こんにちわ、「くまドン」です。
前回の北砂(きたすな)に続いて、今回は、江東区・東砂(ひがしすな)の祭りの風景です。
前回、「深川神明宮」の例大祭の撮影に行く途中で、北砂の祭りに出会った話をしましたが、
「深川神明宮」の例大祭の撮影したので、、まだ、「北砂」の神輿の行列がいるかどうか向かってみました。
それで見つけて見たら、「東砂」の文字のついた神輿でした・・・という話です!
東砂4丁目の神輿
(絵画調)
この日は自転車での移動です。横十間川(よこじゅっけんがわ)を渡り、砂町エリアに入り、そのまま東へと進んでいくと、なんとなく、祭りの太鼓(たいこ)や囃子(はやし)の音が聞こえてきます。
いまいち方向感がつかめないまま、さらに東にすすでいくと、前方の大通りを前に向かって進む、神輿(みこし)の最後尾が見えてきました・・・・・!
東砂5丁目の神輿
(絵画調)
大通りで、神輿の行列を追い抜く事は不可能です。適当に裏通りを利用して、祭りを音を頼りに、行列の位置をつかみながら、行列を追い抜いていくという、思いつきの手段でしたが、運良く、神輿の最前列に回り込みに成功しました!
東砂4丁目の神輿
(絵画調)
ただし、追いついた地点が、たまたま、神輿巡幸の終着点だったので、撮影開始して、しばらくすると、最後の拍子木(ひょうしぎ)を打つ準備が始まるので、撮影しながら、慌てて、前方に向かうことになりました。
東砂3丁目の神輿
(絵画調)
最後に来たのが東砂1・2丁目の神輿ですが、神輿の回しなど、結構見せていただきまいた。
結局、この時は、運良く、東砂の神輿は1丁目から5丁目まで全基撮影できました。
しかし、後から調べたら、東砂6・7丁目(東砂天祖神社の氏子さん、例祭は9月)もあって、途中で神輿の行列が分かれたのか?別開催なのか不明のままとなりました。
思い出してみると、1町目~5丁目の神社の幟(のぼり)も何か別々の神社名であったような・・・・・?
調べてみると、東砂には、妙法陶首稲荷神社、生田神社、大塚天祖神社、中田稲荷神社といった神社に、それぞれの神輿があるのです。江戸時代に各地区の新田開発が別々に行われ、その村の鎮守(ちんじゅ、守り神)として、神社を祀った歴史から来ているようです。
(1)妙法稲荷神社(東砂2-3-2) :萩新田の稲荷 :慶長年間に荻勘七郎が当地を開拓した新田
(2)生田稲荷神社(東砂3-17-17) :太郎兵衛新田の鎮守 :新田が開拓された慶安年間の創建
(3)大塚天祖神社(東砂4-2-18) :大塚新田の鎮守 :新田が開拓された寛永年間に勧請(かんじょう、分霊)
(4)中田稲荷神社(東砂5-4-10) :中田新田村の鎮守 :新田が開拓された寛永年間に創建
(5)東砂天祖神社(東砂6-13-4) :八郎右衛門新田の鎮守 :深川村の名主深川八郎右衛門が開発した新田であり、元禄10年に深川神明宮を分霊して創建。
これとは、別に陶首稲荷神社(東砂2-14-5) :又兵衛新田・中田新田・大塚新田の鎮守
:小名木村の又兵衛が開拓した寛永年間に創建
があります。砂町地区(北砂・東砂・南砂)は、神社と江戸時代の新田開発が結び付いています。
「くまドン」には、今回の「東砂」の例大祭は、いつやっているのか?も、神社の祭りが一つなのか?も不明です。
この時撮影した神輿の行列が、何年かに一度の本祭りの神輿行列なのか、東日本大震災の復興祈願で行われた連合神輿行列なのかすら不明なのです・・・・・・・・・・・・
(ある意味、滅多に撮影できない神輿行列を撮影していたかもしれない事になるのですが?・・・・・・・)
平成24年は名所江戸百景「くまドン版」を作る為に休暇日は、ほとんど撮影に追い回されていましたので、
この後、一度、家に帰宅してから、再度、車で名所江戸百景撮影の一部として、羽田空港の飛行機を撮影に向かいました。
東京港のゲートブリッジ経由でしたので、途中、南砂町も通りましたが、神輿などとは出会いませんでした。道路わきに神社の小さな幟旗は一杯ありましたので、南砂でも祭りはあったようです。
南砂地区の神社は、万治2年の開拓地の鎮守として、「仙気稲荷神社」もありますが、南砂付近は、以前このブログでも話した砂町の元の名前となった「砂村新四郎」が開拓した「砂村新田」が広がっていました。広重の「名所江戸百景で有名な元八幡(富賀岡八幡宮)があります。
砂町地区は「北砂」、「東砂」、「南砂」、「新砂」の4つのエリアに分かれますが、今一つ氏子エリアが見えてこない場所の一つです。
以前に作成したブログは以下の通りです。
(1)北砂の話は、
「名所江戸百景251 第29景 砂むら元八まん 北砂の祭り」
「名所江戸百景245 第29景 砂むら元八まん 砂町銀座の七夕まつり」
(2)南砂の話は、
「名所江戸百景232 第29景 砂むら元八まん 砂町の富士塚」
今回は、これで終わりとさせていただきます。
8月も終わりですので、夏祭りの写真は、今年はこれで最後になります。今年撮影して載せられなかった分は、また、来年とさせて抱きます。
オリンピック会場の話をするといったにも関わらず、体調悪化で1週間以上放置しました。体調が回復してきたので、遅ればせながら、オリンピック関連の話を再開します。
日本プログ村に参加しています。良ければ、「江戸時代」と「風景写真」のどちらかを「ポチッ」応援お願いします。
(両方押しても、1日1回分ですから不要です。携帯からは無効ですので、不要です。)
にほんブログ村 (設定はINポイント順です)
前回の北砂(きたすな)に続いて、今回は、江東区・東砂(ひがしすな)の祭りの風景です。
前回、「深川神明宮」の例大祭の撮影に行く途中で、北砂の祭りに出会った話をしましたが、
「深川神明宮」の例大祭の撮影したので、、まだ、「北砂」の神輿の行列がいるかどうか向かってみました。
それで見つけて見たら、「東砂」の文字のついた神輿でした・・・という話です!
東砂4丁目の神輿
(絵画調)
この日は自転車での移動です。横十間川(よこじゅっけんがわ)を渡り、砂町エリアに入り、そのまま東へと進んでいくと、なんとなく、祭りの太鼓(たいこ)や囃子(はやし)の音が聞こえてきます。
いまいち方向感がつかめないまま、さらに東にすすでいくと、前方の大通りを前に向かって進む、神輿(みこし)の最後尾が見えてきました・・・・・!
東砂5丁目の神輿
(絵画調)
大通りで、神輿の行列を追い抜く事は不可能です。適当に裏通りを利用して、祭りを音を頼りに、行列の位置をつかみながら、行列を追い抜いていくという、思いつきの手段でしたが、運良く、神輿の最前列に回り込みに成功しました!
東砂4丁目の神輿
(絵画調)
ただし、追いついた地点が、たまたま、神輿巡幸の終着点だったので、撮影開始して、しばらくすると、最後の拍子木(ひょうしぎ)を打つ準備が始まるので、撮影しながら、慌てて、前方に向かうことになりました。
東砂3丁目の神輿
(絵画調)
最後に来たのが東砂1・2丁目の神輿ですが、神輿の回しなど、結構見せていただきまいた。
結局、この時は、運良く、東砂の神輿は1丁目から5丁目まで全基撮影できました。
しかし、後から調べたら、東砂6・7丁目(東砂天祖神社の氏子さん、例祭は9月)もあって、途中で神輿の行列が分かれたのか?別開催なのか不明のままとなりました。
思い出してみると、1町目~5丁目の神社の幟(のぼり)も何か別々の神社名であったような・・・・・?
調べてみると、東砂には、妙法陶首稲荷神社、生田神社、大塚天祖神社、中田稲荷神社といった神社に、それぞれの神輿があるのです。江戸時代に各地区の新田開発が別々に行われ、その村の鎮守(ちんじゅ、守り神)として、神社を祀った歴史から来ているようです。
(1)妙法稲荷神社(東砂2-3-2) :萩新田の稲荷 :慶長年間に荻勘七郎が当地を開拓した新田
(2)生田稲荷神社(東砂3-17-17) :太郎兵衛新田の鎮守 :新田が開拓された慶安年間の創建
(3)大塚天祖神社(東砂4-2-18) :大塚新田の鎮守 :新田が開拓された寛永年間に勧請(かんじょう、分霊)
(4)中田稲荷神社(東砂5-4-10) :中田新田村の鎮守 :新田が開拓された寛永年間に創建
(5)東砂天祖神社(東砂6-13-4) :八郎右衛門新田の鎮守 :深川村の名主深川八郎右衛門が開発した新田であり、元禄10年に深川神明宮を分霊して創建。
これとは、別に陶首稲荷神社(東砂2-14-5) :又兵衛新田・中田新田・大塚新田の鎮守
:小名木村の又兵衛が開拓した寛永年間に創建
があります。砂町地区(北砂・東砂・南砂)は、神社と江戸時代の新田開発が結び付いています。
「くまドン」には、今回の「東砂」の例大祭は、いつやっているのか?も、神社の祭りが一つなのか?も不明です。
この時撮影した神輿の行列が、何年かに一度の本祭りの神輿行列なのか、東日本大震災の復興祈願で行われた連合神輿行列なのかすら不明なのです・・・・・・・・・・・・
(ある意味、滅多に撮影できない神輿行列を撮影していたかもしれない事になるのですが?・・・・・・・)
平成24年は名所江戸百景「くまドン版」を作る為に休暇日は、ほとんど撮影に追い回されていましたので、
この後、一度、家に帰宅してから、再度、車で名所江戸百景撮影の一部として、羽田空港の飛行機を撮影に向かいました。
東京港のゲートブリッジ経由でしたので、途中、南砂町も通りましたが、神輿などとは出会いませんでした。道路わきに神社の小さな幟旗は一杯ありましたので、南砂でも祭りはあったようです。
南砂地区の神社は、万治2年の開拓地の鎮守として、「仙気稲荷神社」もありますが、南砂付近は、以前このブログでも話した砂町の元の名前となった「砂村新四郎」が開拓した「砂村新田」が広がっていました。広重の「名所江戸百景で有名な元八幡(富賀岡八幡宮)があります。
砂町地区は「北砂」、「東砂」、「南砂」、「新砂」の4つのエリアに分かれますが、今一つ氏子エリアが見えてこない場所の一つです。
以前に作成したブログは以下の通りです。
(1)北砂の話は、
「名所江戸百景251 第29景 砂むら元八まん 北砂の祭り」
「名所江戸百景245 第29景 砂むら元八まん 砂町銀座の七夕まつり」
(2)南砂の話は、
「名所江戸百景232 第29景 砂むら元八まん 砂町の富士塚」
今回は、これで終わりとさせていただきます。
8月も終わりですので、夏祭りの写真は、今年はこれで最後になります。今年撮影して載せられなかった分は、また、来年とさせて抱きます。
オリンピック会場の話をするといったにも関わらず、体調悪化で1週間以上放置しました。体調が回復してきたので、遅ればせながら、オリンピック関連の話を再開します。
日本プログ村に参加しています。良ければ、「江戸時代」と「風景写真」のどちらかを「ポチッ」応援お願いします。
(両方押しても、1日1回分ですから不要です。携帯からは無効ですので、不要です。)
にほんブログ村 (設定はINポイント順です)