
(2)国内における映画の製作時期の表記について
今回2番目の記事は、日本で言われていた「少林門」製作時期の疑問について。まず問題提起しますと、この映画は日本国内において「74年」に製作と言われ続けていました。これは昔から言われており、誰もが疑うこともなくインプットされた内容なのですよね。
なぜでしょう?と思った方。そう思った方は、この記事をお読みいただくと、何かが分かるかも知れません。



はじめに書いておきますと、74年製作は確かに怪しい情報なのですが、これを解明するには様々な資料、書籍などの国内外の出版物に目を通す必要があります。
また、正解というのは実は無いというか非常に難しい話になります。ですので、ここでは製作年度が74年になっていた経緯などの解説文として、興味がありましたら是非続きをお読みいただければと思います。
さて、私が当時、最初に読みました書籍がこちらでした。

1982年発行になりますが、著者は有名な映画評論家の日野康一氏です。
日野さんはかつて、アジア映画方面ではブルース・リー書籍などで実績のあったお方で、ジャッキーについても同様に多数出版、様々な記事を書かれてましたね。
日野さんと言えば、近代映画社から出てましたコチラ。
「栄光のドラゴン ブルース・リーのすべて」

とにかく読みやすくて中身が濃かったので、醒龍お気に入りの一冊ですね!これは流石でした(拍手)。
そして、上に書いたジャッキー本があります。その後も似たような本が多数出ていた中の1冊で、これは「ジャッキー・チェン大全科」(秋田書店刊)なのですが、"ジャッキー・チェン全出演作を完全公開"と謳っていましたので、ワクワクしながら何度も読んでいましたね。
これの巻末には、こんなページがありました。

スーパースターへの道という節があり、このページから引用しますと、「すでに完成した少林門もオクラになるしまつ(2年後の76年に公開)。」という記述がありました。
更にこんな凄い事も書いてあったんです!

"お蔵入り"に関しては、香港の公的機関からリリースされている外国映画を含む禁映(=上映禁止)リストがありますけど、ここにはJW関連で2つの作品(73年)挙がってしまっていたのですよね。

73年のNo.317には『過客』が、そしてNo.326には例の『満洲人』がリストアップされています。折角、時間と労力を使って映画を作っても上映が許されないなんて哀れですよね。
結果的には、御存知の通り『過客』は追加撮影、再編集されて2年後の75年に香港で劇場公開されましたね。これがお蔵入り(ややこしいですが、あくまで香港での話。。)です。『少林門』はリストにはありませんが、『満洲人』は完全にお蔵入りした映画です。
ちなみにこのリストで面白いのは、やはり73年の『必殺ドラゴン鉄の爪』が一旦禁映になったあと、2回目の審査で通っているんです(75年に香港公開)。検閲で通るか通らないかのギリギリの線にいた訳なのでした。
さて、大全科の話に戻しますと、巻末には出演作①のフィルモがあります。

ただ、76年以降の羅維時代の作品と、それ以前の作品リストでは、後者が年度だけの表記だったりして明らかに質が異なっています。ですので、羅維影業の主演作以外の作品については、まだあまり知られていなかった事が分かります。では、その出演作①のリストにある「少林門」が74年の表記になっていたのはなぜか?
羅維影業作品リストだけはしっかりした資料を入手していたかと思いますが、実はフィルモに関して更にベースとなった書籍がありました。大全科の出版前、81年発行の芳賀書店のヤング功夫マスターと題された日野先生責任編集のシネアルバム(バトルクリークブローの時のジャッキーが表紙の黄色い本と言えばお分かりでしょうか?)の中には、楊明山という人が日本語に訳した台北でのジャッキーのインタビュー記事が載っています。
81年に出版されたこのシネアルバムが日本で最初期の書籍ではないかと思われます。

これがどういう事かと言いますと、まず、ジャッキーはこの時期両親の暮らすオーストラリアへは2回行っていたという話が現在までの通説だと思います。それがあのインタビューを読んだだけだと回数は意識せず、「1年間ずっと渡豪してたのか・・」と思ったりしたのではないでしょうか。要するにまさか2回も行ったとは思ってはいなかったと思うのですよね。






この拳精でジャッキーがトンファーを持ってる表紙の記事がまさにそうでしたね。七小福について書かれた内容で、ジャッキーは学校ではどんな事をしていたか、メンバー構成や厳しかった于先生について、日々の活動の様子などが記事になっていて、それが日本の書籍に翻訳されて掲載されていたのです。

因みに、73年頃の中文記事でJCプロフィール紹介の記事中に『北地胭脂』出演の事が書かれている雑誌もありました。これってショウブラ解禁後にやっと浸透してきた内容と思いますので、当時国内どの文献においても、残念ながらこの情報が採用される事はありませんでした。

このように当時は香港で購入できる嘉禾電影や銀色世界、銀河畫報あたりの大手の映画雑誌、N商事で扱っていた英語、中文雑誌などがあったと思います。大百科の類いでも、これらの雑誌の写真をかなり流用してましたね。当時はジャッキーの出演情報に関しては情報誌がそれほど多くなく貴重だったのです。
出版書物のページには主要なメンバーが並んだ写真が掲載されてましたが、公開日76年が表記されていました。但し注釈は特に無し。ほかの映画で時期のズレがあれば注釈が記載されています。(例えば邵氏の『惡霸』など。73年に撮影が終わって送検後、75年に公開と注釈あり)つまり74年に製作されていた事実はなかったという事だと思います。
また、説明文にはストーリー概略と嘉禾電影46期の抜粋記事などが書かれているのが確認出来ました。映画をよりリアルにするために、杜青役のサモハンと一緒に有名な武術家を訪ねたそうです。先方が誰なのかまでは分かりませんが(苦笑)。

年度を証明する物が他にないかと考えていましたら、前のパート1記事で触れました映像にヒントがありました。少林門の英語版プリントに注目しますと、珍しくローマ数字でMCMLXXVI(1976)と刻印されているように見えます。

私は74年というのは流石におかしいなと以前から思っていましたので、今回こういった記事を書きました。もしかしたら76年というのが実は正解で、かつ無難なデータかも知れませんね。
ちなみに私、醒龍は日本のビデオに記載されたコピーライト、1975年を採用したいですね。
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