつつある。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、35頁~37頁)

フランス・ルネサンス期の伊達男フランソワ1世


「十六世紀、パリは美しくなり出す」(126頁~127頁)
 このフランス・ルネサンスとともに、16・17世紀から19世紀いっぱいにかけて、それまでの中世パリとは異なった、私たちが美しいと感じる近世・近代パリの顔が形づくられていく。イタリアないし古代ローマの建築・都市プラン・造園術が、そこで積極的に取り入れられる。近代のドイツ人が古代ギリシアに憧れたのに対し(だからこそギリシアでは今でもドイツ語が通じる)、近世・近代のフランス人がつねに帰るべき精神のふるさとは、古代ローマないしはイタリア・ルネサンスであった。
 現在のルーヴル宮の造営をはじめたフランス・ルネサンス期の伊達男フランソワ1世は、彼を養育すると同時に長いあいだ彼の相談相手でもあった母親のルイーズ・ド・サヴォアのために、王宮に隣接する西側の土地を買い取った。そこがのちに、国王の息子アンリ2世の妃カトリーヌ・ド・メディシスがイタリア式庭園を作らせた、かの有名なチュイルリー庭園である(1563年。百年後の1664年、宰相コルベールの命によりル・ノートルによって美化)。
 なおチュイルリーとは、瓦焼きの作業とか作業場の意味である。この土地は王室の所有になるまで、煉瓦焼きの行われていたところであった。レストランで食後のコーヒーといっしょに出てくる、瓦状をした茶色のクッキーが、チュイル(瓦)である。
 このチュイルリー庭園は、イタリアの発想を取り入れフランスにはじめて出来た、散策・遊歩用の庭園である。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、126頁~127頁)

コンコルド広場


「ルイ十五世広場からコンコルド広(和解)場へ」(162頁~166頁)
 コンコルド広場は最初、「ルイ十五世広場」と呼ばれていた。
 ルイ十五世がメッスでかかった病気の全快を祝して、パリ市長ならびに町のお歴々が、国王の騎馬像を建てるため、当時ほとんど水溜り、湿地だったところを、広場に整備したのである。完成は1772年のことであった。騎馬像が建てられた場所には、現在オベリスクが建っている。
 当時のルイ十五世広場は、今日の白々とした感じのコンコルド広場とは違って、もっと緑と花で一杯の、優雅なところであった。周りには幅20メートルの濠が廻らされ、石の橋が六つ掛けられていた。広場の八つの隅には、四阿(あずまや)がしつらえられ、そこから下の濠に、階段で行けるようになっていた。その濠に、花と緑で一杯の庭園が拡がっていたのである。
 ルイ十五世の騎馬像が除幕されたのは、1773年5月20日のことであったが、数日後すぐに悪口が馬の口のところに掛けられた。
  なんとみごとな彫像だろう! なんとみごとな台座だろう!
  徳は台座にあり、悪徳が馬に乗っている。
 日本にも江戸時代の狂歌には、同じようなセンスと心のゆとりがあった。洋の東西を問わず、前近代には戯れ歌を作る趣味があったようで、1721年デュボワ修道院長が枢機卿(すうきけい、カルディナル、大僧正)となったとき、パリ市民たちは早速その異例の出世をひやかして、街中で歌った。
  さて皆さん、お立ち会い
  世にも不思議な話があるものさ
  キリスト様にちと祈りゃ 
  たちまち奇蹟がまた起こり
  イワシもタイに早変り

※「イワシもタイに」は、意訳。
 原文は「サバ(マクロー)もほうぼう(ルージェ)に」となっている。
 マクローは修道院長の服、赤い魚のルージェは、枢機卿の帽子や服の色のことである。
 イワシもタイでも、同じ意味になる。

 1792年8月11日、革命のさなかにルイ十五世像は倒され、融かされてしまった。代りに数カ月後、台座の上に乗ったのは、「自由」像である。手に槍を持ち、赤い帽子をかぶり、ブロンズ色に塗られた石と石膏の像であった。
 広場そのものの名もその年、「革命広場」と改められた。ジロンド派のロラン夫人が処刑されるとき、「自由よ、自由よ、お前の名において何と多くの罪が犯されることか」と述べたのは、この「自由」像を眺めての言葉であった。
 沢山の血を吸った「革命広場」は1795年、「コンコルド(調和、和解)広場」へと、三たび名前を変えた。もちろん、革命の血なまぐさい思い出を消すためである。そして、今日にいたっている。「自由」像も取り除かれ、やがて1836年10月25日、台座の上には現在のオベリスクが建てられた。紀元前13世紀のラムゼス2世時代のもので、ルクソールの廃墟から運ばれた220トンもある神殿の石柱には、古代エジプトの象形文字が一面に彫られている。エジプト太守メフメット・アリが1825年、国王シャルル10世に贈ったものである。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、162頁~165頁)

ルソーとパリ


 「馬車に気をつけろ!」(166頁~171頁)より
 かのジャン・ジャック・ルソーも、馬車にやられている。1776年10月24日のこと、64歳になる一人の老人が、パリのメニルモンタン街で道を横断しようとしていた。とそこへ、一頭の巨大なデンマーク犬に先導されたカロッス(大型四輪馬車)が、「ガール! ガール!(気をつけろ!)」という御者の大声とともに、猛烈な勢いで疾走してきた。老人は犬に突き倒され、その場で仰向けに倒れ、気を失ってしまった。その老人こそ、ルソーであった。大型四輪馬車の主人は後で誰を突き倒したかが分って恐縮し、ルソーのもとに人を遣わし、どのように弁償したらよいかを尋ねた。そのとき、ルソーは一言ポツンと答えたという。
「犬を放してやりなさい」
 ただし、メルシエもルソーの事故を書いており、それによれば、「今後は犬をつないでおいて下さい」と云ったという。(『十八世紀パリ生活誌』(原宏訳))
 正反対の内容であるが、ルソーの事故は確かだとしても、この答えの部分は、両方ともあるいは作り話なのかも知れないという。
 
 18世紀パリの大思想家、ルソーをめぐる作り話はじつに多い。
 「自然に帰れ」という、あまりにもポピュラーな「名言」も、ルソーが云ったり書いたりした証拠はない。彼はテレーズという女中と関係し、正式に結婚しないまま(最後には結婚したが)、5人の子を儲け、つぎつぎと棄児院に捨ててしまった。その名の通り、ジャンジャンと子を捨てたのである。その一方で『エミール』という、じつにすばらしい教育論を書いて、世界の古典となってるのであるから、人間とは矛盾のかたまりだと、つくづく思わざるをえない。
 ある人が、ルソーに出会って云った。
「私は先生の教育論に心酔し、仰言る通りに子どもたちを育てました」
 憮然たる面持で、ルソーは答えて云った。
「それは、まことにお気の毒なことをいたしました」

これも、作り話に違いない。
ルソーは、交通事故から2年後の1778年、パリ郊外のエルムノンヴィルで没している。
7月2日のことであった。同じ年の3月から9月にかけ、モーツァルトがパリに短期滞在している。66歳の不滅の世界的大思想家と、22歳の不滅の世界的天才音楽家が、たとえ地の果てからでも集う町、それが今も変らぬ、世界都市パリの魅力である。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、169頁~171頁)


ルソーと子ども受難時代


 「子ども受難時代」(171頁~173頁)
 「グルグル巻きの赤ん坊」(173頁~174頁)

 ルソーは子どもを捨てたことがよほど気になっていたのか、次のような数字を書き残している。
  パリ 1758年
  死者          19202人
  受洗者         19148人
  結婚           4342組
  捨て子(拾われた子)   5082人
 (『政治断章』、ルソー全集、プレイヤード叢書、ガリマール、パリ、1964年)

 18世紀が子ども受難時代であったことは、ルソー自身の一文によっても明らかにされる。
生まれたばかりの赤ん坊は、首を固定して両脚をまっすぐに伸ばし、両腕を胴体に沿ってピタリと伸ばした状態で、包帯でミイラのごとくグルグル巻きにされる。赤ん坊は、可哀そうに身動きひとつすることができない。
 田舎の乳母などのところに預けられた赤ん坊は悲惨で、乳母は授乳の仕事が済むと、包帯グルグル巻きの赤ん坊を、部屋の隅の古釘か何かに引っかけて、どこかへ行ってしまう。赤ん坊は、それこそ赤くなったり青くなったりである。
 『エミール』第一編で、ルソーはこのように、赤ん坊の災難をリアルに述べる。グルグル巻きは、中世いらいの慣習である。たとえばルーヴル美術館にある、前にも触れたジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593~1652)描く「牧人たちの崇敬」(33ページ参照)は、生まれたばかりのキリストがグルグル巻きにされて、ローソクの光のもと人びとに見つめられ、祝福と礼拝を受けているシーンである。栄養不良の関係から手足が曲ってしまう子どもが少なくなく、それを防ごうとして、添え木で若木をしつけるごとく、手足を伸ばしグルグルと巻いてしまったのではないか、と思う。
 グルグル巻きは生後、7、8カ月までつづけられ、これによって赤ん坊の成育は、どれほど妨げられたことであろうか。森に捨てられる子どもも多く、18世紀はまさに子ども受難時代であった。子どもを猫可愛がりするか子どもを産まないかの現代も、子どもの側に立ってみれば、18世紀に劣らず子ども受難時代である。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、171頁~174頁)

 さて、その33ページには、ラ・トゥールの絵「牧人たちの崇敬」(ルーヴル美術館)の絵が載せられて、次のように述べている。
 フィリップ・アリエスの名著『アンシアン・レジーム下の子どもと家族』(1960年、邦題『<子供>の誕生』杉山光信・杉山恵美子訳、みすず書房、1980年)は全世界の知識人層に読まれたが、そこで描かれたフランス近世の幸せは、子どもを中心に両親が結び合い、そしてその両親一人一人の背後に守護聖者がついているという、「家族宗教の姿」であった。それをそのまま絵に描いたのが、ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593~1652)の「牧人たちの崇敬」である。当時もまた、農業技術はとうの昔に成熟し、産業革命は未だしの、先行き不透明な、長い踊り場の時代であった。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、33頁~34頁)


マリー・アントワネットとパン


「クロワッサンとは、「三日月パン」のこと」(154頁~156頁)

 マリー・アントワネットには、なぜかパンの話がついて廻る。パリのホテルで朝必ず出るクロワッサン、これは彼女が、実家のウィーンからもってきたというのである。(中略)
 クロワッサンというフランス語は、「三日月」のことであり、「三日月パン」の意味である。三日月はイスラム教諸国のしるしであり、クロワッサンの頭文字Cを大文字で書けば、「イスラム教国」の意味である。
 ときに1683年、ウィーンはイスラム教徒の軍勢に、58日間にわたって包囲された。大宰相カラ・ムスタファ指揮のオスマン・トルコ歩兵軍30万が、まさにトルコ・マーチを演奏しながら、10万のウィーン市民を取り囲んだのであった。
 ウィーン市民は恐怖のどん底に陥れられ、数千人の市民が飢えで死んでいった。生きている者はネコ、ロバ、その他、食べられる物は何でも食べて命をつないだのであった。ウィーンの陥落が迫り、いよいよもう駄目となって、市内のパン屋がなけなしの粉をかき集め、やむなくトルコ軍歓迎の意味をこめて焼いたのが、「三日月パン」であった。ところが最後の段階になって、9月12日にドイツ・ポーランド連合軍が駆けつけてウィーンを救い、解放された市民は、今度は勝利を祝って「三日月」パンをムシャムシャ食べてしまった。
 ときは変って1770年5月16日、オーストリア女帝マリア・テレジアの末娘マリー・アントワネットは、14歳でウィーンからヴェルサイユへと輿入れした。その日宿命の夫、15歳の王太子ルイ(16世)との盛大な結婚式が行われたのである。このとき「キプフェル」も彼女とともにあり、今度はパリのパン屋が王太子妃を歓迎する意味で、これを作るようになった、といわれる。名前をキプフェルからクロワッサンに変えて、である。
 クロワッサンは、よほど「歓迎パン」に縁があるようだ。そしていまもパリのホテルは、暖かくて香ばしくて柔らかな、14歳のマリー・アントワネットを思わせるクロワッサンで、私たちを歓迎してくれる。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、154頁~156頁)

コンシエルジュリーとマリー・アントワネットとロラン夫人


「コンシエルジュリーの囚われ人たち」(157頁~160頁)

 マリー・アントワネットは断首台に上るまでの2カ月半、1793年8月2日から10月16日まで、「ギロチン待合室」といわれたコンシエルジュリーに閉じこめられていた。セーヌ川に浮かぶ中之島、シテ島の西半分にある王宮の一部で、14世紀のものである。
 シテ島の右岸(北岸)を、サマリテーヌ百貨店から東へメジスリー河岸を歩けば、そこにコンシエルジュリーが、中世の優美でロマンチックな王宮の姿を、四つの塔とともに眼前一杯に展開してくれる。手前から右端の「ボンベックの塔」、ついでお伽の国の塔のような、丸屋根の「銀の塔」と「セザールの塔」、そして左端の四角い「時計の塔」がそれである。「時計の塔」にはその名の通り、1370年にパリ最初の街頭時計がつけられたが、1793年いらい取り外され、現存しない。
 ふつうコンシエルジュといえば、アパートの入口に住む管理人のことである。郵便物はコンシエルジュが一括して配達人から受け取り、各戸に配る。コンシエルジュの生活費は各戸が負担し、そのほかに、年末とか年始に「おひねり」の付け届けをせねばならない。
 コンシエルジュリーのコンシエルジュは王宮官房長のことであり、彼の統轄する建物という意味である。1392年、ときの国王シャルル6世が狂気の発作を起し、医者の勧めで王宮を離れ、気晴らしのためにマレー地区の「サン・ポール館」に移るとともに、コンシエルジュリーは牢獄となった。フランス革命のときはさらに大改造が行われ、約2千6百人の犠牲者がここで断頭台までの人生最後のときを過すところとなり、美わしくロマンチックな建物に、もっともいまわしく陰惨な、暗いイメージと思い出がつきまとうこととなる。マリー・アントワネットの独房も、塔とは反対側の一面にあり、当時の模様が復元されている。
 ジロンド派の才媛ロラン夫人も、コンシエルジュリーの独房に囚われていた。彼女は美貌と才能に恵まれ、同志議員たちを彼女のサロンに集めて鼓舞するとともに、1792年以降は夫の後ろ楯として、事実上の内務大臣であった。したがって過激派の「山岳派」(モンタニャール)からは、夫以上に敵視され、ついに逮捕されてしまう。断頭台に上った彼女は、つぎの有名な言葉を残したのであった。
  自由の名において、何と多くの罪が犯されることでしょう。
 わずか39歳の、しかし輝かしくも立派な生涯であった。
 マリー・アントワネットが処刑されてから約1カ月後、11月8日のことである。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、157頁~159頁)


フランス革命の標語「フラテルニテ」


「革命のモットーは「兄弟愛」」(147頁~149頁)

 修道院の修道士たちが、出身地、階層その他の違いを超えてみなひとしく「兄弟」であるように、パリのカフェもパリそのものも、やはり巨大な修道院であり、人びとは誰もが平等なパリ市民なのである。
 リベルテ(自由)・エガリテ(平等)と並んで、フランス革命のモットーの一つとなっているフレテルニテは、「兄弟愛」のことで「博愛」ではない。「博愛」に当てはまるのは、フィランソロピーという言葉である。普遍的な人類愛にもとづいて、難民救済とか世界の医療水準や教育レベルの向上、文化や人の交流につとめるのが、英語のフィランソロピーである。
 フランス語のフラテルニテは、「兄弟」を表わすフレールからきている。英語のブラザー、ドイツ語のブルーダーと同じである。中世では商人や手工業者など、職種ごとに同業者が集い、飲んだり食べたりして義兄弟の盃を交わし合い、同業者組合を作った。この組合を表わすコンフレリーという言葉も、「ともに兄弟になり合う」の意味である。
 人間すべてに広く遍くではなく、特定の人と兄弟になり合う「兄弟愛」が、フラテルニテの適訳であるといっていい。(中略)
 1789年のフランス革命における「兄弟愛」とは、この革命を阻止しようとするイギリス、そしてまたそれまで農民に対する支配権を事実上掌握していた国際組織のカトリック教会に対して、フランス国民の結束を呼びかけたものである。というか、当時はまだ地方に生きる意識のほうが一般的で、貴族・都市民・農民三身分の、身分差の意識もまた支配的であった。その地方意識、身分意識に対して、みなひとしく自由・平等な同胞、兄弟同士ではないかと、新たに国民意識を生み出すために用いられた標語が、フラテルニテすなわち「兄弟愛」であった。
 革命によるフランスの近代化、国民国家・近代市民社会の形成は、1789年の大革命によって完成されたのではない。その後も、七月革命(1830年)、二月革命(1848年)と、フランスの国家と社会は右に左に揺れ動き、フランス第三共和制の発足、パリ・コミューン(1871年)までの1世紀が、フランスの近代化のために費やされた。つまりは19世紀も最後の四分の一世紀になって、フランスの輝かしい近代が本格的に開始される。
 それまでの19世紀の大半は、近代に向っての激動期であった。新生児が母体から生まれ出ながら、まだ完全には母体を離れ切ってはいないときであった。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、147頁~149頁)

「自由の木」


「自由の木」(149頁~151頁)
 
 その激動期に、革命が起るたびパリ市民は「自由の木」を市内に植えた。
 フランス語でシェーヌ、英語でオーク、ドイツ語でアイヘといわれる木である。
 これまでわが国では一般に「カシ」の木と訳してきたが、全くの誤りであり、「ナラ」の木が正しい。カシは常緑樹であるが、ナラは落葉樹で、ヨーロッパを代表する樹木の王様である。
 ナラは家屋にも家具にも船にも一般的に使われ、丈夫で長命な木であり、当時、田舎にはどこにでも生えていた。今は、パリの北80キロのコンピエーニュその他、特定の森林に行かないとナラの木は見られない。ナラの森は落葉によって豊かな腐植土を形成し、これを切り拓けば、いい小麦畑になったからである。いまヨーロッパを西から東に貫く豊かな小麦生産地帯は、もともとナラの森が変身したものであるといっていい。
 パリといえばマロニエが有名だが、これはトチの木である。イギリスでホース・チェスナット(馬グリ)、ドイツでカスタニエンという。クリのような実は、秋の歩道に沢山落ちるが、クリのイガは見られない。日本ではトチの実を水でさらし、灰汁で煮てあくを抜き、トチ餅を作ったが、ヨーロッパでは洗濯物を白くするのに用いた。ちなみに、マロン(クリ)・グラッセのクリの木は、フランス語でシャテニエという。また、マロニエと同じく街路樹のプラタナスは、中国の柳絮(りゅうじょ)の如く春先に綿毛のような白い花を一面に飛ばし、幻想の世界を醸し出す。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、149頁~150頁)

レカミエ夫人とダヴィッドとジェラール


「自由の木」(149頁~151頁)
 
 革命に際し、パリ市民が「自由の木」を植えている絵は、カルナヴァレ博物館(セヴィニエ通り23番地)にある。
 ヴォージュ広場の近くであり、それこそ散歩がてらに立ち寄ったらいい。パリの歴史に関する資料が集められているが、なかんずく革命に関する人物像や情景描写の絵画・彫刻など豊富であり、勉強になる。
 革命と直接関係はないが、当時を生きた「レカミエ夫人像」などは、男ならほれぼれする。
 レカミエ夫人(1777~1849)は、リヨン生まれで銀行家の妻となったが、その美貌と愛人の多さで有名である。
 肖像画は最初、ナポレオンの戴冠式の大作を描いたことで有名な、宮廷画家のダヴィッドに依頼されたが、彼女の気に入らず、下絵に終ってしまった(ルーヴル美術館)。
 1805年改めて注文を受けたのが、この画の作者、フランソワ・ジェラール(1770~1837)である。
 彼女28歳の姿は、可愛らしい小さな頭、豊かな胸と腰、なまめかしい素足の爪先(つまさき)が、柔らかな曲線美でまとめ上げられており、ふるいつきたい魅力である。画家35歳の作品で、この絵と向い合っていると、描く方も描かれるほうも、そして時代そのものも若々しく、力強く、生き生きとして、魅力が一杯であったことを肌で感じ取ることが出来る。激動の時代が、五感を鋭敏に研ぎすましたのであろう。
<【挿絵】フランソワ・ジェラール「レカミエ夫人像」カルナヴァレ博物館>
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、150頁~151頁)

セーヌ県知事オスマン


「パリを一変させたセーヌ県知事オスマン」(277頁~280頁)

 このような「世紀末の輝き」が、やがて20世紀を生み出すことになる産業技術の誕生によるものだとすれば、そのパリの輝きを社会的に準備したのが、セーヌ県知事オスマン(1809~91)であった。彼は第二帝政下にナポレオン3世の支持を受け、1853年から1870年初めまで、17年もセーヌ県知事をつとめるあいだ、パリの徹底的な大改造を行った。
 彼は結果として8億フランの負債を残すこととなったが、オペラ座をはじめとする公共建築物の建築、上下水道と橋、広場と道路の整備を、過去の破壊によってつぎつぎと大胆に実現していった。彼の名は、リヴォリ通りの北を東西に走る全長3530メートルのオスマン並木通りに残されている。もちろん彼が1857年に開いたものであり、ミュニック(ミュンヘン)大通りがその犠牲となって消えた。
 それまで、街の多くを占めていたのは中世パリの顔であった。道は細く曲りくねって不規則に走り、市民がバリケードを築いて反乱を起すには、恰好の場であった。それがときの皇帝ナポレオン3世の憂鬱であり、オスマンは皇帝の意向を受け、中世の翳(かげ)を色濃く落すパリを、明るく「風通しのよい」近代パリに一変させたのであった。
 道を太く直線状の、反乱を未然に防げる見通しのよいものとしたのであり、ここに合理主義的・古典主義的な、幾何学的に均整のとれが、現代パリの原型が姿を現わすこととなった。それはまさに、「都市計画」と呼ぶにふさわしい最初の大規模なものであった。(中略)

 凱旋門そのものはナポレオン1世によって、1806年8月15日に着工された。完成はルイ・フィリップの治下、1836年のことである。もともと凱旋門は、かつて戦いに勝利しローマに帰還する皇帝がくぐるべき門であり、したがって市心を背に、市外に向かって建てられている。自らローマ皇帝の後継者たらんとしたナポレオンが、その着工を思い立ったのも無理はない。
 エトワールの凱旋門に上ってみれば、市外にはラ・デファンスの巨大なグランド・アルシュ(新凱旋門)がそびえ立ち、反対側の市内には、シャンゼリゼ大通りの向うに、コンコルド広場、チュイルリー公園、カルーゼルの凱旋門、そしてルーヴル美術館が、ともに一直線上に並んでいる。それは、日本とはまったく異質の感覚であり、大きなスケールの見事な都市計画のあり方には、感嘆させられる。
 カルーゼルの凱旋門も、1805年のナポレオンの戦勝を祝して、1806年から1808年にかけて造られたものである。しかし凱旋門それ自体は、ナポレオンの専売特許ではない。彼の前にもたとえば国王アンリ2世(在位1547~59)は、かつて東のナシオン広場にあったサン・タントワーヌ城門に、凱旋門を建てた。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、277頁~280頁)

ラ・デファンスに関連して


「「新凱旋門」――次の時代のランドマーク」(42頁~43頁)
「百三十五日間のパリ防衛」(44頁~45頁)

 パリ西北郊のラ・デファンスは、「パリのマンハッタン」といわれる超高層のビジネス・センターが出来つつあるが、ここに1989年建設されたグランド・アルシュ(大きな箱舟)、日本語での「新凱旋門」は、そのなかにパリのノートル・ダーム寺院がすっぽりと入る、巨大な正方形である。それはまさに新しいパリへの、あるいは新時代への入口を象徴している。実際はガラスと白大理石の巨大なビルを上方で結んだものであり、それにより、コミュニケーション感覚も同時にイメージされている。世界の人と人とを結び、旧時代と新時代を結び、行政上の在来パリと新しいパリ市圏を結ぶ入口、門である。
 ここから本来の凱旋門(エトワール、ナポレオンの命により1806年にはじまり、国王ルイ・フィリップにより1836年完成)、そしてコンコルド広場は、ほぼ一直線上に見える。ただし冬は天気が悪く、視界が利かずに、見通せないことが多い。一辺110メートルの正方形をなすグランド・アルシュは、19世紀の古い小パリと21世紀の新しい大パリを結ぶ、次の時代のランドマークとなろうとしているといえよう。
 ここから発する大通りは、セーヌ川を渡るヌイイ橋を通って凱旋門、シャンゼリゼ大通りとつづいている。道幅70メートルのシャンゼリゼも、ノートル・ダーム寺院と同じく、この「門」のなかにすんなりと入ってしまう。
 因みに、この設計者はデンマーク人のオットー・フォン・スプレッケルセンで、完成を待たず1987年3月16日、癌で亡くなっている。しかしながらこれもまた、パリが外国人の知恵とエネルギーを貪欲に呑み込みながら、すべてをパリ文化として消化し新たな成長を遂げていく、巨大な胃袋的存在であることを示す一つの事例である。

 ラ・デファンス(国防、防衛)という名は、1870~71年の普仏戦争におけるパリ防衛を記念して、パリで生まれ、パリで死んだ彫刻家のバリアス(Barrias ルイ=エルネスト, 1841~1905)が、1883年、「パリの防衛」と題する彫像を、今のラ・デファンスに隣接する、クールブヴォワの円形広場(ロン・ポワン)に建てたところからきている。いまその彫像は、ラ・デファンス大通りのど真ん中、アガム泉水のほとりに建てられている。(中略)
 普仏戦争により、パリは1870年9月19日から、プロイセンの二つの軍隊によって135日間も包囲された。パリ市民は35万人が194大隊に分れて銃を取り、パリの防衛に当ったが、火攻め、兵糧攻めに遭って、市民は文字通り塗炭の苦しみの下に置かれざるをえなかった。かてて加えて、マイナス摂氏13度(1870年12月22日)という例外的な寒さに襲われ、飢えと寒さによる死者は、その当時、通常の年末ならパリで週に900人なのに対して、5000人も達した。
 このころの具体的な描写は、『ゴンクール日記』や大佛次郎の『パリ燃ゆ』に詳しい。
 食肉はまったく底をつき、市民はネズミや猫、犬を食べて飢えをしのいだ。そしてついに動物園に手が伸び、象が食用としてつぎつぎと殺された。1頭目は12月29日のカストール、2頭目は12月30日のポリックス――いずれも、象の名前である――、3頭目は明けて1871年1月2日のことであった。そして1月28日パリはついに、統一が成り立ったばかりのドイツに降伏するのである。
 しかしその後も、これを不満とするパリ市民は、時の国防政府に抵抗して革命的自治政権(コミューン)を結成し、3月から5月にかけて戦い、「血の週間」に2万人から3万人の犠牲者を出して崩壊した。これが、史上名高いパリ・コミューンである。このときの死者は、なんと1793年から94年にかけての、フランス革命中の恐怖政治下の死者よりも、数が多かった。
 フランス革命は事実上、いわゆる1789年勃発のフランス革命から1871年のパリ・コミューンまで、約1世紀を必要としたのであった。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、42頁~45頁)

【ラ・デファンスのグランド・アルシュの写真】(筆者撮影 2004年)


「門」の思想


「「門」の思想」(49頁~51頁)

 ラ・デファンスのグランド・アルシュと同じような「門」、入口、玄関、コミュニケーションの発想は、パリ市内の新建築に、随所に見出すことができる。
 たとえば、同じく1989年に完成したバスチーユ広場の新オペラ座、並びに市心のルーヴル宮から同じく東南のベルシー地区に移った新大蔵省は、いずれもコの字を縦にした入口部分を具えている。フランス大蔵省の場合はグランド・アルシュに似て、道を建物の中に取り込んだ形となっている。
 因みに、1998年に淡路島と本州の間に明石大橋が架けられるのを記念して、フランスから贈られる日仏友好モニュメントも、80メートルのガラスの柱の上に、300メートル余の青銅の板を渡し、柱の礎石には1億年前のフランスの花崗岩を使うというものである。ここでも門、入口、玄関、そして橋・コミュニケーションという、現代フランス人の心を捉えるイメージが、鮮明に表現されている。
 その、コミュニケーション(フランス語ではコミュニカシオン)とは何なのだろうか。
頭文字にあるコム comという字は、ラテン語のクム cumからきており、英語で云えばウィズ、つまり「ともに」の意味である。一人で生きるのは寂しく不安だから、あなたと一緒に生きましょうという意味での「ウィズ・ユー」、すなわち「つなぎ」とか「結び合い」こそ、コミュニケーションの本義である。
 コミュニケーションを求める心とは、現代人に共通する個々人の孤独感・不安感である。ひとり生きうる自信があれば、コミュニケーション感覚は不必要である。現代フランスの歴史学界でしきりと使われる言葉に、コンヴィヴィアリテ(convivialité)がある。新語であるからふつう辞書には見当たらないが、コンヴィーヴ(convive, 会食者)から出た言葉である。ともに食事し合う者同士のように、違いは違いとして認め合いながら、親しみ相和して仲良くやっていこうとする心が、コンヴィヴィアリテである。
 嫁・姑のケンカもそうであるが、環境・文化・風土を異にする者同士が出会い、触れ合えば、必ずといっていいほど説明のつかぬ苛立ち、摩擦が発生する。違いを違いとして認め合うということは、理屈ではなく情感に属する問題だけに、現実にはなかなか難しい。その心を互いに開くために不可欠なのは、互いに食べ合ったり飲み合ったりして、楽しい時間と空間を互いに重ね合わせる努力である。さあ友だちになろうと、目を三角にして握手しても効き目はないが、一緒に食事し合えば、心は自ら開けてくる。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、49頁~51頁)

≪フランスの歴史(下)~高校世界史より≫

2023-08-27 19:00:03 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪フランスの歴史(下)~高校世界史より≫
(2023年8月27日投稿)

【はじめに】


 今回のブログでは、高校世界史において、フランスの歴史(フランス革命後から現代)について、どのように記述されているかについて、考えてみたい。(ただし、字数制限のため割愛したところがある)
 参考とした世界史の教科書は、次のものである。

〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]
〇木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]

 また、前者の高校世界史教科書に準じた英文についても、見ておきたい。
〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]

 なお、次回のブログにおいて、「フランスの歴史」の補足をしておきたい。




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・フランスの歴史(フランス革命後)の記述~『世界史B』(東京書籍)より
・フランスの歴史(フランス革命後)の記述~『詳説世界史』(山川出版社)より
・英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より






フランスの歴史(フランス革命後)の記述~『世界史B』(東京書籍)より


第15章 欧米における工業化と国民国家の形成
4 フランス革命とウィーン体制


【フランス革命の背景】
革命前の旧体制(アンシャン=レジーム, Ancien Régime)では、身分制のもとで第一身分(聖職者)と第二身分(貴族)は国土の大半と重要官職を占有しながら、免税特権をもっていた。人口の9割以上にあたる第三身分(平民)のなかでは、事業に成功した豊かなブルジョワ階層が経済活動の自由を求める一方、大部分を占めた農民は領主への地代や税負担に苦しみ、都市民衆もきびしい生活を送っていた。
 18世紀後半には、イギリスとの対抗上も、社会や経済の改革、とくに戦費負担からくる国庫赤字の解消と財政改革が必要であった。改革派には、身分や立場のちがいを問わず啓蒙思想の影響が広まっていた。ルイ16世(Loui XVI, 在位1774~92)は、重農主義者テュルゴ(Turgot, 1727~81)や銀行家ネッケル(Necker, 1732~1804)など改革派を登用して財政改革を試みたが、課税を拒否する貴族など特権集団の抵抗で、逆に政治的な危機が生じた。しかも、凶作などを原因とする経済的・社会的な危機が重なった。

【立憲王政から共和政へ】
危機回避のために国王が招集した三部会は、1789年5月、ヴェルサイユで開会されたが、議決方式をめぐる対立から議事に入れなかった。平民代表は『第三身分とは何か』の著者シェイエス(Sieyès, 1748~1836)の提案で、第三身分の部会を国民議会と称し、憲法制定まで解散しないことを誓った(球戯場の誓い)。国王は譲歩してこれを認め、聖職者や貴族からも同調者が合流して憲法制定国民議会が成立したが、反動派に動かされた国王は、軍隊でおさえこもうとした。武力制圧の危険を感じたパリの市民は、1789年7月14日、バスティーユ要塞を襲って武器弾薬の奪取に成功した。この報が伝わると、各地で農民が蜂起し、領主の館を襲撃した。8月、国民議会は封建的特権の廃止と人権宣言の採択をあいついで決めた。ここに旧体制は崩壊し、基本的人権・国民主権・所有の不可侵など、革命の理念が表明された。
 地方自治体の改革や教会財産の没収、ギルドの廃止など、当初はラ=ファイエット(La Fayette, 1757~1834)やミラボー(Mirabeau, 1749~91)など自由主義貴族の主導下に、1791年憲法が示すように立憲王政がめざされた。しかし憲法制定の直前、国王一家がオーストリアへ亡命をくわだてパリに連れもどされるヴァレンヌ逃亡事件がおこり、国王の信用は失墜した。
 1791年に発足した制限選挙制による立法議会では、立憲王政のフイヤン派(Feuillants)をおさえて、ブルジョワ階層を基盤にした共和主義のジロンド派(Girondins)が優勢となった。ジロンド派は、1792年春、内外の反革命勢力を一掃するためにオーストリアに宣戦布告し、革命戦争を開始した。革命軍が不利になると、全国からパリに集結した義勇兵と、サン=キュロットとよばれる民衆は、反革命派打倒をうたってテュイルリー宮殿を襲撃し(八月十日事件)、これを受けて議会は王権を停止した。男性普通選挙制によって新たに成立した国民公会では共和派が多数を占め、王政廃止と共和政が宣言された(第一共和政、1792~1804)。

【革命政治の推移とナポレオン帝政】
1793年1月にルイ16世が処刑され、春には内外の戦局が危機を迎えるなか、国民公会では、急進共和主義のジャコバン派(Jacobins、山岳派)が権力を握った。ジャコバン派は、封建的特権の無償廃止を決め、最高価格令によって物価統制をはかった。しかし、民主的な1793年憲法は平和到来まで施行が延期され、革命の防衛を目的に権力を集中した公安委員会は、ロベスピエール(Robespierre, 1758~94)の指導下にダントン(Danton, 1759~94)ら反対派を捕らえ、反革命を理由に処刑した(恐怖政治)。
 強硬な恐怖政治はジャコバン派を孤立させ、1794年7月、今度はロベスピエールらが、穏健共和派などの政敵によって倒された(テルミドールの反動)。革命の終結を求める穏健派は1795年憲法を制定し、制限選挙制にもとづく二院制議会と、5人の総裁を置く総裁政治が成立した。しかし、革命派や王党派の動きもあって政局は安定せず、革命の成果の定着と社会の安定を求める人々は、より強力な指導者の登場を求めた。この機会をとらえたのが、革命軍の将校として頭角をあらわしたナポレオン=ボナパルト(Napoléon Bonaparte)であった。
 イタリア遠征により対仏大同盟に打撃を与え、ついでエジプト遠征で名をあげていたナポレオンは、1799年11月9日(共和暦ブリュメール18日)、クーデタで統領政府を樹立すると、自ら第一統領となって事実上の独裁権を握った。1802年に終身統領となったナポレオンは、04年5月には国民投票によって皇帝に即位した(第一帝政)。
 ナポレオンは、ローマ教皇と宗教協約(コンコルダート(Concordat)、1801)を結んでカトリック教会と和解し、貴族制(1808)を復活させる一方、フランス銀行の設立(1800)など行財政や教育制度の整備を推進し、さらに近代市民社会の原理をまとめた民法典(ナポレオン法典、1804.3)を制定し、革命の継承を唱えた。
 革命理念によるヨーロッパ統一をかかげるナポレオンにとって、最大の敵はイギリスであった。イギリスは、1802年に結ばれた英仏和平のアミアン条約を翌年に破棄し、対立を強めた。トラファルガー沖の海戦(1805)でイギリスにやぶれたナポレオンは、大陸制圧に転じ、1806年には西南ドイツ諸国を保護下に置いてライン同盟(Rheinbund)を結成させ、神聖ローマ帝国を名実ともに解体した。同年にベルリンで出した大陸封鎖令は、大陸諸国とイギリスとの通商を全面的に禁止し、イギリスに対抗して、大陸をフランスの市場として確保しようとするものであった。

【国民意識の形成】

 フランスによる大陸制圧は、フランス以外の各地にもこのような考え方を広める一方、侵略者フランスに対するナショナリズム(nationalism)をめばえさせることになった。スペインの反乱は、フランス軍をゲリラ戦の泥沼にひきこんだ。国家滅亡の危機に瀕したプロイセンではシュタイン(Stein, 1757~1831)やハルデンベルク(Hardenberg, 1750~1822)が、行政改革や、農民解放など一連のプロイセン改革を実施し、フィヒテ(Fichte, 1762~1814)は連続講演「ドイツ国民に告ぐ」を通して国民意識の覚醒をうったえた。
 大陸封鎖令で穀物輸出を妨害されたロシアが離反すると、ナポレオンは1812年に遠征してモスクワを占領したが、ロシア軍の焦土作戦と反撃にあって敗退した。これを機に諸国民が一斉に解放戦争に立ちあがり、1813年、ライプツィヒの戦い(諸国民戦争)でフランス軍をやぶり、翌年にはパリを占領した。ナポレオンは退位してエルバ島に幽閉され、ルイ18世(Louis XVIII, 在位1814~24)が即位して、フランスにはブルボン朝が復活した。1815年、エルバ島を脱出したナポレオンは一時再起したが(百日天下)、ワーテルローの戦いで大敗し、今度は大西洋の孤島セントヘレナに流され、孤独のうちに没した。

【ウィーン体制の成立】
1814年にナポレオンが没落してのち、フランス革命以来の混乱を収拾するため、ヨーロッパ諸国の代表がウィーンに集まった。オーストリアの外相(のち首相)メッテルニヒ(Metternich, 1773~1859)を議長としたウィーン会議は、はじめ大国間の利害対立のため難航したが、翌15年、ナポレオンの再挙兵を機にようやく議定書の調印が実現した。フランス革命以前の政治秩序を正統のものとし、それを回復させようという正統主義が原則として採用され、大国の勢力均衡による国際秩序の平和的維持が追求された。これをウィーン体制という。(下略)

【ナショナリズム・自由主義・ロマン主義】
フランス革命とナポレオン戦争の時代に各地でめばえたナショナリズムは、広く国民の一体性と自主的な政治参加を求める点で、ウィーン体制とは対立し、自由主義とつながる側面をもっていた。19世紀には、多民族国家のオーストリアやオスマン帝国内で少数派の位置にあった人々は、自治権や独立を求める運動をおこした。また小国家群に分裂していたドイツやイタリアでは、政治的統一を求める動きが活発になっていった。
 ナショナリズムの台頭は、民族の歴史的個性や伝統、人間の熱情や意志を称揚するロマン主義(Romanticism)の思潮とも呼応しあった。ロマン主義は、19世紀ヨーロッパの政治、文学、芸術など、広い分野で基調をなす考え方となり、いっぽうでは過去を美化する尚古趣味や、国土の自然や民族(国民)文化の称揚などにあらわれ、他方では、自己犠牲や英雄崇拝、社会変革への夢とも結びついて、ナショナリズムと呼応しあったのである。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、277頁~282頁)

第15章5 自由主義の台頭と新しい革命の波


【フランス七月革命とその反響】
復古王政下のフランスで、ルイ18世のつぎに即位したシャルル10世(Charles X, 在位1824~30)は、国外ではギリシア独立を支持する一方、アルジェリアには軍事侵攻して植民地化を開始させ、内政では貴族を保護する反動政治を王党派内閣に実行させた。1830年7月、王が議会を強行解散し、選挙権のいっそうの制限強化や言論統制をうちだすと、パリ市民と民衆は蜂起し、王は亡命した(七月革命)。しかし、銀行家など上層市民は革命の激化を恐れて共和派をおさえ、オルレアン公ルイ=フィリップ(Louis Philippe, 在位1830~48)を王とする立憲王政を成立させた(七月王政)。(下略)
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、284頁~285頁)

【1848年諸革命の衝撃】
1846年からの凶作と47年の経済恐慌を背景に、革命と蜂起の大波がヨーロッパの各地をとらえ、ウィーン体制を完全に崩壊させることになる。
 七月王政下のフランスでは工業化がすすんだが、国政は制限選挙制のもと、一部の上層市民のみが主導していた。これを批判して選挙権拡大を要求する、共和派市民や労働者による政治運動が高揚するなか、1848年2月、この運動を弾圧する政府に対し、パリ民衆が蜂起して市街戦となった。結局、国王ルイ=フィリップが退位して共和派の臨時政府が樹立された(第二共和政、1848~52)。これがフランスの二月革命である。
 革命後の臨時政府には社会主義者のルイ=ブランも参加し、失業者救済のための国立作業場を設置するなど改革に努めたが、男性普通選挙による48年4月の国民議会選挙では、社会主義派はやぶれ、穏健共和派が大勝した。保守化した政府に抗議した労働者の武装蜂起は鎮圧され(六月蜂起)、新憲法のもとで実施された12月の大統領選挙では、ナポレオンの甥であるルイ=ナポレオン(Louis Napoléon, 1808~73)が当選した。彼は1851年にクーデタによって権力を握ると、翌52年に国民投票によって皇帝になり、ナポレオン3世と称した(第二帝政、1852~70)。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、286頁~287頁)

【19世紀半ばまでの文化と思潮】
この時期のヨーロッパ諸国では、それまではおもに特権階層のものであったオペラやバレエ、コンサートなどが、都市の劇場で広く上演されるようになり、中間市民層も楽しむようになった。印刷の機械化や製紙法の進歩は、書物や新聞の普及につながり、博物館や美術館も、一種の社会教育の装置として各地で設置されはじめた。
 19世紀の思潮・学芸ではロマン主義が一つの底流をなしたが、18世紀のルソー(Rousseau, 1712~78)や、ドイツのゲーテ(Goethe, 1749~1832)やシラー(Shiller, 1759~1805)の「疾風怒濤」運動にその萌芽がみられ、19世紀になるとイギリスの詩人バイロン(Byron, 1788~1824)や、バイロンを称賛したロシアの詩人プーシキン(Pushkin, 1799~1837)、フランス七月革命に共感したドイツの詩人ハイネ(Heine, 1797~1856)、共和主義を支持したフランスのユゴー(Hugo, 1802~85)など、ロマン派の国民的作家が登場した。
 音楽ではベートーヴェン(Beethoven, 1770~1827)が先駆となり、シューベルト(Schubert, 1797~1828)やショパン(Chopin, 1810~49)が形成したロマン派音楽からは、スメタナ(Smetana, 1824~84)のような民族性の強い作曲家もあらわれた。絵画ではドラクロワ(Delacrois, 1798~1863)らが、調和を重視した古典主義や歴史主義の様式をやぶる色彩や同時代的テーマを採用した。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、288頁)

第18章 世界戦争の時代
6 第二次世界大戦


【フランスの降伏と独ソ戦】
 1940年春、ドイツ軍は西部戦線で行動をおこし、4月にデンマーク、ノルウェー、5月にはオランダ、ベルギーから北フランスに侵攻した。6月になると、イタリアがドイツの優勢をみて英仏に宣戦し、ドイツ軍はパリを占領し、フランスは降伏した。フランスの西北部はドイツ軍に占領され、南部はドイツに協力するペタン元帥(Pétain, 1856~1951)のヴィシー政府(1940
~44)が統治することになった。しかし、ド=ゴール将軍(De Gaulle, 1890~1970)を中心とする抗戦派はロンドンに自由フランス政府をつくり、国民に抵抗運動(レジスタンス Résistance)をよびかけた。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、379頁)

フランスの歴史(フランス革命後)の記述~『詳説世界史』(山川出版社)より


フランス革命とナポレオン
第10章 近代ヨーロッパ・アメリカ世界の成立
3 フランス革命とナポレオン


【フランス革命の構造】
アメリカ独立革命につづいて、有力な絶対王政の国であったフランスで、旧制度(アンシャン=レジーム)をくつがえす革命がおこった。
革命以前の国民は、聖職者が第一身分、貴族が第二身分、平民が第三身分と区分されたが、人口の9割以上は第三身分であった。少数の第一身分と第二身分は広大な土地とすべての重要官職をにぎり、免税などの特権を得ていた。各身分のなかにも貧富の差があり、とくに、第三身分では、その大部分を占める農民が領主への地代や税の負担のために苦しい生活をおくる一方、商工業者などの有産市民層はしだいに富をたくわえて実力を向上させ、その実力にふさわしい待遇をうけないことに不満を感じていた。そこに啓蒙思想が広まり、1789年初めには、シェイエス(Sieyès, 1748~1836)が『第三身分とは何か』という小冊子で、第三身分の権利を主張した。

フランス革命(1789~99)は、こうした状況下に王権に対する貴族の反乱をきっかけに始まったが、有産市民層が旧制度を廃棄して、その政治的発言力を確立する結果となった。農民・都市民衆は旧制度の廃棄に重要な役割をはたしたが、同時に、有産市民層が推進した資本主義経済にも反対した。フランス革命はこのように、貴族・ブルジョワ(有産市民)・農民・都市民衆という四つの社会層による革命がからみあって進行したために、複雑な経過をたどることになった。

【立憲君主政の成立】
イギリスとの戦争をくりかえしたフランスの国家財政はいきづまり、国王ルイ16世(Louis XVI, 在位1774~92)はテュルゴー(Turgot, 1727~81)・ネッケル(Necker, 1732~1804)らの改革派を起用して、特権身分に対する課税などの財政改革をこころみた。しかし、特権身分が抵抗したため、1615年以来開かれていなかった三部会が招集されることになった。

1789年5月、ヴェルサイユで三部会が開かれたが、議決方法をめぐって特権身分と第三身分が対立した。6月、第三身分の議員は、自分たちが真に国民を代表する国民議会であると宣言し、憲法制定までは解散しないことを誓った(「球戯場(テニスコート)の誓い」)。特権身分からも同調者があらわれると、国王も譲歩してこうした動きを認めた。国民議会は憲法の起草を始めたが、まもなく国王と保守的な貴族は、武力で議会を弾圧しようとした。この頃パンの値上がりに苦しんでいたパリの民衆は、これに反発して圧政の象徴とされたパリのバスティーユ牢獄を7月14日に攻撃した。この事件後、全国的に農民蜂起がおこり、貴族領主の館が襲撃された。

1791年9月、一院制の立憲君主政を定め、選挙権を有産市民に限定した憲法が発布され、国民議会は解散となった。しかし、このときすでに国王はヴェレンヌ逃亡事件の結果、国民の信頼を失っていた。

【戦争と共和政】
1791年10月に開かれた立法議会では、革命のこれ以上の進行を望まない立憲君主派と、大商人の利害を代表して共和政を主張するジロンド派(Girondins)が対立した。国内外の反革命の動きが活発になると、共和派の勢力が増大し、92年春にはジロンド派が政権をにぎり、革命に敵対的なオーストリアに宣戦した。しかし、軍隊は士官に王党派が多数含まれていて戦意に欠け、オーストリア・プロイセン連合軍がフランス国内に侵入した。この危機に際し、パリの民衆と全国から集まった義勇軍は、92年8月、国王のいたテュイルリー宮殿をおそい、王権を停止させた(8月10日事件)。9月、あらたに男性普通選挙による国民公会が成立し、王政の廃止、共和政の樹立が宣言された(第一共和政)。その直前には、フランス軍が国境に近い小村ヴァルミーでプロイセン軍にはじめて勝利をおさめた。

国民公会では、急進共和主義のジャコバン派(Jacobins)が力を増し、ルイ16世は1793年1月に処刑された。革命がイギリス国内に波及することを警戒していたイギリス首相ピット(Pitt, 1759~1806)は、フランス軍がベルギー地方に侵入したのに対抗してフランス包囲の大同盟(第1回対仏大同盟)をつくった。このためフランスは全ヨーロッパを敵にまわすこととなり、国内でも西部地方で、王党派と結びついた農民反乱(ヴァンデーの反乱)が広がった。

【革命の終了】
ジャコバン派の没落後、穏健共和派が有力となり、1795年には制限選挙制を復活させた新憲法により、5人の総裁からなる総裁政府が樹立された。しかし、社会不安は続き、革命ですでに利益を得た有産市民層や農民は社会の安定を望んでいた。こうした状況のもと、混乱をおさめる力をもった軍事指導者としてナポレオン=ボナパルト(Napoléon Bonaparte, 1769~1821)が頭角をあらわした。ナポレオンは96年、イタリア派遣軍司令官としてオーストリア軍を破って、軍隊と国民のあいだに名声を高め、さらに98年には、敵国イギリスとインドの連絡を断つ目的でエジプトに遠征した。

1799年までにイギリスがロシア・オーストリアなどと第2回対仏大同盟を結んでフランス国境をおびやかすと、総裁政府は国民の支持を失った。帰国したナポレオンは同年11月に総裁政府を倒し、3人の統領からなる統領政府をたて、第一統領として事実上の独裁権をにぎった(ブリュメール18日のクーデタ)。1789年以来10年間におよんだフランス革命はここに終了した。

自由と平等を掲げたフランス革命は、それまで身分・職業・地域などによってわけられていた人々を、国家と直接結びついた市民(国民)にかえようとした。革命中に実行されたさまざまな制度変革と革命防衛戦争をつうじて、フランス国民としてのまとまりはより強まった。こうして誕生した、国民意識をもった平等な市民が国家を構成するという「国民国家」の理念は、フランス以外の国々にも広まるとともに、フランス革命の成果を受け継いだナポレオンによる支配に対する抵抗の根拠ともなった。

【皇帝ナポレオン】
ナポレオンは、革命以来フランスと対立関係にあった教皇と1801年に和解し、翌年にはイギリスとも講和して(アミアンの和約、1802)、国の安全を確保した。内政では、フランス銀行を設立して財政の安定をはかり、商工業を振興し、公教育制度を整備した。さらに04年3月、私有財産の不可侵や法の前の平等、契約の自由など、革命の成果を定着させる民法典(ナポレオン法典)を公布した。02年に終身統領となったナポレオンは04年5月、国民投票で圧倒的支持をうけて皇帝に即位し、ナポレオン1世(Napoléon I, 在位1804~14,15)と称した(第一帝政)。

1805年、イギリス・ロシア・オーストリアなどは第3回対仏大同盟を結成し、同年10月にはネルソン(Nelson, 1758~1805)の率いるイギリス海軍が、フランス海軍をトラファルガーの海戦で破った。しかしナポレオンは、ヨーロッパ大陸ではオーストリア・ロシアの連合軍をアウステルリッツの戦い(1805.12, 三帝会戦)で破り、06年、みずからの保護下に西南ドイツ諸国をあわせライン同盟を結成した。またプロイセン・ロシアの連合軍を破ってティルジット条約(1807年)を結ばせ、ポーランド地方にワルシャワ大公国をたてるなど、ヨーロッパ大陸をほぼその支配下においた。

この間、ナポレオンはベルリンで大陸封鎖令を発して(1806年)、諸国にイギリスとの通商を禁じ、フランスの産業のために大陸市場を独占しようとした。彼は兄弟をスペイン王やオランド王などの地位につけ、自身はオーストリアのハプスブルク家の皇女と結婚して家門の地位を高めるなど(10年)、その勢力は絶頂に達した。封建的圧政からの解放を掲げるナポレオンの征服によって、被征服地では改革がうながされたが、他方で外国支配に反対して民族意識が成長した。まず、スペインで反乱がおこり、またプロイセンでは、思想家のフィヒテ(Fichte, 1762~1814)が愛国心を鼓舞する一方、シュタイン(Stein, 1757~1831)・ハルデンベルク(Hardenberg, 1750~1822)らが農民解放などの改革をおこなった。

ナポレオンは、ロシアが大陸封鎖令を無視してイギリスに穀物を輸出すると、1812年に大軍を率いてロシアに遠征したが、失敗に終わった。翌年、これをきっかけに、諸国は解放戦争にたちあがり、ライプツィヒの戦い(諸国民戦争)でナポレオンを破り、さらに翌14年にはパリを占領した。彼は退位してエルバ島に流され、ルイ16世の弟ルイ18世(Louis XVIII, 在位1814~24)が王位についてブルボン朝が復活した。翌15年3月、ナポレオンはパリに戻って皇帝に復位したが、6月にワーテルローの戦いで大敗し、南大西洋のセントヘレナ島に流された。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、248頁~255頁)



英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より



Chapter 15
Industrialization in the West and the Formation of Nation States
4 French Revolution and the Vienna System



■Back Ground of the French Revolution
The Ancient Regime (アンシャン=レジーム) before the French Revolution was a strongly controlled society consisting of the three estates. The first estate (the clergy, 第一身分) and second estate (nobles, 第二身分) seized most parts of national land, important government posts, and also tax free privilege. In the third estate (commoners, 第三身分) was more than 90 percent of the population. Some of them, who were bourgeois and built successful businesses, asked for liberal economic activity, but
farmers, who were the largest group in the third estate, bore rent charge and tax burden to
the feudal lord. Urban ordinary people also led a hard life.
In the latter part of the 18 th century, social and economic reform, especially budget
reform and elimination of the budget deficit, which came from the financial burden of war,
were required in order to compete against Britain. The influence of the Enlightenment
thought spread to the reformists regardless of estate and position, and Louis XVI (ルイ16世) attempted
budget reform by using reformists such as Turgot (テュルゴ), a physiocrat, and Necker (ネッケル),
a banker. However, a political crisis occurred because of resistance from the privileged groups, such
as the nobles, who rejected the imposition of tax. Also the poor harvest coincidentally
caused economic and social crisis.

■From Constitutional Kingdom to Republicanism
The Estates-General (三部会) called by the king in order to avoid crises were held in Versailles
in May 1789. However, the proceedings were not started because of conflict over the
system of decision. The representative of commoners pledged not to break up the National
Assembly, which had been named as the assembly of the third estate, until formulation
of a constitution (Tennis Court Oath, 球戯場の誓い), at the proposal of Sieyes, the author of What is
Third Estate?(第三身分とは何か) The king took a step back to acknowledge it. Some followers from the clergy and nobles participated in the Assembly. Then National Constituent Assembly was realized.
However the king, driven by opponents, tried to overwhelm it with military. Paris citizens,
who felt the military suppression, attacked the Bastille Fort (バスティーユ要塞), and succeeded in
dispossessing weapons and ammunition on July 14, 1789. When this information spread, farmers rose up
in revolt in various regions and descended on wealthy landlords. In August, the National
Assembly successively adopted abolition of feudal privileges and the Declaration of
Human Rights (人権宣言). The Ancient Regime collapsed, and ideas of reform, such as fundamental
human rights, popular sovereignty, inviolability of ownership, etc. were stated.
At first the revolution aimed at constitutional monarchy as shown in the constitution
in 1791 on the initiative of liberalists from nobles like La Fayette (ラ=ファイエット) and Mirabeau
(ミラボー), in order to reform local authority, confiscate church property, abolish guilds, etc. Just before
formulation of the constitution, the incident occurred. It was called the Escape to Varenne
that the king’s family attempted to escape to Austria, and was brought back to Paris. It
made people lose trust in the king.
In 1791 the Legislative Assembly by limited election was set up. In the legislative
assembly the republican Girondins (ジロンド派) based on bourgeois predominated over
the Feuillants (フイヤン派) advocating a constitutional monarchy. In 1792, the Girondins declared
war against Austria in order to clear domestic and foreign counterrevolutionaries, and started the revolutionary war. When the war went against the revolutionary army, volunteer soldiers, who gathered
in Paris from all over the country, and people called san-culotte attacked the Tuileries
Palace (the insurrection of 10 August 1792) to defeat counterrevolutionary people. In response
to this, the Legislative Assembly interdicted sovereign power. In the National Convention,
which consisted of the representatives elected by the new universal manhood suffrage,
the republic party had a majority, and the abolition of kingship and the establishment of
republican government were declared (the First Republic, 第一共和政).

■Transition of Revolutionary Politics and the Napoleonic Empire
Louis XVI was executed in January 1793. In spring the Jacobins, radical republicans,
took power in the National Convention during when the tide of the internal and external
wars turning against the French army. The Jacobins (ジャコバン派) determined gratuitous abolition of
feudal privileges, and attempted price control by a maximum price order. Enforcement of
the democratic constitution of 1793 was postponed until the coming of more peaceful times.
The Committee of Public Safety (公安委員会), which concentrated power for the purpose of defense of
revolution, captured opponents including Danton (ダントン) under the mentorship of Robespierre
(ロベスピエール), and executed them because of counterrevolution (the Reign of Terror, 恐怖政治).
The extreme reign of terror made the Jacobins isolated. In July 1794 Robespierre and his
radical followers were defeated by the political enemy like the moderate Republicans in
turn (the Thermidorian Reaction, テルミドールの反動). Moderates, who sought the end of revolution,
established the 1795 constitution, and a bicameral legislature based on the limited election system
and the Directory with five Directors were established. The political situation was not
stable because of movement of revolutionaries and royalists. People, who sought to fix
revolutionary achievements and social stability, demanded a stronger leader. The person
who took this opportunity was Napoleon Bonaparte (ナポレオン=ボナパルト), who made his mark
as a general of the revolutionary army.
Napoleon, who damaged the coalition against France with expeditions to Italy and
Egypt, gained more and more prominence. On November 9, 1799 (18 Brumaire, the French
Revolutionary calendar), he established a new government, the Consulate, and seized
autocracy by appointing himself as the first Consulate in 1802, he then took over the
emperor by the referendum in 1804 (the French First Empire, 第一帝政).
<Coronation of Joséphine by Napoleon (by David) >

Napoleon restored the aristocracy; signed Concordat with the Pope; reconciled with
the Catholic Church; established the Bank of France; and promoted administrative and
financial improvement and improvement of education system. Moreover, he established the
civil code (the Napoleonic Code, ナポレオン法典) which compiled the principle of modern society.
Then he advocated the inheritance of revolution.
The main enemy of Napoleon was Britain, since the he wished to unify Europe with the idea
of revolution. The next year Britain broke the peace Treaty of Amiens between Britain
and France, which was signed in 1802, and they adopted a more confrontational stance
with each other. Napoleon, who was defeated by Britain at the Battle of Trafalgar, turned
to conquer the continent. In 1806 he signed the Confederation of the Rhine (ライン同盟) by means of
putting southwestern Germany under the care. He dissolved the Holy Roman Empire. The
continental blockade (大陸封鎖令) was issued in Berlin in the same year, and it thoroughly prohibited
trade between continental countries and Britain. This was to secure the continental market
for France to compete against Britain.

■Formulation of National Consciousness
During the French Revolution, the principals of nation states (国民国家の原則) were announced based on the ideas of freedom and equality. Before the revolution, people led a life as part of group
defined by such as occupational ability, regions and estates of the realm, and the state
governed the society through these groups.
The revolution abolished these autonomous groups and estates of the realms, and
then it sought to connect individuals as the people to the state. Under the Revolution,
the French Revolutionary calendar (革命暦) replaced the Gregorian calendar, and the prefectural
system was introduced instead of the provincial system. Also the system such as the metric
one with mathematical rationality was introduced as a unified scale to measure time and
space. Moreover, national language education was emphasized by means of denying
regional languages. Through these circumstances, a politics for the formation of national
consciousness began to be sought.
Control of the continent by France spread this way of thinking in various regions. On the
other hand, nationalism was developed against France as an invader. The revolt in Spain
drew the French army into guerrilla war. Although Prussia was on the verge of the fall of
state, Stein (シュタイン) and Hardenberg (ハルデンベルク) implemented a series of
Prussian reform of the administration and agriculture. Fichte (フィヒテ) appealed for
awareness for national consciousness through a series of lectures on ‘Reden an die deutsche
Nation’(Addresses to the German Nation, ドイツ国民に告ぐ).
Once Russia seceded because of interruption of crop export according to
Napoleon’s continent blockage, Napoleon took over Moscow in 1812. However he was
defeated by Russian counter-attack and the scorched earth operation. On this occasion,
people in various countries rose up in liberation war against France all at once, and then
they defeated French army in the Battle of Leipzig (the Battle of the Nations, 諸国民戦争)
in 1813. The next year they occupied Paris. Napoleon abdicated and was confined to Elba.
Then, Louis XVIII ascended the throne to revive the Bourbon dynasty of France. In 1815, Napoleon
escaped from Elba to recover his power (the Hundred Days, 百日天下), but Napoleon’s army lost the
Battle of Waterloo. He was exiled to St. Helena, an isolated island in the Atlantic Ocean,
this time, and he died a lonely figure.

■Formation of the Vienna System
After Napoleon was defeated in 1814, representatives of European countries met in
Vienna in order to resolve the upheaval of the French Revolution. The Vienna Congress
(ウィーン会議) in which Metternich(メッテルニヒ), an Austrian foreign minister
(later the prime minister), was the chairperson, proceeded with difficulty because of interest conflict
among superpowers. In the next year, 1815, Napoleon rose up again, and signing the protocol
was finally fulfilled. Legitimism, which regarded the political order previous to French Revolution
as orthodox and some people tried to revive this political order, and it was embraced as a principle.
Peaceful maintenance of global order based on the balance of power between the great powers was
pursued. This was called the Vienna System(ウィーン体制)…

(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、221頁~225頁)

5 Dream of Social Change; Waves of New Revolutions



■Nationalism, Liberalism, and Romanticism
Nationalism(ナショナリズム), which was developed in various regions during the period of
the French Revolution and the Napoleonic Wars, was connected to liberalism in terms of requiring
voluntary political participation. Minorities in the multiethnic states such as Austria and the
Ottoman Empire, as well as the people in Poland and Ireland who were under the rule of
other ethnic groups, claimed the right to speak and independence. People in Germany and
Italy which were divided into small states were active in seeking the political unification.
The rise of nationalism led to the stream of romanticism to praise historical
characteristics, tradition of ethnic groups, human passion and will. Romanticism(ロマン主義) became a
way of thinking that formed the keynote in a wide range of fields such as politics, literature,
arts and so on in Europe. On the other hand, romanticism was expressed as historicism
which glamorized the past and also was expressed as praise of country’s nature and culture.
Moreover romanticism led to self-sacrifice, hero-worship and dreams of social change.

■The Second – Wave of Revolution; the July Revolution and Its Impact
In France under the Restoration (Restauration), Charles X ascended the throne after Louis
XVIII, externally supported the independence of Greece. On the other hand, he colonized
Algeria by launching military intervention. Moreover, he internally let the ultra-royalist
cabinet accomplish reactionary politics to protect the nobility. In July 1830, the king
forcibly dissolved the Chamber and announced more enhanced restriction of election and
regulations of speech. As a result, people in Paris rose in revolt and the king was in exile
(the July Revolution, 七月革命). However, the upper class like bankers restrained the republican party
for fear of escalating revolution. Constitutional monarchy was formed by appointing Louis-
Philippe, Duke of Orleans, as King (the July Monarchy, 七月王政)…

<Liberty Leading the People by Delacroix>
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、228頁)

■The Third Wave of Revolution; Various Revolutions in 1848
Many European regions experienced the third wave of revolution because of the poor
harvest from 1846 and economic crisis in 1847; then the Vienna System completely
collapsed.
Although industrialization was promoted under the July Monarchy in France, only a part
of the upper bourgeois had the political initiative under the restrictive election. Political
movements by republican citizens and workers to demand the expansion of voting rights
were escalated. In February, 1848, Paris citizens rose up against the government which had
suppressed these movements. It came to street fighting. In the end, the king abdicated and
the republic’s provisional government was established (the Second Republic, 第二共和政).
This was the February Revolution (二月革命)in France.
The socialist Louis Blanc participated in the provisional government after the revolution.
They attempted to reform society and constructed national workplaces to support
unemployed people. But the Socialist Party lost and the moderate Republican Party won
in the National Assembly election by universal male suffrage in April 1848. Workers’
armed uprising against conservative government was suppressed (the June Days Uprising).
Louis-Napoleon (ルイ=ナポレオン), who was a nephew of Napoleon, was elected president in
December under the new Constitution. He took power in the coup in 1851, and then next year
he became the emperor by referendum; he called himself Napoleon III (the French Second Empire,
第二帝政).
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、230頁~231頁)

Part 4 Unifying and Transforming the World
Chapter 16Development of Industrial Capitalism and Imperialism
1 Reorganization of the Order in the Western World


■Unified and Strengthened Germany(普仏戦争)
During the Prussian-French War (プロイセン=フランス戦争, the Franco-Prussian War or the German-French War, 普仏戦争または独仏戦争) in 1870, the German military,
mainly from Prussia, showed overwhelming power against France. After the victory over
France, Germany formed the German-Empire (ドイツ帝国). King William I
(ヴィルヘルム1世) of Prussia claimed the title of Emperor of the German Empire.
France had to cede Alsace-Lorraine (アルザス・ロレーヌ) to Germany. France also
had to pay a lot of reparations to Germany. These factors turned out to be seeds of
dispute between both countries later on.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、238頁)

■Establishment of the French Republic
During the Second Empire (第二帝政期), under the leadership of Napoleon III
(ナポレオン3世), major industrialization took place in France. Railroads were
constructed and cities were renovated. Externally, France took aggressive foreign policy,
and intervened in the Crimean War and the Italian Risorgimento War. These movements
enhanced the national prestige of France. In Asia, France invaded China (the Arrow War,
アロー戦争) and started its aggression against Indochina. However, the French military invasion of Mexico failed. Also, France was defeated in the war against Prussia, which
was supposed to be a chance to recover its prestige. In September 1870, the Second Empire
collapsed. The provisional government, headed by Louis Adolphe Thiers (ティエール),
a bourgeois republican (ブルジョワ共和派), was formed. The people of Paris,
who were against the peace treaty and denied the defeat by Germany, rose in revolt and
declared Commune de Paris (パリ=コミューン) in March 1871. This was the first autonomy by workers and citizens, but was put down soon by government military forces.
The Constitution of the Republic (共和国憲法) was enacted in 1875, and the Third Republic
(第三共和政) was established by the end of the 1870s.
The Third Republic, which considered itself to be the successor of the French
Revolution, made much of education for the people; aggressively expanded overseas;
colonized Tunisia and Indochina in the 1880s; and established the most powerful empire
next to Britain. In France, the industrial revolution was completed during the Second
Empire, but there still existed small farmers and small businesses, and excess capital
was invested abroad, especially in Russia which had a very close relationship after the
establishment of the Russo-French Alliance. During the prolonged recession from the
1880s to the 1890s, there was public discontent with parliamentary government, and labor
movement or socialist movement were enhanced. In 1889, General Boulanger
(ブーランジェ) won the support of anti-parliament forces, and staged an abortive coup
d'etat. In the late 1890s, the Dreyfus Affair (ドレフュス事件) divided public opinion.
There were anti-foreign nationalism and anti-Semitic trends, but in the early 20th century,
radical republicans took political leadership, the concept of the separation of church and
state was adopted and social policies were pushed forward. The economy went into
a recovery phase. Externally, France aggressively promoted colonization of Morocco
and elsewhere.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、239頁~240頁)

Part 5 Establishment of the Global World
Chapter 19  Nation-State System and the Cold War 
1 Hegemony of the United States and the Development of the Cold War


■Establishment of the EEC and Western Europe (フランスの第五共和政)
In France, the Fourth Republic was unstable. De Gaulle (ド=ゴール) took the helm
in 1958 triggered by the revolt of stationary troops in Algeria (アルジェリア). He established the Fifth Republic Constitution (第五共和政憲法), where the president
was given strong powers. De Gaulle developed relatively independent diplomacy,
admitted independence of Algeria in 1962, recognized China in 1964, and withdrew
from NATO in 1966 (returned in 1996).
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、311頁~312頁)