こんにちわ、「くまドン」です。
今回は、山王祭の神幸祭(しんこうさい)の風景からです。
写真は、神幸祭の巡行先で、お昼の休憩場所にあたる中央区(ちゅうおうく)茅場町(かやばちょう)にある日枝神社(ひえじんじゃ)の摂社(せっしゃ)です。
本年2013年の山王祭は陰年で神幸祭はありませんが、百景を作る関係で、昨年2012年に行われた神幸祭で撮影した写真を使用させていただきます。
陰年とはいえ、長かった山王祭も終わりに近づいています。
天気が良かった祭りの前半に比べ、あいにくの雨続きとなっていますが、一応、日程をお知らせします。
【山王祭】
日程 :2013年6月7日(金)~6月17日(月)
6/15(土) 11:00~ 例祭奉幣(ほうべい、ほうへい)、山王太鼓(たいこ)、献灯(けんとう)
その他の日にも、儀礼・行事はあります。
上記は、平成25年の山王祭の日程と一部抜粋(ばっすい)です。
詳細は日枝神社のホームページで御参照ください。
【摂社(せっしゃ)・末社(まっしゃ)】
神社の管理下にある神社で、祭神と関係が深い神(系譜的に連なる神、荒魂、地主神)神社を祀った神社や、特別の由諸がある神社を「摂社」と呼び、それ以外の神社を「末社」と言うそうです。
神社の境内に小さな神社が祀られていますが、この神社が「摂社」や「末社」です。
日枝神社の茅場町にある摂社は、3代家光(いえみつ)の寛永年間に、日枝神社の御旅所(神幸祭の際、神輿や鳳輦が巡幸の途中で休息または宿泊する場所)として定められたのが始まりです。
明治以降の「近代社格制度」の法整備により、大正時代に「摂社日枝神社」という名称になりました。「摂社」の中でも日枝神社の境外にあるタイプです。
江戸時代は、天下祭りの休憩所ですから、山車(だし)も人も相当な数です。境内は、1300坪(約4300平方m=約65m×65m)もの大きさがあったそうです。
ついでですから、写真に写っている人の名称も話に入れておきます。
【神社の神職】
上の写真では、日枝神社の神官の方がおりますが、神社には職名が色々あるようです。
なお、神主(かんぬし)は、古い制度では、神社の長(おさ)でしたが、現代では、神職(しんしょく)全てが対象になるそうです。
現代の職名は、おおまかに言いますと、「宮司」-「禰宜」-「権禰宜」という関係になっているそうです。
まず、宮司(ぐうじ、みやづかさ、古制度では神主)は、神社の神職や巫女をまとめる神社の長(おさ)です。神社で一番偉い人です。
上の写真で、先頭の黒い服を着ている方ですが、見えにくいので、別の写真を載せます。
(絵画調:カメラの画像変換フィルタを使用しています。山王祭は「王朝絵巻」のイメージで多用しています。)
神幸祭では、宮司さんは、人力車(じんりきしゃ)に乗っていました。
続いて、宮司の下に補佐職の禰宜(ねぎ)がいます。
禰宜の語源は「和ませる」の意味の古語「ねぐ」だそうですが、「神の心を和ませてその加護を願う」という意味だそうです。
「くまドン」は、この字は読めませんでした。・・・・・食べ物のネギ(葱)しか思いつきませんでした。・・・・
神幸祭では、禰宜さんは、赤い装束で3人いましたが、3人とも馬に乗馬していました。
(一神社に宮司と禰宜は原則一人ずつらしいのですが、祭り用の増員でしょうか・・?)
(絵画調)
神職ではありませんが、馬の口輪を持っている白装束の人が「口取」です。
左側のオレンジ色の装束の人が「副宰領」で、神幸祭の運行の総責任者「宰領(さいりょう)」の補佐です。
後方の山車(だし)は、「花山車」です。
そして、禰宜の下に権禰宜(ごんねぎ)がいます。
神社の一般職ですが、古制度では、祝(ほうり、はふり)などがあったそうです。
行列の先頭にいる白装束の方が、「権禰宜」です。
(絵画調)
後ろの建物は、銀座のシンボルである銀座和光(ぎんざ わこう)の時計塔です。
権禰宜さんの後ろに、巫女さんが続いています。
【巫女(みこ、神子)、舞姫(まいひめ)】
江戸時代と異なり、現代制度では、舞姫や巫女は神職ではなく、神職の補佐だそうです。
神事において神楽・舞を奉仕する女性を指すそうです。
舞いの伝承を役目とする「本職巫女」から、氏子さんのアルバイトまで幅が広いです。
神社では、舞姫も巫女と言うらしいのですが、神幸祭では、「舞姫」と「巫女」が別々にいました。何故・・・・・???
日枝神社の摂社に到着した神幸祭の行列は、境内に神輿が入り、神職の拝礼の次に、巫女さんの奉納舞(ほうのうまい)が行われます。(プログ先頭の写真です。)
奉納舞の雅楽(ががく)を演奏する楽人(がくじん)が、古式豊かな楽器「笙(しょう)」で音楽を奏でます。
(絵画調)
なお、楽人を「らくじん」と読むと、「気楽に暮らす人。苦労のない人」という意味になってしまいます。(笑)
奉納舞の巫女さんがいて、奥に神輿と祭り関係者、手前に神職と雅楽を演奏する楽人がいます。
説明的写真ですが、祭りの雰囲気はあると思います。
江戸時代と違い、現代の摂社は狭く、大きな山車は外で待ち、祭り関係者も全員は入れません。
早めに到着して、たまたま、この位置に居ただけなのですが、この写真が撮影できただけでも、ありがたく思い、
この写真を、広重の名所江戸百景「第73景 市中繁栄七夕祭」に対応する「くまドン版」の景(確定)とさせていただいます。
下の絵は、広重の名所江戸百景「第73景 市中繁栄七夕祭」です。
この絵は山王祭とは、全く関係ありませんが、現在の京橋付近には「七夕祭り」はありませんし、オフィス街のビルの谷間にになっていますので、あまり撮影には向きません。よって、現代版である「くまドン版」では自由に使用させていただきます。
絵の説明は、七夕(たなばた)の時期にさせていただきます。
お昼の休憩時間が終わり、摂社から日枝神社に向かう午後の神幸祭行列が始まります。
(絵画調)
最後に、神幸祭行列の中から、次回との関連性がある役を一つ取り上げます。
下の写真の左のお面は、天狗(てんぐ)に見えますが、「猿田彦」(さるたひこ)と呼ばれる神様です。
日本最古の書物「古事記」(こじき)や「日本書記」(にほんしょき)における天孫降臨(てんそんこうりん)の所に出てくる国津神(くにつかみ)です。
(絵画調)
一応、行列の役目を上げておきますと、「猿田彦」の後ろに「朱傘」(しゅがさ)、「賛者」(さんじゃ)、「大真榊」(おおまさかき)、「錦旗」(きんき)、「大幟」(おおのぼり)と続きます。
江戸時代に「天狗」が流行した結果、両者がごちゃ混ぜになったので、「天狗」に似ていてもおかしくは無いのですが・・・・・・・・・・
今年2013年に本祭となりました、もう一つの天下祭・神田祭(かんだまつり)の行列でも、「猿田彦」がいました。
他の方のプログでも取り上げられていたのですが、山王祭との比較様に「くまドン」のプログでも載せておきます。
トレードマークの「赤い顔」と「高い鼻」、「白い髭(ひげ)」は同じですが、微妙にデザインは異なります。
(絵画調)
猿田彦の容貌は、「鼻長は七咫(あた)、背長は七尺(約2m10cm)、目が八咫鏡(やたのかがみ)のように、またホオズキのように照り輝いている」という姿で記述されています。
咫(あた)は、古代の円周の単位で0.8尺(約24cm)、4咫(4X0.8=3.2尺、円周率を3.2と近似)の円周は、直径1尺(約30cm)の円になります。
従って、鼻長は、直径約40cmのデカ鼻(長さなのか?太さなのか?)、八咫鏡は直径約46cmの鏡となります。(ただし、古書では、目の大きさでは無く、目が「ホオズキ」のように赤く光り輝いていたことを記述しています。)
今回は、これで終わりとさせていただきます。
今週は仕事が忙しくて、休日以外、プログの作成どころか、パソコンすら立ちあげられない日が多かったのですが、意外にも先週からのプログ作成が順調に進み、プログの更新が多い結果となりました。(?)
次回は、愛宕山(あたごやま)の「ほおずき市」です。
来週も忙しいのですが、6月の百景(確定)は、残り1景だけですので、なんとか「ほおずき市」が始まる前には作りたい所です。
日本プログ村に参加してみました。時間があれば、どれか一つ「ポチッ」と押してください。
今回は、山王祭の神幸祭(しんこうさい)の風景からです。
写真は、神幸祭の巡行先で、お昼の休憩場所にあたる中央区(ちゅうおうく)茅場町(かやばちょう)にある日枝神社(ひえじんじゃ)の摂社(せっしゃ)です。
本年2013年の山王祭は陰年で神幸祭はありませんが、百景を作る関係で、昨年2012年に行われた神幸祭で撮影した写真を使用させていただきます。
陰年とはいえ、長かった山王祭も終わりに近づいています。
天気が良かった祭りの前半に比べ、あいにくの雨続きとなっていますが、一応、日程をお知らせします。
【山王祭】
日程 :2013年6月7日(金)~6月17日(月)
6/15(土) 11:00~ 例祭奉幣(ほうべい、ほうへい)、山王太鼓(たいこ)、献灯(けんとう)
その他の日にも、儀礼・行事はあります。
上記は、平成25年の山王祭の日程と一部抜粋(ばっすい)です。
詳細は日枝神社のホームページで御参照ください。
【摂社(せっしゃ)・末社(まっしゃ)】
神社の管理下にある神社で、祭神と関係が深い神(系譜的に連なる神、荒魂、地主神)神社を祀った神社や、特別の由諸がある神社を「摂社」と呼び、それ以外の神社を「末社」と言うそうです。
神社の境内に小さな神社が祀られていますが、この神社が「摂社」や「末社」です。
日枝神社の茅場町にある摂社は、3代家光(いえみつ)の寛永年間に、日枝神社の御旅所(神幸祭の際、神輿や鳳輦が巡幸の途中で休息または宿泊する場所)として定められたのが始まりです。
明治以降の「近代社格制度」の法整備により、大正時代に「摂社日枝神社」という名称になりました。「摂社」の中でも日枝神社の境外にあるタイプです。
江戸時代は、天下祭りの休憩所ですから、山車(だし)も人も相当な数です。境内は、1300坪(約4300平方m=約65m×65m)もの大きさがあったそうです。
ついでですから、写真に写っている人の名称も話に入れておきます。
【神社の神職】
上の写真では、日枝神社の神官の方がおりますが、神社には職名が色々あるようです。
なお、神主(かんぬし)は、古い制度では、神社の長(おさ)でしたが、現代では、神職(しんしょく)全てが対象になるそうです。
現代の職名は、おおまかに言いますと、「宮司」-「禰宜」-「権禰宜」という関係になっているそうです。
まず、宮司(ぐうじ、みやづかさ、古制度では神主)は、神社の神職や巫女をまとめる神社の長(おさ)です。神社で一番偉い人です。
上の写真で、先頭の黒い服を着ている方ですが、見えにくいので、別の写真を載せます。
(絵画調:カメラの画像変換フィルタを使用しています。山王祭は「王朝絵巻」のイメージで多用しています。)
神幸祭では、宮司さんは、人力車(じんりきしゃ)に乗っていました。
続いて、宮司の下に補佐職の禰宜(ねぎ)がいます。
禰宜の語源は「和ませる」の意味の古語「ねぐ」だそうですが、「神の心を和ませてその加護を願う」という意味だそうです。
「くまドン」は、この字は読めませんでした。・・・・・食べ物のネギ(葱)しか思いつきませんでした。・・・・
神幸祭では、禰宜さんは、赤い装束で3人いましたが、3人とも馬に乗馬していました。
(一神社に宮司と禰宜は原則一人ずつらしいのですが、祭り用の増員でしょうか・・?)
(絵画調)
神職ではありませんが、馬の口輪を持っている白装束の人が「口取」です。
左側のオレンジ色の装束の人が「副宰領」で、神幸祭の運行の総責任者「宰領(さいりょう)」の補佐です。
後方の山車(だし)は、「花山車」です。
そして、禰宜の下に権禰宜(ごんねぎ)がいます。
神社の一般職ですが、古制度では、祝(ほうり、はふり)などがあったそうです。
行列の先頭にいる白装束の方が、「権禰宜」です。
(絵画調)
後ろの建物は、銀座のシンボルである銀座和光(ぎんざ わこう)の時計塔です。
権禰宜さんの後ろに、巫女さんが続いています。
【巫女(みこ、神子)、舞姫(まいひめ)】
江戸時代と異なり、現代制度では、舞姫や巫女は神職ではなく、神職の補佐だそうです。
神事において神楽・舞を奉仕する女性を指すそうです。
舞いの伝承を役目とする「本職巫女」から、氏子さんのアルバイトまで幅が広いです。
神社では、舞姫も巫女と言うらしいのですが、神幸祭では、「舞姫」と「巫女」が別々にいました。何故・・・・・???
日枝神社の摂社に到着した神幸祭の行列は、境内に神輿が入り、神職の拝礼の次に、巫女さんの奉納舞(ほうのうまい)が行われます。(プログ先頭の写真です。)
奉納舞の雅楽(ががく)を演奏する楽人(がくじん)が、古式豊かな楽器「笙(しょう)」で音楽を奏でます。
(絵画調)
なお、楽人を「らくじん」と読むと、「気楽に暮らす人。苦労のない人」という意味になってしまいます。(笑)
奉納舞の巫女さんがいて、奥に神輿と祭り関係者、手前に神職と雅楽を演奏する楽人がいます。
説明的写真ですが、祭りの雰囲気はあると思います。
江戸時代と違い、現代の摂社は狭く、大きな山車は外で待ち、祭り関係者も全員は入れません。
早めに到着して、たまたま、この位置に居ただけなのですが、この写真が撮影できただけでも、ありがたく思い、
この写真を、広重の名所江戸百景「第73景 市中繁栄七夕祭」に対応する「くまドン版」の景(確定)とさせていただいます。
下の絵は、広重の名所江戸百景「第73景 市中繁栄七夕祭」です。
この絵は山王祭とは、全く関係ありませんが、現在の京橋付近には「七夕祭り」はありませんし、オフィス街のビルの谷間にになっていますので、あまり撮影には向きません。よって、現代版である「くまドン版」では自由に使用させていただきます。
絵の説明は、七夕(たなばた)の時期にさせていただきます。
お昼の休憩時間が終わり、摂社から日枝神社に向かう午後の神幸祭行列が始まります。
(絵画調)
最後に、神幸祭行列の中から、次回との関連性がある役を一つ取り上げます。
下の写真の左のお面は、天狗(てんぐ)に見えますが、「猿田彦」(さるたひこ)と呼ばれる神様です。
日本最古の書物「古事記」(こじき)や「日本書記」(にほんしょき)における天孫降臨(てんそんこうりん)の所に出てくる国津神(くにつかみ)です。
(絵画調)
一応、行列の役目を上げておきますと、「猿田彦」の後ろに「朱傘」(しゅがさ)、「賛者」(さんじゃ)、「大真榊」(おおまさかき)、「錦旗」(きんき)、「大幟」(おおのぼり)と続きます。
江戸時代に「天狗」が流行した結果、両者がごちゃ混ぜになったので、「天狗」に似ていてもおかしくは無いのですが・・・・・・・・・・
今年2013年に本祭となりました、もう一つの天下祭・神田祭(かんだまつり)の行列でも、「猿田彦」がいました。
他の方のプログでも取り上げられていたのですが、山王祭との比較様に「くまドン」のプログでも載せておきます。
トレードマークの「赤い顔」と「高い鼻」、「白い髭(ひげ)」は同じですが、微妙にデザインは異なります。
(絵画調)
猿田彦の容貌は、「鼻長は七咫(あた)、背長は七尺(約2m10cm)、目が八咫鏡(やたのかがみ)のように、またホオズキのように照り輝いている」という姿で記述されています。
咫(あた)は、古代の円周の単位で0.8尺(約24cm)、4咫(4X0.8=3.2尺、円周率を3.2と近似)の円周は、直径1尺(約30cm)の円になります。
従って、鼻長は、直径約40cmのデカ鼻(長さなのか?太さなのか?)、八咫鏡は直径約46cmの鏡となります。(ただし、古書では、目の大きさでは無く、目が「ホオズキ」のように赤く光り輝いていたことを記述しています。)
今回は、これで終わりとさせていただきます。
今週は仕事が忙しくて、休日以外、プログの作成どころか、パソコンすら立ちあげられない日が多かったのですが、意外にも先週からのプログ作成が順調に進み、プログの更新が多い結果となりました。(?)
次回は、愛宕山(あたごやま)の「ほおずき市」です。
来週も忙しいのですが、6月の百景(確定)は、残り1景だけですので、なんとか「ほおずき市」が始まる前には作りたい所です。
日本プログ村に参加してみました。時間があれば、どれか一つ「ポチッ」と押してください。