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名所江戸百景175 第45景 八ツ見のはし 皇居東御苑の春

2014-04-04 07:55:25 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今年も桜の名所として有名な千代田区(ちよだく)にある皇居(こうきょ、江戸城)は、多くの花見客でにぎわいました。今回は皇居東御苑(ひがしぎょえん)の風景からです。皇居東御苑は、江戸城の本丸・二ノ丸・三の丸だった場所です。前回の千鳥ヶ淵(ちどりがふち)・北の丸(きたのまる)は東御苑の北側にあります。
 東京駅を西に歩いて行くと、江戸城(皇居)の内濠(うちぼり)が見えてきます。手前は巽櫓(たつみやぐら)、その奥に内桜田門(桔梗門)、そして一番奥に見えるのが富士見櫓です。
(絵画調)

 内濠沿いに右に進むと、三ノ丸大手門(おおてもん)が見えます。

 (桜が暗いので、日中シンクロしたら、不自然になってしまいました・・・・)
 江戸時代は、将軍の出入口、朝廷から勅使(ちょくし)の参向、大名の登城などを行う正式の門でした。
 大手門は、L字型に曲がった虎口(こぐち)の前後に二つの門を持つ枡形門(ますがたもん)です。前回の北の丸の田安門と同じ構造です。(江戸城内濠の門は、この構造が多い)
 まず、入口の高麗門を内側の虎口から大手町のビル街方面を見た風景です。

 上の写真の左側外に下の写真の櫓門(やぐらもん)があります。
 最初の大手門は、2代将軍・秀忠(ひだただ)の慶長12年(西暦1607年)に藤堂高虎(とうどうたかとら)の設計によって造られましたが、現在の形になったのは、同じく秀忠時代の元和6年(西暦1620年)の江戸城修復に際し、伊達政宗(だてまさむね)、相馬利胤(そうまとしたね)によって現在の形になりました。

 櫓門は両側の石垣の上を渡るように櫓が乗っている門ですが、江戸城の石垣は、切込み接ぎ(きりこみはぎ)と呼ばれる方形に整形した石材を密着させ、積み上げる方法で、城の石垣工法が最高レベルになった工法です。関ヶ原の戦いがあった慶長5年(西暦1600年)以後、隅石(石垣の角の石)などで使用され始め、江戸時代以降に平石にまで多用されるようになりました。通常の城の石垣として思い浮かぶ石垣の典型かもしれません。
 大手門を通過した所が江戸城の三の丸です。この大手門は日本の三百諸侯が登城した門であり、警備が厳しく、警備の多くの侍が詰める同心番所(どうしんばんしょ)がありました。二ノ丸と三の丸の境近くにある大番所も、その一つです。

 三の丸から二ノ丸に入る石垣の間を通り過ぎると、下の写真の百人番所(ひゃくにんばんしょ)があります。

 百人番所は大手門から本丸に入るときの最大の検問所です。甲賀(こうが)組,根来(ねごろ)組,伊賀(いが)組,二十五騎組の4組が昼夜交代で警護していました。 各組には,同心百人ずつが配属されていたところから百人番所と呼ばれます。

 江戸城の二ノ丸には、有名な小堀遠州(こぼりえんしゅう、小堀政一)が造った庭園がありました。3代・家光(いえみつ)の時代に、さらに改修されました。(絵画調)

 皇居東御苑は江戸城の本丸・二ノ丸・三の丸だった場所ですから、江戸時代は将軍の居城ですから、広重などの町人は中に入れない場所でした。
 (ただし、山王祭や神田祭を将軍に見せる時だけは、町人でも祭り関係者は江戸城内に入れました。)

 散った桜の花びらが池に趣を添えていました。

 皇居の東御苑の桜の木の本数は、あまり多くはありませんが、庭園内には東京都心では珍しくなった多くの草木が植えられていて、四季折々の風景を楽しむ事ができます。シャクナゲ(石楠花)の花も、その一つです。

 明治時代になると、皇居として宮内庁や皇室関連の施設があり、やはり一般人は中に入れませんでした。
 (明治以降は荒れはてていました)

 昭和35年に閣議決定されて、特別史跡に指定後、昭和43年から一般公開となっています。
 (幸せな時代とも言えます)
 現在の二ノ丸庭園は、9代・家重(いえしげ)の時代の庭園絵図を元に造られました。

 下の写真に池の手前に咲き始めているのはシャクナゲ(石楠花)の花です。他の木々も新緑の緑に覆われつつあります。

 この写真を、広重の名所江戸百景「第45景 八ツ見のはし」に対応する「くまドン板」の景(確定・春景)とさせていただきます。
 (このプログは、名所江戸百景の現代版である「くまドン版」を作ることを第一目標としています。)

 二ノ丸から白鳥濠を横目に坂を登ると、江戸城の本丸です。結構、広い場所ですが、一際目立つのが本丸の天守閣跡の石垣です。その大きさは44m四方、高さ18mの巨大な天守台です。

 2代・秀忠の慶長年間に最初の天守閣が造られました。将軍の権威の象徴として、天守閣は、たびたび建て替えられましたが、4代・家綱(いえつな)の明暦年間に発生した「明暦の大火(振袖火事)」で焼失しました。
 この大火の被害は大きく、「江戸城全体や江戸の町の再建に費用がかかる大変な時期に天守閣の再建は不要」と意見により、以後、江戸城の天守閣は再建されることはありませんでした。すでに徳川幕府は安定期を迎え、権威の象徴である天守閣を建てる必要もなかったわけです。物事の軽重や優先順位を考えた立派な意見だと、「くまドン」は思います。
 下の写真は、天守台の石垣のアップです。石と石の間に隙間がありません。

 下は天守台から眺めた本丸の広場です。ここに江戸時代は本丸御殿(ほんまるごてん)がありました。
 実際の将軍が政務や生活をしたのは、本丸御殿でした。これだけ広々とした場所が都心にあるのは良い事です。
(絵画調)

 右奥(南)側が正面で、南から北に表・中奥・大奥と並んでいました。表は将軍謁見(えっけん)の場や幕府役人の政務の場、中奥は将軍の生活や政務の場。大奥は将軍の夫人や女中が生活する場所でした。
 こちらも2代・秀忠の慶長年間に完成しています。その後、火災による焼失・再建を繰り返しますが、14代・家茂(いえもち)の文久年間の火災による焼失後は再建されず、西の丸御殿に機能が移動しています。

 本丸の南側には、富士見櫓を見れるポイントがあります。どこからみても同じ形に見える三重櫓で天守閣が焼失してからは、天守閣の替わりの役目を果たした櫓です。

 富士見櫓は、上の写真と反対側の濠から見上げた方向が良いのですが、残念ながら、今年の桜の一般公開期間に見に行く暇がありませんでした。
 皇居東御苑内は、色々な花が咲きますので、これからの季節は楽しみです。


 下の絵は、広重の名所江戸百景「第45景 八ツ見のはし」(夏景)です。

 この絵は、日本橋の西側にある一石橋からの眺めです。江戸時代は、この位置から四方に八つの橋を眺められることで有名な場所でした。絵の手前にある一石橋から道三堀(どうさんぼり)に架かる銭瓶橋を望んだ風景です。
 緑濃い柳の木と飛び交うツバメ(燕)が夏の季節を表現しています。
 一応、八橋の名前は一石橋を中心に東は日本橋と江戸橋、北は常盤橋(ときわばし)、南は呉服橋(ごふくばし)、西は、銭瓶橋(ぜにかめばし)、道三橋(どうさんばし)です。

 「八ツ見のはし」にあたる「くまドン版」の景を皇居東御苑に持って行ってしまいましたが、一応、この付近の写真も載せておきます。皇居東御苑の大手門を再び出て真っ直ぐ行き、JRの線路下を通過すると、8橋の一つ呉服橋のあった所に出ます。この付近の堀は埋め立てられています。左に曲がると、日本橋川に架かる橋がありますが、この橋が広重の絵に描かれた一石橋のあった所です。すでに道三掘も埋め立てられいますので、昔の面影はありません。下の写真は、北側にあった常盤橋付近で撮影した写真です。(主に1月に撮影した写真です。)
(絵画調)

 まだ、堀の石垣や、明治以降に造られた石橋が残っています。
 常盤橋の東側には、日本銀行本店の建物があります。
(絵画調)

 そのまま東に進むと、三越日本橋本店のある場所に出ます。有名なライオン像です。
(絵画調)

 三越の降りているシャッターにも広重の絵や日本橋の絵が描かれています。道路を南に向かえば日本橋です。

 道路の対岸にも老舗(しにせ)の店が並んでいます。



以前のブログは、
 「名所江戸百景174 第54景 外桜田弁慶堀糀町 北の丸・千鳥ヶ淵の桜並木」
 「名所江戸百景095 第113景 虎の門外あふひ坂 皇居外苑の二重橋と櫓」
 「名所江戸百景092 第51景 糀町一丁目山王祭ねり込 桜田濠の彼岸花」
 「名所江戸百景093 第54景 外桜田弁慶堀糀町 桜田門の彼岸花」

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 「くまドン旅日記」を見ていただきありがとうございました。
 「くまドン」の桜の景も残り1景となりました。(後で、王子の桜の前に移動させるので、話が合わなくなりますが・・)
 桜の花びらが舞っていますが、まだ桜の木には多く残っていてくれます。はたして、残り1景は桜が散るまでに間に合いますでしょうか?
 今年は桜の撮影に行っている時間がありませんでしたが、家の窓から見える桜と通勤の途中で眺める桜が唯一の花見となっています。

 次回は、名所江戸百景の別の桜景の予定です。

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