こんにちわ、「くまドン」です。
今回は、葛飾区(かつしかく)の四ツ木から始まる曳舟川(ひきふねかわ、葛西用水)の話題です。
移動距離が大きいので、今回の移動手段は自転車(じてんしゃ)です。
下の写真は、荒川放水路(あらかわほうすいろ)と綾瀬川(あやせがわ)の2河川に架かる木根川橋(きねがわばし)です。この橋の葛飾区側から見ると、橋とスカイツリーが並んだ写真が撮ることができます。
驚いたことに、ミュージシャンの「さだまさし」さんの歌に、「木根川橋」という歌があるんですね・・・!!!
(「さだまさし」さんは、長崎県出身ですが、中学校の時に葛飾区にいたことがあるそうです。)
少し、上流側(写真の右側)に「新四ッ木橋」があります。
スカイツリーは、墨田区(すみだく)の押上(おしあげ)にあります。
その隣の東向島(ひがしむこうじま)には、曳舟(ひきふね)と言う地名があり、駅名にもなっています。
江戸時代に曳舟川は、墨田区内の曳舟川通りを流れて、このスカイツリーのすぐ西側で、北十間川(きたじゅっけんがわ)と合流していました。
下の絵は、広重の名所江戸百景「第104景 小梅堤」(冬景)です。
この絵は、ブログの初回「名所江戸百景001」で話しましたように、広重の生きていた江戸時代のスカイツリー周辺の場所で、曳舟川を描いた絵です。
江戸時代前半の曳舟川は、本所(ほんじょ)や深川(ふかがわ)に住む人への上水道(飲み水の供給)が目的でした。この水は、本所上水(ほんじょじょうすい、亀有上水)と呼ばれ、江戸の六上水の一つです。
8代・吉宗(よしむね)の享保年間に、本所上水としての使用は廃止となりました。
現在では、墨田区内の曳舟川は埋め立てられてしまい、「曳舟川道り」になっています。
とはいえ、自動車が沢山通行している道路を撮影しても、風景を作り難く、家からは、遠周りになるので、
(物の見方によっては、撮影対象は沢山あるのでしょうが・・・・)
「くまドン」は、木根川橋で荒川放水路を渡り、葛飾区側の四ツ木(よつぎ)から始めます。
下の絵は、広重の名所江戸百景「第33景 四ツ木通用水引ふね」(春景)です。
「曳舟(ひきふね)」という言葉は、絵にある様に綱(つな)をかけた小舟(こぶね)を、人が川岸から引くことです。
曳舟川は、この「サッパコ」と呼ばれる小舟(こぶね)に旅人を乗せて、曳舟が行われていたことから付いた名前でした。江戸時代は、現在の四ッ木から亀有までの間で乗り合いの曳舟が行われていたそうです。
絵の曳舟川は「S字」型に蛇行して、遠くに筑波山(つくばさん)が見える、のんびりした風景となっています。
葛飾区側も、曳舟側は埋め立てられ、その上に道路と親水公園が造られています。
荒川放水路の新四ツ木橋から、水戸街道(みとかいどう)を500m程行くと、左手斜め前に道路が分岐します。
この先が、曳舟側親水公園です。
撮影した日は、8月初めでしたので、子供が一杯いるかなと思いましたが、この付近は、誰もいませんでした。
実際には、写真で見ての通り、四ツ木付近の曳舟川はゆるやかに左カーブしているとはいえ、ほとんど直線でしたので、広重が写実よりも絵の構図を優先させたことになります。
川沿いの木が生い茂り、涼しげな水の上に、木の陰を落としましていますが、
親水公園を先に進んでいきますと、休憩(きゅうけい)用の小屋の上から水を出している所があります。
ここは夏休み子供で一杯です。上から浴びる水が大人気のようです。
(絵画調)
親水公園には、様様な住民のニーズに答える為に、水遊び場以外の場所もあります。
ここでは、釣りをしている親子がいました。ザリガニ釣りかな?
曳舟川は、親水公園と道路になりましたので、公園の両側は道路が並行して走っています。
曳舟川親水公園は、四ッ木~亀有(かめあり)まで、約3.0kmの長さがある親水公園ですが、
水遊びのエリアは「四ッ木」、「お花茶屋」、「亀有」の3つのゾーンに分かれます。
下の写真は、その中間にある京成本線(けいせいほんせん)のお花茶屋駅です。
この付近では、親水公園は一旦途切れ、道路を行くことになります。
線路を超え、先に行くと、再び、水遊びのエリアが現れます。
江戸時代は、現在の葛飾区を含め、江戸川区(えどがわく)・江東区(こうとうく)・墨田区の東京下町の一帯は、葛西筋(かさいすじ)と呼ばれ、河川や沼・湿地が多く、渡り鳥が多く飛来していた為、将軍の鷹狩り(たかがり)場の一つでした。
しかし、鷹狩りが行われると、地元の住民には、田畑が踏み荒らされたり、人出に駆り出されたりと、色々な負担が負わされるので大変だったようです。
「お花茶屋」という地名については、8代将軍・吉宗(よしむね)が鷹狩りの際に、腹痛を起こし、
その時、「お花」という名の茶屋の娘の看病により、快気したとの言い伝えが残っています。
JR常磐線(じょうばんせん)の亀有駅に近づくと、親水公園は終わり、緑道に変わります。
【亀有溜井(かめありためい)】
曳舟川の当初の水源は、亀有にあった亀有溜井(ためい)でした。
安土桃山時代の文禄(ぶんろく)年間に、荒川の分流である綾瀬川を、現在の葛飾区の新宿(にいじゅく)で堰止めて、周辺の水源にしたことが始まりです。
その後、埼玉県の北部の利根川から取水した葛西用水が亀有まで伸びて、接続されるようになると、亀有溜井の水源の減少もあり、やがて、その役割を終えました。(現在の葛西用水の取水元は埼玉用水路に変更になっています。)
亀有といえば、マンガの「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の警察官・両津勘吉(りょうつ かんきち)でしょう。
亀有駅周辺には、このマンガの銅像が沢山あるそうですが、目的外でしたので、これ北口にあった1体だけです。
昭和51年(1976年)に「週刊少年ジャンプ」で連載が始まっていますので、2013年で約37年連載(れんさい)を続けたことになります。結果的には、半分近い世代の人が子供の時に見ていたことになりますね・・・・・・
「くまドン版」の景をどれにするか考えましたが、夏らしい風景として、
この写真を、広重の名所江戸百景「第33景 四ツ木通用水引ふね」に対応する「くまドン板」の景(確定・夏景)とさせていただきます。
(このプログは、名所江戸百景の現代版である「くまドン版」を作ることを第一目標としています。)
今回は、これで終わりとさせていただきます。
この日は、亀有から先の葛西用水へと進み、東京都と埼玉県(さいたまけん)の境まで行きましたので、
次回は、曳舟川(葛西用水)の続きの予定です。
今回は、葛飾区(かつしかく)の四ツ木から始まる曳舟川(ひきふねかわ、葛西用水)の話題です。
移動距離が大きいので、今回の移動手段は自転車(じてんしゃ)です。
下の写真は、荒川放水路(あらかわほうすいろ)と綾瀬川(あやせがわ)の2河川に架かる木根川橋(きねがわばし)です。この橋の葛飾区側から見ると、橋とスカイツリーが並んだ写真が撮ることができます。
驚いたことに、ミュージシャンの「さだまさし」さんの歌に、「木根川橋」という歌があるんですね・・・!!!
(「さだまさし」さんは、長崎県出身ですが、中学校の時に葛飾区にいたことがあるそうです。)
少し、上流側(写真の右側)に「新四ッ木橋」があります。
スカイツリーは、墨田区(すみだく)の押上(おしあげ)にあります。
その隣の東向島(ひがしむこうじま)には、曳舟(ひきふね)と言う地名があり、駅名にもなっています。
江戸時代に曳舟川は、墨田区内の曳舟川通りを流れて、このスカイツリーのすぐ西側で、北十間川(きたじゅっけんがわ)と合流していました。
下の絵は、広重の名所江戸百景「第104景 小梅堤」(冬景)です。
この絵は、ブログの初回「名所江戸百景001」で話しましたように、広重の生きていた江戸時代のスカイツリー周辺の場所で、曳舟川を描いた絵です。
江戸時代前半の曳舟川は、本所(ほんじょ)や深川(ふかがわ)に住む人への上水道(飲み水の供給)が目的でした。この水は、本所上水(ほんじょじょうすい、亀有上水)と呼ばれ、江戸の六上水の一つです。
8代・吉宗(よしむね)の享保年間に、本所上水としての使用は廃止となりました。
現在では、墨田区内の曳舟川は埋め立てられてしまい、「曳舟川道り」になっています。
とはいえ、自動車が沢山通行している道路を撮影しても、風景を作り難く、家からは、遠周りになるので、
(物の見方によっては、撮影対象は沢山あるのでしょうが・・・・)
「くまドン」は、木根川橋で荒川放水路を渡り、葛飾区側の四ツ木(よつぎ)から始めます。
下の絵は、広重の名所江戸百景「第33景 四ツ木通用水引ふね」(春景)です。
「曳舟(ひきふね)」という言葉は、絵にある様に綱(つな)をかけた小舟(こぶね)を、人が川岸から引くことです。
曳舟川は、この「サッパコ」と呼ばれる小舟(こぶね)に旅人を乗せて、曳舟が行われていたことから付いた名前でした。江戸時代は、現在の四ッ木から亀有までの間で乗り合いの曳舟が行われていたそうです。
絵の曳舟川は「S字」型に蛇行して、遠くに筑波山(つくばさん)が見える、のんびりした風景となっています。
葛飾区側も、曳舟側は埋め立てられ、その上に道路と親水公園が造られています。
荒川放水路の新四ツ木橋から、水戸街道(みとかいどう)を500m程行くと、左手斜め前に道路が分岐します。
この先が、曳舟側親水公園です。
撮影した日は、8月初めでしたので、子供が一杯いるかなと思いましたが、この付近は、誰もいませんでした。
実際には、写真で見ての通り、四ツ木付近の曳舟川はゆるやかに左カーブしているとはいえ、ほとんど直線でしたので、広重が写実よりも絵の構図を優先させたことになります。
川沿いの木が生い茂り、涼しげな水の上に、木の陰を落としましていますが、
親水公園を先に進んでいきますと、休憩(きゅうけい)用の小屋の上から水を出している所があります。
ここは夏休み子供で一杯です。上から浴びる水が大人気のようです。
(絵画調)
親水公園には、様様な住民のニーズに答える為に、水遊び場以外の場所もあります。
ここでは、釣りをしている親子がいました。ザリガニ釣りかな?
曳舟川は、親水公園と道路になりましたので、公園の両側は道路が並行して走っています。
曳舟川親水公園は、四ッ木~亀有(かめあり)まで、約3.0kmの長さがある親水公園ですが、
水遊びのエリアは「四ッ木」、「お花茶屋」、「亀有」の3つのゾーンに分かれます。
下の写真は、その中間にある京成本線(けいせいほんせん)のお花茶屋駅です。
この付近では、親水公園は一旦途切れ、道路を行くことになります。
線路を超え、先に行くと、再び、水遊びのエリアが現れます。
江戸時代は、現在の葛飾区を含め、江戸川区(えどがわく)・江東区(こうとうく)・墨田区の東京下町の一帯は、葛西筋(かさいすじ)と呼ばれ、河川や沼・湿地が多く、渡り鳥が多く飛来していた為、将軍の鷹狩り(たかがり)場の一つでした。
しかし、鷹狩りが行われると、地元の住民には、田畑が踏み荒らされたり、人出に駆り出されたりと、色々な負担が負わされるので大変だったようです。
「お花茶屋」という地名については、8代将軍・吉宗(よしむね)が鷹狩りの際に、腹痛を起こし、
その時、「お花」という名の茶屋の娘の看病により、快気したとの言い伝えが残っています。
JR常磐線(じょうばんせん)の亀有駅に近づくと、親水公園は終わり、緑道に変わります。
【亀有溜井(かめありためい)】
曳舟川の当初の水源は、亀有にあった亀有溜井(ためい)でした。
安土桃山時代の文禄(ぶんろく)年間に、荒川の分流である綾瀬川を、現在の葛飾区の新宿(にいじゅく)で堰止めて、周辺の水源にしたことが始まりです。
その後、埼玉県の北部の利根川から取水した葛西用水が亀有まで伸びて、接続されるようになると、亀有溜井の水源の減少もあり、やがて、その役割を終えました。(現在の葛西用水の取水元は埼玉用水路に変更になっています。)
亀有といえば、マンガの「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の警察官・両津勘吉(りょうつ かんきち)でしょう。
亀有駅周辺には、このマンガの銅像が沢山あるそうですが、目的外でしたので、これ北口にあった1体だけです。
昭和51年(1976年)に「週刊少年ジャンプ」で連載が始まっていますので、2013年で約37年連載(れんさい)を続けたことになります。結果的には、半分近い世代の人が子供の時に見ていたことになりますね・・・・・・
「くまドン版」の景をどれにするか考えましたが、夏らしい風景として、
この写真を、広重の名所江戸百景「第33景 四ツ木通用水引ふね」に対応する「くまドン板」の景(確定・夏景)とさせていただきます。
(このプログは、名所江戸百景の現代版である「くまドン版」を作ることを第一目標としています。)
今回は、これで終わりとさせていただきます。
この日は、亀有から先の葛西用水へと進み、東京都と埼玉県(さいたまけん)の境まで行きましたので、
次回は、曳舟川(葛西用水)の続きの予定です。