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歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪イスラーム文化~高校世界史より≫

2023-10-08 19:00:50 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪イスラーム文化~高校世界史より≫
(2023年10月8日投稿)

【はじめに】


 今回のブログでは、高校世界史において、イスラーム文化(文明)について、どのように記述されているかについて、考えてみたい。
 参考とした世界史の教科書は、次のものである。

〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]
〇木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]

 また、前者の高校世界史教科書に準じた英文についても、見ておきたい。
〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]




【本村凌二ほか『英語で読む高校世界史』(講談社)はこちらから】
本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社






〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]
【目次】

本村凌二『英語で読む高校世界史』
Contents
Introduction to World History
1 Natural Environments: the Stage for World History
2 Position of Japan in East Asia
3 Disease and Epidemic
Part 1 Various Regional Worlds
Prologue
The Humans before Civilization
1 Appearance of the Human Race
2 Formation of Regional Culture
Chapter 1
The Ancient Near East (Orient) and the Eastern Mediterranean World
1 Formation of the Oriental World
2 Deployment of the Oriental World
3 Greek World
4 Hellenistic World
Chapter 2
The Mediterranean World and the West Asia
1 From the City State to the Global Empire
2 Prosperity of the Roman Empire
3 Society of the Late Antiquity and Breaking up
of the Mediterranean World
4 The Mediterranean World and West Asia
World in the 2nd century
Chapter 3
The South Asian World
1 Expansion of the North Indian World
2 Establishment of the Hindu World
Chapter 4
The East Asian World
1 Civilization Growth in East Asia
2 Birth of Chinese Empire
3 World Empire in the East
Chapter 5
Inland Eurasian World
1 Rises and Falls of Horse-riding Nomadic Nations
2 Assimilation of the Steppes into Turkey and Islam
Chapter 6
1 Formation of the Sea Road and Southeast Asia
2 Reorganizaion of Southeast Asian Countries
Chapter 7
The Ancient American World

Part 2 Interconnecting Regional Worlds
Chapter 8
Formation of the Islamic World
1 Establishment of the Islamic World
2 Development of the Islamic World
3 Islamic Civilization
World in the 8th century
Chapter 9
Establishment of European Society
1 The Eastern European World
2 The Middle Ages of the Western Europe
3 Feudal Society and Cities
4 The Catholic Church and the Crusades
5 Culture of Medieval Europe
6 The Middle Ages in Crisis
7 The Renaissance
Chapter 10
Transformation of East Asia and the Mongol Empire
1 East Asia after the Collapse of the Tang Dynasty
2 New Developments during the Song Era ―Advent of Urban Age
3 The Mongolian Empire Ruling over the Eurasian Continent
4 Establishment of the Yuan Dynasty

Part 3 Unification of the World
Chapter 11
Development of the Maritime World
1 Formation of the Three Maritime Worlds
2 Expansion of the Maritime World
3 Connection of Sea and Land; Development of Southeast Asia World
Chapter 12
Prosperity of Empires in the Eurasian Continent
1 Prosperity of Iran and Central Asia
2 The Ottoman Empire; A Strong Power Surrounding
the East Mediterranean
3 The Mughal Empire; Big Power in India
4 The Ming Dynasty and the East Asian World
5 Qing and the World of East Asia
Chapter 13
The Age of Commerce
1 Emergence of Maritime Empire
2 World in the Age of Commerce
World in the 17th century
Chapter 14
Modern Europe
1 Formation of Sovereign States and Religious Reformation
2 Prosperity of the Dutch Republic
and the Up-and-Coming England and France
3 Europe in the 18th Century and the Enlightened Absolute Monarchy
4 Society and Culture in the Early Modern Europe
Chapter 15
Industrialization in the West and the Formation of Nation States
1 Intensified Struggle for Economic Supremacy
2 Industrialization and Social Problems
3 Independence of the United States and Latin American Countries
4 French Revolution and the Vienna System
5 Dream of Social Change; Waves of New Revolutions

Part 4 Unifying and Transforming the World
Chapter 16
Development of Industrial Capitalism and Imperialism
1 Reorganization of the Order in the Western World
2 Economic Development of Europe
and the United States and Changes in Society and Culture
3 Imperialism and World Order
World in the latter half of 19th century
Chapter 17
Reformation in Various Regions in Asia
1 Reform Movements in West Asia
2 Colonization of South Asia and Southeast Asia,
and the Dawn of National Movements
3 Instability of the Qing Dynasty and Alteration of East Asia
Chapter 18
The Age of the World Wars
1 World War I
2 The Versailles System and Reorganization of International Order
3 Europe and the United States after the War
4 Movement of Nation Building in Asia and Africa
5 The Great Depression and Intensifying International Conflicts
6 World War II

Part 5 Establishment of the Global World
Chapter 19
Nation-State System and the Cold War
1 Hegemony of the United States and the Development of the Cold War
2 Independence of the Asian-African Countries and the "Third World"
3 Disturbance of the Postwar Regime
4 Multi-polarization of the World and the Collapse of the U.S.S.R.
Final Chapter
Globalization of Economy and New Regional Order
1 Globalization of Economy and Regional Integration
2 Questions about Globalization and New World Order
3 Life in the 21st Century; Time of Global Issues
The Rises and Falls of Main Nations
Index(English)
Index(Japanese)




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・イスラーム文化(文明)の記述~『世界史B』(東京書籍)より
・イスラーム文化(文明)の記述~『詳説世界史』(山川出版社)より
・英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より






イスラーム文化(文明)の記述~『世界史B』(東京書籍)より



第2編 広域世界の形成と交流
第8章 イスラーム世界の形成
1 イスラーム世界の成立
2 イスラーム世界の発展
3 イスラーム文明

第8章 イスラーム世界の形成
1 イスラーム世界の成立
【預言者ムハンマドとアラブの大征服】
 アラビア半島南部のイエメン地方は、季節風がもたらす降雨のめぐみと、乳香・没薬などの特産品、インド洋交易の収益によって経済的に富み栄え、古くからいくつもの国家が興亡し、独自の文化が発達した。いっぽう、半島の北・中部では、牧畜と商業によって生計を立てる遊牧民(ベドウィン)やオアシス農耕民が多くの集団に分かれてたがいに争い、集合離散をくりかえしていた。彼らアラブ人の間にはユダヤ教やキリスト教を信仰する者もいたが、多くは先祖伝来の多神教を信仰し、各地には神々をまつる神殿が建設された。
 メッカに住むクライシュ族のハーシム家に生まれた商人ムハンマド(Muhammad, 570ごろ~632)は、610年ごろから神の啓示を受けた預言者として宗教活動を開始し、多神教の偶像崇拝を批判して、唯一神アッラー(Allah)への信仰を説くイスラーム教(Islam)を広めた。故郷の有力者らに迫害されたムハンマドは、622年に北方のオアシス都市メディナ(ヤスリブ)へ亡命し、この地に新たなムスリム共同体(umma ウンマ)を成立させた。彼らは多神教徒と数度の戦争を行い、630年にはメッカを征服することに成功した。
 632年にムハンマドが没すると、残された人々は預言者の後継者としてカリフ(Caliph)の役職を設立し、クライシュ族から有力な信徒を選出して、ウンマの指導を任せた(正統カリフ時代 632~661)。第2代正統カリフのウマルは、アラブの大征服とよばれる大規模なジハード(聖戦)を行い、東ローマ帝国からシリアやエジプトなどの肥沃な土地を奪うとともに、642年のニハーヴァンドの戦いでササン朝ペルシアをやぶって、その領土を獲得した。ムスリム軍が征服した地域には軍営都市(misr ミスル)が建設され、カリフから任命されたアミール(総督)が治安の維持と征服地からの徴税を担当し、兵士には年金(ata アター)が支給された。

【ウマイヤ朝の成立】
 661年に第4代正統カリフのアリー(Ali, 在位656~661)が不満分子によって暗殺されると、彼と対立していたシリア総督のムアーウィヤ(Muawiya, 在位661~680)が政権を握り、それまでの慣例をやぶって、自分の一族であるクライシュ族ウマイヤ家の出身者が代々のカリフ位を世襲する体制を確立した(ウマイヤ朝 Umayya, 661~750)。ウマイヤ朝はダマスカスに都を定め、さらなる征服戦争をおしすすめて、西方ではイベリア半島の西ゴート王国を滅ぼし、東方ではアフガニスタンや中央アジアを支配下に組みいれた。また、第5代カリフのアブド=アルマリク(Abd al-Malik, 在位685~705)は、ササン朝や東ローマ帝国の旧官僚が担っていた行政の用語をアラビア語に統一し、独自の金貨・銀貨を鋳造するなどの行政改革を行った。
(下略)

<イスラーム>
イスラームとは「自分のすべてを神にゆだねること(絶対帰依)」を意味するアラビア語で、その信徒はムスリムとよばれる。すべてのムスリムは神の前に平等であり、一般の信徒と神を仲介する聖職者は存在しない。

<イスラーム法>
9世紀以降に整えられたイスラーム法(シャリーア)は、啓典『クルアーン(Quran, コーラン)』と、ムハンマドの言行を伝えた伝承(ハディース)が基盤となっている。イスラーム法は、ムスリムの義務として神・天使・啓典・預言者・来世・天命の六つを信じること(六信)と、信仰告白・礼拝・断食・喜捨・巡礼の五つを行うこと(五行)を定め、その具体的な方法を規定している。たとえば断食は、ラマダーン月(イスラーム暦の第9月)の1か月間、日中は断食しなければならないとされるが、夜は盛大に飲み食いをする一種の祭りであり、また、旅人、妊婦、病人などは断食を免除されるなど柔軟な規定となっている。イスラーム法はまた、婚姻・相続などの社会規範や、国家や政治指導者に関する政治的規定も含み、国家や社会のあり方を規制している。

<一神教の歴史観>
われわれが学んでいる世界史は、近代になって発達した歴史学・文献学・考古学・言語学などの成果にもとづいている。したがって、前近代の人々が認識していた世界史は現代のものとは大きく異なっているはずである。
 西アジアとヨーロッパの両世界では、一神教のユダヤ教・キリスト教・イスラーム教が支配的であり、いずれも旧約聖書に描かれた物語を世界史の大枠として共有していた。それによれば、世界の歴史は神による天地創造にはじまり、最初の人間であるアダムとエバ(イヴ)の楽園追放、大洪水とノアの箱舟、バベルの塔の建設と破壊、アブラハムの祝福、ヨセフの受難、モーセのエジプト脱出といった有名な物語をつむぎながら、人類は諸民族に分かれて世界中に広がっていったとされている。
 こうした歴史観にもとづく話は、現代においてなお、30億人をこえる一神教世界の人々に共通の教養としての地位を保持しつづけており、彼らの文化と信念の源泉として強い力をもっている。

<シーア派とスンナ派>
イスラーム教の分派であるシーア派は、もともとアリーの子孫をウンマの指導者(イマーム)と認める政治的党派から出発した。彼らは、アリーの子孫にのみ神の命令を解釈する特別な能力がそなわっていると考え、独自の法学・神学体系を発展させたため、一つの宗派を形成するようになった。のちにイマームの血統がとだえると、法学者(ファキーフ)がイマームの意図にもとづいて信徒を指導するという考え方が生まれ、これが現代のイラン=イスラーム共和国にみられる政治・宗教体制につながっている。
 いっぽう、スンナ派とは、正統カリフ、ウマイヤ朝、アッバース朝とつづいた政権の正統性を認める現状肯定派を母体とし、ウンマのなかで語り伝えられてきた預言者のスンナ(慣行)にしたがって神の命令を解釈しようとする立場をさす。彼らは、特定の人物の判断にではなく、ウンマ全体の合意にこそ神の意志があらわれると考え、10世紀ごろまでにいくつかの法学派・神学派をつくりあげた。こうして形成された、共同体の合意と団結を重視する人々の総体がスンナ派である。
 スンナ派とシーア派の間には、長年にわたる闘争の歴史があり、それは現代においても一部の地域でつづいているが、両者とも『クルアーン(コーラン)』の教えにしたがうムスリムとしての立場は共通であり、平和裏に共存している地域も少なくない。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、122頁~123頁、127頁、131頁)



3 イスラーム文明
【イスラーム世界の都市と商業】
 7世紀にアラビア半島のメッカに生まれたイスラーム教には、もともと、商業を卑しめる考えがなかった。古代オリエント文明をひきついで、商業が高度に発達していた西アジアや北アフリカで主要な宗教となったのちも、イスラーム教は公正な取引など商人の倫理を重んじる宗教として発展していった。メッカに巡礼に行くことがムスリムの義務の一つに定められていたため、巡礼を目的としたムスリムの移動を禁じることは、イスラーム世界の支配者にはできなかった。イスラーム世界を縦横に走るメッカへの巡礼路は、同時に、商業のための道であり、また学問を求める旅の道でもあった。支配者は、巡礼路の安全を確保して、人、もの、情報の自由な移動を促進することが期待されていた。このようなイスラーム教に支えられたイスラーム文明は、商業を中心とする、高度に発達した都市文明としての性格を色濃くもっていた。
 西アジア・北アフリカの都市周辺の農村では、灌漑農業が発達して、小麦、大麦などの穀物や、ナツメヤシ、ブドウなどの果樹が栽培されていた。9世紀以降になると米の生産もさかんになり、サトウキビ、バナナ、オレンジなど、南アジアや東南アジア原産の農作物も栽培されるようになった。これらの農作物は、自給自足のためだけではなく、都市民に売る商品として生産され、農場の経営者は、1年契約の農場労働者を雇うなどして、経営にあたった。
 都市は、都市民が生産する手工業製品と農産物の取引を中心とする地域経済の中心であったが、同時に、都市間交易や遠隔地交易の拠点でもあった。遠距離の大規模な商取引のために、共同出資や小切手・手形といった決済手段などの商業システムが、イスラーム法のもとで整備された。交易網はイスラーム世界をこえて、東南アジア、中国、アフリカ、ヨーロッパにもムスリム商人が進出し、イスラーム法が国際取引の法として機能した。
 イスラーム世界の中心となる大都市の人口は数十万人規模で、人口十数万人から数万人規模の都市は各地に数多くあった。都市の中心部にはモスク(mosque, 礼拝所)と常設店舗市があり、隣接して外部から訪れる商人のための隊商宿(キャラヴァンサライ karvansaray)、町の人や旅人が利用する公衆浴場や公衆便所があった。
 住宅や店舗は賃貸物件が多かった。支配者や裕福な商人は、賃貸アパートや賃貸商店街を建設したが、それを私有せずに公共のための信託財産(ワクフ waqf)とした。モスクやマドラサ(学院)、道路などの公共施設は、ワクフからの収入によって維持されていた。
 
【マドラサとウラマー】
 ギリシア語による学問をアラビア語で発達させた分野を、イスラーム世界では「外来の学問」とよんだ。これとは別に、イスラーム法学を中心とする「固有の学問」とよばれた領域があった。法の基礎である『クルアーン』(コーラン)がアラビア語で記されているため、アラビア語の文法学と詩学が、固有の学問の基礎であった。さらに、クルアーン解釈学やムハンマドの言行などの伝承(ハディース)を学ぶ伝承学が発達し、それらを基盤として法学があった。スンナ派では、四つの法学派が成立し、それぞれがたがいを認めながらも、独自な法学体系をつくっていった。また、イスラーム世界の歴史を学ぶ歴史学も発達し、タバリー(Tabari, 839~923)は『預言者たちと諸王の歴史』を編纂し、イブン=ハルドゥーン(Ibn Khaldun, 1332~1406)は『世界史序説』を著して、「文明の民(都市民)と粗野な民(荒野の民)との関係を通じて歴史が展開する」という独自の歴史理論を展開した。ガザーリー(Ghazali, 1058~1111)が神秘主義を理論化したことにより、神秘主義も学問の一つの領域となった。
 法学を中心に、固有の学問を教授する機関としてマドラサ(madrasa)が、11世紀ごろから各地に設けられた。シーア派のマドラサであったカイロのアズハル学院も、アイユーブ朝の時代からは、スンナ派の学院として名声を誇った。マドラサで学問を修めた者はウラマー(ulama, 宗教知識人)とよばれ、裁判官(カーディー)、教師、礼拝の指導者などをつとめ、社会のエリートとして大きな影響力をもった。
 マドラサの講義は、イスラーム世界全体で共通していて、どこで学んでも、同じ教養を身につけることができた。同じ教養をもち、同じ方法論で法判断をするウラマーの存在が、政治的な分裂にもかかわらず、イスラーム世界が一体性を維持してきた最大の要因であった。教養あるウラマーになるためには、なるべく多くの地域で学ぶことが望まれ、また教養あるウラマーは各地を遍歴して教えていた。『三大陸周遊記』で知られるイブン=バットゥータ(Ibn Battuta,
1304~68/69)は、イスラーム的知識人であるウラマーの一人である。
 
【イスラーム世界の芸術】
 文学では、詩が著しく発達した。アラビア語の詩に加えて、9世紀後半からはペルシア語の詩がさかんにつくられ、四行詩の『ルバイヤート』を著したウマル=ハイヤーム(Umar Khayyam, 1048~1131)など、多数の詩人が輩出した。散文学では『千夜一夜物語(アラビアン=ナイト)』など大衆文芸が好まれた。
 美術面では、偶像崇拝を否定するイスラーム教の影響から、絵画や彫刻などの造形美術は未発達であった。アラベスク(arabesque)とよばれる幾何学的な紋様が、建造物、陶器、書籍などを飾り、絵画ではミニアチュール(miniature, 細密画)が広まった。建築ではイスラーム文明を代表する芸術として発展し、高度な技術を駆使したドームと優雅な尖塔(ミナレット)を特徴とするモスクや墓廟が、多数建てられた。

<『千夜一夜物語(アラビアン=ナイト)』>
16世紀のマムルーク朝の時代までに現在の形となったアラビア語の長大な説話集。アッバース朝のハールーン=アッラシードなど、実在の人物も登場する。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、132頁~135頁)



【8世紀の世界 文明世界の成立】
 古代の帝国が民族移動などで解体したのち、8世紀にはふたたび広大な領域を支配する帝国が繁栄し、その帝国を中心として一つの文明を共有する広域の文明世界が成立した。東アジアには儒教・仏教の唐が、中央アジアから北アフリカにはイスラーム教のアッバース朝が、東ヨーロッパにはキリスト教のビザンツ帝国が栄え、それぞれ東アジア世界、イスラーム世界、東ヨーロッパ世界が形成された。また、フランク王国は、イスラーム勢力の侵攻を防ぎ、ビザンツ皇帝と対立するローマ教会との結びつきを強めて西ヨーロッパ世界をまとめていった。
 唐は周辺諸国に大きな影響を与え、東アジア諸国は律令、漢字、儒教、仏教などを受容した。首都の長安は、諸外国の使節や留学生のほか、ソグド人、イラン人、アラブ人などの商人が訪れ、仏教、ゾロアスター教、マニ教、ネストリウス派キリスト教などの寺院も建てられた国際都市となった。広大な領域を支配したアッバース朝のもとではイスラーム法にもとづく統治がめざされ、さまざまな学問の研究がすすめられた。また、ムスリム商人は、ユーラシア大陸、アフリカ大陸の陸上交易や、インド洋、南シナ海の海上交易で活躍した。首都バグダードは学芸の中心地であるとともに、世界各地の物産が市場(バザール)の店頭を飾る国際都市として栄えた。ビザンツ帝国は、皇帝が教会を支配する独自の世界をきずいた。首都コンスタンティノープルは、絹織物など各種の手工業や商業がさかんで、貨幣経済は繁栄をつづけ、国際的な交易都市として栄えた。

<アーヘンの大聖堂>
ベルギーに近接するドイツ北西部の都市。フランク王国のカール大帝がしばしばこの地に滞在し、王宮、大聖堂を建てた。

<聖(ハギア)ソフィア大聖堂>
ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルに6世紀に建てられた円蓋のある大聖堂。円蓋の直径は32mにも達する。

<ウマイヤ=モスク>
8世紀前半にダマスカスに完成した現存する世界最古のモスク。もとはキリスト教の教会であったが、モスクとして増改築された。

<唐を訪れた外国使節>
唐の都長安には遠方より多くの使節が貢ぎ物をささげてやってきた。左の3人は接待をしている唐の役人で、右の3人が外国使節。黒服の人物はビザンツ帝国のの使者、その右が新羅の使者と考えられている。

<新羅の古墳公園>
新羅は7世紀後半に百済、高句麗を倒して半島全域を統一した。唐の冊封を受け、中国の制度を導入し、仏教文化を開花させた。

<遣唐使船>
7世紀前半にはじまった遣唐使は、唐の文化や政治制度の摂取に努めた。小型の4隻の船で渡航するのが一般的であった。

※なお、「8世紀の世界」の地図には、シャイレンドラ朝のボロブドゥールが記されている!
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、136頁~137頁)


イスラーム文化の記述~『詳説世界史』(山川出版社)より



第Ⅱ部 第Ⅱ部概観
第4章 イスラーム世界の形成と発展
1 イスラーム世界の形成
2 イスラーム世界の発展
3 インド・東南アジア・アフリカのイスラーム化
4 イスラーム文明の発展

第Ⅱ部 第Ⅱ部概観
第4章 イスラーム世界の形成と発展
1 イスラーム世界の形成
【イスラーム教の誕生】
 アラビア半島は大部分が砂漠におおわれ、アラブ人は各地に点在するオアシスを中心に古くから遊牧や農業生活を営み、隊商による商業活動をおこなっていた。6世紀後半になると、ササン朝とビザンツ帝国とが戦いをくりかえしたために、東西を結ぶ「オアシスの道」は両国の国境でとだえ、ビザンツ帝国の国力低下とともに、その支配していた紅海貿易も衰えた。そのため「オアシスの道」や「海の道」によって運ばれた各種の商品は、いずれもアラビア半島西部を経由するようになり、メッカの大商人はこの国際的な中継貿易を独占して大きな利益をあげていた。
 この町にうまれたクライシュ(Quraysh)族の商人ムハンマド(Muhammad, 570頃~632)は、610年頃唯一神アッラー(Allah)のことばを授けられた預言者であると自覚し、さまざまな偶像を崇拝する多神教にかわって、厳格な一神教であるイスラーム教(Islam)をとなえた。しかし富の独占を批判するムハンマドはメッカの大商人による迫害をうけ、622年に少数の信者を率いてメディナに移住し、ここにイスラーム教徒(ムスリム Muslim)の共同体(ウンマ umma)を建設した。この移住をヒジュラ(hijra 聖遷)という。
 630年、ムハンマドは無血のうちにメッカを征服し、多神教の神殿であったカーバ(Kaba)をイスラーム教の聖殿に定めた。その後アラブの諸部族はつぎつぎとムハンマドの支配下にはいり、その権威のもとにアラビア半島のゆるやかな統一が実現された。
 イスラーム教の聖典『コーラン(Quran)』は、ムハンマドにくだされた神のことばの集成であり、アラビア語で記されている。その教義の中心はアッラーへの絶対的服従(イスラーム)であるが、そのおきては信仰生活だけではなく、政治的・社会的・文化的活動のすべてにおよんでいる。後世の学者たちが、ムスリムの信仰と行為の内容を簡潔にまとめたものが六信五行である。

【イスラーム世界の成立】
ムハンマドの死後、イスラーム教徒は共同体の指導者としてアブー=バクル(Abu Bakr 在位632~634)をカリフ(caliph)に選出した。アラブ人はカリフの指導のもとに大規模な征服活動(ジハード jihad<聖戦>)を開始し、東方ではササン朝を滅ぼし、西方ではシリアとエジプトをビザンツ帝国から奪い、多くのアラブ人が家族をともなって征服地に移住した。しかし、まもなくカリフ権をめぐってイスラーム教徒間に対立がおこり、第4代カリフのアリー(Ali 在位656~66)が暗殺されると、彼と敵対していたシリア総督のムアーウィヤ(Muawiya 在位661~680)は、661年ダマスクスにウマイヤ朝(Umayya 661~750)を開いた。アブー=バクルからアリーまでの4代のカリフを一般に正統カリフ(632~661)という。(下略)
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、100頁~103頁)

4 イスラーム文明の発展


【イスラーム文明の特徴】
イスラーム帝国は、古くから多くの先進文明が栄えた地域に建設された。イスラーム文明は、これらの文化遺産と、征服者であるアラブ人がもたらしたイスラーム教とアラビア語とが融合してうまれた新しい都市文明である。バグダードやカイロなど大都市に発達したこの融合文明は、同時にイスラーム教を核とする普遍的文明であった。そのためこの文明はイスラーム世界のいたるところで受け入れられ、やがて各地の地域的・民族的特色を加えて、イラン=イスラーム文化・トルコ=イスラーム文化・インド=イスラーム文化などが形成された。 
 中世ヨーロッパはイスラーム教には敵対したが、11~13世紀にかけてスペインのトレドを中心に、アラビア語に翻訳された古代ギリシアの文献やアラビア科学・哲学の著作をつぎつぎとラテン語に翻訳し、これを学びとることによって12世紀ルネサンスを開花させた。イスラーム文明は、ギリシア文明をヨーロッパ文明へと橋渡しするうえでも、重要な役割をはたしたのである。
 
【イスラームの社会と文明】
西アジアのイスラーム社会は都市を中心に発展した。各地の都市には軍人・商人・職人・知識人などが住み、信仰と学問・教育の場であるモスクや学院(マドラサ)、および生産と流通の場である市場(スークあるいはバザール)を中心に都市生活が営まれた。またイスラーム帝国の成立によって、これらの都市を結ぶ交通路が整備され、このネットワークをつうじて新しい知識や生産の技術が、短期間のうちに遠隔の地へ伝えられたことが特徴である。
 とくにパピルスや羊皮紙にかわる紙の普及は、イスラーム文明の発展にはかり知れないほどの影響をおよぼした。タラス河畔の戦いを機に唐軍の捕虜から製紙法を学んだイスラーム教徒は、サマルカンド・バグダード・カイロなどに製紙工場を建設し、やがてこの技術はイベリア半島とシチリア島を経て、13世紀頃ヨーロッパに伝えられた。
 また10世紀以後のイスラーム社会では、都市の職人や農民のあいだに、形式的な信仰を排して神との一体感を求める神秘主義(スーフィズム sufism)が盛んになった。12世紀になると、聖者を中心に多くの神秘主義教団が結成され、教団員はムスリム商人の後を追うようにして、アフリカや中国・インド・東南アジアに進出し、各地の習俗を取り入れながらイスラームの信仰を広めていった。
 イスラーム文明の担い手は、都市に住む人々とこれらの神秘主義者たちであった。またカリフやスルタンをはじめとする支配者たちがモスクや学院を建設し、これらの建物に土地や商店の収入をワクフ(waqf)として寄進することによって文化活動を積極的に保護したことも、イスラーム文明の発展をうながす要因の一つであった。
 
【学問と文化活動】
最初に発達したイスラーム教徒の学問は、アラビア語の言語学と、『コーラン』の解釈に基づく神学・法学であった。その補助手段として数多くの伝承(ハディース)が集められ、それが歴史学の発達をうながした。9~10世紀の歴史家タバリー(Tabari, 839~923)は年代記形式の大部な世界史『預言者たちと諸王の歴史』を編纂し、14世紀の歴史学者イブン=ハルドゥーン(Ibn Khaldun, 1332~1406)は『世界史序説』を著して、都市と遊牧民との交流を中心に、王朝興亡の歴史に法則性のあることを論じた。
 イスラーム教徒の学問が飛躍的に発達したのは、9世紀初め以後、バグダードの「知恵の館」(バイト=アルヒクマ)を中心に、ギリシア語文献が組織的にアラビア語に翻訳されてからである。彼らはギリシアの医学・天文学・幾何学・光学・地理学などを学び、臨床や観測・実験によってそれらをさらに豊富で正確なものとした。インドからも医学・天文学・数学を学んだが、とくに数学(のちのアラビア数字)と十進法とゼロの概念を取り入れることによって、独創的な成果をあげることができた。フワーリズミー(Khwarizmi, 780頃~850頃)らは代数学と三角法を開発し、これらの成果は錬金術や光学でもちいられた実験方法とともにヨーロッパに伝えられ、近代科学への道を切り開いた。また、『四行詩集』(『ルバイヤート』)の作者ウマル=ハイヤーム(Umar Khayyam, 1048~1131)は数学・天文学にもすぐれ、きわめて正確な太陽暦の作成に関わった。
 イスラーム教徒はギリシア哲学、とくにアリストテレスの哲学を熱心に研究した。イスラーム思想界は、10世紀以後しだいに神秘主義思想の影響を強くうけるようになったが、信仰と理性の調和はよく保たれていた。それは神学者がギリシア哲学の用語と方法論を学び、合理的で客観的なスンナ派の神学体系を樹立したからである。イスラーム信仰の基礎として神秘主義を容認したガザーリー(Ghazali, 1058~1111)は、このような神学者の代表である。また哲学の分野では、ともに医学者としても有名なイブン=シーナー(Ibn Sina, 980~1037; ラテン名アヴィケンナ Avicenna)とイブン=ルシュド(Ibn Rushd, 1126~98; ラテン名アヴェロエス
Averroes)がいる。
 文学では、詩の分野が大いに発達し、説話文学も数多く書かれたが、アラブ文学を代表する『千夜一夜物語』(『アラビアン=ナイト』)は、インド・イラン・アラビア・ギリシアなどを起源とする説話の集大成であり、16世紀初め頃までにカイロで現在の形にまとめられた。また、メッカ巡礼記を中心とする旅の文学も盛んであり、イブン=バットゥータ(Ibn Battuta, 1304~68/69または77)はモロッコから中国にいたる広大な世界を旅して、帰国後、口述筆記によるアラビア語の『旅行記』(『三大陸周遊記』)を残した。
 ミナレット(光塔)をもつモスク建築は、イスラーム世界に固有な都市景観をうみだしたが、美術・工芸の分野では繊細な細密画(ミニアチュール)や象眼をほどこした金属器、また装飾文様として唐草文やアラビア文字を図案化したアラベスク(arabesque)が発達した。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、115頁~119頁)

英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より



イスラーム文明

Part 2 Interconnecting Regional Worlds
Chapter 8 :Formation of the Islamic World
1 Establishment of the Islamic World
3 Islamic Civilization

1 Establishment of the Islamic World
■The Prophet Muhammad
It was Muhammad(ムハンマド), a native of Mecca in Arabia, who first preached Islam in the
7th century. In the Arabian peninsula, people introduced the technology using groundwater for
irrigation in the 1st millennium BC, and established oasis to live on agriculture in various
parts of Arabia, and because of this, cities developed there as well. At almost the same time,
nomads began to breed camels and engaged in caravan trade in cooperation with the
people of the city. When the monotheistic religions such as Judaism and Christianity had
been transmitted to Arabia since the 4th century, the majority of Arabs(アラブ人), residents of
Arabia, were polytheists who believed in various gods.
Mecca was one of the holy lands of Arabian polytheists, and various gods were enshrined
at the Kaaba(カーバ神殿) in Mecca. Qurayshi people(クライシュ族) in Mecca had become
merchants by organizing caravan trade since the middle of the 6th century and had made a society
centered on commerce.
Muhammad, a Quraysh merchant who believed in the one God(Allah[アッラー] in Arabic),
the same as the one God in Judaism and Christianity (Yahweh in Hebrew), called himself a prophet
after receiving revelation from Allah. He then preached faith in Allah. However, very
few people in Mecca followed his religion, and Muhammad, along with his followers,
were persecuted for their beliefs. Because of this, Muhammad and his followers moved
to Medina (メディナ Yasuribu ヤスリブ) in 622 (hijra[Hegira] ヒジュラ[聖運]). Muhammad
established Islam(イスラーム教) as a new monotheistic religion in Medina, defining unique rituals,
such as praying toward the Kaaba in Mecca. A follower of Islam is called a Muslim(ムスリム).
Muhammad created a Muslim community (umma ウンマ) in Medina, returned to Mecca and
conquered it in 630, placing most of the Arabian peninsula under his political influence in the
following year.

■Conquest by Muslims
After Muhammad died of illness in 632, Muslims made a system that allowed all
members to choose his successor (Caliph カリフ). They then swore allegiance to that person,
thus maintaining unity. The first four Caliphs chosen in this way were called the “Rightly Guided
Caliphs(正統カリフ)”.
Arabs, who became Muslims during this period, embarked on conquest (jihad [holy war]
ジハード[聖戦]) beyond the Arabian peninsula. In those days, Sassanian Persia and the Eastern Roman
Empire battled against each other repeatedly, exhausting themselves in the process. The
Muslim army defeated Sassanian at the Battle of Nahāvand(ニハーヴァンドの戦い) in 642 and
annexed its territory. The Muslim army then attacked Syria and Egypt just after the Eastern Roman
Empire recaptured them from the Sassanians and conquered the lands. Thus a huge empire where
Arabic Muslims ruled over many ethnic groups and believers of various religions was
created.
The Muslim army established military towns (misr ミスル) in the key areas of the land they
conquered. They received tax revenues from the conquered areas in the form of pensions
(ata アター), and continued conquest activities led by a Caliph-appointed Governor-General. The
conquered ethnic groups were guaranteed autonomy, safety, and were allowed to keep their
property as well as retain their own traditional faiths; such as Judaism and Christianity; but
they had to pay poll taxes (jizya ジズヤ) and land taxes(kharaj ハラージュ).

■From the Umayyad to the Abbasid
When Ali(アリー), the 4th Rightly Guided Caliph, was assassinated in 661, Muawiyah
(ムアーウィヤ) of the Umayyad, who was the Governor-General of Syria at the time and was
opposed to Ali, took up the position of the Caliph in Damascus. The Umayyad went on to
monopolize the post of caliph for generations to build the Umayyad dynasty(ウマイヤ朝).
During the Umayyad period, the Muslim army kept conquering from Central Asia in the east to
the Iberian peninsula in the west. This dynasty issued original gold and silver coins to link areas
which had been divided into the Eastern Roman Empire and the Sassanid until then, and made
a large, vast trade zone. Moreover, it established Arabic(アラビア語) as the official language
and built the foundation of the Islamic world…
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、96頁~97頁)

3 Islamic Civilization
■Cities and Commerce in the Islamic World
Islam, born in Mecca in the Arabian peninsula in the 7th century, had no thought of
despising commerce in the beginning. Even after becoming main religion in West Asia
and North Africa, where the commerce had highly developed since Ancient Oriental
civilization, Islam evolved as a religion that respected the ethics, such as fair trade, of the
merchant. Since one of the main duties of Muslims was to go on a pilgrimage to Mecca, the
rulers in the Islamic world could not forbid Muslims to move for purpose of pilgrimage.
The pilgrimage route to Mecca, crisscrossing the Islamic world, was also the route for
commerce, and a road of the trip to seek learning. The rulers were expected to ensure the
safety of pilgrimage routes to promote free movement of people, things and information.
The Islamic civilization supported by Islam had a strong character as a highly developed
urban civilization(都市文明) with a focus on commerce.
In rural villages around cities in the Islamic world of West Asia and North Africa,
irrigated agriculture progressed, and grains such as wheat and barley, and fruits such as
dates and grapes, were being cultivated. Since the 9th century, cultivation of rice also
became active, and agricultural crops of South Asian or Southeast Asian origins such
as sugar cane, bananas and oranges were also being cultivated. These agricultural crops
were produced not only for self-sufficiency but also for sale, and the owners of the farms
employed farm workers under one-year contracts to manage farming.
The city was the center of the regional economy where people traded agricultural
products and handicrafts made by city folk. It was also a base for trade between cities
or with the outlands. The commercial systems, such as joint investments or methods
of payment using checks and bills, were improved for long-distance and large-scale
commercial trade under Islamic law. The trade network was extended outside of the
Islamic world. Muslim merchants(ムスリム商人) would advance to Southeast Asia, China,
Africa, and Europe, and Islamic law functioned as the law of international trade.
Population of large cities, which were the center of the Islamic world, was in hundreds
of thousands; there were many cities with the population of between tens of thousands and
well over a hundred thousand in various places. There were mosques(モスク
places of worship) and permanent market shops at the center of city. Caravanserai
(隊商宿 karvansaray[キャラヴァンサライ]) for merchants coming from outside, and public
baths and toilets for city people and travelers were located next to them.
Most of the houses and stores were rented. Although the rulers and the rich merchants
built apartments and shopping districts for rent, they made them into public trust assets
(waqf ワクフ) without owning them privately. Public facilities, such as mosques, madrasas
(マドラサ institute[学院]), roads, etc. were maintained by the income from waqf.

■Madrasa and Ulama
Some fields of studies, which had originally been in Greek and were developed in
Arabic, were called “foreign studies(外来の学問)” in the Islamic world. Apart from that,
there was a field called “specific studies(固有の学問)” with a focus on Islamic law. Since
the Quran which was the base of law, was written in Arabic, Arabic grammar and poetics
were the base of specific studies. In addition, the study of the Quran and the lore, sayings
and doings of Muhammad (hadith ハーディス) as the base of law, had evolved. For the
Sunni, four law schools were established and they accepted each other but made their own
separate original law systems. In addition, historiography, the learning of the history of
the Islamic world, made progress as well. Tabari(タバリー) compiled History of the
Prophets and the Kings(預言者と諸王の歴史), and Ibn Khaldun(イブン=ハルドゥーン),
representing Introduction to World History(世界史序説), explicated his original theory
of history, namely, “history is expanded through the relationship between the people
of civilization (urban people) and the people of savagery (wild people)”. Mysticism also
became one field of study theorized by Ghazali(ガザーリー).
Madrasas(マドラサ) were built as institutions to teach specific studies, mainly the study
of law, in many places since about the 11th century. The Al-Azhar institute(アズハル学院)
in Cairo, which had been built as a madrasa of the Shia, became proud of its reputation
as an institute of the Sunni since the days of the Ayyubid. People who learned at madrasa
were called ulamas(ウラマー intelligent persons), and served as judges, teachers, leaders
of worship, among other occupations, and were very influential as the elite of society.
As lectures in madrasas were common throughout the Islamic world, people were able
to acquire the same culture regardless of where they learned. The existence of ulamas who
had the same culture and made a legal judgment in the same methodology was the biggest
factor for the Islamic world to maintain the integrity in spite of its political divide. People
should better learn in many places to become cultured ulamas, and cultural ulamas went
to various places to teach. Ibn Battuta(イブン=バットゥータ) known for Rihla;
three continent tour(三大陸周遊記) was typical of the ulama who was an Islamic
intelligent person.

■Art of the Islamic World
Poetry evolved as literature remarkably. In addition to poetry in Arabic, much poetry was
also written in Persian since the second half of the 9th century, and a large number of poets
appeared one after another. For example, Umar Khayyam(ウマル=ハイヤーム), who wrote
Rubaiyat(ルバイヤート) of four-line poetry was one of them. In the field of prose,
mass literature including works such as Stories of the Thousand and One Nights
(Arabian Nights アラビアンナイト 千夜一夜物語) were preferred.
In terms of art, figurative art such as painting and sculptures did not progress because of
the influence of Islam, which prohibited the worship of idols. Geometric patterns
(called Arabesque[アラベスク]) decorated buildings, potteries and books. Miniature
(ミニアチュール) became popular in paintings. Architecture developed as an art
representing the Islamic civilization, and many mosques and Saints Mausoleums which
were characterized by domes and elegant steep towers (minaret ミナレット) were built,
making full use of advanced technology.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、105頁~107頁)

■World in the 8th century
After ancient empires were ruined by migrant movements and others, new
empires appeared again in the 8th century, which governed vast areas. Byzantine
Empire of Christianity, Abbasid dynasty of Islam and Tang dynasty of Confucianism
and Buddhism flourished. And three worlds centering around those empires were
formulated.
Frankish Kingdom 732 Battle of Tours-Poitiers
Byzantine Empire ~Constantinople
Abbasid dynasty 751 Battle of Talas Transmission of papermaking to West
Tang dynasty ~Chang’an
Southeast Asia Borobudur
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、108頁~109頁)

≪インド文化史~高校世界史より≫

2023-10-01 19:00:33 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪インド文化史~高校世界史より≫
(2023年10月1日投稿)

【はじめに】


 今回のブログでは、高校世界史において、インド文化(文明)について、どのように記述されているかについて、考えてみたい。
 参考とした世界史の教科書は、次のものである。

〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]
〇木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]

 また、前者の高校世界史教科書に準じた英文についても、見ておきたい。
〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]

※インド文化に関連して、福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』(東京書籍、2016年[2020年版])には、「日本のなかのヒンドゥー教の神々」と題して、興味深い「コラム」が載せられている。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、75頁)

それは、大乗仏教の仏像についてのコラムである。
 大乗仏教はグプタ朝期に、ヒンドゥー教の諸神を仏法の護持神として、その教義のなかにとりこんだ。仏典が漢訳されたときに、諸神は「天」とよばれて、日本に渡来してきた。
 ・川の神で学問・技芸をつかさどるサラスヴァティーが七福神の弁財天になり、もともとはガンジス川のワニを神格化したクンビーラが、航海や漁業の神、金毘羅様になったという。
・大黒天はシヴァの異名マハーカーラの漢訳である。
天神つまり大自在天も、シヴァの異名マヘーシュヴァラのことである。日本の「天神様」は菅原道真のことだが、天神様である道真はいつも牛と一緒だ。これはシヴァの乗り物ナンディ(聖牛)と関係があるのかもしれないという。
・聖天(しょうてん)様はシヴァの子どもで、象の頭をもったガネーシャであり、「寅さん」で有名な柴又の帝釈天は雷神インドラである。
・また、薬師寺所蔵の吉祥天像が有名な吉祥天はヒンドゥー教ではシヴァとならぶ主神ヴィシュヌの妻で、富と豊かさをつかさどるラクシュミーである
・仏教では、吉祥天は毘沙門天(多聞天)の后または妹とされるが、毘沙門天は伝説の神山スメール山(須彌山[しゅみせん])にあって北方世界を守護するヴァイシュラヴァナである。
・速くかけることを「韋駄天走り」というが、韋駄天はシヴァの子で子どもの病気をなおすスカンダである。速足伝説は、鬼が仏舎利を盗んだときに、スカンダがこれを追って取りもどしたという故事にもとづいている。

〇その他に、サンスクリット語(ヒンドゥー文明を代表する言葉)も、大乗仏教の経典の多くがサンスクリット語であったため、仏教用語として日本語のなかに根づいている。
・たとえば「奈落に落ちる」の奈落は地獄を意味するナラカ、墓の後ろに置かれる塔婆は仏塔を意味するストゥーパ、「刹那的」の刹那は瞬間を意味するクシャナが語源である。
・誰もが日本語だと思っている瓦は、実は祭式の皿を意味するカパーラが語源である。
 
〇ヒンドゥー教はインド特有の宗教のようにみえるが、実はその神々と言葉は、日本人の風俗のなかに深くとけこんでいるというのである。

 今回のブログでは、インドの歴史と文化を辿ってみよう。




【本村凌二ほか『英語で読む高校世界史』(講談社)はこちらから】
本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・インド文化の記述~『世界史B』(東京書籍)より
・インド文化の記述~『詳説世界史』(山川出版社)より
・英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より






インド文化の記述~『世界史B』(東京書籍)より



第3章 南アジア世界
1 南アジアにおける文明の成立と国家形成
【インダス都市文明】
 前2500年ごろ、インダス川流域を中心にハラッパー、モヘンジョ=ダロ、ドーラー=ヴィーラーなどの多くの都市が生まれた。この都市文明はインダス文明とよばれる。この文明の特徴は、計画的な都市建設にある。整然と区画された道路に沿って、焼成煉瓦づくりの建築が建ちならび、下水道も整備されていた。浴場、会議場、穀物倉庫など公共建築物もつくられ、市街地に隣接して城塞があった。しかし、宮殿や陵墓は発見されず、強大な支配者のいない社会と思われる。遺跡からは赤地黒色彩文でろくろを用いた土器や、滑石に文字(インダス文字)を刻んだ印章が多く出土する。同類の印章はメソポタミアで多く発見されており、両地間の交流がさかんだったことがわかる。インダス文明を担った民族は不明だが、雄牛や菩提樹が崇拝され、すでに南アジア文明の源流がつくられていた。インダス文明は前1800年ごろ、河川流路の変更や気象の変化のために衰退したと考えられている。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、66頁)

【アーリヤ人の来住】
 前1500年ごろ、インダス川中流域のパンジャーブ地方に、西北からカイバル峠をこえてインド=ヨーロッパ語系のアーリヤ人(Aryans)が移住してきた。彼らは二輪の戦車を駆使して、先住民と戦いながら各地に進出していった。アーリヤ人は、火や雷などを自然神として崇拝した。この時期に、これらの神々への讃歌を集めた『リグ=ヴェーダ(Rig Veda)』が編纂された。
 前1000年ごろ、アーリヤ人はガンジス川中流域に進出し、森林を焼き払い、稲作を開始した。牧畜社会から定着農耕社会へ移行するとともに、軍事指導者が世襲的な王族・武人階層(クシャトリヤ)を形成した。先住民の信仰や儀礼はアーリヤ人の宗教のなかにとりいれられ、司祭者(バラモン)がつかさどる祭儀は複雑化し、つぎつぎとヴェーダが編纂された。ヴェーダを中心とした宗教をバラモン教という。バラモンは高い権威をもち、人々をバラモン(brahmana)、クシャトリヤ(kshatriya)、一般庶民(ヴァイシャ vaishya)、隷属民(シュードラ shudra)の四つの種姓(ヴァルナ Varna)と枠外の賤民(不可触民)に分ける身分制によって社会を秩序づけようとした。ヴァルナはのちのカースト(caste ジャーティ jati)制度の基礎となった。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、66頁~67頁)

【新しい思想の出現】
 前7世紀ごろ、ガンジス川流域では稲作農業や手工業が発展し、商業活動が活発になり、城壁のある都市をもつ国家が数多くつくられた。こうした社会的・経済的な発展を背景に、前6世紀ごろ、哲学的な「ウパニシャッド(Upanishad)」(奥義書)文献が編纂された。そこでは宇宙の根本原理(ブラフマン brahman)と自己(アートマン atman)を合一すれば、業(カルマ karma)によって決定された輪廻からときはなれたれ解脱することができると説かれた。
 業、輪廻、解脱の考えは、前5世紀ごろ、ガウタマ=シッダールタ(Gautama Siddhartha ブッダ Buddha, 前563ごろ~前483ごろ)によって深められた。現在のインドとネパールの国境周辺で王国を形成していたシャーキャ(釈迦)族の王子として生まれたブッダは、苦の原因から離脱する正しい認識の方法(四諦)と、正しい実践の方法(八正道)を説いて仏教の祖となった。また、マガダ国のクシャトリヤ出身のヴァルダマーナ(Vardhamana マハーヴィーラ Mahavira, 前549ごろ~前477ごろ)は、禁欲的な苦行と徹底的な不殺生により解脱を得るとするジャイナ教を創始した。ヴェーダの権威を批判する仏教やジャイナ教は、保守的なバラモンの支配に不満をもつ商人や王侯に支持され、インド全域に広がった。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、67頁)

【最初の統一王朝――マウリヤ朝】
 十六大国といわれた北インドの国家群のなかではコーサラ国(Kosala)とマガダ国(Magadha)がとくに有力であったが、マガダ国が前5世紀ごろにコーサラ国を滅ぼし、前4世紀にはマガダ国がナンダ朝(Nanda)のもとで北インド最大の勢力に成長した。この時期、アケメネス朝ペルシアはインダス川西岸に進出していた。その後、ペルシアを倒したアレクサンドロス大王が前326年までにインダス川流域を制圧し、北西インドは一時彼の大帝国に組みいれられた。いっぽう、マガダ国では前317年ごろ、武将チャンドラグプタ(Chandraguputa, 在位前317ごろ~前269ごろ)がパータリプトラ(現パトナ)を都とするマウリヤ朝(Maurya, 前317ごろ~前180ごろ)を建てた。マウリヤ朝は、西はアフガニスタン南部、東はガンジス川下流域、南はデカン高原にいたるインド最初の大帝国を形成し、第3代アショーカ王(Ashoka, 在位
前268ごろ~前232ごろ)のとき、帝国の領域は最大となった。アショーカ王は仏教の強い影響を受け、その広大な帝国を統治する理念として、不殺生、従順、慈悲などの倫理(法、ダルマ)をかかげ、ダルマの大切さを説く詔勅を各地の言語で崖や石柱に刻んだ。この詔勅刻文は広大な領域の各地で発見されている。しかし、アショーカ王の死後、バラモンなど非仏教勢力の反発もあって、マウリヤ朝は衰退した。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、67頁~68頁)

【クシャーナ朝と大乗仏教】
 マウリヤ朝は前2世紀の初頭に滅び、北インドの中央部は4世紀のグプタ朝の成立まで政治的な分裂がつづいた。しかし、この間にも仏教は商人などの都市民の支持を得て、インド各地で栄えた。このころ、仏教は、僧が守るべき戒律の教えや解釈をめぐっていくつかの部派に分かれた(部派仏教)。さらに、衆生の救済を重視し、悟りや知恵を求める修行者を広く菩薩として信仰する大乗仏教がおこった。2世紀ごろ、ナーガールジュナ(Nagarjuna, 竜樹, 2~3世紀)がその教理を体系化した。
 西北インドに接するバクトリアでは、アレクサンドロスの退却後もギリシア系の人々がとどまり、都市国家を形成していた。前2世紀にはいると西北インドに勢力を広げ、仏教をはじめとするインドの文明の影響を受ける一方、ヘレニズム文明をインドに伝えた。前1世紀にはイラン系のサカ人が、後1世紀には、大月氏の支配下にあったクシャーナ族が西北インドを征服した。クシャーナ族が建てたクシャーナ朝(Kushana, 1~3世紀)は、2世紀中ごろにはカニシカ王(Kanishka, 在位130ごろ~170ごろ)が北インドから中央アジアに及ぶ地域を支配し、都のプルシャプラ(現ペシャワール)から東西交易をおさえた。中国の絹、中央アジアの玉がクシャーナ朝領内にもたらされ、ローマに向けて船積みされ、かわりにローマからは金貨がもたらされた。こうしてインド、中央アジア、ペルシア、ギリシアの諸文明がこの地で混じりあった。
 カニシカ王は大乗仏教を手厚く保護し、このころからヘレニズム文明の影響もあって仏像がつくられるようになった。ともにクシャーナ朝の支配下にあった西北インドとガンジス川流域で異なる仏像様式が発展し、ガンダーラ美術とよばれる前者の仏教美術は、大乗仏教とともに東西交易路にのって中央アジアから東アジアに広がった。3世紀、クシャーナ朝はササン朝ペルシアの圧迫により衰亡した。

<ガンダーラ様式の仏像>
髪形や口ひげ、高い鼻といった風貌や衣服のひだなどに、ギリシア彫刻の強い影響がみられる(ガンダーラ出土)。
<マトゥラー様式の仏像>
ガンジス川流域で発展した仏像様式は、同地域におけるクシャーナ朝の支配拠点であったマトゥラーの名をとってマトゥラー様式という。洗練されたガンダーラ様式と異なり、粗削りではあるが力強い作風が特徴的である。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、68頁~69頁)

2インド世界の形成
【グプタ朝と古典文化の開花】
 4世紀前半に、ガンジス川中流域、かつてのマガダ国の故地から台頭したチャンドラグプタ1世(Chandraguputa I 在位320ごろ~335ごろ)がパータリプトラを都としてグプタ朝(Gupta 320ごろ~550ごろ)を建てた。同世紀後半には、チャンドラグプタ2世(Chandraguputa II 在位376ごろ~415ごろ)が北インドの大部分を統一した。
 グプタ朝の時代には、従来のバラモン教に民間信仰や神々をとりいれたヒンドゥー教の基礎が確立した。ヒンドゥー教では、世界保持者で万能の主宰者であるヴィシュヌ(Vishnu)と、破壊と創造の神シヴァ(Shiva)が主神とされた。また、古くから伝承されていた戦争叙事詩『マハーバーラタ』とラーマ王子の物語『ラーマーヤナ』の二大叙事詩がまとめられた。グプタ朝期以前に成立した『マヌ法典』は、ヴァルナごとに人々の生活規範を定め、王の義務や民法、刑法をまとめたもので、大きな影響力をもつようになっていった。
 バラモン教からヒンドゥー教への展開がすすんだころ、バラモンをおもな担い手とする天文学、数学、医学などの諸学問も発展した。とくにインド数学の数字、十進法、ゼロの概念などは、のちにイスラーム世界を通じてヨーロッパに伝えられ、近代数学の基礎となった。サンスクリット語はヴェーダの言語であり、当初は聖なる言葉としてバラモン教の文献でもっぱら用いられていた。しかし、グプタ朝期までには、さまざまな学問の文献や王の事績を記録する碑文などにも広く使われるようになった。文学でも、北インドに詩人カーリダーサ(Kalidasa 
5世紀ごろ)が登場し、仙人の娘シャクンタラーと王の波瀾万丈の恋を描いた戯曲『シャクンタラー』をはじめとする作品をサンスクリット語で著した。こうして、ヒンドゥー教とサンスクリット語による諸学芸を中心とするヒンドゥー文明の基礎が確立された。 
 グプタ朝期には仏教も栄え、ナーランダー僧院が仏教教学の中心となった。アジャンター石窟寺院の主要部もこの時代につくられた。この時期の仏像は、優美さとやさしさをもち、グプタ様式とよばれた。また、石窟寺院の壁面は、グプタ様式の彫像を彷彿とさせる仏や神などの姿を描いた絵画でいろどられた。
 グプタ朝は、服属した地方勢力の連合的な性格が強く、その支配は分権的であった。5世紀後半以降、西北インドのフーナ(Huna)が侵入したこともあって地方勢力は自立を強め、6世紀半ばにグプタ朝は瓦解した。フーナは一時的に北インドの広い地域を支配したが、グプタ朝から自立した地方勢力にやぶれ、西北インドに撤退した。

<グプタ様式の仏像>
目を半ば閉じた優美で気品のある顔や、薄い衣を着た体の表現に純インド的な特色がみられる(マトゥラー出土)。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、71頁~72頁)

【ヒンドゥー教と仏教の新展開】
 グプタ朝が衰退したころから、ヒンドゥー教ではシヴァ神やヴィシュヌ神を祀る石造の寺院が本格的に建てられるようになり、寺院で行なわれる諸儀礼が発達した。また、特別な修行や呪文によって超自然的な力や現世利益が獲得できるとする教えも広がった。この教えをタントリズムという。さらに6世紀ごろから、神々への絶対的な帰依を説くバクティの思想が影響をもつようになった。南インドで体系化されたバクティはやがてインド各地に広まり、神への信愛を感情的にうたう数多くの詩文学を生みだした。神への献身的な愛のみが救いをもたらすとするバクティの宗教指導者のなかには、寺院儀礼やカースト制を批判するものもいた。
 同じころ、仏教でもタントリズム的な密教が成立し、東インドを中心に広がった。また、グプタ朝衰退後も諸王朝の保護を受けてナーランダーをはじめとする僧院では教義の研究がすすめられた。しかし密教の発展とともにヒンドゥー教とのちがいが曖昧になったこともあり、仏教はやがてヒンドゥー教に吸収され、インドにおいては衰退した。バクティをかかげた宗教運動が仏教やジャイナ教を攻撃したこともあり、ヒンドゥー教がインド全域の幅広い階層の間に定着することになった。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、72頁~73頁)

【地方の発展】
 7世紀前半にハルシャ=ヴァルダナ(Harsha Vardhana, 在位606~647)がカナウジを都として、一時、北インドの大部分を統一したが、その死とともに帝国も解体した。以後、インド各地に諸王国が分立する状況が長くつづいた。この時代、南インドには活発なインド洋交易にも支えられて有力な諸王国が出現した。東海岸ではパッラヴァ朝(Pallava 3世紀~9世紀末)が7世紀から栄え、デカン高原を本拠として8世紀に成立したラーシュトラクータ朝(Rashutrakuta, 754~973)は、西海岸を支配するとともに北インドにも勢力をのばした。11世紀には半島南端のチョーラ朝(Chola, 前3世紀ごろ~13世紀)が有力になり、スリランカやスマトラにも軍を派遣し、インド半島から東のインド洋の覇権を握った。チョーラ朝は海上交易のさらなる発展をめざして中国の宋に使節を派遣し、以後、15世紀まで南インドの諸王国と中国との間で使節の交換が行われた。
 インド各地の諸王国では、グプタ朝の文化が継承されるとともに地域色の強い文化の発展もみられた。サンスクリット語とならんで、さまざまな地域語によっても文学作品が書かれるようになり、ヒンドゥー教の寺院は地域的に特徴のある様式でつくられた。また、農業開発が各地ですすみ、農村を直接支配する領主層が生まれ、農村での分業が発達した。ヴァルナの概念がヒンドゥー教とならんで社会に広く浸透していくとともに、商業や、各種の手工業、サービス業などの職業が世襲化されて各職業集団が固定化し、カースト(caste ジャーティ)制度の基盤が成立した。こうして、ヒンドゥー教とカースト制度を共通の特徴としつつ、政治的にも文化的にも独自性が強い諸地域からなるインド社会の原型が形成された。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、73頁~74頁)

【インド文明の広がり】
 東西交易の要衝に位置するインドで成立した宗教や諸学芸は、陸と海の道を通じてアジアの諸地域にもたらされた。大乗仏教と密教は、それぞれ成立間もなくしてインドから東方のアジア諸地域に伝わった。各地の支配者は自らと国家の繁栄を願って大規模な仏教寺院をつくらせた。紀元前後から数世紀の間、仏教を信仰する商人や僧が海と陸の道を通じてユーラシアの東半をさかんに往来し、地域間の交流を促進した。チャンドラグプタ2世期の5世紀初頭にインド、スリランカを歴訪した東晋の僧法顕、7世紀前半にナーランダー僧院で学び、さらにハルシャ=ヴァルダナの宮廷を訪れた唐の僧の玄奘、同じ7世紀の後半に海路でインドに渡り同僧院で学んだ義浄はとくに有名である。この間、インドからも数多くの僧が仏教布教のために東方に向けて旅立ち、中国やチベットでは仏典の翻訳などで活躍した。中国では漢訳された大乗仏教の経典を通して、仏教はさらに朝鮮半島や日本へと広がっていった。こうしたなかで、ガンダーラ様式やグプタ様式も東方に伝わり、中国や朝鮮半島、日本の仏教美術に影響を与えた。グプタ朝期に確立したヒンドゥー教とサンスクリット語による諸学芸もインドをこえて広がり、とくに東南アジアではその伝統文化を構成する一部となった。
 このように、ユーラシアの東半では、仏教やサンスクリット語などのインド生まれの文明を共有することで地域間の交流が促進された。しかし、インドでヒンドゥー教の優位と仏教の衰退が明らかになったころ、イスラーム教とムスリム商人の台頭もあって、そうした状況は大きく転換することとなった。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、74頁~75頁)


第13章 ユーラシア諸帝国の繁栄
3 インドの大国―ムガル帝国
【インド=イスラーム文化】
 ムガル帝国時代に、イスラーム教はインド全域に広まり、アクバルをはじめとする歴代皇帝が異教徒に対する融和政策をとったこともあって、ヒンドゥー文化と融合したインド=イスラーム文化が発達した。言語の面では、ペルシア語が公用語とされたが、北インドの地域語(のちのヒンディー語(Hindi))にペルシア語の語彙をとりいれたウルドゥー語(Urdu)も成立した。美術では、イランから入ってきたミニアチュールが、インドの伝統的様式と融合し、主として肖像や花鳥を描くムガル絵画に発展した。建築では、第5代シャー=ジャハーン(Shah Jahan 在位1628~58)が建てたタージ=マハル(Taj Mahal)に代表されるイスラーム建築が発展した。いっぽう、ムガル帝国の平和のもとでヒンドゥー教徒の全インド的な交流が活発化し、多くの巡礼者が訪れる聖地は、寺院などの壮麗な建築物でいろどられるようになった。

<タージ=マハル>
シャー=ジャハーン帝が愛妃ムムターズ=マハルの死をいたんでアグラ郊外に建てた墓廟。
イラン建築を受けついだ、インドの代表的なイスラーム建築である。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、223頁)


インド文化の記述~『詳説世界史』(山川出版社)より



第2章 アジア・アメリカの古代文明
1 インドの古典文明
【インド文明の形成】
 インドでもっとも古い文明は、前2600年頃におこった青銅器時代の都市文明であるインダス文明(Indus)である。インダス川流域のモエンジョ=ダローやハラッパーを代表する遺跡は、すぐれた都市計画に基づいてつくられていた。沐浴場や穀物倉をそなえた煉瓦づくりの都市遺跡であり、きわめて広い範囲に分布している。遺跡からは、印章や、ろくろでつくられた彩文土器が発見されている。また、そこでは、現在でも解読されていないインダス文字が使われていた。のちのヒンドゥー教の主神であるシヴァ神の原型や牛の像などもみつかっていることから、インド文明の源流をなすものと考えられている。
 インダス文明は前1800年頃までに衰退したが、その原因は解明されていない。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、53頁~54頁)

【アーリヤ人の進入とガンジス川流域への移動】
 前1500年頃、中央アジアからカイバル峠をこえ、インド=ヨーロッパ語系の牧畜民であるアーリヤ人(Aryans)が、インド西北部のパンジャーブ地方に進入しはじめた。アーリヤ人の社会は、まだ人々のあいだに富や地位の差がうまれていない部族的な社会であった。雷や火などの自然神が崇拝され、さまざまな祭式がとりおこなわれた。それらの宗教的な知識をおさめたインド最古の文献群をヴェーダと呼び、そのうち、賛歌集である「リグ=ヴェーダ(Rigveda)」からは、この時期の多神教的な世界観を知ることができる。
 前1000年をすぎると、アーリヤ人は、より肥沃なガンジス川上流域へ移動を開始した。青銅器にかわり、森林の開墾に適した鉄製の道具が使われるようになり、牛によって引かれる鉄の刃先をつけた木製の犂もうみだされた。また、それまでの大麦や小麦から、稲の栽培が中心におこなわれるようになっていった。

 アーリヤ人と先住民がまじわって社会が成立する過程で、ヴァルナ制と呼ばれる身分的上下観念がうまれた。ヴァルナ制とは、人は、バラモン(司祭)、クシャトリヤ(武士)、ヴァイシャ(農民・牧畜民・商人)、シュードラ(隷属民)という四つの身分にわかれるとする観念である。バラモンたちは、複雑な祭祀を正確にとりおこなわれなければ神々から恩恵をうけることができないとして、自身を最高の身分とした。彼らがつかさどる宗教をバラモン教という。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、54頁~55頁)

【都市国家の成長と新しい宗教の展開】
 ヴェーダ時代が終わり、部族社会がくずれると、政治・経済の中心はガンジス川上流域から中・下流域へと移動し、前6世紀頃には城壁でかこまれた都市国家がいくつもうまれた。それらのなかからコーサラ国(Kosala)、つづいてマガダ国(Magadha)が有力となった。
 このような都市国家で勢力をのばしてきた武士階層のクシャトリヤや、商業に従事するヴァイシャの支持を背景にして新しい宗教がうまれ、影響力をもつようになっていった。第一は、仏教である。開祖ガウタマ=シッダールタ(Gautama Siddhartha 前563頃~前483頃[諸説あり]、尊称はブッダ)は、動物を犠牲に捧げる供儀や難解なヴェーダ祭式、バラモンを最高位とみなすヴァルナ制などを否定した。ガウタマは、心の内面から人々の悩みをとくことを重視し、生前の行為によって死後に別の生をうける過程がくりかえされるとする輪廻転生という迷いの道から、人はいかに脱却するかという解脱の道を説いた。第二は、ヴァルダマーナ(Vardhamana, 前549頃~前477頃)を始祖とするジャイナ教である。ジャイナ教は、仏教と同じく、バラモン教の祭式やヴェーダ聖典の権威を否定した。とくに苦行と不殺生を強調した点に特徴がある。
 こうしたバラモンの権威を否定する新しい動きとならんで、第三に、バラモン教にも改革運動が生じた。それまでの祭式至上主義から転換し、内面の思索を重視したウパニシャッド哲学がそれである。また、この頃から民間信仰を吸収し、ヴェーダの神々にかわってシヴァ神(Siva)やヴィシュヌ神(Vishnu)が主神となるヒンドゥー教がめばえはじめた。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、55頁~56頁)

【統一国家の成立】
 前4世紀にあると、マケドニアのアレクサンドロス大王がアケメネス朝を滅ぼし、さらに西北インドにまで進出した。王はインダス川流域を転戦し、その影響で各地にギリシア系の政権が誕生した。この混乱から前4世紀の終わりに登場したインド最初の統一王朝がマウリヤ朝(Maurya, 前317頃~前180頃)であった。創始者のチャンドラグプタ王(Chandragupta,在位前317~前296頃)は、ガンジス川流域を支配していたマガダ国のナンダ朝(Nanda)を倒して首都をパータリプトラにおいた。つづいてインダス川流域のギリシア勢力を一掃し、さらに西南インドとデカン地方を征服した。
 マウリヤ朝の最盛期を築いたのはアショーカ王(Ashoka, 在位前268頃~前232頃)であった。王は、征服活動の際に多くの犠牲者を出したことを悔い、しだいに仏教に帰依するようになった。そして、武力に訴える征服活動を放棄し、ダルマ(法、まもるべき社会倫理)による統治と平穏な社会をめざして各地に勅令を刻ませた。また、仏典の結集(編纂)や各地への布教をおこなった。しかし官僚組織と軍隊の維持が財政困難をまねいたことや、王家に対するバラモン階層の反発もあり、マウリヤ朝はアショーカ王の死後、衰退した。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、56頁~57頁)

【クシャーナ朝と大乗仏教】
 マウリヤ朝の衰退に乗じて、前2世紀にギリシア人勢力がバクトリア地方から西北インドに進出した。つづいてイラン系遊牧民が西北インドに進出し、紀元後1世紀になると今度はバクトリア地方からクシャーン人(Kushans)がインダス川流域にはいってクシャーナ朝(Kusana,1~3世紀)をたてた。2世紀半ばのカニシカ王(Kanishka, 在位130頃~170頃)の時代が最盛期であり、中央アジアからガンジス川中流域にいたる地域を支配した。
 クシャーナ朝は交通路の要衝にあり、国際的な経済活動が活発におこなわれた。ローマとの交易が盛んであり、大量の金がインドにもたらされた。ローマの貨幣を参考にして金貨が大量に発行されたが、貨幣にはイランやギリシア・インドなどの文字や神々が描かれ、活発な東西交流がみられたことを示している。
 紀元前後には、仏教のなかから新しい運動がうまれた。それまでの仏教は、出家者がきびしい修行をおこなって自身の救済を求めるものであった。それに対して、新しい運動では、自身の悟りよりも人々の救済がより重要と考え、出家しないまま修行をおこなう意義を説いた菩薩信仰が広まった。この運動を、あらゆる人々の大きな乗りものという意味をこめてみずから大乗と呼び、旧来の仏教は自身のみの悟りを目的とした利己的なものであると批判し、小乗と呼んだ。また、それまでブッダはおそれ多いものとされ、具体的な像がつくられることはなかったが、ヘレニズム文化の影響をうけ、仏像がうみだされた。クシャーナ朝の保護をうけた大乗仏教は、ガンダーラ(Gandhara)を中心とする仏教美術とともに各地に伝えられ、中央アジアから中国・日本にまで影響を与えた。また、すべてのものは存在せず、ただその名称だけがあると説いた竜樹(ナーガールジュナ Nagarjuna, 生没年不詳)の空(くう)の思想は、その後の仏教思想に大きな影響を与えた。
 クシャーナ朝は3世紀になると、西はイランのササン朝に奪われ、東は地方勢力の台頭をうけて滅亡した。クシャーナ朝とならんで有力であったのは、西北インドから南インドにかけての広い領域で勢力をもったサータヴァーハナ朝(Satavahana, 前1~後3世紀)であった。仏教やジャイナ教の活動が盛んであったこの王朝のもとで、北インドから南インドへ多くのバラモンがまねかれた。その結果、北インドと南インドの文化の交流がすすむことになった。また、ローマとの交易もみられた。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、57頁~59頁)

【インド古典文化の黄金期】
 4世紀にはいるとグプタ朝(Gupta, 320頃~550頃)がおこり、チャンドラグプタ2世(Chandraguputa II, 在位376頃~414頃)のときに最盛期を迎え、北インド全域を統治する大王国となった。
 グプタ朝は、分権的な統治体制が特徴であり、支配地域は、中央部の王国の直轄領、従来の支配者がグプタ朝の臣下として統治する地域、および領主が貢納する周辺の属領から構成された。この時代には仏教やジャイナ教が盛んとなり、中国(東晋)から法顕が訪れた。その一方で、一時影響力を失いかけていたバラモンが再び重んじられるようになり、バラモンのことばであるサンスクリット語(Sanskrit)が公用語化され、また、彼らの生活を支えるために村落からの収入が与えられた。
 民間の信仰や慣習を吸収して徐々に形成されていたヒンドゥー教が社会に定着するようになったのも、グプタ朝の時代である。ヒンドゥー教は、シヴァ神やヴィシュヌ神など多くの神々を信仰する多神教である。特定の教義や聖典に基づく宗教ではなく、日々の生活や思考の全体に関わる宗教として、現在にいたるまでインド世界の独自性をつくりあげる一つの土台となっている。
 この時代には、『マヌ法典』や、サンスクリットの二大叙事詩『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』などが長い期間をかけてほぼ現在伝えらえるような形に完成した。また宮廷詩人カーリダーサ(Kalidasa, 5世紀)により、戯曲『シャクンタラー』がつくられた。天文学や文法学・数学なども発達し、十進法による数字の表記法やゼロの概念もうみだされ、のちにイスラーム世界に伝えられて自然科学を発展させる基礎となった。美術では、ガンダーラの影響から抜け出て、純インド的な表情をもつグプタ様式が成立し、インド古典文化の黄金期が出現した。都市での経済活動も活発であり、王の像が描かれた金貨や宝貝などさまざまな貨幣が発行された。
 グプタ朝は、中央アジアの遊牧民エフタルの進出により西方との交易が打撃をうけたことや、地方勢力が台頭したことにより衰退し、6世紀半ばに滅亡した。その後、ハルシャ王(Harsha, 在位606~647)がヴァルダナ朝(Vardhana, 606~647)をおこして北インドの大半を支配したが、その死後、急速に衰退した。
 当時の支配者の多くはヒンドゥー教の熱心な信者であったが、信仰に関して排他的ではなく、仏教やジャイナ教にも保護を与えた。たとえば、唐からインドに旅した玄奘(602~664)は、ハルシャ王の厚い保護をうけながらナーランダー僧院で仏教を学び、帰国して『大唐西域記』を著した。また、7世紀後半には義浄(635~713)がインドを訪れ、『南海寄帰内法伝』を著した。しかし、仏教はグプタ朝衰退後の商業活動の不振によって商人からの支援を失い、また、仏教やジャイナ教を攻撃するバクティ運動が6世紀半ばから盛んになったことなどにより、衰退に向かった。
 8世紀からイスラーム勢力が進出してくる10世紀頃までのインドは、地方政権の時代となり、北インドではラージプートと総称されるヒンドゥー諸勢力の抗争が続いた。ベンガル地方の王朝は、ナーランダーを仏教の中心地として復興させ、インドの他地域で衰退していた仏教に最後の繁栄期をもたらした。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、59頁~61頁)



第Ⅲ部 第7章 アジア諸地域の繁栄
4 ムガル帝国の興隆と東南アジア交易の発展


【ムガル帝国の成立とインド=イスラーム文化の開花】
 16世紀にはいると、中央アジア出身のティムールの子孫バーブル(Babur, 在位1526~30)が、カーブルを本拠にして北インドに進出しはじめた。バーブルは、1526年のパーニーパット(Panipat)の戦いでデリー=スルタン朝最後のロディー朝の軍に勝利をおさめ、ムガル帝国(Mughal,1526~1858 )の基礎を築いた。
 
 15~16世紀のインド社会では、イスラーム教とヒンドゥー教との融合をはかる信仰が盛んとなった。(中略)
 文化面でも融合への積極的な動きがみられた。ムガル宮廷にはイラン出身者やインド各地から画家がまねかれ、細密画が多数うみだされた。各地の王の宮廷では、地方語による作品がうみだされると同時に、それらの作品のペルシア語への翻訳がすすんだ。公用語のペルシア語がインドの地方語とまざったウルドゥー語も誕生した。また、建築においても、インド様式とイスラーム様式が融合したタージ=マハルなどの壮大な建築が現在に残された。

<タージ=マハル>
ムガル帝国第5代皇帝シャー=ジャハーン(在位1628~58)によって妃ムムターズ=マハルのために造営された墓廟。均整のとれた全体の姿はもちろん、大理石をもちいた浮き彫りや透かし彫り、貴石をはめこんだ壁などで装飾され、インド=イスラーム建築の代表とされる。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、197頁~199頁)

英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より


Chapter 3 The South Asian World 1 Expansion of the North Indian World
■Indus Urban Civilization
Around 2500 BC, many cities such as Harappa(ハラッパ), Mohenjodaro(モヘンジョ=ダロ) and Dholavira(ドーラ=ヴィーラ) sprang up in and around the Indus River basin.
This urban civilization was called the Indus civilization(インダス文明). Characteristics of
this civilization were in a planned urban construction. Along the roads,
which were defined in an orderly manner, houses of fired bricks were constructed and well
maintained sewers were equipped. And public facilities such as baths, conference rooms,
and grain warehouses were also built. Additionally, forts were built adjacent to the city
centers. However, it appears that neither palaces nor tombs will ever be found. It might be
concluded that it was a society without a mighty ruler. Wheel-made pottery with patterns
painted in black on red clay, and steatite seals with inscriptions have been excavated from
the ruins. Although the Indus script(インダス文字) has not yet been deciphered, many similar seals have been found in Mesopotamia. It is believed that there had been active
interaction between the two regions. Little is known about the ethnic groups that played
an important role in the Indus civilization, but we know they worshiped bulls and Bodhi trees. Lingas and statues resembling Siva have been excavated. So, it can be assumed that
the origin of South Asian civilization had been made already. It is thought that around 1800 BC the Indus civilization declined due to the changes of climate and the path of the river.

■Aryan Living
Around 1500 BC, in the Punjab region located in the middle of the Indus basin, the Indo-
European Aryan people(アーリア人) moved through the northwest crossing the Khyber Pass. By making full use of two-wheeled chariots, they went on to conquer the indigenous people. The Aryans worshipped fire, lightning and other forces as gods of nature. During this time, the Rigveda, a collection of hymns to these gods, was compiled.
Around 1000 BC, the Aryans advanced into northeastern India along the Ganges River.
They burned the forest of the river basin and started planting rice. Along with the transition to an agricultural society from pastoral society, military leadership formed a hereditary royal-warrior class (Kshatriya). Indigenous beliefs and rituals were incorporated into the Aryan religion, which developed more complex rituals. Veda scriptures were compiled one after another and increased authority was given to priests
(Brahmins バラモン), who were familiar with the rituals. They divided people into four classes of people(Varnas), namely Brahmin (priests), Kshatriya(warriors クシャトリア), Vaishya (commoners ヴァイシャ) and Shudra (servants シュードラ). There were also
the untouchables ― the lowest people who were outside the other castes. People were
forced to strictly observe this caste system(カースト制). Varna was the basis of the caste
(Jati) system in later ages.

■Emergence of New Ideas
Around the 7th century BC, rice farming and handicrafts developed; commercial activity
in the Ganges River basin became active; and many walled city-states were established.
Around the 6th century BC, within the background of this constant development of society
and the economy, The Upanishads(ウパニシャッド), an esoteric book of philosophical
literature, was compiled. It was preached that when fundamental principles (Brahman)
of the universe and the self (Atman) were combined, people could be free from samsara
(metempsychosis 輪廻) which is determined by the actions (karma 業[カルマ]) and nirvana
(解脱) could be attained.
Around the 5th century BC, the idea of karma, samsara and nirvana were deepened by
Gautama Siddhartha (ガウタマ=シッダールタ, Buddha ブッダ). Born as a prince of the
Shakya tribe, he founded Buddhism(仏教). He taught the correct way to escape the cause
of suffering (Four Noble Truths 四諦) and the correct method of practice
(Eightfold Noble Path 八正道). In addition, Vardhamana (ヴァルダマーナ Mahavira
マハーヴィーラ) born at Kshatriya of Magadha, founded the religion of Jainism
(ジャイナ教). It preached the liberation by ascetic practices and complete non-violence.
Buddhism and Jainism criticized the authority of the Vedas. These two religions spread throughout India, supported by the merchants and princes who were dissatisfied with the dominance of the conservative Brahmin.

■The First Unified Dynasty ―the Maurya Dynasty
Groups of city-states in North India, which had been said to be sixteen great powers
(mahajanapadas), were integrated into two big powers, i.e. the Kosala area and the
Magadha(マガダ) area. The Magadha area annexed the Kosala area in the 5th century BC
and became the greatest force in North India. During this period the Achaemenid Perisian
empire, which advanced to the west bank of the Indus River, had been in contact with the
Magadha country. In 326 BC, the army of Alexander the Great defeated the Persians.
He had advanced to the Indus River basin but turned back due to opposition of his
subordinates. This event gave a great stimulus to the political situation in India.
Then Chandragupta(チャンドラグプタ), a Magadha’s warlord, established
the Maurya dynasty(マウリア朝) around 317 BC with Pataliputra (present Patna)
as its capital. The Maurya dynasty formed the first great empire of India, having its
territory from southern Afghanistan in the west through the reaches of the Ganges
River in the east and to the Deccan plateau in the south. The heart of the empire
in the territory was directly controlled area governed by a vast number of bureaucrats, and royal families were sent to tributary countries of the frontier to govern. At the time of
King Asoka(アショーカ王), the third king, the Empire had the largest territory;
almost all of India except the southernmost part of the peninsula. Strongly influenced by
Buddhism, Asoka followed the philosophy to govern a vast empire with the ethics (law or
Dharma) of non-violence, obedience and mercy. He carved the imperial proclamation of
Dharma into stone pillars and rocks in the local languages. These imperial edicts have
been found all over the vast territory. However, after the death of Asoka, the vast empire
was divided due to the forces opposing Buddhism, including the Brahmin, and the collapse
of the national budget.

■The Kushan Dynasty and Mahayana Buddhism
In the central part of North India, after decline of the Maurya dynasty in the 2nd century
BC, political schism lasted until the establishment of the Gupta dynasty in the 4th century
BC. However, with the support of the people of the cities such as merchants, Buddhism
also flourished in many parts of India during this period. Around this time, the Buddhism
was divided into several sects (Buddhist schools). The Theravada Buddhism(上座部仏教)
spread to Sri Lanka and became the source of Buddhism in Southeast Asia
(Southern Buddhism).
Mahayana Buddhism(大乗仏教), which emphasized the relief of all sentient beings
and the worship of bodhisattvas, began from around the 1st century AD. Around the 2nd
century, Nagarjuna(ナーガールジュナ) formulated its doctrine and Mahayana Buddhism
spread to Central Asia and East Asia through the trade routes (Northern Buddhism).
After the Maurya dynasty went into decline, people from Iran and Greece frequently
invaded northwestern India. In the 1st century BC, the Saka tribes (of Iranian origin) and
Parthians invaded. In the 1st century AD, the Kushana (also of Iranian origin), which was
under the control of the Yuezhi, conquered northwestern India and built the Kushana
dynasty(クシャーナ朝). Around the 2nd century, King Kanishka(カニシカ王) of the Kushana
dynasty dominated the area ranging from the North India to Central Asia. He established
its capital in Purushapura (present Peshawar) and controlled the East-West trade. Chinese
silk and jade from Central Asia were brought to Purushapura to be shipped to Rome.
In exchange, gold coin was brought from Rome to Purushapura. The civilizations of India,
Central Asia, Persia and Greece thus mixed in this area.
King Kanishka supported Mahayana Buddhism, and the anthropomorphic
representations of Buddha were made under the influence of Hellenistic civilization around
this time. The Gandhara style(ガンダーラ様式) of Buddhist art spread from Central Asia
to East Asia through the East-West trade routes, together with Mahayana Buddhism.
In the 3rd century, the Kushana dynasty was ruined by the invasion of the Sasanian Persia.

(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、55頁~58頁)

Chapter 3 The South Asian World
2 Establishment of the Hindu World
■Development of the South Indian World
As the inland trade between the east and the west became active, marine trade between
the east and the west also became popular from around the 1st century. This is because a
navigation method to make direct, nonstop voyages from the Arabian peninsula to the coast of the Indian peninsula using the monsoon of the Indian Ocean was developed.
Merchants from Syria, Egypt and Abyssinia (Ethiopia) launched their operation in the
Indian Ocean. Through the sea routes, large quantities of spices such as pepper were
exported from India to the Mediterranean world, and Roman gold coins, glass and metalwork were brought from the Mediterranean world to India. A large number of such
gold coins contributed to the development of South India.
In accordance with the development of the Indian Ocean trade, many dynasties were
established in South India. The Satavahana (Andohra) dynasty(サータヴァーハナ朝),
which was established around the 1st century BC in the Deccan plateau, integrated
the east and west coasts of South India at the end of the 2nd century and flourished
by the Indian Ocean trade. Since this dynasty aggressively absorbed the culture of
North India, Buddhism and the Vedic religion (Brahmanism) spread in South India.
Also, at the southern tip of the peninsula, the Chola and Pandyan dynasties lasted
long on the basis of the maritime trade, and the culture based on the Tamil, a Dravidian
language, flourished.
On the other hand, around the 5th century BC, the Sinhalese (of Aryan origin) of North
India came to Sri Lanka and built Sinhalese kingdom(シンハラ王国) around the
4th century BC. Buddhism was introduced to Sri Lanka around the 3rd century BC,
and after that it became a center of preaching Southern Buddhism.
Since around the 2nd century BC, the Tamil in South India came there intermittently.
They are the origin of present Sri Lankan Tamil.

■Establishment of Hinduism and the Gupta Dynasty
In the first half of the 4th century AD, Chandragupta I(チャンドラグプタ1世), who
emerged from the middle reaches of the Ganges River, a homeland of the former Magadha,
built the Gupta dynasty(グプタ朝) with Pataliputra as its capital. In the second half of
that century, a large part of North India was unified under the control of Chandraguputa II
(チャンドラグプタ2世).
In the period of Gupta, various sects which incorporated folk religions to traditional
Vedic, were born and, the basis of Hindu(ヒンドゥー教), a religion peculiar to India,
was established. In the Hindu religion, Vishnu(ヴィシュヌ), which was the preserver of
the universe and almighty God, and Shiva(シヴァ), the God of destruction and creation,
became chief gods replacing Vedic god. In addition, the Mahabharata, a war epic
that had been handed down through the ages, and the Ramayana, a story of Prince Rama,
were compiled. They became popular literature though recitation and plays. Introduced
to Southeast Asia through the sea routes, they had a major impact on the traditional arts
of Southeast Asia. In addition, the Laws of Manu(マヌ法典) were compiled where norms
for the people depending on each Varuna were integrated with obligations of the king, civil
law and the penal code. Since then, the Laws of Manu became the principles and order in
Hindu society.
Brahmins developed astronomy, mathematics and medicine. Particularly of note,
Indian mathematics, such as numerals(数字), the decimal system(十進法) and the concept
of zero(ゼロの概念), was later passed on to Europe through the Islamic world.
These became the basis of modern mathematics. In the court of Gupta, Sanskrit literature
(サンスクリット語) became popular and a poet, Kalidasa wrote a play called Shakuntara.
Thus the foundation of Hindu civilization, which was popularized and survives today,
was established.
Buddhism flourished during the Gupta period and the Naranda monastery
(ナーランダ僧院) became the center of Buddhist learning. The main part of the cave
temples in Ajanta(アジャンター石窟寺院) was also built during this period. Buddha
statues of this period were called Gupta style with grace and kindness. The Gupta style
was exported to the east and became the basis of Buddhist art in China and the Korean
peninsula, as well as Japan.
The Gupta dynasty had strong nature of union from the local forces subjected to the
dynasty and the control was decentralized. In the 5th century, East-West overland trade
declined due to the confusion of the Roman Empire, and local autonomy became enhanced.
When the Ephthalites invaded northwestern India in the middle of the 6th century,
the Gupta dynasty collapsed and North India entered a long period of turmoil..

(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、58頁~60頁)

Chapter 12 Prosperity of Empires in the Eurasian Continent
3 The Mughal Empire; Big Power in India
■Indo-Islamic Culture
In the Mughal Empire’s period, Islam spread over the whole of India, and being
influenced by Hindu culture, Indo-Islamic culture developed. Persian was an official
language, but people in North India spoke Hindi(ヒンディー語), and Urdu(ウルドゥー語)
was formed by incorporating Persian words into Hindi. In the arts, miniatures
(ミニアチュール), which were introduced into the culture from Iran, were transformed
into Mughal pictures with the main subjects of portraits, flowers and birds, and being
influenced by such Mughal one, Hindu drew Rajput pictures(ラージプート絵画).
In architecture, Islamic architecture represented by the Taj Mahal(タージ=マハル),
which the fifth emperor Shah Jahan(シャー=ジャハーン) constructed, developed,
while new style Hindu temples were also built in South India.

(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、165頁)


≪【補足 その3】中国文化史~王義之と顔真卿≫

2023-09-24 19:00:03 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪【補足 その3】中国文化史~王義之と顔真卿≫
(2023年9月24日投稿)

【はじめに】


 私は、以前のブログで、次の石川九楊氏の著作を紹介し、王義之と顔真卿についても取り上げてみた。
〇石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年
たとえば、≪石川九楊『中国書史』を読んで その5≫(2023年2月26日投稿)など。

 今回のブログでは、高校の世界史で、王義之と顔真卿がどのように解説されていたのかを復習しておきたい。
〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]
〇木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]
〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]
〇川北稔・桃木至朗監修『最新世界史図説 タペストリー(二十訂版)』(帝国書院、2022年)
 
 また、最近、書にかんする次の随筆を読んだ。
〇小松茂美編『日本の名随筆64 書』作品社、1988年[1989年版]
 この随筆には、巻頭の口絵には、◆王羲之の「喪乱帖」(宮内庁蔵)が掲載されて、作家駒田信二氏と井上靖氏の随筆が収められている。
〇「王羲之」 駒田信二
〇「顔眞卿」 井上靖
 この二つの随筆を紹介することにより、王義之と顔真卿の人物像について考えてみたい。
 この二人の作家が描いた王義之と顔真卿という歴史上の人物は、書家の石川九楊氏とは違った
形で描かれていることがわかるであろう。

※王義之の生没年については、諸説ある。
・駒田信二氏は、清の魯一同の説をもとに、王義之は永嘉元年(307)に生まれ、興寧3年(365)数え年59歳で死んだということになる、と記述している(64頁)。
・しかし、近年、比較的信頼性があるとされているのは、王義之の生没年を303年~361年とする。(だから、駒田氏の記述にみられる王義之の年齢にはズレが生じるので注意)




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


〇高校世界史に記述された王義之と顔真卿
〇書家・石川九楊氏の捉え方
〇王義之と顔真卿~小松茂美編『日本の名随筆64 書』より
〇「王羲之」 駒田信二~小松茂美編『日本の名随筆64 書』より
・駒田信二氏のプロフィール
・『晋書』の「王羲之伝」の書き出し
・『世説新語』の王羲之の結婚にまつわるエピソード
・王羲之の生年と没年の謎、エピソード
・王羲之の経歴と思想
・王羲之の「蘭亭序」
・王羲之の退官後
・「喪乱帖」(口絵より)

〇「顔眞卿」 井上靖~小松茂美編『日本の名随筆64 書』より
・井上靖氏のプロフィール
・西安の碑林
・顔眞卿の書
・顔眞卿という人と書
・安禄山の乱と顔眞卿
・顔眞卿の最期~「資治通鑑」より
・顔眞卿に対する書論について~井上靖氏の評言
(執筆項目の見出しは、随筆の内容を考えて、筆者がつけたものである)






高校世界史に記述された王義之と顔真卿



〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍
●南北朝の文化
 江南の呉と東晋、および南朝の四つの王朝が交替した六朝時代には、貴族が主導する六朝文化が花開いた。詩の陶潜(陶淵明、365ごろ~427)、書の王羲之(307ごろ~365ごろ)、絵画の顧愷之(344ごろ405ごろ)らがこれを代表し、散文では、四六駢儷体という華麗な文章が好まれた。梁の昭明太子(501~531)が編集した『文選』は、古来のすぐれた詩文を集めたもので、日本文化にも大きな影響を与えた。貴族の間では、「竹林の七賢」の言行にみられる清談がもてはやされ、老荘思想が歓迎された。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、86頁~87頁)

●唐代の社会と文化
  美術では、書の褚遂良(596~658)・顔真卿(709~786ごろ)、絵の閻立本(?~673)・呉道玄(8世紀)らが出た。絵画の題材には山水が好まれ、水墨の技法による山水画が発達した。工芸では、唐三彩で知られる陶器に特色があらわれた。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、89頁~91頁)

〇木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社
●魏晋南北朝の文化
 当時の文化の一つの特色は、精神の自由さを重んずるということである。貴族のあいだでは、道徳や規範にしばられない趣味の世界が好まれた。魏・晋の時代には世俗を超越した清談が高尚なものとされ、文化人のあいだで流行した。文学では田園生活へのあこがれをうたう陶潜(陶淵明、365頃~427)や謝霊運(385~433)の詩が名高い。対句をもちいたはなやかな四六駢儷体が、この時期の特色ある文体であり、その名作は梁の昭明太子(501~531)の編纂した『文選』におさめられている。絵画では「女史箴図」の作者とされる顧愷之(344頃~405頃)、書では王羲之(307頃~365頃)が有名で、ともにその道の祖として尊ばれた。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、84頁~85頁)

●唐代の制度と文化
 唐代には仏教が帝室・貴族の保護をうけて栄えた。玄奘や義浄はインドから経典をもち帰り、その後の仏教に大きな影響を与えた。もともと外来の宗教であった仏教はしだいに中国に根づき、浄土宗や禅宗など中国独特の特色ある宗派が形成されてきた。
 科挙制度の整備にともない、漢代以来の訓詁学が改めて重視され、孔穎達(くようだつ、こうえいたつ, 574~648)らの『五経正義』がつくられた。また、科挙で詩作が重んじられたこともあり、李白(701~762)・杜甫(712~770)・白居易(772~846)らが独創的な詩風で名声を博した。唐代の中期からは、文化の各方面で、形式化してきた貴族趣味を脱し、個性的で力強い漢以前の手法に戻ろうとする気運がうまれてきた。韓愈(768~824)・柳宗元(773~819)の古文復興の主張、呉道玄(8世紀頃)の山水画、顔真卿(709~785頃)の書法などはそのさきがけといえる。

<顔真卿の書>
彼は従来の典雅な書風を一変させて、書道史上に一時期を画した。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、89頁~90頁)

〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社
●南北朝の文化
 Culture in the Southern and Northern Dynasties

In the period of Six Dynasties, when the Wu and the Eastern Jin in Jiangnan, and four
dynasties of the Southern dynasties came to power in turn, the culture of the Six Dynasties,
led by nobles, blossomed. Tao Qian (Tao Yuanming, 陶淵明) of poetry, Wang Xizhi (王羲之) of calligraphy, Gu Kaizhi (顧愷之) of painting were among others.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、71頁)

●唐代の社会と文化
 Society and Culture of the Tang Dynasty

In art, Chu Suiliang and Yan Zhenqing were leading calligraphers and Yan Liben and Wu
Daoxuan were famous artists. Landscapes were favorite subjects for artists and landscape
paintings with China ink wash painting techniques developed. In craft, ceramics such as a
famous three-colored painting (sancai) were distinguished in the Tang dynasty.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、73頁~74頁)

なお、東京書籍の方では、元代の書家の趙孟頫(趙子昂)に言及していた。
〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍

●元代の社会と文化
 宋代からの庶民文化は、モンゴル人の統治下でもひきつづき発展し、モンゴル支配への抵抗を秘めた民謡や雑劇(元曲)が流行した。元曲の代表作品としては、封建的な束縛に抗して自由な恋愛をえがく『西廂記』、匈奴に嫁いだ王昭君の悲劇を劇化した『漢宮秋』、琵琶を弾きつつ出世した夫との再会を果たす女性を主人公とした『琵琶記』などがある。また民間での講談もさかんであり、『水滸伝』『西遊記』『三国志演義』の原型がつくられた。書画の分野では、東晋の王羲之の伝統をつぐ趙孟頫(趙子昂、1254~1322)や文人画の黄公望(1269~1354)、倪瓚(1301~74)などがあらわれ、物語の挿絵として流行した細密画(ミニアチュール)は、イル=ハン国を通して西方に影響を及ぼした。いっぽう、イスラーム天文学の知識にもとづいて郭守敬(1231~1316)が授時暦をつくり、この暦は、日本の江戸時代、渋川春海(安井算哲、1639~1715)が作成した貞享暦の基礎となった。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、184頁~185頁)

●元代の社会と文化
Society and Culture of the Yuan Dynasty

The culture of common people continuously developed since the Song period even
under Mongol’s control, and folk songs and Zaju (雑劇, Yuan musical 元曲) concealing resistance
against Mongolian control became popular. Representative Zaju were, among others,
Xixiang Ji (西廂記), or Tale of the Western Chamber depicting free love rebelling against the
feudal restraint, Han Gong Qiu (漢宮秋, The story of the Han palace) dramatizing a tragedy about
Wang Zhao Jun who married to the Xiongnu and Pi Pa Ji (琵琶記, The Lute), a story about a
heroin who, with playing a lute, finally could meet again with her husband. Private
storytelling was also popular and original forms of Water Margin (水滸伝), Journey to the West
(西遊記) and Romance of the Three Kingdoms (三国志演義) were created. In the field of drawings and paintings, Zhao Mengfu (趙孟頫) succeeding traditions of Wang Xizhi (王羲之), and Huang Gongwang(黄公望) and Ni Zan (倪瓚) of literati paintings appeared.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、144頁~145頁)

※木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社には、言及がない。

〇川北稔・桃木至朗監修『最新世界史図説 タペストリー(二十訂版)』(帝国書院、2022年)には、王義之と顔真卿について、次のように記述している。

魏晋南北朝
3南朝の優雅な貴族文化(六朝文化)
・王義之「蘭亭序」
 王義之は東晋の書家。名門に属し、会稽近郊の蘭亭で詩宴を催して序文をつけ“書聖”と称された。書体は手本となり、真筆は唐の太宗に好まれ陵(りょう)に副葬された。
(川北稔・桃木至朗監修『最新世界史図説 タペストリー(二十訂版)』帝国書院、2022年、99頁)

唐代の社会と文化
3書道・工芸
・顔真卿の書~盛唐の書家として知られ、従来の上品な王義之派の書風に対し、力強い書風を確立した。優れた軍人でもあり、安史の乱では義勇軍を率いて乱の鎮圧に貢献し、その功績で栄達するも、その剛直な性格から何度も左遷され、最後はとらえられて殺された。
(川北稔・桃木至朗監修『最新世界史図説 タペストリー(二十訂版)』帝国書院、2022年、103頁)
 なお、川北稔・桃木至朗監修『最新世界史図説 タペストリー(二十訂版)(帝国書院、2022年)の巻末には、中国文化史の次のような表がついている。


書家・石川九楊氏の捉え方


 書家・石川九楊氏は中国書史について、どのような捉え方をしていたのか。そして、王羲之と顔真卿の書について、どのように理解していたか。
 この点に、若干解説しておく。
〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年

石川氏は、書史を次のように定義している。
「書史は、文字に発し、字画を書くことへと転位した筆触以前に発し、筆触を発見し、ついに筆蝕を発見し、さらにその筆蝕を筆蝕として組織し、構築しつづけてきた歴史である。その過程と力動(ダイナミズム)を明らかにすることこそが書史である」(8頁)
※注意~石川氏は、「筆触」と「筆蝕」を区別し、使い分けている。

王羲之と顔真卿~石川九楊『中国書史』より


結論的には古法二折法の象徴として王羲之であり、新法三折法の象徴として顔真卿であるという点に尽きよう。例えば顔真卿の「顔勤礼碑」の文字ぶりは、「九成宮醴泉銘」のそれとは全く異なり、臭気まで漂わせるほどに太く生々しく、そしていささか「ぶれ」をもつ字画から成り立っている。
「九成宮醴泉銘」のように普遍や典型の姿はないが、顔真卿の姿、形、息づかいが見えそうだという趣がある。「蚕頭燕尾」「蚕頭鼠尾」と言われるように起筆を蚕の頭のように描き出し、右はらいを燕や鼠の尾のように長く引き出す書きぶりは、蝕筆と触筆が相互に浸透し、練り上がった状態を示している。
(石川、1996年、32頁)

石川九楊氏の書史(中国書道史)の捉え方


石川氏は「蘭亭叙」および書の勉強の仕方について、次のように述べている。
「詳しい事情はわからぬが、中国のことだから、清の乾隆帝が価値づけたという「第一本」「第二本」「第三本」という序列に意味はあったのではないだろうか。
それにしても、と私は思う。なぜ「第二本」を軽視し、「第三本」を不当に高く買うようなへんてこな常識が書道界にまかり通っているのだろうか。ここに現在の書の学習法の間違いがあると思う。
私はどうしても最近の書の勉強の仕方に疑問を感じる。長老書道家は「最近の書道家は勉強しなくなった」とぼやく。「書道家も文章くらい書けるようにしなければだめだ」と小言を言う。それはそうかもしれない。しかし、この時、長老書道家は「勉強」という言葉にどんな意味を込めているかが問題だ。
最近の「蘭亭叙」の研究というと、墨跡本や拓本の種類を探したり、整理することになる。少し漢文が読めると、中国での「蘭亭叙」についての学説の探索や整理ということになる。あるいは中国史学者や中国文学者の後塵を拝するに決まっている王羲之の伝記的穿鑿に走ろうとする。もっと勉強家は、東洋史を勉強して、中国の時代背景や時代思想と「蘭亭叙」を結びつけようとする。
むろんこれらの研究のひとつひとつの進展が、全体として「蘭亭叙」の研究を進めることだからそのこと自体大切で必要なことではある。しかし、これらの研究は、東洋史や中国文学の一分野であっても、それ自体はまだ書の領域での学問ではない。
書をする者にとって書を勉強するとは、書自体を読み込み、解き明かすことだ。書の鑑賞の仕方なんて各人の自由で、いろいろと解釈できるものだというのは、間違った考え方である。書自体を読むとは、文章を読むのではない。書、つまり筆跡の美を読み込むことなのだ。私自身書家でありながら文章も書いているのだから口はばったい言い方になるが、必ずしも書家が文章を書いた方がいいとは思えない。問題はそんなところにはない。それよりも書自体を読み込むこと。読み込んで、読み込んで書を見る眼を微細な感受性をもつものへと鍛えていくことだ。
むろん書についての「見方や解釈は各人の自由」式の印象批評ではしかたがない。書写の過程を追い、その筆蝕を解き明かし、その筆蝕のよってきたる思想や美を言葉でつかみえた時、はじめて書を読んだと言える。それこそが書の学問の中心に来るべきものだと思う。
それは実作経験者である書の実作者の得意とするところである。「実作者にしかできない」というのは言い過ぎだとしても、日頃筆蝕の中に表現を盛ることに腐心し、筆蝕の意味や価値と苦闘している実作者が最も理解しやすい、有利な位置にあることは確かだ。おそらく微細な読みは、中国歴史家や中国文学者では不可能なことだと思う。もしも書の実作者ががんばって、書を読んで読んで、読み込んだ上で、書について語れるなら(文章に書いた方がいいに決まっているが必ずしも書かなくてもよい。語ってもよいのだ)、そこまでやれれば、その成果は逆に東洋史や中国文学にも益をもたらすことになる。その時、書家や書の研究家は、東洋史や中国文学者や文献学者たちと同列に肩を並べる存在となる。
書の学問というのは、東洋史や中国文学者や文献学者の後塵を拝し、そのまねごとをすることではない。眼前にある書――とりわけその美――を解き明かすことなのだ。
なぜなら、書というのは、意識的か無意識的であるかは別にして、人間の表現したものとして存在している。つまりその表現の美――その意味や価値――を扱わねばならないからだ。」
(石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、123頁~124頁)

中国史学者(東洋史学者)や中国文学者が「蘭亭叙」を研究する場合と、書家や書の研究家(書を学ぶ者)が書の勉強をする場合とでは、学問の領域が異なることを石川氏は強調している。例えば、「蘭亭叙」を研究する場合、前者は墨跡本や拓本の種類の探索や整理、中国での学説整理、王羲之の伝記的穿鑿、「蘭亭叙」と中国の時代背景や時代思想との関係を探究することになる。それに対して、後者の書の領域の学問は、書自体(筆跡の美)を読み込み、解き明かすことであるというのである。すなわち、筆蝕を解き明かし、その筆蝕のよってきたる思想や美を言葉でつかむことであるという。

私のブログ記事≪石川九楊『中国書史』を読んで その5≫(2023年2月26日投稿)を参照のこと。

王義之と顔真卿~小松茂美編『日本の名随筆64 書』より


 最近、次の随筆集を読んだ。
 その中から、王義之と顔真卿について、紹介してみたい。
〇小松茂美編『日本の名随筆64 書』作品社、1988年[1989年版]
「王羲之」 駒田信二
「顔眞卿」 井上靖
「喪乱帖」(口絵)◆王羲之



「王羲之」 駒田信二~小松茂美編『日本の名随筆64 書』より


駒田信二氏のプロフィール


・1914年生まれ 小説家・評論家・中国文学者
・学生の頃より創作に励む。応召、復員後、旧制高校教授として高橋和巳、篠田一士らを教えた。
・その後も久しく大学の教壇にあったが、一方で、創作や評論、翻訳などを精力的に発表。
・主な著作に、『島』『遠景と近景』『水滸伝(翻訳)』など、収録作は1982年。
▷『中国書人伝』芸術新聞社、1985年12月
(小松茂美編『日本の名随筆64 書』作品社、1988年[1989年版]、255頁)

『晋書』の「王羲之伝」の書き出し


<王羲之、字は逸少、司徒導の従子なり>
・司徒導というのは、東晋の元勲であった宰相王導(276~339)のことである。
 父の名を書かずに、父の従兄弟(いとこ)にあたる王導の名を挙げている。
・従子とは、父の兄弟姉妹の子(つまり甥あるいは姪)のことだが、王羲之は王導の甥ではない。
 従兄弟の子なのである。
(ただ、大家族の排行(はいこう)の上で従兄弟同士も兄弟とみなすならば、王羲之は王導の従子といってもよいのかもしれない)
・なぜ、父の名をはぶいたのか?
 王羲之の父は王曠(おうこう)という。西晋の末年に淮南太守になったといわれている。
 そのころ、西晋の王族(司馬氏)の瑯邪(ろうや)王司馬睿は、西晋王朝に見切りをつけていて、自分の封地の瑯邪(山東省東南部の江蘇省に接する地)にもどろうとしていたところ、たまたま徐州軍事総督に任ぜられた。
 司馬睿は任についたが、北方の動乱が瑯邪をふくめてこの地にまで及んでくることは必至であると見て、瑯邪の王氏の王導やその従兄弟の王敦(266~324)らとともに、今後の拠るべき地について協議を重ねていた。その密談の席へ乗り込んできたのが、王曠だった。
 「謀叛の相談か。仲間に入れてくれなければ密告するぞ」と彼はいった。司馬睿はしかたなく仲間に加えると、王曠は、江南の地へ退いてそこを根拠にすべきであると主張した。
 王曠の主張で衆議は一決した。司馬睿はそこで、願い出て徐州軍事総督から揚州軍事総督に転じ、三国の呉の首都だった建康(今の南京)に進駐した。

※王曠については、この江南の地を根拠にすべきであると主張したということのほかには、格別の伝録がない。
※南朝の宋の劉義慶(403~444)が著した魏晋の人物のエピソード集である『世説新語』にも、王曠の名はない。

※王曠という人が早く死んだらしいことは、王羲之が永和11年(355)会稽内侍を辞任するときに書いた祭墓文に、
<羲之不天(ふてん)、夙に閔凶(びんきょう)に遭い、過庭(かてい)の訓(きん)を蒙らず、母兄(ぼけい)に鞠育されて庶幾(しょき)に漸(ちかづ)くを得たり>
とあることによって知られる。
・「閔凶」とは、父母の死という意味である。
・「過庭の訓」とは、庭訓(ていきん)、家庭教育の意。
・「母兄」とは、母を同じくする兄という意味である。
⇒つまり、王羲之は、幼いときに両親を失い、従って家庭教育を受けることなく、兄に養育されて成人した、というのである。
(ただ、王羲之に兄があったということは、『晋書』にも『世説新語』にも記されていない)
 幼くして父母を亡くした王羲之は、同族の族長である王導の屋敷に引きとられて、排行を同じくする者たちといっしょに一棟に住んでいたようだ。
(小松茂美編『日本の名随筆64 書』作品社、1988年[1989年版]、61頁~63頁)

『世説新語』の王羲之のエピソード


※次のような『世説新語』のエピソードがそれを示している。

<太傅の郗鑒(ちかん)が京口(建康の東、鎮江県)にいたとき、宰相の王導のところへ使者を送って手紙をとどけ、娘に婿をもらいたいと申し入れた。すると王導はその使者にいった。
「東の屋敷へ行って、気に入った者をお選びください」
使者は京口へ帰って郗太傅に復命した。
「王家の息子さんたちは立派な方ばかりでした。ただ、お婿さんをさがしにきたということがわかると、みんなとりすましておられましたが、お一人だけ、東側の寝台の上に腹ばいになったままで、まるで関心のない様子の方がおいででした」
郗太傅はそれをきくと即座に、
「よし、それにきめた」
といった。王家へ問いあわせてみたところ、それが王羲之だった。そこで郗太傅は娘を王羲之のもとへ嫁がせた>

・この郗鑒の娘は名を璿(せん)といった。郗璿は王羲之とのあいだに七男一女を生み、王羲之の死後、三十余年も長らえて90歳を越える長寿を保った。七男のうちの末子が王献之である。
(小松茂美編『日本の名随筆64 書』作品社、1988年[1989年版]、63頁~64頁)

王羲之の生年と没年の謎、エピソード


・不明なのは、父のこと、母のこと、兄のことだけではない。
 王羲之その人についても不明な点が多く、その生没年についてもさまざまな説がある。

・生年と没年については、魯一同(ろいつどう)の『右軍年譜』の推定を妥当とする人が、近年は多い。
 それに従えば、王羲之は永嘉元年(307)に生れ、興寧3年(365)数え年59歳で死んだということになる。
 その生年の永嘉元年は、7月に司馬睿が王導や王敦らに従えて建康に進駐した年である。
 そのとき王義之の父の王曠も、司馬睿に従ったと思われるが、王曠は淮南太守だったというから、あるいは徐州から淮南の郡治である今の安徽省寿県に帰ったかもしれないし、建康に進駐した後に帰ったかもしれない。

<注釈>王羲之の生没年代について
・王義之の生没年については、諸説ある。
・駒田信二氏は、清の魯一同(1805~1863)の説をもとに、記述している。
・しかし、近年、比較的信頼性があるとされているのは、王義之の生没年を303年~361年である。(だから、駒田氏の記述にみられる王義之の年齢にはズレが生じるので注意)
※王義之の生没年代については、 
 ・303年~361年(『東観余論』の説)
 ・307年~365年(清の魯一同の説)
 その他、306年~364年、321年~379年、および303年~379年(姜亮夫の説)がある。
(ウィキペディアの王義之の項目、および次の福田哲之論文を参照のこと)

〇福田哲之
「王義之 生卒年代の再検討――魯一同「右軍年譜」を中心として」
(『福島大学教育学部論集』第45号(人文科学)、1989年、1~10頁)
※この論文は、ネットで閲覧可能である。

なお、福田哲之氏は、その論文で次のように英文で要約している。
Tetsuyuki FUKUDA
“Re-Examination of the Years of Wang Zi-zhi’s (王義之) Birth and Death
---- As Regards “You-Jun Nian-Pu”(右軍年譜) written by Lu Yi-tong (魯一同) ----”

 This paper is written about the years of Wang Zi-zhi’s (王義之) birth and death
which are important for the history of Chinese calligraphy.
  Lu Yi-tong (魯一同) writes in his “You-Jun Nian-Pu”(右軍年譜) that Wang Zi-zhi
(王義之) was born in 307 and died in 365. This is now widely supported. But when
we examine the ground of his argument in detail, we can find the theory groundless.
  On the other hand, Tao hong-jing (陶弘景), in Liang (梁), insists in his “Zhen-Gao”
(真誥) that Wang Zi-zhi (王義之) was born in 303 and died in 361. Lu Yi-tong (魯一同)
misunderstood this theory by the “Shu-Duan” (書断), written by Zhang Huai-guan
(張懐瓘) in Tang (唐). This theory can be supported when one studies the calligraphy,
Dao-Jiao (道教), and so on in detail.



・問題はそのころ王義之の母がどこにいたかということである。
 そして王義之の生れたのが7月よりも前だったのか、後だったのか、ということである。
 それらによって王義之の生れた土地もちがってくるはずだが、建康で生れたということはあるまい、と駒田氏は推測する。瑯邪か、淮南の郡治の寿県かという。

・そして、いつまでその土地にいたのか、幼くして父母に死別したのはいつか、それらのことはわからない。ただ、郗鑒の娘を娶ったのは16歳のときだから、そしてそのときは瑯邪の王氏一族の族長王導の屋敷にいたわけだから、彼が王導に引きとられたのは、それより数年前、おそらくは司馬睿が建康において晋の王位についた太興元年(318)前後であろうと、駒田氏は考える。
(太興元年とすれば王義之は11歳である)

〇そのころのエピソードが、『晋書』や『世説新語』には、幾つも見られる。
・王義之は少年のときからすでに能筆の評判が高かったが、甚だ口重(くちおも)だったという。
一説には、癲癇(てんかん)の発作のために、ひどいどもりになっていたともいう。
 従って、人前に出ることをいやがる、引込み思案の少年だった。
 このことは、幼いときに両親を亡くしたことと、あるいは、かかわりがあるのかもしれない。

・そういう少年の気持を引きたてて、弱気を強気に転じさせていったのは、王導と王敦だった。
 ある日、少年がそのころ大将軍の官にあった王敦に呼ばれて、その部屋で遊んでいると、司空の王導と近衛軍司令の庾亮(ゆりょう)がたずねてきた。庾亮は堂々たる体軀の論客だった。
 少年が気圧(けお)される思いで、そっと部屋から出ようとすると、王敦が呼びとめていった。
「大きな躰で大声を出すからといって、なにもおそれることはない。おまえの大叔父さんの司空がいるじゃないか、近衛軍司令だってこわがることはないよ」
 13歳のときには、王義之はもう弱気を克服していたようである。
 尚書左僕射の周顗(しゅうがい)は豪放な性格と酒好きで知られていた人だが、ある日、宴会を催して高官たちを招いた。王導らとともに王義之も招かれたのである。そのとき周顗は牛の心臓の丸焼きを、まっさきに王義之にすすめた。
「わたしのような弱輩にどうして」
と王義之がきき返すと、周顗は、
「主人のわたしがすすめるのだ、遠慮することはない」
といった。満座の者が王氏一族の少年に注目していると、王義之は、
「それでは頂戴します」
といい、その丸焼きの心臓を切り割いてむしゃむしゃと食べた。
※王義之の評判は、それから東晋の貴族社会の中で、にわかに高くなったという。 
 これはおそらく、かつては引込み思案だった少年が、それを裏返して反骨を見せはじめたという意味のエピソードなのであろうと、駒田氏はコメントしている。

・王義之が郗鑒の娘を娶ったのは、それから3年後の16歳のときだった。
 その年、王義之のいわば育ての親の一人であった王敦が反乱をおこして、長沙を奪った。
 司徒であると同時に王氏一族の族長でもあった王導は、反乱軍の討伐に力をつくした。
・そして2年後の太寧2年(324)、反乱軍を破り、王敦を敗戦の中で死に至らしめた。
 そのとき、王義之は18歳だった。
 王導も王義之にとっては親代わりの大恩人である。

※王義之は、この二人の、道を別にしてしまったそれぞれの行動を、どう見ていたのであろうか。
 おそらくは権力を握った者の運命のようなものを見たのではなかろうか、と駒田氏は想像している。王義之が王氏一族の逸材として貴族社会の中で注目を浴びながら、容易に官途につこうとしなかったことの中に、それがうかがわれる、とする。官途についてからの出処進退の中にも、それがうかがわれるらしい。
(小松茂美編『日本の名随筆64 書』作品社、1988年[1989年版]、64頁~67頁)

王羲之の経歴と思想


・咸和9年(334)、28歳のとき、王義之は征西将軍庾亮の招きに応じ、参軍として武昌へ行き、数年間をその地ですごした。これがはじめての任官だったのである。
※『晋書』にはそれ以前すでに秘書郎の官にあったと記されているが、いつごろか判然としないところに疑問が感じられるし、また後に王義之が殷浩に送った書簡に、自分には廟廊(びょうろう)の志(宮廷に仕えたい気持)はなく、叔父宰相(王導)にもしばしば任官をすすめられたが応じなかった、と書いていることとも矛盾するという。

・東晋の国土は揚子江の南岸だけであって、華北の地はすべて匈奴・羯(けつ)・鮮卑・氐(てい)・羌(きょう)のいわゆる五胡に占領されていた。
 南遷してきた漢民族の東晋にとっては、中原を回復して長安・洛陽の古都に帰るということは悲願だったのである。
 従ってしばしば北伐の軍をおこして五胡と戦いもしたが、同時にまた、江南の地に住みついて、その風土になじんでくると、次第に定着性が身についてきて、北帰の念願がうすれてもいく。
 
※王義之には、廟廊の志はなかったが、辺境の地への関心は強かった。
 王義之よりも年長の者にとっては江南の地は南遷してきた地だったが、王義之にとっては江南の地は自分たちの地なのだ。この地で成長したのであって、中原の地を知らないのである。従って、中原を知っている者のような北帰の念願はなかったといってよいと、駒田氏はみている。
 辺境の地への関心は、王義之の場合は、自分の成長した江南の地を守るためだったという。

・王義之が、庾亮の招きに応じ、参軍として武昌へ行ったのは、庾亮が北伐の主張者だったからかもしれない。庾亮の弟の庾翼も北伐の主張者だった。
 この庾翼はかつて、王義之が庾亮に送った章草(草書の一体)の書簡を見て感嘆し、「自分は以前、伯英(張芝)の章草を愛蔵していたが、戦火の中で失ってしまった。今あなたの煥(かん)として神明の如き章草を見て、まことによろこびにたえない」という意味の書簡を送ったことがあった。
 ※王義之の書は、そのころすでに完成の域に達していたといわれている。

・咸康5年(339)、王導が死に、つづいて郗鑒も死んだ。そしてその翌年には、庾亮が死んだ。
 永和2年(346)、庾亮が征西将軍だったときの幕僚の殷浩が楊州刺史になり、王義之に書簡を送って、仕官をすすめてきた。
 そのときの王義之の返書のなかに、さきに引いた「廟廊の志」のないということが記されている。
 そして、つづいていう。「もう子供たちもみな片づいたので、隠遁生活を送りたいと思っている。しかし、もし辺境の地へ行けといわれるなら、どんなところへでも行く」

・その結果、王義之は護軍将軍に任命された。その後間もなく、宣城郡(安徽省宣城県)へ行きたいと願いでた。
 そこには、山越(さんえつ)と呼ばれている原住民の住んでいる山嶽地帯があった。山越はしばしば反乱をおこした。王義之はその鎮圧と宣撫工作とを行なおうとしたのである。
 だが、その願いは却下された。
 その末に、王義之は、右軍将軍という官位で、会稽郡内史(ないし)の職につくことを命ぜられた。永和7年(351)、45歳のときである。

※世俗を避けて隠遁したいという心を持つ反面、官職につけば辺境の地へ出たがり、動乱の地へ行きたがる名門王氏一族の有名人を会稽郡内史にしたということは、内地(揚子江以南の地)に封じ込める、あるいは敬して遠ざける、という意味があったかもしれないという。
 
※会稽郡は、「山陰道上に従いて行けば、山川自ら相映発(えいはつ)して人をして応接に暇(いとま)あらざらしむ」といわれた風光明媚の地である。また、王氏一族や謝氏一族などの貴族の荘園が散在する富裕な郡であって、皇子が王として封じられるところであった。
 郡の長官は太守と呼ばれるが、会稽郡の長官を太守と呼ばずに内史というのは、王国の領する郡だったからであるそうだ。
 敬して遠ざけられたのだったとしても、優遇だったようだ。

・右軍将軍会稽郡内史という官位が、王義之のついた最後の官であり、そして最高の官でもあった。
 王右軍と呼ばれるのはそのためである。
 名門貴族の俊英のついた最後の官としては、高いものとはいえない。
 しかし王義之にも会稽郡内史という職は不満ではなかったはずである。
 この地には、尚書僕射の謝安(しゃあん)の別荘があった。
 道士の許詢、僧支遁(道林)などもこの地に移ってきていた。王義之はそれらの人々や、土着の豪族孔巌らと交わりながら、会稽郡内史としての職責をつくすことにも努めた。

・『世説新語』に、王義之と謝安との、次のような対話が記されている。
<王右軍と謝太傅とが、いっしょに冶城(やじょう、建康の東南にある城)に登った。謝太傅が悠然として思いを馳せ、世俗を超越する心境にひたっていると、王右軍が声をかけた。
「夏の禹王は政治に努めて、手足に胼胝(たこ)ができるほど国中を歩きまわり働きまわったというし、周の文王も政治に努めて、夜になってからようやく食事をしてもまだ日が足りぬほどだったという。今は絶えず五胡の脅威を受けていて、人々はそれぞれ国家のために力をつくさなければならないというのに、空虚な談論にふけって仕事をなおざりにしたり、軽薄な文章をたっとんで要務のさまたげをしたりしていることは、時宜にかなったことではあるまい」
すると謝太傅は答えた。
「秦は法治主義の商鞅を起用し、きびしく人々をしめつけて富国強兵をはかったが、わずか二代で滅んでしまったではないか、清談がわざわいをもたらしたというわけではなかろう>

【『世説新語』に見られる、王義之と謝安との対話で注目したい点】
王義之が、夏の禹王や周の文王の政治に言及していることや、謝安の話の中で、秦は法治主義の商鞅を起用した点、富国強兵をはかって、わずかに二代で滅んでしまったことを例示に引いていることが興味深い。そして、この時代の風潮であった清談にも触れている。

※謝安は官僚としても文人としても、よく時代の風潮を体得した知識人で、王義之を清談に引き入れた一人だといわれている。
 王義之の思想が老荘から仏教、さらには五斗米道へと傾いていったのは、謝安のほか、僧支遁らとの交友によってであると、駒田氏は解説している。
(小松茂美編『日本の名随筆64 書』作品社、1988年[1989年版]、67頁~71頁)

王羲之の「蘭亭序」


・永和9年(353)3月3日、王羲之は会稽郡山陰県(ここに郡治があった。今の浙江省紹興)の名勝蘭亭で禊(みそぎ)が行なわれたとき、清談の友を招いて宴遊した。
 集まったのは謝安ら41人。このとき集った人たちが作った詩を一巻にまとめ、その巻首に王羲之が自ら筆をふるって書いたのが、有名な「蘭亭序(らんていじょ)」である。

※その文章には、王羲之の当年の思想がよくあらわれている。
 その書き下し文を掲げている。

 永和九年、歳(とし)、癸丑(きちゅう)に在り。暮春の初(はじめ)、会稽山陰の蘭亭に会す。禊事を脩むるなり。群賢畢(ことごと)く至り、少長咸(みな)集(つど)う。此の地、崇山峻領(嶺)にして、茂林脩竹あり、また清流激湍ありて、左右に暎帯す。引いては以て流觴の曲水を為し、其の次に列坐す。糸竹管弦の盛無しと雖も、一觴一詠、亦以て幽情を暢叙するに足る。
 是の日、天朗(あきら)かに気清く、恵風和暢す。仰いで宇宙の大いなるを観(み)、俯して品類 の盛んなるを察(み)る。目を遊ばしめ、懐(おもい)を馳する所以にして、以て視聴の娯(たのしみ)を極むるに足る。信(まこと)に楽しむ可きなり。夫れ人の相与(とも)に一世を
俯仰するや、或は諸(これ)を懐抱に取りて一室の内に悟言し、或は寄託する所に因りて形骸の外に放浪す、趣舎万殊にして、静躁同じからずと雖も、其の通う所を欣(よろこ)び、暫く己に得るに当りては、怏然(おうぜん)として自足して、老の将に至らんとするを知らず。其の之く所既に惓(う)み、情、事に随って遷(うつ)るに及んでは、感慨之に係る。向(さき)の欣ぶ所は、俛仰(ふぎょう)の間に、以(すで)に陳迹と為る。猶之を以て懐を興(おこ)さざること能はず。況や脩短、化に随い、終に尽を期するをや。古人云う、死生も亦大なりと。豈痛まざらんや。毎に昔人の感を興すの由(よしみ)を攬(み)るに、一契を合わすが若し。未だ嘗て文に臨んで嗟悼せずんば非ず。之を懐に喩すこと能はず、固(まこと)に死生を一にするは虚誕たり。彭殤(ぼうしょう)を斉しくするは妄作たることを知る。後の今を視ること、亦由(なお)今の昔を視るがごとし。悲しいかな。故に時の人を列叙して、其の述ぶる所を録す。世殊に事異(い)なりと雖も、懐を興す所以は其の致(むね)一なり。後の攬る者、亦将に斯の文に感ずること有らんとす。

・王義之は、俗塵を遠くに見て清談の友人たちと宴遊することを事としていたわけでは決してない。
 王義之が会稽郡内史として誠実であったことは、『晋書』に載せられている謝安にあてた書簡一つを見ても明らかである。
 それは王義之が、この地方に課せられる繁重な賦役を軽減するように上疏して争い、ついに成功したことや、北方役人の不誠実さを直視して官紀を粛正したことや、住民の生活を安定させるために積極的に努力したことなどのうかがわれる書簡であるという。

・しかも王義之は会稽郡内だけに眼を向けていたわけではない。北方政策にも絶えず注意を払って、当事者たちに忌憚なく意見を述べた。
永和2年(346)、桓温(かんおん、312~373)が成(五胡の一つの氐族)を討ち、翌年これを滅ぼして征西大将軍・臨賀郡公になった。
 そのとき会稽王昱(いく)は、殷浩を重用して桓温を牽制させた。
 その後、殷浩は桓温と争って無謀な北伐をくわだてる。
 王義之にとって殷浩は、その下で護軍将軍となったことがあるという点で、恩顧を受けた人である。しかし、王義之は、殷浩の北伐をあやぶんで、中止するよう再三忠告し、会稽王昱にも書簡を送って、殷浩の北伐をやめさせるよう進言した。
 そこには、敗戦によって招く祖国の損失を憂える衷情からの忠告だったのである。
 だが、殷浩はきかず、敗戦して失脚した。
(小松茂美編『日本の名随筆64 書』作品社、1988年[1989年版]、68頁~73頁)

王羲之の退官後


・永和11年(355)、王羲之は病と称して、会稽郡内史を辞任した。
 王羲之とは意見の合わなかった前任者の王述が、殷浩の失脚後、楊州刺史になり、会稽郡の行政監察を行なったことが辞任の動機だったという説もある。
・退官後も王羲之は会稽に住みつづけた。
 そして、さきに蘭亭に集った人たちの中心になって、山水に遊び、清談を楽しんだ。
 道士許邁(きょまい)とともに東南の諸郡を遍歴したこともある。
 ある道士に「道徳経」(『老子』)を書いて与え、一羽の鵞鳥と交換したというのも、そのころのエピソードである。
・「東方朔画賛」、「黄庭経」、「孝女曹娥碑」など、今日法帖によって伝えられている彼の書も、みな退官後に書かれたものといわれている。

・ただ、王羲之は隠遁者になってしまったわけではなさそうだ。
 北方政策には、絶えず注意を払っていた。
 「孔侍中帖(こうじちゅうじょう)」とともに王羲之の真蹟を鑑賞するには最上のものといわれている「喪乱帖(そうらんじょう)」は、永和12年(356)、桓温が洛陽を奪回し、瑯邪にある王氏の祖先の墓が修復されたということをきいて歓喜し、まもなくそれらが再び失われたことを悲しんだものと解されているが、これは北方に対する(つまり祖国の安否に対する)彼の関心の深さのあらわれに他ならない。

※王羲之は、その伝記には不明な部分が少なくないけれども、彼は世(名利という意味ではない)を捨てることのできない現実主義者であって、自分自身に対しても他者に対しても、真正直に生きた人と、駒田信二氏は理解している。
 この時代の知識人の多くがそうだったように、隱逸にあこがれる一面はあったけれども、隱逸をよそおって自分を韜晦(とうかい)するような人ではなかったとする。
(小松茂美編『日本の名随筆64 書』作品社、1988年[1989年版]、61頁~75頁)

「喪乱帖」(口絵より)



「喪乱帖」
羲之頓首。喪亂之極。先墓再離荼毒。追
惟酷甚。號慕摧絶。痛貫心肝、痛當奈何
奈何。雖卽脩復。未獲奔馳。哀毒益深。
奈何奈何。臨紙感哽。不知何言。羲之頓
首頓首。
二謝面未。比面。遲詠良不
靜羲之女愛再拜。
想邵兒悉佳。前患者善。
所送議當試尋省。
左邊劇。
得示知足下猶未佳。耿々。吾亦劣々。
明日出乃行。不欲觸霧故也。遲散。羲之
頓首。
(王羲之「喪乱帖」『王羲之全書簡』森野繁夫・佐藤利行編著、白帝社刊より)

羲之頓首、喪亂の極(きわ)み、先墓再び荼毒(とどく)に離(かか)る。追惟(ついい)しては酷(いた)み甚(はなは)だしく、號慕(ごうぼ)摧絶(さいぜつ)し、痛みは心肝(しんかん)を貫(つらぬ)く、痛みは當(は)た奈何奈何(いかんいかん)。卽ち脩復すと雖(いえど)も、未(いま)だ奔馳(ほんち)するを獲(え)ず。哀毒(あいどく)益々(ますます)深し。
奈何せん奈何せん。紙に臨(のぞ)んで感哽(かんこう)し、何の言あるかを知らず。羲之頓
首頓首。
二謝(にしゃ)、面するや未(いま)だしや。比(このこ)ろ面するも、詠に遲(おく)れ、良(まこと)に靜(おだや)かならず。羲之女愛、再拜。想うに邵(しょう)の兒(こ)は悉(ことごと)く佳(か)ならん。前(さき)に患(わずら)う者も善(よ)からん。送る所の議(ぎ)、當(まさ)に試(こころ)みに尋省(じんせい)すべし。左邊(さへん)劇(はげ)し。
示を得て、足下(そっか)の猶(な)お未(いま)だ佳(か)ならざるを知り、耿耿(こうこう)たり、吾(われ)も亦(ま)た劣々(れつれつ)たり。明(あす)、日出(い)ずれば乃(すなわ)ち行(い)かん。霧に觸(ふ)るるを欲せざるの故(ゆえ)也(なり)。遲散。王羲之頓首。



「顔眞卿」 井上靖~小松茂美編『日本の名随筆64 書』より


井上靖氏のプロフィール


・1907年生まれ 小説家
・近年のシルクロードへの一般の関心を高めた一人で、名作『敦煌』(1959年)をはじめ、中国、西域を舞台にした作品は数多い。
・また、美術評論家としてもきわめてすぐれ、西洋絵画から東洋美術までその対象の幅の広さと着眼の妙、思索の深さには定評がある。『エッセイ全集』だけで10冊を数える。
▷『中国書人傳』(中田勇次郎編)中央公論社、1973年11月
(小松茂美編『日本の名随筆64 書』作品社、1988年[1989年版]、255頁)

西安の碑林


・1964年(昭和39年)、井上靖氏は、招かれて中国に赴き、その折、西安の碑林を訪ねた。
 唐、宋以後の石碑や法帖の石刻600余面が収蔵されてある、世界的に有名な場所である。
 そこへ足を一歩踏み入れてみた時、文字通り碑の林だと思ったという。
 大きな石碑の一つ一つが他とは無関係に己れを主張しているような奇妙な印象を受けた。一堂に集めるべきでないものを集めてしまったといった、そんな不気味さと恐ろしさがあったという。

※美術作品となるとこのようなことはない。ルーブルであれ、プラドであれ、ウフィツであれ、そこに並べられている絵や彫刻は、それぞれに自己を主張してはいるが、おだやかな形において自己を主張しているようなところがあって、それほどきびしく他を拒否してはいない。不気味さも感じなければ、恐ろしさも感じない。

・その点、碑林は全く異なっていたようだ。
 そこに置かれてある何面かの碑は、厳として他を許さぬ何個かの精神であり、人格であったと記す。碑というものに対して、石の面(おもて)に刻みつけられた文字に対して、これまでの考え方を根本的に改めなければならぬような思いにさせられたようだ。

〇井上靖氏は、西安の碑林で、顔真卿の二つの碑を見たという。
①「唐多宝塔感応碑」
・頭部を欠いた亀の上に乗っている碑
・碑頭には、“大唐多宝”“塔感応碑”と四字ずつ二行に刻まれてあり、二行とも最下位の文字の“宝”と“碑”の部分はむざんに壊れている。そして碑の面には、ぎっしりと小さい文字が刻まれている。
・これが顔真卿の文字として、書道の本でよくお目にかかっているあの高名な拓本の原物であるかと思った。
・天宝11載(752)の顔真卿の筆になり、44歳の壮年期のもので、顔真卿の正書の中で、最も広く世に知られているものである。

②「顔氏家廟碑」
・これは建中元年(780)、顔真卿72歳の時の書である。これも顔真卿の正書の代表的なものとして有名である。
(この拓本にもまた、書道の本を開く度に必ずお目にかかっている)
・この碑も亀の台石の上に乗っているが、「唐多宝塔感応碑」の場合とは異なって、亀は頭部を欠くことなく、満足な形を保っている。
(小松茂美編『日本の名随筆64 書』作品社、1988年[1989年版]、76頁~77頁)

顔眞卿の書


〇顔眞卿の書から私たちが受けとるものは、ひと口に言うと、古武士的なもの、古武士的な精神のたたずまいの立派さである、と井上靖氏はいう。
・妥協も阿諛(あゆ)も、ごまかしも、甘えも、いっさいのそうしたものの通用しない精神であるという。
 強固な意志、信念、誇り、そうしたものがその形成に参画している精神である。
 もちろん、顔眞卿の書も、その書体によって異るし、初期、中期、晩年と、その長い生涯の時期時期によって、かなり大きい変化を見せている。しかし、顔眞卿の書である限り、上述した特色はすべてのものを一貫して流れていると言えるとする。剛勁とか剛直とかいう言葉を以て評せられるゆえんである。

〇書というものはふしぎなものである。
 書とそれを書いた人との関係は、美術における作品と作者の関係とは違い、もっと直接的である、と井上靖氏はいう。
 こうした関係は、特に顔眞卿の場合において目立っている。
 そもそも顔眞卿なる人は、書というものをそのようなものとして考え、そのようなものとして筆をとり、まさにそのようなものとしての書を生み出したのである。
 顔眞卿の書道史上に占める位置は、書というものに対するそうした考え方の確立者としての重さと大きさである。書を人と不離一体のものとしたことである。
・顔眞卿の書は、顔眞卿という一個の非凡な人格の表出であり、それ以外の何ものでもないのである。顔眞卿という書というものに関して、このような理念を打ちたて、それを自ら完璧な形において実践した人と言える、という。
(小松茂美編『日本の名随筆64 書』作品社、1988年[1989年版]、78頁~79頁)

顔眞卿という人と書


〇顔眞卿とはいかなる人であろうか。
 いかなることをし、いかなる人生を歩んだ人であろうか、と井上靖氏は問いかける。

 その書が永遠の生命を持つ独自なものであるように、顔眞卿その人の人となりも、その生涯も、独自であり、非凡である。
 その書を真似ることができないように、顔眞卿の生涯も、その生き方も、また余人が企てて遠く及ばないものなのである。剛勁であり、剛直である。

【顔眞卿の出自と経歴】
・顔眞卿は字は清臣(せいしん)、琅邪臨沂(ろうやりんぎ)の人である。
・「顔勤禮碑」、「顔氏家廟碑」において、顔眞卿自身が記しているように、その家は学者の家柄であり、能書家の一門である。

〇安禄山の叛まで、顔眞卿がいかなる人生の道を歩いて来たか、そのあらましを、宋の留元剛(りゅうげんごう)の「顔魯公(がんろこう)年譜」によって、井上氏は拾っている。

・開元22年、26歳にして進士に挙げられ、28歳にして朝散郎秘書省著作局校書郎という役目を授かる。
・これを振り出しに顔眞卿は、文官吏としての道を歩き、京兆府醴泉(れいせん)県尉、長安尉を経て、天宝6載、39歳の時、監察御史に進む。
・そしてこの年、河東朔方軍試覆屯交兵使に当てられ、地方を旅し、翌7載には河西隴右(ろうゆう)軍試覆屯交兵使に、翌々8載には再び河東朔方軍試覆屯交兵使に当てられている。
・天宝8載、41歳の時、殿中侍御史(でんちゅうじぎょし)になるが、間もなく東都採訪判官に遷(うつ)される。
 これは政界内部の争いを難詰して、宰相李林甫(りりんぽ)と並ぶ時の権力者楊国忠一派の憎むところとなったためである。
・しかし、翌9載には再び侍御史となるが、これも長くは続かず、11載にはまた武部員外郎判南曹という役に転出する。
・12載、45歳の時、平原太守。そして在任2年にして、顔眞卿は任地において、安禄山の叛を迎えることになったわけである。

以上が、顔眞卿45歳までの経歴のあらましである。
 
〇この期間の顔眞卿の人となりを示す挿話を、殷亮(いんりょう)の「顔魯公行状」によって拾っている。
・顔眞卿は39歳にして監察御史になっているが、この役は地方官の非行、腐敗をただすのを任としている。河西隴右方面の査察旅行の折、五原郡では旱魃が続いていた。ところが、顔眞卿が無実の罪で入獄している者あるを知って、それを救い出すと、たちまちにして降雨があった。監察御史顔眞卿が政治の紊(みだ)れを直したための雨であるとし、地方の人たちはこれを御史雨と呼んだという。
(小松茂美編『日本の名随筆64 書』作品社、1988年[1989年版]、81頁~83頁)

〇顔眞卿が中国の歴史の上に花々しく登場してくるのは、安禄山によって引き起され、一時唐朝の存続をその根柢から揺すぶった天宝の大乱の時である。
 もし安禄山の叛乱事件がなかったら、顔眞卿の名は、中国書道史上において今日と変りない大きさを持っているとしても、その名から受けるものは大分異ったものになっていたに違いないという。

・今日、中国書道の改革者としての顔眞卿という大きい名は、既倒の危きにあった唐朝を孤軍よく支えた誠忠の人顔眞卿の大きい名と重なっているからである。
・それからまたいまに遺る顔眞卿の筆蹟の大部分のものは、安禄山が叛した天宝14載以降のものである。つまり、顔眞卿が乱後の端倪すべからざる複雑な政情の中に己れを貫きとおしている時に生まれたものである。
●「祭姪文稿(さいてつぶんこう)」
 ●「祭伯文稿(さいはくぶんこう)」
 ●「争坐位帖(そうざいじょう)」
 ●「麻姑仙壇記(まこせんだんき)」
 ●「大唐中興頌(だいとうちゅうこうしょう)」
 ●「顔氏家廟碑」
 これらはみな然りである。

・その叛によって、武人としての顔眞卿の名を不朽のものとしたばかりでなく、書家としての顔眞卿を大成させる大きなきっかけを作ったと言える。
(小松茂美編『日本の名随筆64 書』作品社、1988年[1989年版]、79頁~80頁)

安禄山の乱と顔眞卿


・安禄山が突如范陽(はんよう)に叛したのは、天宝14載(755)11月である。
 異民族の出である安禄山は、時の皇帝玄宗の寵愛を受け、辺境一帯の権力者としての地位を獲得、ひそかに異志を蓄えること十年、機熟して叛旗をひるがえすに到った。
――禄山、鉄轝(てつよ)に乗り、歩騎精鋭、煙塵千里、鼓譟(こそう)して地に震う。時に海内久しく承平にして、百姓、累世、兵革を知らず、にわかに范陽の兵起ると聞き、遠近震駭す。
「資治通鑑」は、こう記している。

また詩人白居易が「長恨歌」において、
「漁陽の鼙鼓(へいこ)地をどよもして来り」と歌っているのは、この時のことである。

・安禄山の叛が唐朝に伝えられたのは、安禄山が大軍を率いて范陽を発してから6日経っていた。
 この日から都長安は混乱の坩堝と化した。
 直ちに将軍封常清は命を受けて、東京(とうけい、洛陽)に赴き、6万の兵を募って、敵の大軍を迎え討つ備えを固めた。それから旬日を経ずして、早くも安禄山の軍は東京に迫ろうとする。
 おそらくこの頃、唐朝に平原太守顔真卿から密使が派せられた。
 禄山の叛と、それによる山東省一帯の動きを奏して来たものであった。禄山の南下に際して、河北24郡ついに一人の義士もないか、と悲観的観測が行われている時だったので、玄宗の悦びはたいへんなものであった。

・「自分は顔真卿がどんな顔をしていたか覚えていない。それなのに、顔真卿の方はこのように忠勤をぬきんでてくれる」。玄宗は言った。
※この話は、新、旧「唐書」にも「資治通鑑」にも出ている。
⇒このような形において、顔真卿は歴史の上に登場してくるのである、と井上靖氏はいう。
 いやしくも平原太守である。都に在る時は、何回も玄宗に謁しているに違いないのであるが、いっこうに玄宗の記憶にのこっていないとうことは、奇妙と言えば奇妙であるが、顔真卿とはそのような人物であったのである、という。
 権力者の記憶に残るようないかなる自己表現も、顔真卿とはもともと無縁であったのである。
(小松茂美編『日本の名随筆64 書』作品社、1988年[1989年版]、80頁~81頁)

・さて、天宝15載(756)、春正月、安禄山はついに大燕皇帝を称し、年号を聖武と改元する。
 こうした情勢のもとに官軍賊軍相対峙したまま、容易に戦機は動かなかった。
 安禄山も病み、哥舒翰もまた病んでいたのである。この時期、唐朝に僅かでも明るいものがあるとすれば、都長安を遠く離れた地方地方で、武人が兵を挙げていることである。捷報もあれば、敗報もあったが、節を守って難に赴く士は漸く全国各地に現われ始めたのである。
 李光弼、郭子儀、張巡といった人人である。こうした気運を作ったのは顔真卿であり、その従父兄に当る常山郡の太守顔杲卿(がんこうけい)であった。
 顔杲卿の方は武運拙く、敵の大軍に包囲され、その身は捉えられるに到る。顔杲卿が安禄山の前に引き出されて処刑されたという悲報は、2月長安に届く。

・戦機は動かぬままに、春は去った。この頃から将軍哥舒翰に対するあらぬ風評が流れ始め、疑心暗鬼に躍らされた唐朝は、自ら敗亡の源を作っていく。
 聖旨に従って、哥舒翰が全軍に出動の命を発したのは、6月10日であった。
 霊宝県の西原で、それぞれ興廃を賭けて、安禄山の軍と唐軍はついに干戈を交えた。勝敗は1日で決まった。哥舒翰は破れたのである。

・これを境にして、唐朝も、都長安も、未曾有の混乱に陥って行く。
 6月13日、玄宗、宰相楊国忠、楊貴妃等は近衛兵に守られて都を落ちて行く。目指すところは蜀の国である。しかし、都から程遠からぬ馬嵬(ばかい)駅において、事態は楊国忠、楊貴妃をはじめとする楊氏一族が兵たちによって誅されるという悲劇に発展して行く。
 そして蜀へ向う途中、玄宗は太子亨(こう)を留めて人民を慰撫せしめることし、太子と兵士たちと別れる。この時が唐朝にとって最も暗い時だった。玄宗皇帝は楊貴妃を喪(うしな)った悲しみの涙がまだ乾かぬ時、太子亨とも別れなければならなかった。

・玄宗が蜀にある一年の間に、天は再び唐朝に味方し、時代は大きく転換してゆく。
(霊武における太子亨の即位、将軍郭子儀、顔真卿などの活躍、回紇(ウイグル)からの救援、安禄山の非業の死、そして、長安、東京の回復。)
 玄宗が都を棄ててから、叛軍の勢力は大きくなり、郭子儀、李光弼などの将軍も河北から兵を引き揚げて行かざるを得なくなる。顔真卿はそうした情勢の中で最後まで平原城に拠っていたが、ついに城を棄てる決心をしたのは、15載10月である。そして霊武における粛宗(太子亨、この年7月即位)に謁したのは、至徳2載4月である。顔真卿は49歳、憲部尚書兼御史大夫に任じた。

・粛宗が長安に帰ったのは、至徳2載10月のことである。そして安禄山亡きあとの賊軍の総帥である史思明などがたおれ、7年に亘った安禄山の叛乱事件が全く片付いたのは宝応2年、粛宗は亡くなり、そのあとを継いだ代宗の時代である。そして、代宗の時代が15年ほど続いて徳宗の時代へと移って行くが、その間唐朝は少しも平穏とは言えなかった。権臣、宦官入り乱れて、私利私権を争い、政治は腐敗の極に達する。
 こうした時代を顔真卿は生きたのである。しかも節を曲げず、あくまで正しきを正しきとし、誤れるを誤れるとして生きたのである。

※顔真卿は粛宗が長安に帰ったばかりの時、奏している。
――春秋の昔、新宮焼けるや、魯の成公は三日哭したと聞く。いま太廟は賊のために毀(こわ)されている。帝は宜しく野壇を築き、東面して哭し、しかるのちに使者を遣わすべきである。
 顔真卿の礼制を重んずることかくのごとくである。
 非常の時といえども、国家として礼制を軽んじることは許されないというのが、顔真卿の考え方なのである。
ただし、この献言は実を結ばず、顔真卿はこれが禍(わざわい)して、地方に転出することになる。

※顔真卿は3回地方に転出させられているが、その尽くが、権臣、宦官に敬遠されてのことであった。中央の要職についたかと思うと、地方に転出し、また呼び返されて、中央の要職につくといったことを繰返している。地方生活で最も長い場合は10年を越えているが、この地方に在任している期間に多くの文人墨客と交わったことは、文章家として、書家としての顔真卿の大成に大きい役割を果たしたと、井上靖氏は考える。
「祭姪文稿」「祭伯文稿」「麻姑仙壇記」、それから今に遺っていないが「韻海鏡源(いんかいきょうげん)」360巻の編集などは、貶謫地(へんたくち)の生活が生んだものであるという。

・顔真卿が3回目の長い貶地生活を打ちきって、都長安に召し返されたのは、大暦12年(777)である。顔真卿を敵視して都から遠ざけていた宰相元載が殺されたあとのことである。
 時に顔真卿69歳、刑部尚書に返り咲き、翌年、吏部尚書に転じた。
(いずれも唐朝の大官で、顔真卿は漸くにして重く遇されたのである)

・しかし、翌年代宗が薨じ、徳宗の時代が始まると、顔真卿の地位は安定したものではなかった。
 楊炎が宰相に任ぜられると、すぐ顔真卿は吏部尚書から、さして実権のない太子少師という役に移されている。これから翌年にかけて、唐朝は大きく揺れに揺れる。その時、大きい事件は将軍郭子儀が没したことである。やがて李希烈によって引き起こされる大乱へと、時代は歩を進めていた。
 淮西節度使李希烈が叛意を明らかにしたのは、建中3年(782)のことである。
 
・唐朝はたちまちにして安禄山の乱以来の難局に立たされるに到った。
 この時、宰相盧杞は徳宗に奏して、顔真卿は忠直剛決、その名声は天下に聞えている、顔真卿を李希烈のもとに派して、その順逆の理を説かしむべきであるとした。
 直ちに詔は降った。淮西反乱軍を宣撫する使者――淮寧宣慰使というのが、使節としての顔真卿に与えられた役名であった。
(顔真卿に課せられた任務が死を意味する以外の何ものでもないことは、誰の眼にも明らかであった)
・顔真卿は、抜刀した千人の兵に囲まれた中で、李希烈に詔旨を伝えた。
 顔真卿がそのまま叛軍の館に停め置かれたことは言うまでもあるまい。
 やがて李希烈から宰相として仕えることを説く使者が派せられてきたが、もちろん顔真卿の諾
くところとはならなかった。懐柔も、威嚇もきかなかった。顔真卿はすでに死を覚悟していた。
(小松茂美編『日本の名随筆64 書』作品社、1988年[1989年版]、83頁~88頁)

顔眞卿の最期~「資治通鑑」より


・顔真卿が捕らえられている間に、戦線には多少の変化があった。
李希烈は汝州を棄て、蔡州に移らなければならなかった。それに従って顔眞卿も蔡州に連れて行かれ、竜興寺の一室に幽せられた。
 顔眞卿がどれだけの月日を蔡州竜興寺で過したか、はっきりしたことは判っていない。
・貞元元年(785)のこと、ある日戦線にある李希烈のもとから使者が派せられて来た。

※『資治通鑑』には、次のようにある。
「勅あり」
と、使者は言った。顔眞卿は恭しく頭を下げた。
「いま卿に死を賜う」
再び使者の声が聞こえてきた。
「老臣、無状にして、罪は死に当る」
顔眞卿は自分が死を賜わったことは当然だと思ったのである。
それにしても、もう再びその土を踏むことができなくなった都長安を、使者は一体いつ頃発ってきたのであろうか。顔眞卿はそのことを使者に訊いた。
「大梁より来たのだ。長安から来たのではない」
この使者の言葉で、顔眞卿は自分がとんでもない勘違いしていることに気付いた。
「それならば賊以外の何ものでもないではないか。勅とは何ごとであるか」
顔眞卿は烈しい声で叫んだ。間もなく死がやってきた。顔眞卿は七十七歳で縊殺(いさつ)されたのであった。

翌貞元2年、叛将李希烈もまた部下の将に殺されている。乱が鎮まったあと、顔眞卿の遺骸は長安に送られ、万年県鳳棲原(ほうせいげん)の祖先の墓に合葬された。

〇欧陽脩の「集古録跋尾(しっころくばつび)」巻140には、顔眞卿の「二十二字帖」について記した文章が収められている。
・この人の忠義は天性に出で、その字画剛勁にして独立、前蹟を襲(おそ)わず、挺然(ていぜん)として奇偉、その人となりに似たり。

※武人として、書家としての顔眞卿を評して、まさに至言と言うべきであろう、と井上靖氏は記す。

顔眞卿に対する書論について~井上靖氏の評言


〇顔眞卿の伝記を綴るに当って、一番興味深く感じたことについて、井上靖氏はしるしている。
 顔眞卿礼讃の書論が夥しい数に上ることはもちろんであるが、その反対の否定的批判というものもある。
・それが実に生き生きとして、自由で、辛辣で、しかも充分納得できるものであるということであったという。

〇顔眞卿讃仰の書論の中に挟まって、否定的批評もまた堂々と居坐っている。
顔眞卿に関する古い記述を蒐めた「顔魯公集」の中には、そうした批評も収められている。
・“項羽が兜をかかげ、樊噲(はんかい)が強弓をひっ摑(つか)み、鉄柱でも張ろうとしているが如くで、昂然として犯すべからざる気色だ。”(これなどはなかなか辛辣)
・“頭は蚕で、尾は鼠だ”(当たらないでもない)
・“意を用うるに過ぎ、平淡天成の趣がなく、醜怪悪札の祖なり”
・“書法の壊、顔眞卿より始まる”
・“腕組みして突立っているところは田舎の親父のようだ”
・“肥えて重いところは蒸した餅に似ている”

※顔眞卿は時代時代で否定、肯定の批評を浴びている。
 否定的批判をさえ己が名声を支える道具にしているようなところがある。
 傑作が生き遺るということは、おそらくこうした否定、肯定の中を通って、なお生きたいということであろう、と井上靖氏はいう。
 結論として言えることは、中国が書の国であるということである。顔眞卿の書にしてなおこの批判を受けているのである、という。
(小松茂美編『日本の名随筆64 書』作品社、1988年[1989年版]、88頁~90頁)

【補足】
※『資治通鑑』の原文には、次のようにある。
 李希烈聞李希倩伏誅、忿怒、八月、壬寅、遣中使至蔡州殺顔真卿。中使曰:「有敕。」
真卿再拜。中使曰:「今賜卿死。」真卿曰:「老臣無状、罪當死、不知使者幾日發長安?」
使者曰:「自大梁來、非長安也。」真卿曰:「然則賊耳、何謂敕邪!」遂縊殺之。
(ネットで閲覧可能:維基文庫)

≪【補足 その2】中国文化史~『論語』と渋沢栄一≫

2023-09-17 19:00:12 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪【補足 その2】中国文化史~『論語』と渋沢栄一≫
(2023年9月17日投稿)

【はじめに】


 吉沢亮という人気俳優がいる。
 この俳優は、映画『キングダム』(原泰久原作、2019年など)で人気を博した。シリーズ1では、秦の始皇帝(紀元前259年~紀元前210年、在位:紀元前221年~紀元前210年)になる以前を描いていた。その名もまだ嬴政(えいせい)を名のっている(また嬴政と瓜二つの容姿をした漂の役も演じた)。また、シリーズ2では、呂不韋[佐藤浩市]が登場する。(法家の李斯は、その呂不韋の食客となり、政王に仕える近侍となる)。教科書にもあるように、秦の始皇帝は、法家(李斯)を重用して、法による統治を敷き、批判する儒家・方士の弾圧や書物の規制を行なった焚書・坑儒でも知られる。
 一方、その吉沢は、2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』で、主人公・渋沢栄一(1840~1931)を演じた。いうまでもなく、渋沢は、名著『論語と算盤』の中で、道徳と経済の一致を説いたことも周知のことである。
 ということは、吉沢亮は、儒家思想と法家思想という真逆の思想を信奉した、日中の著名な歴史上の人物を奇しくも演じたことになる。
 
 さて、今回のブログでは、儒教の『論語』などを深く理解する意味で、その渋沢栄一の『論語と算盤』を読んでみたい。
 その際に、次の文献を参考とした。
〇渋沢栄一『論語と算盤』角川文庫、2008年[2009年版]
〇鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』文春文庫、2013年[2020年版]
〇鹿島茂『渋沢栄一 下 論語篇』文春文庫、2013年[2020年版] 

※鹿島茂先生は、名著『「レ・ミゼラブル」百六景』(文春文庫、1994年[1998年版])などで知られる、著名なフランス文学者である。なぜ、フランス文学の専門家が、渋沢栄一についての著作があるかといえば、渋沢は幕末(1867年)にパリで行われた万国博覧会に、徳川昭武(将軍慶喜の異母弟)に随行した経験がある。この時の経験を通じて、ヨーロッパ文明に驚き、人間平等主義にも感銘をうけた。この見聞した経験が、渋沢の人生を大きく変えた。
 鹿島先生は、『渋沢栄一 上 算盤篇』および『渋沢栄一 下 論語篇』を著して、渋沢栄一の詳しい評伝を記した。上下巻それぞれ500頁をこえる労作である。
 その著作で、渋沢栄一の思想については、『論語』と、フランス第二帝政下に普及したサン=シモン主義思想が深く影響を与えたと論じている。その一部を述べてみたい。
(詳しくは、後日、別の機会に紹介してみたい)




【本村凌二ほか『英語で読む高校世界史』(講談社)はこちらから】
本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社





さて、今回の執筆項目は次のようになる。


〇渋沢栄一『論語と算盤』(角川文庫)を読んでみよう
・「罪は金銭にあらず」
・「真正の利殖法」
・「義理合一の信念を確立せよ」
・「仁に当たっては師に譲らず」
・「失敗らしき成功」
・渋沢栄一『論語と算盤』に記された岳飛と秦檜

〇鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』(文春文庫)を読んでみよう
・第三回 経済感覚を高めた帰納法的教育
 「例外だった栄一の「学問のはじめ」」
 「栄一と諭吉の微妙な教育観の相違」
・第二十六回「官」と「民」
 「朱子学の創り出した金銭感覚の風潮」
 「比較的新しかったフランスの官民平等思想」
・第三十四回 大蔵省を去る
 「「入るを計って出ずるを為す」は緊急課題」

〇鹿島茂『渋沢栄一 下 論語篇』(文春文庫)を読んでみよう
・「第六十二回 「論語」と「算盤」」
 「儒教の核心は道徳と経済にある」
 「金銭を卑しんだ江戸時代」
・「第七十六回 『論語』倫理と「明眸皓歯」」
 「子供の質問に真正面に答える」






〇渋沢栄一『論語と算盤』(角川文庫)を読んでみよう


「罪は金銭にあらず」


<仁義と富貴>
「罪は金銭にあらず」(135頁~139頁)

 余は平生の経験から、自己の説として、「論語と算盤とは一致すべきものである」と言っている。孔子が切実に道徳を教示せられたのも、その間、経済にも相当の注意を払ってあると思う。これは論語にも散見するが、特に大学には生財の大道を述べてある。もちろん、世に立って政(まつりごと)を行なうには、政務の要費はもちろん、一般人民の衣食住の必要から、金銭上の関係を生ずることは言うまでもないから、結局、国を治め民を済(すく)うためには道徳が必要であるから、経済と道徳とを調和せねばならぬこととなるのである。ゆえに余は、一個の実業家としても、経済と道徳との一致を勉むるために、常に論語と算盤との調和が肝要であると手軽く説明して、一般の人々が平易にその注意を怠らぬように導きつつあるのである。
 昔は東洋ばかりでなく、西洋も一体に金銭を卑しむ風習が極端に行なわれたようであるが、これは経済に関することは、得失という点が先に立つものであるから、ある場合には謙譲とか清廉(せいれん)とか言う美徳を傷つけるように観えるので、常人は時としては過失に陥りやすいから、強くこれを警戒する心掛けより、かかる教えを説く人もありて、自然と一般に風習となったものであろうと思う。
 かつて某新聞紙上にアリストートルの言として、「すべての商業は罪悪である」という意味の句があったと記憶しておるが、随分極端な言い方であると思ったが、なお再考すれば、すべて得失が伴うものには、人もその利慾に迷いやすく、自然、仁義の道に外れる場合が生ずるものであるから、それらの弊害を誡むるため、斯様な過激なる言葉を用いたものかと思われる。
(渋沢栄一『論語と算盤』角川文庫、2008年[2009年版]、137頁~138頁)

「真正の利殖法」


<仁義と富貴>
「真正の利殖法」(124頁~127頁)

「支那の学問に、ことに千年ばかり昔になるが、宋時代の学者が最も今のような経路を経ている。仁義道徳ということを唱えるにつきては、かかる順序から、かく進歩するものであるという考えを打ち棄てて、すべて空理空論に走るから、利慾を去ったら宜しいが、その極その人も衰え、したがって国家も衰弱に陥った。その末は遂に元(げん)に攻められ、さらに禍乱が続いて、とうとう元という夷(えびす)に一統されてしまったのは、宋末の慈惨(さんじょう)である。ただ、とかは空理空論なる仁義というものは、国の元気を沮喪(そそう)し、物の生産力を薄くし、遂にその極、国を滅亡する。ゆえに仁義道徳も悪くすると、亡国になるということを考えなければならぬ。」
(渋沢栄一『論語と算盤』角川文庫、2008年[2009年版]、125頁)

「義理合一の信念を確立せよ」


<仁義と富貴>
「義理合一の信念を確立せよ」(142頁~145頁)

 余が平素の持論として、しばしば言う所のことであるが、従来、利用厚生と仁義道徳の結合が甚だ不充分であったために、「仁をなせばすなわち富まず、富めばすなわち仁ならず」「利につけば仁に遠ざかり、義によれば利を失う」というように、仁と富とを全く別物に解釈してしまったのは、甚だ不都合の次第である。この解釈の極端なる結果は、利用厚生に身を投じた者は、仁義道徳を顧みる責任はないというような所に立ち至らしめた。余はこの点について、多年痛歎措く能わざるものであったが、要するに、これ後世の学者のなせる罪で、すでに数次(しばしば)述べたるごとく、孔孟(こうもう)の訓(おし)えが「義理合一」であることは、四書を一読する者のただちに発見する所である。
 後世、儒者のその意を誤り伝えられた一例を挙ぐれば、宋の大儒たる朱子が、孟子の序に、「計を用い数を用いるは、仮令(たと)い功業を立て得るも、ただこれ人慾の私(わたくし)にして、聖賢の作処(さしょ)とは天地懸絶(けんぜつ)す」と説き、貨殖功利のことを貶(けな)している。その言葉を押し進めて考えてみれば、かのアリストートルの「すべての商業は罪悪なり」といえる言葉に一致する。これを別様の意味から言えば、仁義道徳は仙人染みた人の行なうべきことであって、利用厚生に身を投ずるものは、仁義道徳を外(よそ)にしても構わぬといふに帰着するのである。かくのごときは、決して孔孟教の骨髄ではなく、かの閩洛派(びんらくは)の儒者によって捏造された妄説に外(ほか)ならぬ。しかるにわが国では元和寛永の頃より、この学説が盛んに行なわれ、学問といえば、この学説より外にはないと云うまでに至った。しかしてこの学説は、今日の社会に如何なる余弊を齎(もたら)しているのであろうか。
(渋沢栄一『論語と算盤』角川文庫、2008年[2009年版]、145頁~144頁)

※閩洛派の儒者とは、建陽すなわち閩(びん)の出身であった朱熹、そして洛陽の出身であった程顥(ていこう)・程頤(ていい)をさす。彼らの学を総称して、「洛閩の学」ともいう。
※元和寛永は、江戸時代の元号で、元和(げんな、1615~1624年)、寛永(1624~1644年)をさす。

「仁に当たっては師に譲らず」


<算盤と権利>
「仁に当たっては師に譲らず」(225頁~228頁)

 基督や釈迦は始めより宗教家として世に立った人であるに反し、孔子は宗教をもって世に臨んだ人ではないように思われる。基督や釈迦とは、全然その成立を異にしたものである。ことに、孔子の在世時代における支那の風習は、何でも義務を先にし、権利を後にする傾向を帯びた時であった。かくのごとき空気の中に成長し来った孔子をもって、二千年後の今日、全く思想を異にした基督に比するは、すでに比較すべからざるものを比較するのであるから、この議論は最初よりその根本を誤ったものというべく、両者に相違を生ずることは、もとより当然の結果たらざるを得ないのである。しからば孔子教には、全然、権利思想を欠いているであろうか。以下少しく余が所見を披瀝して世の蒙を啓(ひら)きたいと思う。
 論語主義はおのれを律する教旨であって、人はかくあれ、かくありたいというように、むしろ消極的に人道を説いたものである。しかしてこの主義を押し拡めて行けば、遂には天下に立てるようになるが、孔子の真意を忖度すれば、初めから宗教的に人を教えるために、説を立てようとは考えてなかったらしいけれども、孔子には一切教育の観念が無かったとは言われぬ。もし孔子をして政柄を握らしめたならば、善政を施き国を富まし、民を安んじ、王道を充分に押し広める意志であったろう。換言すれば、初めは一つの経世家であった。その経世家として世に立つ間に、門人から種々(いろいろ)雑多のことを問われ、それについて一々答えを与えた。門人といっても各種の方面に関係を持った人の集合であるから、その質問も自ずから多様多岐に亘り、政を問われ、忠孝を問われ、文学、礼学を問われた。この問答を集めたものが、やがて論語二十篇とはなったのである。(中略)

 しかし基督教に説く所の「愛」と論語に教うる所の「仁」とは、ほとんど一致していると思われるが、そこにも自動的と他動的との差別はある。例えば、耶蘇教の方では、「己の欲する所を人に施せ」と教えてあるが、孔子は、「己の欲せざる所を人に施す勿れ」と反対に説いているから、一見義務のみにて権利観念が無いようである。しかし両極は一致するといえる言のごとく、この二者も終局の目的は遂に一致するものであろうと考える。
 しかして余は、宗教として将た経文としては、耶蘇の教えがよいのであろうが、人間の守る道としては孔子の教えがよいと思う。こはあるいは余が一家言(いっかげん)たるの嫌いがあるかもしれぬが、ことに孔子に対して信頼の程度を高めさせる所は、奇跡が一つもないという点である。基督にせよ、釈迦にせよ、奇跡がたくさんにある。(中略)
 論語にも明らかに権利思想の含まれておることは、孔子が「仁に当たっては師に譲らず」といった一句、これを証して余りあることと思う。道理正しき所に向かっては、飽くまでも自己の主張を通してよい。師は尊敬すべき人であるが、仁に対してはその師にすら譲らなくもよいとの一語中には、権利観念が躍如としているのではないか。独りこの一句ばかりでなく、広く論語の各章を渉猟すれば、これに類した言葉はなおたくさんに見出すことができるのである。
(渋沢栄一『論語と算盤』角川文庫、2008年[2009年版]、225頁~228頁)

「失敗らしき成功」


<成敗と運命>
「失敗らしき成功」(299頁~302頁)
 支那で聖賢といえば、堯舜がまず始まりで、それから禹湯(うとう)、文武、周公、孔子となるのであるが、堯舜とか禹湯とか文武、周公とかいう人達は、同じ聖賢の中(うち)でも、いずれも皆今の言葉でいう成功者で、生前においては、はやくすでに見るべき治績を挙げ、世人の尊崇を受けて死んだ人々である。これに反し、孔夫子は今の言葉のいわゆる成功者ではない。生前は無辜(むこ)の罪に遭って、陳蔡(ちんさい)の野に苦しめられたり、随分、艱難ばかりを嘗(な)められたもので、これという見るべき功績とても、社会上にあった訳ではない。しかし千載(せんざい)の後、今日になって見ると、生前に治績を挙げた成功者の堯舜、禹湯、文武、周公よりも、一見その全生涯が失敗不遇のごとくに思われた孔子を、崇拝する者の方がかえって多く、同じく聖賢の内でも、孔夫子が最も多く尊崇せられている。(中略)
 眼前に現れた事柄のみを根拠にして、成功とか失敗とかを論ずれば、湊川に矢尽き刀折れて戦死した楠正成(くすのきまさしげ)は失敗者で、征夷大将軍の位に登って勢威四海を圧するに至った足利尊氏は、確かに成功者である。しかし今日において尊氏を崇拝する者はないが、正成を尊崇する者は天下に絶えぬのである。しからば生前の成功者たる尊氏は、かえって永遠の失敗者で、生前の失敗者たりし正成はかえって永遠の成功者である。菅原道真と藤原時平について見ても、時平は当時の成功者で、大宰府に罪なくして配所の月を眺めねばならなかった道真公は、当時の失敗者であったに相違ないが、今日では一人として時平を尊む者なく、道真公は天満大自在として、全国津々浦々の端においても祀(まつ)られている。道真公の失敗は決して失敗でない。これかえって真の成功者である。
(渋沢栄一『論語と算盤』角川文庫、2008年[2009年版]、299頁~301頁)

※楠木正成(くすのきまさしげ、1294[諸説あり]~1336)
・元弘の乱(1331~1333)で後醍醐天皇を奉じ、鎌倉幕府倒幕に貢献
・建武の新政下で、記録所の寄人(最高政務機関)に任じられ、足利尊氏らとともに天皇を助けた。 
・延元の乱での尊氏反抗後は、新田義貞らと共に南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害。
※南北朝時代・戦国時代・江戸時代を通じて、日本史上最大の軍事的天才との評価を一貫して受けた。
⇒「三徳兼備」(『太平記』、儒学思想上最高の英雄・名将)、「多聞天王の化生[けしょう]」、「日本開闢以来の名将」と称された。
・明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880)には正一位を追贈された。また、湊川神社(兵庫県神戸市)の主祭神となった。
(戦前までは、正成の忠臣としての側面のみが過剰に評価された)

渋沢栄一『論語と算盤』に記された岳飛と秦檜


 渋沢栄一は、『論語』のみならず、中国史についても、精通していたようである。
 宋代の岳飛と秦檜について、次のように述べている。

<成敗と運命>
「湖畔の感慨」(304頁~305頁)
 大正三年の春、支那旅行の途上、上海(シャンハイ)に着いたのは五月六日であったが、その翌日は鉄道で杭州に行った。杭州には西湖という有名な景勝の湖水があり、その辺(ほとり)に岳飛の石碑がある。その碑から、四、五間ほど離れた処に、当時の権臣、秦檜(しんかい)の鉄像があって相対しておる。岳飛は宋末の名将で、当時宋と金との間にはしばしば戦いがあって、金のために宋は燕京を略取せられ、南宋と称して南方に偏在した。岳飛は朝命を奉じて出征し、金の大軍を破って、将に燕京を恢復(かいふく)しようとしたのであるが、奸臣、秦檜は、金の賄賂を納(い)れて岳飛を召還した。岳飛その奸を知って、「臣が十年の功一日にして廃(すた)る、臣職に称(かな)わざるにあらず。実に秦檜、君を誤るなり」と言ったが、彼は遂に讒(ざん)によりて殺された。この誠忠なる岳飛と奸侫(かんねい)なる秦檜とは、今数歩を隔てて相対しておるのだ。如何にも皮肉ではあるが、対象また妙である。今日岳飛の碑を覧(み)に行った人々は、ほとんど慣例のように、岳飛の碑に対(むか)って涙を濺(そそ)ぐとともに、秦檜の像に放尿して帰るとのことである。死後において忠好判然たるは実に痛快である。
 今日、支那人中にも岳飛のような人もあろう。また秦檜に似たる人がないとも言われぬけれども、岳飛の碑を拝して、秦檜の像に放尿するというのは、これ実に孟子のいわゆる「人性善(にんせいぜん)」なるに、よるのではあるまいか。天に通ずる赤誠(せきせい)は、深く人心に沁(し)み込んで、千載の下(もと)、なおその徳を慕わしむるのである。これをもっても人の成敗というものは、蓋棺(がいかん)の後に非ざれば得て知ることができない。わが国における楠正成(ママ)と足利尊氏も、菅原道真と藤原時平も、皆しかりというべきである。この碑を覧るに及んで、感慨ことに深きを覚えた。
(渋沢栄一『論語と算盤』角川文庫、2008年[2009年版]、304頁~305頁)



渋沢栄一『論語と算盤』に関連して、「岳飛と秦檜」について、福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』(東京書籍)では、次のように記してある。

第10章 東アジア世界の変容とモンゴル帝国
1 唐の崩壊後の東アジア
【金の華北支配と南宋】
 いっぽう宋は、金が燕雲十六州を獲得したことをめぐって、金との同盟関係をつづけることに失敗した。金の大軍によって首都開封は占領され、1127年には、譲位していた徽宗や皇帝欽宗(在位1125~27)など皇族や重臣たちの多くが捕虜として北方につれ去られ、宋は崩壊した(靖康の変、1126~27)。
 江南にのがれた徽宗の子の高宗(在位1127~62)は、1127年、宋(南宋、1127~1279)を再興して、臨安(浙江省杭州市)を都とした。しかし、金の攻撃ははげしく、軍事的に勝つ見込みにとぼしかったため、徹底抗戦を唱える主戦派の岳飛(1103~41)をやむなく処刑して、和平派の宰相秦檜(1090~1155)の主導のもとで、ほぼ淮河を境界とし、かつ金に対して臣下の礼をとるという条件のもとで1142年に和議を結び、毎年、多額の銀や大量の絹を貢ぎ物(歳貢・歳幣)として贈ることを強いられた。

※和議の後、両国間の戦争をへて、金と宋の君臣関係は、おじ・おいの関係に改められた。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、174頁)

〇渋沢栄一の『論語と算盤』に関連して、「岳飛と秦檜」について、木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』(山川出版社)では、次のように記している。
第6章 内陸アジア世界・東アジア世界の展開
2 東アジア諸地域の自立化
【宋の統治】
 12世紀初め、遼を滅ぼした金はつづいて華北を占領し、都の開封を陥落させて上皇の徽宗(在位1100~25)と皇帝の欽宗(在位1125~27)をとらえた(靖康の変、1126~27年)。そこで皇帝の弟の高宗(在位1127~62)が江南に逃れて帝位につき、南宋(1127~1276)をたて、臨安(現在の杭州)を首都とした。政治抗争の焦点は、金に対する政策へと移り、和平派(秦檜[1090~1155]ら)と主戦派(岳飛[1103~41]ら)との対立の末、結局和平派が勝利をおさめて金とのあいだに和議を結んだ。この結果、淮河をさかいに、北は金、南は南宋という二分の態勢が固まり、宋は金に対して臣下の礼をとり、毎年、銀や絹を金におくることになった。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、162頁)

〇渋沢『論語と算盤』(304頁~305頁)の岳飛と秦檜に関連して、本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)では、次のように記しある。

Chapter 10:Transformation of East Asia and the Mongol Empire
1 East Asia after the Collapse of the Tang Dynasty
■Jin’s Control of North China and the Southern Song Dynasty
While the Song failed to maintain the alliance with the Jin concerning the Jin’s
acquisition of Yanyun Sixteen Prefectures, its capital, Kaifeng, was
occupied by the Jin’s large force invading toward the south.
And in 1127, Huizong, who already abdicated, and the emperor Qinzong, as well
as many of other imperial family members and bureaucratic elites, were captured
and taken away to the north. This resulted in the collapse of the Song dynasty
(Jingkang Incident 靖康の変)
Gaozong, a son of Huizong, escaped to Jiangnan, and placed its capital in Lin’an
(臨安, Hangzhou of Zhejiang Province) in 1127, and restored the Song dynasty
(the Southern Song 南宋). The Song, however, against the Jin, which often attacked
the Southern Song, extended its power to the whole of North China, executed
Yue Fei (岳飛), a chauvinist leader who advocated exhaustive resistance.
But under the leadership of pacifist Chancellor Qin Hui (秦檜), the Song entered
into a peace treaty with the Jin in 1142, which fixed border at the Huai River,
to endure humiliating conditions to become the vassal of the Jin. And the Song was
also forced to donate a large sum of silver and voluminous silk as tribute.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、137頁)

鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』(文春文庫)を読んでみよう


鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』(文春文庫、2013年[2020年版])より

第三回 経済感覚を高めた帰納法的教育


「例外だった栄一の「学問のはじめ」」


「例外だった栄一の「学問のはじめ」」(36頁~38頁)
「栄一と諭吉の微妙な教育観の相違」(38頁~39頁)

・渋沢栄一は、8歳頃から従兄で10歳年上の尾高惇忠について漢籍を学んだと回想している。

 当時の一般的な常識からすれば、名主見習であるとはいえ、農民にすぎない栄一の父(晩香)が自ら漢籍に親しみ、子供にもその手ほどきをするということ自体が、むしろかなりの例外に属することだったようだ。
 また近在の村に住む従兄の尾高惇忠が、論語や大学・中庸を修めたインテリである。その尾高惇忠が栄一の家庭教師になってくれたことも、同じく大変な例外だった。

 それが当時の「当たり前」ではなかったことは、渋沢と同時代人の福沢諭吉の幼年時代の回想に当たってみると、よくわかるらしい。

「私の父は学者であった。普通(アタリマエ)の漢学者であって、大阪の藩邸に在勤してその仕事は何かというと、大阪の金持、加島屋、鴻ノ池というような者に交際して藩債の事を司どる役であるが、元来父はコンナ事が不平で堪らない。(中略)今の洋学者とは大いに違って、昔の学者は銭を見るも汚れると言うていた純粋の学者が、純粋の俗事に当るという訳けであるから、不平も無理はない。ダカラ子供を育てるのも全く儒教主義で育てたものであろうと思うその一例を申せば、こういうことがある。
 私は勿論幼少だから手習いどころの話ではないが、もう十歳ばかりになる兄と七、八歳になる姉などが手習いをするには、倉屋敷の中に手習いの師匠があって、其家(ソコ)には町家の子供も来る。そこでイロハニホヘトを教えるのは宜しいが、大阪のことだから九々の声を教える。二二が四、二三が六。これは当然(アタリマエ)の話であるが、そのことを父が聞いて『怪しからぬことを教える。幼少の子供に勘定のことを知らせるというのはもっての外だ。こういう所に子供は遣っては置かれぬ。何を教えるか知れぬ。さっそく、取り返せ』と言って取り返したことがあるということは、後に母に聞きました。」
(『福翁自伝』)

ここから、次のような事実がわかるという。
①福沢諭吉の父は経理担当の下級武士であったが、自分の仕事を嫌い、純粋な学問としての儒学にあこがれていた。

②にもかかわらず、自分で子供に素読を教えるような時間もなかったので、しかたなく、「手習いの師匠」のところに子供を通わせていたが、そこには、町人の子供も来ていて、漢籍というよりも、寺子屋のような「読み書き算盤」が中心だった。

③父は「手習いの師匠」の実利的な教え方が気にいらず、子供を取り返したこともある。だが、父が亡くなってからというもの、諭吉はそうした「手習いの師匠」のところにさえ行けなかった。

・実利的教育を嫌う武士であっても、子供に学識のある専属の家庭教師をつけるような余裕はなく、町人の子供と一緒に「手習いの師匠」のところで、「読み書き算盤」を習わせるほかはないというような事態が、大阪のような大都市でもかなり一般的になっている。しかも、もし福沢家のように、一家の大黒柱が早死にしてしまった場合は、武士の子供といえども、手習いも受けずに放置されたという事実が明らかになる。

・だから、6歳のときから父に素読を受け、その後は専属の家庭教師から漢籍を学んだ渋沢栄一は、当時の農民としては、例外的な学問的環境に置かれていた。
・しかも、その教師が、「手習いの師匠」ではなく、同じく豪農のインテリの従兄であったという点は、この頃の渋沢一族がいかに教育熱心であり、その教育レベルもかなり高かった。
(鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』文春文庫、2013年[2020年版]、38頁~39頁)

第二十六回「官」と「民」


「朱子学の創り出した金銭感覚の風潮」


「朱子学の創り出した金銭感覚の風潮」(313頁~315頁)
 渋沢栄一がフランス人のヴィレット大佐と銀行家フリュリ=エラールの対話を観察することで得た官・民平等の認識は、形式や名称ではなく、むしろエートス(共同的倫理観)に近いものだったらしい。
 渋沢が、「日本の此有様は改良せねばならぬ」と痛感したのは、江戸時代の「武士と町人・農民」、明治の「官吏と民間人」という官・民の制度上の違いというよりも、金銭に直接触れない「士=官吏」が、金銭にたずさわる「農工商=民間」に対していだく、金銭蔑視の差別感情である。
 渋沢にいわせれば、そのエートスは、江戸時代の朱子学からきているという。
 日本の儒学や朱子学は、儒学本来の教えとはことなり、本質的に金銭を蔑視する傾向が強かった。だから、それをバックボーンとする徳川の武士階級は、金銭に携わる農工商の階級をさげすみ、逆に、自らの階級を金銭にかかわりないがゆえに尊いものとして、学問を一切、金銭の獲得のための技術から切り離した。
 それゆえに、学問を得た武士階級は、実業とは無縁になり、実業に携わる農工商の階級は学問とはかかわりなくなってしまった。
(つまり、金銭というものが、「官・民」を区別する最大の指標となった。)

これは、『論語』の思想に対する誤解に基づく認識であると、渋沢はいう。
なぜなら、江戸の儒学者や朱子学者が、金銭と農工商階級蔑視の根拠とした、孔子の『論語』の次のような箇所は、彼らによって完全に誤読されているからである。

「富と貴(たつとき)とはこれ人の欲する所なり、其の道を以てせずして之を得れば処(お)らざるなり、貧と賤とはこれ人の悪(にく)む所なり、其の道を以てせずして之を得れば去らざるなり」
 これに対する、渋沢の解釈は次のようなものである。
「この言葉はいかにも言裡に富貴を軽んじたところがあるようにも思われるが、実は側面から説かれたもので、仔細に考えてみれば、富貴を賤しんだところは一つもない、その主旨は富貴に淫するものを戒められたまでで、これをもってただちに孔子は富貴を厭悪したとするは、誤謬もまた甚しと言はねばならぬ、孔子の言わんと欲する所は、道理をもった富貴でなければ、むしろ貧賤の方がよいが、もし正しい道理を踏んで得たる富貴ならばあえて差支えないとの意である、して見れば富貴を賤しみ貧賤を推称した所は更にないではないか、この句に対して正当の解釈を下さんとならば、よろしく『道を以てせずして之を得れば』という所によく注意することが肝要である」
(渋沢栄一述『論語と算盤』国書刊行会)

〇これは、渋沢栄一の経済思想のみならず、人生哲学の根底を成す「道徳経済合一主義」、俗に「論語と算盤」の思想をひとことで言い切った部分であると、鹿島氏はいう。
・パリで渋沢栄一が目撃したヴィレット大佐と銀行家フリュリ=エラールの会話は、まさに渋沢が従来の『論語』解釈に対して抱いていた疑問に目の覚めるような解答を与えたものだったとする。
⇒渋沢栄一が、フランスの二人の関係にあれほどのこだわりを見せたのは、渋沢が17歳のときに岡部の代官所で経験した屈辱以来、ずっと自問しつづけてきた金銭と道徳の関係という問題が伏線にあったからこそ、コペルニクス的な転換となりえたと、鹿島氏は理解している。
(鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』文春文庫、2013年[2020年版]、313頁~315頁)

「比較的新しかったフランスの官民平等思想」


「比較的新しかったフランスの官民平等思想」(317頁~318頁)

 しかしながら、渋沢栄一が感激したこの官・民の平等というものは、じつは、フランスでも大昔から存在していたのではないと、フランス文学者・鹿島氏は解説している。
 それどころか、こうした対等な関係が成立したのは、1789年のフランス革命以後のことにすぎないという。

・それ以前はどうなっていたのかというと、「官」を牛耳る貴族・僧侶階級(第一・第二身分)と、「民」のブルジョワ階級(第三身分)とは截然と区別され、日本の武士と農工商との違いにも等しい金銭感覚の相違が存在していた。

・儒教は金銭蔑視の宗教であると思われていたが、金銭蔑視という面でははるかに強烈なのがキリスト教であるという。
 キリスト教は、地上の富よりも天上の富を高く評価する。それゆえ、自分がより天上に近いと思うものほど、金銭を蔑視する。
 では、そうしたことができるのは、いったいどんな階層なのか?
 それは、働かずして衣食住になに一つ不自由のない生活を送っていた者、つまり、先祖代々ゆずり受けた広大な土地を持つ貴族階級と僧侶階級である。
 彼らは、金銭に不自由しないがゆえに、金銭を蔑視し、よりキリストの教えを実践していると思い込むことができた。

・これに対し、ブルジョア階級とは、自己の労働と創意工夫しか資本を持たぬがゆえに、金銭に敏感にならざるをえない階級である。
 そして、それは同時に金銭蔑視のキリスト教からは本来排除されるべき階級だった。
 しかし、ブルジョア階級が力を持ち出すと、キリスト教のほうでも、金銭に触れているからといって、彼らを排除できなくなる。
  
・ここで生まれたのが、いわゆるプロテスタンティズムである。
 ルターとカルヴァン、とくにカルヴァンのプロテスタンティズムは、金銭とかかわりを持たざるを得ないブルジョア階級が、それでもなおキリスト教の内部にとどまれるようにするために発明された宗教だといえる。

※つまり、刻苦勉励し、金銭を貯蓄することが「天職」として、神の意思に沿うのだとするカルヴァンの教義は、ある意味で、経済と道徳は矛盾するどころか、一致するという渋沢の『論語』理解とよく似たところを持っていると、鹿島氏は見ている。
 
・もし、渋沢がフランスでこのカルヴァン派のプロテスタンティズムに触れたというのであれば、その影響関係は至って理解しやすくなったはずである。だが、現実には、渋沢がパリで接したのは、このプロテスタンティズムではなかった。
 なぜなら、フランスはカトリックの国である。プロテスタンティズムはあっても、ごく限られた階層と地域にしかないからである。
 
・渋沢の理解とは異なり、現実のフランスは、官僚主義の強い国である。
(つい最近まで、良家の優秀な子弟は、日本と同じように、まず「官」を目指した。「民」に行くのは、エリートのトップクラスではなく、その下のクラスと決まっていた。この点では、フランスと日本は過去も現在もよく似ているという)

・だが、フランスの歴史において、極めて例外的ながら、エリートが「官」ではなく、こぞって「民」を志向した一時期があったそうだ。それが、1852年から1870年にかけての第二帝政であった。なぜなら、ナポレオン3世とそのブレーンの信奉するサン=シモン主義は、「官」を否定し、金銭と直接的に接する「民」、すなわち産業人を全面的に肯定する思想だからであるという。
(鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』文春文庫、2013年[2020年版]、317頁~319頁)

第三十四回 大蔵省を去る


「入るを計って出ずるを為す」は緊急課題


「「入るを計って出ずるを為す」は緊急課題」(419頁~420頁)
・第三章の前回「第三十三回 元勲たちの素顔」(405頁~418頁)では、維新の三傑や江藤新平に対する渋沢の人物評を紹介している。
⇒この人物評の基準となっていたのは、渋沢が大蔵省において井上馨とともに強く主張していた「入るを計って出ずるを為す」という国家予算の原則に対する各人の反応の違いだった。
(いいかえれば、この予算原則をどの程度まで理解していたかである)
※西郷隆盛は△、大久保利通は×、江藤新平は××と評価された。

 渋沢栄一は明治政府に一時期出仕したが、その大蔵省時代についても、みておこう。

・ところで、渋沢が固執していた「入るを計って出ずるを為す」の予算の原則は、たんなる原則論ではなく、実際の通貨・金融政策の上から実現しなければならない緊急課題でもあった。

・明治4(1871)年から6年にかけて、渋沢は大蔵省で、通過・金融政策の舵取の実務担当となった。
 その頃の最大の問題は、三つの貨幣が併存し、これに偽の金貨・銀貨および贋札が加わって、通貨的な混乱が起きている状態をどのように解決するかであった。
 (三つの貨幣とは、①幕府の時代に発行された金貨・銀貨、②各藩が独自に流通させていた藩札、③明治政府が慶応4(1868)年から発行していた太政官札[金札]をさす)

〇大隈重信の参議転出によって、大蔵省の実質的責任者となった井上馨と渋沢のコンビは、これを次のような手順によって乗り切ろうと考えた。
⇒まず国家の歳入を正確に算定したうえで、各省から出された予算を検討する。
 このさい、歳出をできるかぎり節約して、剰余金を作るように努める。
 というのも、これを正貨準備金とすれば、銀行制度の確立が可能になり、そこで発行する銀行紙幣で、不統一な貨幣を回収することができると踏んだからである。
(つまり、「入るを計って出ずるを為す」の予算原則の確立と、通貨混乱を解決するための金融政策は密接に結びついていた)

⇒そのため、大隈重信に代わって大蔵卿となった大久保利通は、明治4(1871)年の9月に陸海軍の予算を執行するよう同意を迫ったとき、渋沢は、大久保に反対意見を述べた。
 そして、大蔵省の首脳ともあろうものが、この調子では金融政策の確立などおぼつかないと絶望。辞職の相談を井上馨にもちかける。
⇒ところが、井上馨は渋沢の実力を高く評価していたので、慰留。
 当分、大久保との間に距離をおくため、渋沢を大阪造幣局へ転任させた。
 明治4年9月下旬のことだった。

(鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』文春文庫、2013年[2020年版]、419頁~420頁)

【鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』文春文庫はこちらから】
鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』(文春文庫)

〇鹿島茂『渋沢栄一 下 論語篇』(文春文庫)を読んでみよう


「第六十二回 「論語」と「算盤」」


第七章 「論語」を規範とした倫理観
「第六十二回 「論語」と「算盤」」(288頁~301頁)

「儒教の核心は道徳と経済にある」


「儒教の核心は道徳と経済にある」(288頁~289頁)
 渋沢栄一は、実業界を引退した後、時間の許すかぎり、講演や談話を引き受け、おのれの信ずるところを公に披露した。
 それらは『青淵百話』を始めとする講演・談話集に収録されている。
 なかでも『論語と算盤』と題されて出版された講演集は、そのタイトルが示すように、「義利合一(ぎりごういつ)」という、渋沢が一生の信条とした思想が語られているので、注目に値すると、鹿島氏はいう。
 すなわち、利潤追求を旨とする企業人においても、道徳(義)と経済(利)は矛盾しないどころか、むしろ、その両者のバランス感覚こそが孔子が『論語』で説く儒教思想の核心であると、繰り返し力説している。

 たとえば、『論語と算盤』収録の講演の一つ「罪は金銭にあらず」で、上記の引用のように記していた。
 
・この部分を、儒教道徳で育った、いかにも明治人らしい、古風な考えだと簡単に片づけてしまってはいけないという。
 なぜなら、「論語」と「算盤」の調和というこの思想は、東西の文明が例外的に出会って一つに融合した、「渋沢というメルティング・ポット」から生まれた一種の奇跡といってさしつかえないからとする。
 つまり、「論語と算盤」という理念は、儒教で育った明治人に共通するものでは決してなかった。むしろ、渋沢以外の人間には思いつくことができなかった「特殊」な経済思想なのかもしれない。
(鹿島茂『渋沢栄一 下 論語篇』文春文庫、2013年[2020年版]、288頁~289頁)

「金銭を卑しんだ江戸時代」(289頁~294頁)
 われわれは、「論語」と「算盤」の調和という考えなら、江戸時代にすでに一般的になっていたのではないかと想像してしまう。しかし、渋沢によれば、事実はその逆である。
 宋から輸入された朱子学の解釈によって、元和・寛永の頃から「論語」と「算盤」は完全に切り離された。儒学を学ぶ武士階級は金銭とはかかわりを持つべきではないとされるに至ったという。渋沢は次のようにいう。

「宋儒程子や朱子の解釈は高遠の理学に馳せ、やや実際の行事に遠ざかるに至れり。我が邦の儒家藤原惺窩(せいか)・林羅山のごとき、宋儒の弊を承けて学問と実際とを別物視し、物徂徠(ぶつそらい、荻生徂徠のこと)に至つては学問は士大夫以上の修むべきものなりと明言して、農工商の実業家をば圏外に排斥したりき。徳川氏三百年の教育は、この主義に立脚したりしかば、書を読み文を学ぶは実業に与らざる士人の業となり、農工商多数の国民は国家の基礎たる諸般の実業を担任すれども、書を読まず文を学ばず無智文盲漢となり終りぬ。(下略)」(『論語講義』)

※これは、儒学者三島中洲との共著というかたちで、数えで84歳のときに世に問うた『論語講義』の総説の一部である。
 なぜ、渋沢が『論語』を新しく解釈し直そうと試みたのか、その真意を語っている。
 すなわち、「算盤」と調和することこそが『論語』の本質なのであり、「論語」と「算盤」を分離しようとした江戸以来の儒学者の解釈は『論語』を読みちがえている、だからこそ、新たな解釈による『論語』を刊行するという。
 
 では、渋沢が『論語』再解釈の眼目とした教訓はどんなものなのだろうか?
 それは主として「里仁篇」の次の教えであるとされる。
 「富と貴とはこれ人の欲する所なり、其の道を以てせずして之を得れば処(お)らざるなり、貧と賤とはこれ人の悪(にく)む所なり、その道を以てせずして之を得れば去らざるなり」

 これに対して、渋沢は『論語と算盤』収録の「孔子の貨殖富貴観」という講演において、次のような解釈をしている。
 (すでに引用) 

・富貴を求める欲望、それ自体は、人間ならだれしもこれを持つのは当然であり、孔子はこれを否定してはいない。否定しているのは道義に基づかない手段方法に拠った場合である。
富貴を求める欲望があまりに激しいと、たしかに悪い結果をもたらすことが多いが、しかし、だからといって、富貴を求める欲望そのものを否定してしまっては、人々は働く意欲を失う。
そして、やがては、国全体がうまくいなかくなり、社会は衰亡に向かう。これが渋沢が主張したかったことである。
 
 渋沢は、その例として、朱子学を奉じた宋の国の衰退をあげて、『論語と算盤』の「真正の利殖法」でこう説明する。
(別に引用、原文125頁)
※鹿島氏の引用した版では、「宋末の慈惨」が「宋末の悲惨」とある。
(鹿島茂『渋沢栄一 下 論語篇』文春文庫、2013年[2020年版]、289頁~294頁)

第八章 近代性に貫かれた家庭人としての渋沢


第八章 近代性に貫かれた家庭人としての渋沢
「第七十六回 『論語』倫理と「明眸皓歯」」(488頁~501頁)

「子供の質問に真正面に答える」


「子供の質問に真正面に答える」(490頁~497頁)
 渋沢秀雄は、『父 渋沢栄一』という伝記で、飛鳥山に住むようになってからの晩年の渋沢栄一の日常を「思い出」として随所に挿入している。だから、われわれが「人間渋沢栄一」を知るのには、またとない資料となっている。
 渋沢秀雄の筆に拠りながら、等身大の渋沢のエピソードをいくつか、鹿島氏は紹介している。
(その中に、『論語』にある、例の葉公の話が出てくることに注目したい)



 渋沢秀雄は、中学五年生の頃、朝食のあとで庭を散歩する父の伴をしたとき、こんな質問をした。
「もし父さまが大石良雄でしたら、吉良にワイロをお贈りになったでしょうか? それとも何もなさらなかったでしょうか?」(『父 渋沢栄一』)
 すると、渋沢は「さあ、……むずかしい問題だね」といったきり黙ってしまった。
 秀雄は、その沈黙を自分が良い質問をしたしるしだと感じ、いささかの得意を覚えた。
 ややあって、渋沢は口を開くと、「ワシが大石良雄だったら、恐らく相当の礼物を贈ったろうね」と言ってから、次のような『論語』の辞句をすらすらと引用した。
 「葉公(ショウコウ)孔子ニ語(ツ)ゲテ曰ク、吾党ニ躬(ミ)ヲ直クスル者アリ。其父羊ヲ攘(ヌス)メリ。而シテ子之ヲ証スト。孔子曰ク、吾党ノ直キ者ハ是ニ異ナリ。父ハ子ノ為メニ隠シ、子ハ父ノ為メニ隠ス。直キコト其中ニアリ」

 羊を盗んだ父を告発する息子という紅衛兵時代の中国を思わせるような葉公の正直者の定義に対し、孔子は、自分たちの考える正直者というのはそういうものではない。父のためなら罪を子が隠すのは当然だし、子のために父が隠すのもまた当然だ。正直というのはそうした関係にあると答えたのである。渋沢はこの辞句を引いて、次のように結論づけたのである。
 「つまり、直きことも人情に適った直きことでなくてはならない。元禄時代に贈賄は法律上の罪ではなかった。そして吉良の貪欲は定評があったらしい。もし贈賄しなければ浅野家に禍がふりかかりそうな予想はついた筈だ。もとより贈賄は武士のイサギヨシとしないところだが、時と場合による。それで一国一城の危急が救えるなら、贈るのが人情であろう。……これが父の解釈だった。父はいつも、子供の質問にも真正面から答えてくれる人だった」(『父 渋沢栄一』)

<鹿島氏のコメント>
※この例からもわかるように、親が子供の質問に真正面から答えるには、込み入って矛盾した倫理の問題にも即答できるような体系的な教えがなくてはならない。
 渋沢の場合、それはいうまでもなく『論語』であり、この倫理規範に照らすことによって、すべての問題に答えを用意できた。
・われわれは、戦後、倫理体系としての『論語』を失い、それに代わるものも持ち得ないところから、自信喪失に陥ったといってもいいすぎではない。

〇渋沢秀雄は、渋沢の思考や行動様式がすべて『論語』から演繹されていることを、次のようなエピソードでも示している。
「なんでも克己寮時代と覚えているが、ある日家で父が私に、何かをもっとシッカリ勉強しろといったとき、私は、勉強したところで先が知れているという意味の返事をした。
 すると父はいくらかキッとした語調で、
『お前にはみずからを画する悪い性癖がある。自分に見きりをつけるようでは何事も出来ないぞ。その欠点は改めなければいかんよ。』
 といった。なるほど私の一生には思い当る節の多い言葉だ。私は最近論語の『雍也第六』で孔子が弟子の冉求(ゼンキュウ)を『今ナンジ画(カク)せり』(画[カギ]レリと読ませる本もある)と戒めているのを発見して、父の言葉がやはり論語から出ていたことを五十年ぶりで知った。その当時は父の論語マニアに何となく反感を持っていた私も、今となっては懐かしく思いだす。『同ジテ和セズ』から『和シテ同ゼズ』の心境に進歩したのかもしれない。時というものは不思議な作用をする」(『父 渋沢栄一』)
(鹿島茂『渋沢栄一 下 論語篇』文春文庫、2013年[2020年版]、495頁~497頁)

≪【補足 その1】中国文化史~儒教と『論語』と『孟子』≫

2023-09-10 19:00:26 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪【補足 その1】中国文化史~儒教と『論語』と『孟子』≫
(2023年9月10日投稿)

【はじめに】


 中国の春秋戦国時代は諸子百家の時代で、教科書の記述に見られるように、様々な思想が現れた。
 それらの思想が近現代にまで影響を与えてきたことは、例えば、“日本の資本主義の父”である渋沢栄一(1840~1931)は、『論語』をバイブル的な拠り所としてきたことでもわかる。
 また、『日本のいちばん長い日―運命の八月十五日』の著者として知られる、ジャーナリストで作家の半藤一利(はんどう・かずとし、1930~2021)は、『墨子』を読むように妻に遺言のように告げたらしい(半藤には、『墨子 よみがえる』(平凡社)という著作もある)。戦争は非人間的であるとした半藤の言葉には、今の世界状況を見るに、その意味合いは深いといえる。
(兼愛・非攻を主張した墨子については、私も今後の宿題としたい)

 さて、今回のブログでは、諸子百家の中でも、中国の政治史・文化史に大きな影響を与えた儒家について、取り上げたい。
 儒家の著作の中でも、『論語』と『孟子』について見てゆきたい。
 狙いとしては、次の2点である。
〇儒家と法家の思想を対比的に捉え、春秋戦国時代の歴史的状況の中で理解すること。
〇儒教の古典の中でも、『論語』と『孟子』について、漢文と英文を併記して解釈すること。

まず、最初に、儒家と法家について、高校世界史では、どのように記述されていたのか、振り返ってみよう。
〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]
〇木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]
〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]

〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍
第4章 東アジア世界1東アジアにめばえた文明
【諸子百家の群像】
春秋戦国時代の激動は、政治や社会のあり方をめぐる多彩な思想をよびおこし、諸子百家とよばれる思想家たちがあらわれた。
 春秋時代末期の魯の思想家で、儒家の祖となった孔子(前551ごろ~前479)は、家族道徳(孝)の実行を重視し、為政者にも仁徳をもって統治することを求めた(徳治主義)。『論語』は、孔子とその弟子の言行を編集したものである。孔子の思想を受けた孟子(前372ごろ~前289ごろ)は、上古には行われたという善政(王道)を理想とし、生来の善なる心をのばすべきとする性善説の立場から、力による政治(覇道)を批判したが、荀子(前298ごろ~前235ごろ)は、人は生来悪となりやすいので礼をもって導かなければならないとする性悪説の立場から、君主による民の教化を容認した。商鞅(?~前338)や韓非(?~前233)などの法家は、法律による統治(法治主義)を説き、秦の強国化に貢献した。これに対して、墨子(前480ごろ~前390ごろ)を祖とする墨家は、博愛主義(兼愛)や絶対平和(非攻)を主張し、老子や荘子(前4世紀ごろ)などの道家は、あるがままの自然に宇宙の原理(道)を求めて、政治を人為的なものとして否定した(無為自然)。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、81頁)

〇木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社
【春秋・戦国時代の社会変動と新思想】
(前略)
 戦争の続く時代のなかで、人々は新しい社会秩序のあり方を模索した。また、独創的な主張によって君主に認められる機会も多かった。その結果、春秋・戦国時代には多様な新思想がうまれ、諸子百家と総称される多くの思想家や学派が登場した。
 諸子百家のなかで後世にもっとも大きな影響を与えたのは、春秋時代末期の人、孔子(前551頃~前479)を祖とする儒家の思想である。孔子は、親に対する「孝」といったもっとも身近な家族道徳を社会秩序の基本におき、家族内の親子兄弟のあいだのけじめと愛情を広く天下におよぼしていけば、理想的な社会秩序が実現できるとした。孔子の言行はのちに『論語』としてまとめられ、その思想は、万人のもつ血縁的愛情を重視する性善説の孟子(前372頃~前289頃)や、礼による規律維持を強調する性悪説の荀子(前298頃~前235頃)など、戦国時代の儒家たちによって受け継がれた。
 その他、血縁をこえた無差別の愛(兼愛)を説く墨子(前480頃~前390頃)の学派(墨家)、あるがままの状態にさからわず(無為自然)すべての根源である「道」への合一を求める老子(生没年不明)・荘子(前4世紀)の道家、強大な権力をもつ君主が法と策略により国家の統治をおこなうべきだとする商鞅(?~前338)・韓非(?~前233)・李斯(?~前208)らの法家などがあり、いずれもその後の中国社会思想の重要な源となっている。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、70頁)

〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社
■Brief description of a Hundred Schools of Thought
 The convulsion of the Spring and Autumn Period and Warring States period brought out
various thoughts on politics and society. Thinkers in this period called Hundred Schools of
Thought(諸子百家) emerged.
Confucius(孔子) was a thinker from the state of Lu in the end of the Spring and Autumn
Period who originated Confucianism(儒家). He made much of execution of family ethics (filial piety, xiao) and asked rulers to govern people with rende (perfect virtues and humanness). The Lunyu (論語 Analects) was the collection of saying and ideas attributed to Confucius and his followers. Mencius(孟子) was influenced by Confucianism. He thought the rule of right which was practiced in ancient China, was ideal. He asserted the innate goodness of the individual, and criticized the rule of power. Xunzi(荀子) believed that the nature of man is evil; his goodness is only acquired by training based on li (propriety). He allowed rulers to train people. The School of Law, such as Shang Yang(商鞅) and
Han Fei(韓非), said that rulers should rule people with laws (Legalism).
Legalism(法家) supported the states of Qin to be a strong state. Mo Jia(墨家) was originated by Mozi(墨子), and promoted philanthropy (impartial love ) and peace at any
price (condemning aggression). Taoists(道家) such as Laozi (Lao Tsu老子) and
Zhuangzi(荘子) sought the principle of the universe (way, tao) in the nature as it was and denied political movement as unnatural (inaction and spontaneity).
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、65頁~66頁)





【本村凌二ほか『英語で読む高校世界史』(講談社)はこちらから】
本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社





さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・孔子と孟子~『論語』と『孟子』
・【孔子について】
・魯国について
・【孟子について】
・性善説~『孟子』告子上より

・孔子と『論語』の解説 ~加地伸行『「論語」を読む』(講談社現代新書)より
・儒家と法家~徳治政治と法治政治
・魯国型社会と斉国型社会
・『孟子』~小林勝人『孟子』(岩波文庫)より
・呉清源の儒教理解~江崎誠致『昭和の碁』(立風書房)より






孔子と孟子~『論語』と『孟子』


高校生向けの古典の参考書には、孔子と孟子について、次のようなことが記されている。
〇金谷治『論語・孟子(明解古典学習シリーズ16)』三省堂、1973年[1979年版]

【孔子について】


〇金谷治『論語・孟子(明解古典学習シリーズ16)』三省堂、1973年[1979年版]では、孔子と『論語』について、次のように述べている。

『論語』為政篇では、
・孔子は自らの一生を次のように述べている。
「吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順ふ。七十にして心の欲する所に従つて、矩を踰えず」
【要旨】
・孔子が晩年に至って(73歳で死亡)、15歳から70歳までの、自分の学問の向上と人格の向上を、10年単位に回顧した。
【研究】
・この文から年齢を表わすことばと、その年を摘記すると、
 十五=志学(しがく)、三十=而立(じりつ)、四十=不惑(ふわく)
 五十=知命(ちめい)、六十=耳順(じじゅん)、七十=従心(じゅうしん)
・孔子の一生は、結局どうであった、と自ら言っているのかについては、
 15歳から学問、人生の探究にのり出し、70歳に至って、やっと目的にたどりつけたが、
 思えば苦難と努力の連続であったという。

【解説】
・『論語』為政編のこの文は、孔子の一生の回顧、告白の一章である。
・この章の解釈には大別して、次のような説があるようだ。
①孔子を聖人化し、学問・道徳とも天才的に最高の理想的境地に到達したとし、孔子が自らその一生を誇らしげに回顧したものとする説。
②孔子を教師、努力の人、政治的に失敗の連続の人、と見なし、15歳から70歳まで、道を求めて努力、苦難に満ち、試練にさらされて成長した生涯を、無限の感慨をこめて回顧したものとする説。
・確かに最後の「心の欲する所に従つて、矩を踰えず」は、自己の意欲と理性の合致、すなっわち、主観的規範と客観的規範の合致の状況で、最高の道徳的価値である。
 その最高の道徳的価値は、どういう順序・段階をふんで達成されたか。
⇒それが、15歳から始まる55年間の学問熟達、道理の追求である。
・「三十而立」は、学問的自立
・「四十而不惑」は、事物の道理の通曉
・「五十而知天命」は、天の道理をわきまえたこと
・「六十而耳順」は、あらゆる事象・事情の網羅を知悉(ちしつ)の状況

〇こういう10年単位の不断の苦難に満ちた努力による学問的進歩の結果、晩年にやっと最高の境地にたどりついたものであろう。
(個人的、主観的な信念や、宗教的解脱や悟りによるものであるならば、むしろ、孔子の人格の独善性・主観性、つまり孔子という人間の小ささ・弱さの強調にほかならない。)
(金谷治『論語・孟子』三省堂、1973年[1979年版]、18頁、295頁)

補足~貝塚茂樹『論語』(講談社現代新書)


〇貝塚茂樹『論語』講談社現代新書、1964年[1994年版]

・数え年74歳で死んだ孔子が、晩年に自分の一生の経歴を振り返って述べた自叙伝のようなものである。
・貝塚氏は、「五十而知天命」を「五十歳で運命のなんであるかを知り」と訳している。そして次のように解説している。
 50歳になると、そのころの貴族階級に仲間入りして、魯国の政治に参画できるようになったが、孔子は、大国の干渉を排して魯国の国家を自立させ、三桓氏という家老たちの専制を倒すことに全力を尽くしたが、この企図は不幸にして失敗に帰した。そしてついに国外に亡命せざるをえなくなった。
 天命を知るとは、ひとりの人間が理想をもっていても、なかなかこれを実現することができない。歴史的条件のいかんともできないものがある。この年ごろになって、人間の力の限界をはっきりと知ったことをさしていると、貝塚氏は解釈している。
(貝塚茂樹『論語』講談社現代新書、1964年[1994年版]、44頁~45頁)

魯国について


〇貝塚茂樹『論語』(講談社現代新書、1964年[1994年版])では、第3章の「八佾編―伝統の擁護」で、魯国について、次のように述べている。

・魯国は、周王朝の礼、つまり文化と制度とを定めた周公の子孫が取り立てられた、日本でいえば大名、藩にあたるという。
 この藩の家老として勢力があったのが、季孫氏(きそんし)・孟孫氏(もうそんし)・叔孫氏(しゅくそんし)のご三家であった。
その中でももっとも有力であったのは、季孫氏、つまり季氏である。
・孔子の生まれたころは、季氏の勢力は絶頂に達し、かんじんの魯の本家はまったくあれども無きがごとく、君主はご三家にあやつられる人形にすぎなかった。
 孔子はこの三家の専制を打破し、魯国の君主の権力を回復しようと苦心していた。
 周の天子、諸侯、家臣などの位階にもとづいた制度の基本を季氏が破ったことに、激しいいかりを感じた。
 矛盾的行為が平気のように見える中国人が、案外原則を尊重する精神が、次のような孔子のことばにも表れているように見えると、貝塚氏はいう。

『論語』八佾編
孔子謂季氏、八佾舞於庭。是可忍也、孰不可忍也。
(孔子、季氏を謂わく、八佾(はちいつ)、庭(てい)に舞わす。是れをも忍(しの)ぶべくんば、孰(いず)れをか忍ぶべからざらん。
【現代語訳】
孔子が季氏の専権について非難されました。「季氏のやつめが、天子でなければ許されない八人八列の舞人を、家の祖廟の庭前で舞わしたそうな。これを平気で見過ごすことができるならば、世に平気で見過ごせぬことはなにもなくなるではないか」と。
※この編も第一の文章の主要な語である八佾(はちいつ)が編名となっている。
 魯の伝統である礼制、周公の文化を解説し、この精神を守ることが論ぜられている。
(貝塚茂樹『論語』講談社現代新書、1964年[1994年版]、60頁~61頁)

【孟子について】


・生卒年は明確ではないが、一説には前372年生まれ、前289年没といわれ、今の山東省の鄒(すう)という小国に生まれた。
 鄒は孔子の生国魯(曲阜)とわずか3, 40キロしか離れていない。
・父は幼いころに死に、賢母に育てられ(孟母三遷・孟母断機)、成長して孔子の国、儒学のメッカ魯に遊学し、その時、孔子の孫の子思(孔伋)はすでに死んでいたので、その門人について孔子の道を学び、孔子を理想的な人物と仰ぎ、その学統を継承発展させた。
・ついに性善説・王道政治論を確立し、20余年に及ぶ遊説に出た。
・梁(魏)・斉・宋などの間を往来し、諸侯に仁義王道の政治論を説いたが、富国強兵や外交上の策謀などの現実的な効果の上がる施策を求めていた諸侯からは、現実離れで理想にすぎるとして、受けいれられなかった。
・晩年には、孔子と同じく、母国に帰り、門人の公孫丑・万章などの教育にあたり、また自己の著作の仕事をすすめた。

・思想的には、孔子の「仁」の思想をさらに発展させて、孟子は「仁義」を主張した。
 新たに「義」という思想を付加した。孟子の説明によれば、「惻隠の心は仁の端なり。羞悪の心は義の端なり」つまり「他人の不幸・不遇を痛み憂える心が仁の芽ばえであり、不義・不正をみにくしとしていやがる心が義の芽ばえである」というわけである。
・孟子は王道論を説くために仁義の説を説き、仁義の説のために性善説を説くに至った。
 つまり斉の宣王、滕(とう)の文公に王道論を説く過程で、王道論の実現を動機づけるために説かれたのである。
 「上孟」すなわち公孫丑編での性善説に王道論の根拠として説かれており、原初的である。
 その内容は、人間にはだれにでも、子供が井戸に陥ろうとする時、反射的本能的に救おうとする「人に忍びざるの心=怵惕(じゅってき)惻隠の心(人の不幸不遇をいたみあわれむ心)」がある。同様に、羞悪の心、辞譲の心、是非の心が必ずあり、それらは、それぞれに仁・義・礼・智の芽ばえである。その四端を拡充すれば、それぞれ仁・義・礼・智の四徳として完成される
 つまり、人間の本姓は先天的に良知・良能・良心など善なるものである、という主張である。
・のちに性善説を否定する論として性悪説(荀子)が出たが、また孟子の当時にも性無善無不善説(告子)があった。
(金谷治『論語・孟子』三省堂、1973年[1979年版]、300頁~302頁)

性善説~『孟子』告子上より


〇金谷治『論語・孟子』三省堂、1973年[1979年版]では、孟子の性善説について、次のような解説を載せている。

『孟子』告子上の性善(原文、英文は後に掲載)
【要旨】
・人間の本性論で、告子は、本来的に善でも悪でもないと述べたのに対し、孟子は善であると論駁した。

【語釈】
・告子~名は不害。孟子と同時代の学者で、孟子の性善説に反対し、仁義道徳を後天的な人のしわざだといい、道徳以前の動物的本能が人間の本性だと主張した。
・人無有不善(人に善ならざるもの有る無く、)
 本性が善でない人はいない⇒だれでも本性は善である
 ※「無」と「不」の二重否定⇒強い肯定

【研究】
☆告子と孟子の本性論の違いを述べよ。
●孟子 ①性は善である。
    ②不善をするのは外的な理由による。
●告子 ①性は善でも不善でもない。
    ②導き方でどちらでもなる。

【解説】
・人間の本性が、①善であるか(性善説)、②悪であるか(性悪説)、③どちらでもないか(性無記説)は、永遠の問題である。
人間の本質に迫って人間を探究しようとしたのが、この時代の“人間の本性論”である。
・特に孟子と告子は、この問題を巡って、4回も論争を繰り返し、対立のまま終わっている。
 彼等の論争は、厳密に科学的、合理的、学問的に繰り返されたのではなく、4回とも比喩を用いて進められた。
 したがって、比喩・弁舌の巧みなほうが、論争に勝ったようにしるされている。
 すなわち、孟子は、告子の比喩の弱点、不備をうまく突いて、「水は東に流れるも西に流れるも区別はないが、必ず低いほうに流れる」「性が善におもむくのは、水が低いほうに流れるのと同じだ」と相手の論理を逆に利用して、快勝した形を取っている。
・「水が低きに流れる」ことは科学的必然であるが、「性が善である」ことには何の必然性もない。またその比例関係もまったくかってなこじつけにすぎない。

※論争では巧みな弁舌で、勝ってはいるが、その論争は「性が善である」という命題の科学的検証とは全く無関係である。
(金谷治『論語・孟子』三省堂、1973年[1979年版]、268頁~270頁)

孔子と『論語』の解説 ~加地伸行『「論語」を読む』(講談社現代新書)より


〇加地伸行『「論語」を読む』(講談社現代新書、1984年[1995年版])において、孔子と『論語』について、次のような節で、解説している。

〇「農民の父と巫女の母と」(66頁~68頁)
〇「親の罪は隠すべし」(42頁~44頁)
〇「人々が慕いくる政治」(44頁~46頁)

〇「農民の父と巫女の母と」(66頁~68頁)
 孔子は家庭的に恵まれなかった。
 その出生において、すでに不幸であった。
 というのは、孔子の母の顔徴在(がんちょうざい)は、後妻であるが、父の孔紇(こうこつ)と正式の結婚をしなかったのである。いや、許されなかったようである。
 孔子の母は、孔子の父と「野合して孔子を生む」<孔子世家>と言われている。(中略)
 問題は、母方である。
 白川静『孔子伝』(中央公論社・昭和47年)が主張するように、母親の顔徴在の実家は、宗教的雰囲気の濃い家であった。
 個人祈祷を職業とするシャーマン的一族(これを「原儒」と言っておく)であった。これは農民と異なった一族である。
 顔徴在は、尼丘(じきゅう)山の野外に祭壇を作り子授けを祈って、天が感応し孔子を妊娠したとされる。
 もちろん一般の人々も、子授けを祈るという行為を行なうが、顔徴在の場合は本職的な行為であったようであり、祈祷を職業とした一族の人間のようである。
 白川静は、この顔徴在のところに行き、通い婚的な関係をしたのが、孔子の父であるとする。
(加地伸行『「論語」を読む』講談社現代新書、1984年[1995年版]、66頁~68頁)

〇「両親の愛を知らず」(68頁~70頁)
・このような女性の場合、シャーマン外の人と結婚しようとしても、邑(むら)の差別意識を持っていたであろう人々の圧力が、それを許さなかったことであろう。
 また、父の孔紇は前妻との間に、足の不自由な一人の息子と、数人の娘とを生んでいる。彼らもまた、おそらく後妻の顔徴在を喜ばなかったことであろう。
 とすれば、顔徴在は、孔子を生んだ後、孔子の家でいっしょに生活することができなかったものと考える。別居である。しかも父は、孔子がまだ幼児のころに亡くなる。その上、14、15歳ごろには別居していた母をも失なう。
 ということは、孔子はその幼少期から青年期にかけて、両親を知らない家庭に育ったことになる。(中略)
 後年、孔子は孝という両親に対するありかたを強く主張することになるが、それは、孔子にとって、かつて充たされなかった家庭生活に対する思いが強くこめられてもいたと、加地氏は考えている。
(加地伸行『「論語」を読む』講談社現代新書、1984年[1995年版]、68頁~69頁)

〇「親の罪は隠すべし」(42頁~44頁)

 孔子が生きていた時代は、法が登場しはじめたころである。
 当時、法優先は異端の思想であった。それは、共同体という体制の根幹をゆるがす、<悪の思想>とみなされていた。孔子は、その<悪>の摘発者であったと、加地氏はみなす。
こういう話があるとして、次の葉公の話を紹介している。

 晩年、おそらく60代も半ばを越えたころ、孔子は為政者としての地位を求めて、諸国を流浪していた。
 あるとき、葉(しょう)という街に立ち寄ったらしい。
 この街は、南方の強国であった楚国の一行政地区である。その街の長官の葉公が、孔子にこう言った。
 自分の街に「直躬(ちょっきゅう)」(正直者の躬)という仇名(あだな)の者がいる。
 その父親が羊を盗んだとき、その子は父の犯罪を隠さないのみならず、盗んだことの証言をした、と。
 ところが、孔子は言い返した。私の仲間の「直」という仇名の男の行動は違います。
 「父は子のために[子の犯罪を]隠し、子は父のために[父の犯罪を]隠す。直[の本当のありかたは]、その中に在り」<子路>と。

【加地氏のコメント】
・この問答を読んだとき、現代人のわれわれの大半は、おそらく葉公の言い分、すなわち父といえども犯罪者は法の裁きを受けるべきであり、証言に立つ子の立場を正しいとするであろう。
 それは、人間社会における法優先の立場である。
 近代国家では、それが正しい、善いことである。
・しかし、孔子のころは、まだ各種共同体が現実に機能していた時代である。
 仮に犯罪が起っても、共同体でそれを裁く長老は、いろいろと事情を考えて罰を決める。
 時には、罪として、公にしないで、事件を闇から闇へと処理するだろうし、時には皆への見せしめに、窃盗程度でも死刑にすることすらある。
 そのように、裁量のはばが広い。
 その罰を決めるのは、共同体をリードする道徳に、どのようにそむいているかという点である。

・だから、たとえば共同体の有力者が、明らかに罪を犯し、裁かれるとき、その有力者の犯罪の証言を拒否する部下は、法優先の公の立場からは指弾されても、同じ共同体メンバーの立場からは、逆に賞讃を受けることであろう。
 このように、法的社会と道徳的共同体との関係は、いまもってなかなか善悪の判断のむつかしい問題を抱えている。

・秦の始皇帝を代表者として、中国古代の秦・漢帝国が成立したころ、法的社会を作ろうとする側と、従来からの道徳的共同体とは、到るところで衝突を起したのである。
 まして、法がしだいに社会的に認知されつつあった春秋時代、すなわち孔子が生きていた時代では、法は、共同体側から見れば、自分たちの体制を崩す悪であるとするのが正常であった。
 各種共同体が機能しなくなってしまった現代では、法的処理の間にはさみこまれる共同体的処理が、逆に不正なこと、悪であるとされる。
 たとえば、今日、老父の罪を見逃してもらうために、贈賄すればどうなるか。
 子は罪を犯すことになる。しかし、老父を捕えた検事や警察の側が、その父を老人であるがゆえに、その罪を公にしないとすると、一転して、温情ある処置として美談となる。
 共同体的感覚による行為である贈賄と美談とは紙一重の差なのであると、加地氏はいう。
 このように、法的社会が形成されて以後、共同体との関係というやっかいな問題を、人間は抱え込んできて、今日に至っており、いまなおその解決方法に苦しんでいるとする。
(加地伸行『「論語」を読む』講談社現代新書、1984年[1995年版]、42頁~44頁)

※【補足】
 この葉公の話は、鹿島茂氏も次の著作で言及している。次回のブログで紹介する。
〇鹿島茂『渋沢栄一 下 論語篇』文春文庫、2013年[2020年版]
 「第七十六回 『論語』倫理と「明眸皓歯」」(488頁~501頁)の「子供の質問に真正面に答える」(490頁~497頁)を参照のこと。

儒家と法家~徳治政治と法治政治


〇加地伸行『「論語」を読む』(講談社現代新書)では、儒家と法家、つまり徳治政治と法治政治との特徴をうまくまとめている。

〇「人々が慕いくる政治」(44頁~46頁)
 さて、共同体の指導原理は、道徳であるから、指導者はその条件として道徳性を身につけなくてはならない。
 ちょうど、法的社会の指導原理が法であり、指導者はその条件として、法を守りかつ政策能力を身につけなくてはならないのと同じように、あえて言えば、共同体社会は規模が小さく、前例主義なので、新しい政策の立案といったようなことはあまりなかった。

・この道徳的指導者は、法のように強制するのではなくて、しぜんと見習わせて、人々を感化することになる。
 だから、孔子は葉公に対して「近き者(近くの人々)は説(よろこ)び、遠き者(遠くの人人)は[慕い]来る」<子路>と述べている。
 これが道徳政治というものの姿である。

・すなわち、<共同体⇒共同体のきまり(慣習)⇒道徳>という体系に合わせて、
 <共同体の指導者⇒共同体のきまり(慣習)の熟達者⇒道徳的完成者(聖人)>という図式を考えだしたのである。
 そして、道徳的完成者(聖人)を最高指導者とし、その人の道徳に感化され教化される政治を道徳政治(徳治政治)としたのである。
 これは、<法的社会⇒法的社会のきまり⇒法>に基づく、
 <法的社会の指導者⇒法的社会のきまりの実行者や政策プランナー>という図式による法的政治(法治政治)と鋭く対立する。

※前者の道徳政治を主張したのが、儒家であり、その組織的理論化や、理論的指導を行なった最初の人が、孔子であった。
※後者の法的政治を主張したのが、孔子よりずっと後に出てきた法家(たとえば韓非子)である。
 その方式に基づく大政治家が、秦王朝を建てた始皇帝である。

・ただ、孔子の時代では、この法家的立場の者は、まだまだ少数であった。
 この少数派に対して、孔子は、厳しく批判して、こう言っている。

 子曰く、これ(大衆)を道(みちび)くに[行]政(まつりごと)[上のきまり]をもつてし、[従わないとき]これを斉(ととの)ふるに刑[罰]をもつてすれば、民[は、なんとか]免れんとして[工夫して逃れ、しかもそれをすこしも]恥づるなし。[しかし]これ(大衆)を道(みちび)くに[道]徳をもつてし、これを斉ふるに礼[儀]をもつてすれば、恥[を知る気持が]ありて、かつ[慕つて]格(きた)ると<為政>。
(加地伸行『「論語」を読む』講談社現代新書、1984年[1995年版]、44頁~46頁)

さて、『論語』(巻第一、爲政第二)から引用しておく。
 子曰、道之以政、齊之以刑、民免而無恥、道之以徳、齊之以禮、有恥且格、

 子の曰わく、これを道(みち)びくに政を以てし、これを斉(ととの)うるに刑を以てすれば、民免(まぬが)れて恥ずること無し。これを道びくに徳を以てし、これを斉うるに礼を以てすれば、恥(はじ)ありて且つ格(ただ)し。

※格し――新注では「至る」と読んで善に至ることと解する。今、古注による。

【現代語訳】
先生がいわれた。「[法制禁令などの小手先きの]政治で導びき、刑罰で統制していくなら、人民は法網(ほうもう)をすりぬけて恥ずかしいとも思わないで、道徳で導びき、礼で統制していくなら、道徳的な羞恥心を持ってそのうえに正しくなる。
※礼――法律と対して、それほどきびしくはない慣習法的な規範。
(金谷治訳注『論語』岩波文庫、1963年[1994年版]、27頁~28頁)

BOOK II-3
3. The Master said, ‘Guide them by edicts, keep them in line with
punishments, and the common people will stay out of trouble but
will have no sense of shame. Guide them by virtue, keep them in
line with the rites, and they will, besides having a sense of shame,
reform themselves.’
(D.C.Lau, Confucius THE ANALECTS(Lun yü), PENGUIN BOOKS, 1979, p.63)

魯国型社会と斉国型社会


〇加地伸行『「論語」を読む』(講談社現代新書)では、魯国型社会と斉国型社会とを対照的に捉え、次のように述べている。

「魯国型社会と斉国型社会と」(56頁~58頁)
〇『論語』では、斉国と魯国・衛国とを対比的に記している。
「子の曰わく、斉、一変せば魯に至らん。魯、一変せば、道に至らん」<雍也>
(孔子は、斉[国が態度を改めて]一変すれば、魯[国のようなありかた]に至らん。魯[もさらに]一変せば、[本当の]道[徳政治]に至らん、と言う)

さらに、
「子の曰わく、魯衛の政は兄弟なり」<子路>
(孔子は、魯[国と]衛[国と]の政は、兄弟なり、と言う)

※岩波文庫版には「※魯の先祖の周公旦と衛の先祖の康叔(こうしゅく)とは兄弟で、もともとその善政も似ていた。雍也篇第二十四章(85ページ)参照」とある。
(金谷治訳注『論語』岩波文庫、1963年[1994年版]、176頁)

〇加地氏は、これらの記述は政策の相違をモデル化したものであろうと、解説している。
●衛国と魯国とは、ともに農業経済中心型の国家であった。
●それに対して、斉国は商業経済中心型の国家であった。
⇒斉国は、海岸線が長く、重要物資の塩がとれた。
・さらに海産物も豊富であり、これらを諸国に高く売りつけ、非常な収益をあげていた。
・国民の所得があがり、余暇には美女による華やかな歌舞劇を楽しんでいた。
・斉国のこの消費経済は、隣国の魯国の人々に影響を与えてゆき、節約経済でつつましい生活を送っていた魯国の人も、しだいに消費経済型へと変貌をとげていく。(『史記』貨殖伝)

●しかも、斉国は、管仲という大政治家によって強国となった。
 ⇒その管仲は、法に基づく立場、いわゆる法家思想家の先駆者である。

※そうすると、魯・衛・斉という国家の性格についての孔子の分析に基づいて、次のようにモデル化することができる。
①魯国―農業経済中心型―節約経済―共同体―道徳[による]政治―孔子・孟子らの儒家思想―
   ―道徳的完成者(先王)を政治的指導者とする
②斉国―商業経済中心型―消費経済―法的社会―法[による]政治―管仲・韓非子らの法家思想―
   ―政策実行能力者(後王)を政治的指導者とする

※孔子は、斉国での仕官に失敗し、後に衛国に行く。そこでも仕官に失敗するが、衛国を根拠地とすることになる。
(これは、孔子にとって、斉国に比べて衛国のほうが、まだ自分の思想に合うという判断であったようだ)
(加地伸行『「論語」を読む』講談社現代新書、1984年[1995年版]、56頁~58頁)

『論語』(巻七子路第十三)から引用しておく。
葉公語孔子曰、吾黨有直躬者、其父攘羊、而子證之、孔子曰、吾黨之直者異於是、父爲子隠、子爲父隠、直在其中矣。

 葉公(しょうこう)、孔子に語りて曰(い)わく、吾が党に直躬なる者あり。其の父、羊を攘(ぬす)みて、子これを証す。孔子の曰(のたま)わく、吾が党の直(なお)き者は是れに異なり。父は子の為めに隠し、子は父の為めに隠す。直きこと其の中に在り。

※直躬なる者――「躬(み)を直くする者」と読むのがふつう。

 葉公(しょうこう)が孔子に話した、「わたしどもの村には正直者の躬(きゅう)という男がいて、自分の父親が羊をごまかしたときに、むすこがそれを知らせました。」孔子はいわれた、「わたしどもの村の正直者はそれとは違います。父は子のために隠し、子は父のために隠します。正直さはそこに自然にそなわるものですよ。」
(金谷治訳注『論語』岩波文庫、1963年[1994年版]、181頁)

BOOK XIII-18
18. The Governor of She said to Confucius, ‘In our village there is
a man nicknamed “Straight Body”. When his father stole a sheep,
he gave evidence against him. ’ Confucius answered, ‘ In our village
those who are straight are quite different. Fathers cover up for
their sons, and sons cover up for their fathers. Straightness is to
be found in such behaviour.’
(D.C.Lau, Confucius THE ANALECTS(Lun yü), PENGUIN BOOKS, 1979, p.121)

『孟子』~小林勝人『孟子』(岩波文庫)より


『孟子』について、次の本より引用しておく。
〇小林勝人『孟子(上)』岩波文庫、1968年[1997年版]

〇公孫丑上、不忍人之心
孟子曰、人皆有不忍人之心、先王有不忍人之心、斯有不忍人之政矣、以不忍人之心、行不忍人之政、治天下可運之掌上、所以謂人皆有不忍人之心者、今人乍見孺子將入於井、皆有怵惕惻隠之心、非所以内交於孺子之父母也、非所以要譽於郷黨朋友也、非惡其聲而然也、由是觀之、無惻隠之心、非人也、無羞惡之心、非人也、無辭譲之心、非人也、無是非之心、非人也、惻隠之心、仁之端也、
羞惡之心、義之端也、辭譲之心、禮之端也、是非之心、智之端也、人之有是四端也、猶其有四體也、有是四端而自謂不能者、自賊者也、謂其君不能者、賊其君者也、凡有四端於我者、知皆擴而充之矣、若火之始然、泉之始達、苟能充之、是以保四海、苟不充之、不是以事父母、

孟子曰く、人皆人に忍びざるの心有り。先王(せんのう)人に忍びざるの心有りて、斯ち人に忍びざるの政(まつりごと)有りき。人に忍びざるの心を以て、人に忍びざるの政を行なわば、天下を治むること、之を掌(たなごころ)の上に運(めぐ)らす[が如くなる]べし。人皆人に忍びざるの心有りと謂う所以の者は、今、人乍(にわか)(猝)に孺子(幼児)の將に井(いど)に入(お、墜)ちんとするを見れば、皆怵惕惻隠(じゅってきそくいん)の心有り、交(まじわり)を孺子の父母に内(むす、結)ばんとする所以にも非ず、譽(ほまれ)を郷黨朋友に要(もと、求)むる所以にも非ず、其の聲(な、名)を惡(にく)みて然るにも非ざるなり。是れに由りて之を觀れば、惻隠の心無きは、人に非ざるなり。羞惡の心無きは、人に非ざるなり。辭譲の心無きは、人に非ざるなり。是非の心無きは、人に非ざるなり。惻隠の心は、仁の端(はじめ)なり。
羞惡の心は、義の端なり。辭譲の心は、禮の端なり。是非の心は、智の端なり。人の是の四端あるは、猶(なお)其の四體あるがごときなり。是の四端ありて、自ら[善を為す]能(あた)わずと謂う者は、自ら賊(そこな)う者なり。其の君[善を為す]能わずと謂う者は、其の君を賊う者なり。」凡そ我に四端有る者、皆擴(おしひろ)めて之を充(だい、大)にすることを知らば、[則ち]火の始めて然(も、燃)え、泉の始めて達するが若くならん。苟(いやしく)も能く之を充(だい)にせば、以て四海を保(やす)んずるに足らんも、苟も之を充にせざれば、以て父母に事(つこ)うるにも足らじ。

※不忍人之心とは、他人の苦痛や不幸を見るに忍びないあわれみの心・同情心をいう。

【現代語訳】
孟子がいわれた。「人間なら誰でもあわれみの心(同情心)はあるものだ。むかしの聖人ともいわれる先王はもちろんこの心があったからこそ、しぜんに温かい血の通った政治(仁政)が行なわれたのだ。今もしこのあわれみの心で温かい血の通った政治を行なうならば、天下を治めることは珠(たま)でも手のひらにのせてころがすように、いともたやすいことだ。では、誰にでもこのあわれみの心はあるものだとどうして分るのかといえば、その理由はこうだ。たとえば、ヨチヨチ歩く幼な子が今にも井戸に落ちこみそうなのを見かければ、誰しも思わず知らずハッとしてかけつけて助けようとする。これは可愛想だ、助けてやろうと[の一念から]とっさにすることで、もちろんこれ(助けたこと)を縁故にその子の親と近づきになろうとか、村人や友達からほめてもらおうとかのためではなく、また、見殺しにしたら非難されるからと恐れてのためでもない。してみれば、あわれみの心がないものは、人間ではない。悪をはじにくむ心のないものは、人間ではない。譲りあう心のないものは、人間ではない。善し悪しを見わける心のないものは、人間ではない。あわれみの心は仁の芽生え(萌芽)であり、悪をはじにくむ心は義の芽生えであり、譲りあう心は礼の芽生えであり、善し悪しを見わける心は智の芽生えである。人間にこの四つ(仁義礼智)の芽生えがあるのは、ちょうど四本の手足と同じように、生まれながらに具わっているものなのだ。それなのに、自分にはとても[仁義だの礼智だのと]そんな立派なことはできそうにないとあきらめるのは、自分を見くびるというものである。またうちの殿様はとても仁政などとは思いもよらぬと勧めようともしないのは、君主を見くびった失礼な話である。だから人間たるもの、生れるとから自分に具わっているこの心の四つの芽生えを育てあげて、立派なものにしたいものだと自ら覚りさえすれば、ちょうど火が燃えつき、泉が湧きだすように始めはごく小さいが、やがては[大火ともなり、大河ともなるように]いくらでも大きくなるものだ。このように育てて大きくしていけば、遂には[その徳は]天下をも安らかに治めるほどにもなるものだが、もしも育てて大きくしていかなければ[折角の芽生えも枯れしぼんで]、手近(てぢか)な親孝行ひとつさえも満足にはできはすまい。」
(小林勝人『孟子(上)』岩波文庫、1968年[1997年版]、139頁~142頁)

〇公孫丑上、不忍人之心
D.C.Lau, Mencius,BOOK II・PART A-6
6. Mencius said, ‘No man is devoid of a heart sensitive to the
suffering of others. Such a sensitive heart was possessed by
the Former Kings and this manifested itself in compassion-
ate government. With such a sensitive heart behind compas-
sionate government, it was as easy to rule the Empire as rolling
it on your palm.’
‘My reason for saying that no man is devoid of a heart
sensitive to the suffering of others is this. Suppose a man were,
all of a sudden, to see a young child on the verge of falling into
a well. He would certainly be moved to compassion, not be-
cause he wanted to get in the good graces of the parents, nor
because he wished to win the praise of his fellow villagers or
friends, nor yet because he disliked the cry of the child. From this
it can be seen that whoever is devoid of the heart of compassion is
not human, whoever is devoid of the heart of shame is not
human, whoever is devoid of the heart of courtesy and modesty
is not human, and whoever is devoid of the heart of right and
wrong is not human. The heart of compassion is the germ of
benevolence; the heart of shame, of dutifulness; the heart of
courtesy and modesty, of observance of the rites; the heart
of right and wrong, of wisdom. Man has these four germs just
as he has four limbs. For a man possessing these four germs to
deny his own potentialities is for him to cripple himself; for him
to deny the potentialities of his prince is for him to cripple his
prince. If a man is able to develop all these four germs that he
possesses, it will be like a fire starting up or a spring coming
through. When these are fully developed, he can tend the whole
realm within the Four Seas, but if he fails to develop them, he
will not be able even to serve his parents.’
(D.C.Lau, Mencius, PENGUIN BOOKS, 1970[2003], pp.38-39.)

〇告子上、性善





D.C.Lau, Mencius,BOOK VI・PART A-2
2. Kao Tzu said, ‘Human nature is like whirling water. Give it
an outlet in the east and it will flow east; give it an outlet in the
west and it will flow west. Human nature does not show any
preference for either good or bad just as water does not show
any preference for either east or west.’
‘It certainly is the case, ’ said Mencius, ‘that water does not
show any preference for either east or west, but does it show
the same indifference to high and low? Human nature is good
just as water seeks low ground. There is no man who is not
good; there is no water that does not flow downwards.’
‘Now in the case of water, by splashing it one can make it
shoot up higher than one’s forehead, and by forcing it one can
make it stay on a hill. How can that be the nature of water? It
is the circumstances being what they are. That man can be made
bad shows that his nature is no different from that of water in
this respect.’
(D.C.Lau, Mencius, PENGUIN BOOKS, 1970[2003], p.122.)

呉清源の儒教理解~江崎誠致『昭和の碁』(立風書房)より


これは、まったくの余談であるが、直木賞作家の江崎誠致が『昭和の碁』(立風書房)において、昭和で最強の棋士ともくされる呉清源の思想について、言及していたので、紹介しておく。
〇江崎誠致『昭和の碁』立風書房、1978年[1982年版]

 呉清源がこころみた真似碁は、棋力のない世人から見れば、勝つための手段としか映らないし、ズルイヤといった感想を大なり小なりいだいたにちがいない。
 しかし専門棋士は、とくに矛を交えた木谷実は、この若い中国の天才少年にそなわった得体の知れぬ妖気を感じとったにちがいない。

 のちに、呉清源は次のようなことを述べている。
「老子はいきなり天元を布石した。孔子は隅の方から石を打ちはじめた。老子の学は哲理が宏大無辺で、たやすく世人に理解されなかった。孔子の学は人の道をわかりやすく組み立てたので一般に理解された。しかし、二人の学問の発したところは一つである。老孔は一如である。だから、人が道を行うのも、碁が大自然の意を求めて行くのも同じであると思う。」

 老子、孔子の学は、日本にも古くから伝わっていて、ある程度は消化されている。したがって、この呉清源の言葉に奇異な感じはないし、むしろ共感をおぼえる人も多いだろう。しかし、こんな考え方を、碁の世界に持ちこめるのは、やはり呉清源が老孔の国の人であるからだと思う。老子はいきなり天元に布石した。呉清源も、そのようにいきなり天元に布石し、盤上に自然の意を求めて行こうとしたのである。真似はその手段にすぎない。その真似に、日本人は、卑怯、ズルイヤという感想をいだく。だが、呉清源の立場から見れば、そんな感想は問題にならない。

 この一事を見ても、呉清源の発想がそれまでの日本の碁界にはなかった別次元のものであることが理解されよう。それを最初に受けとめ、以後ライバルとして昭和の碁界をリードして行くことになったのが木谷実である。言葉の上で表現はしなくても、誰よりも先に、呉清源の桁はずれの発想を理解したのは、怪童丸木谷その人であったにちがいない。
(江崎誠致『昭和の碁』立風書房、1978年[1982年版]、15頁~16頁)

 呉清源が孔子老子を学び、紅卍や璽光尊に帰依したのは、碁に勝つためではない。彼の信仰心は不断のものであり、自然の心情の流露によるものである。無欲なのだ。そこに、平常心が生れる。彼の碁に失着が少く、あっても腐ることがなく、したがって失着の上塗りをしないのは、ねばり強い民族性というだけではない。無欲な平常心の賜(たまもの)と言えよう。
 奔放自在な呉清源の棋風に、類を見ない安定感があるのも、彼が勝敗不明の局面でしばしば運を引きよせるのも、多分そこに秘密がある。
(江崎誠致『昭和の碁』立風書房、1978年[1982年版]、59頁)