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くまドン旅日記

写真が趣味です。自然の風景、旅行、歴史に興味を持って撮影を続けています。

城007 秀吉の但馬攻め(4) 秀長の但馬平定、そして鳥取へ

2014年09月04日 00時10分22秒 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、織田信長(おだのぶなが)配下の羽柴秀吉(はしばひでよし)の但馬攻めの話です。但馬(たじま)の現在の兵庫県・北部にあたります。

 「城007 秀吉の但馬攻め(1) 竹田城・羽柴秀長」の続きになります。
(1)但馬方面は、織田方と毛利(もうり)方の勢力のぶつかりあう地域でした。
 天正7年に毛利一族の吉川元春(きっかわ もとはる)が但馬方面の毛利勢を救援しようとしましたが、
 伯耆(ほうき、現在の鳥取県西部)・羽衣石城(うえしじょう)の南条元続(なんじょうもとつぐ)が織田方に寝返ります。
 下の写真(絵画調)は、羽衣石城の駐車場から山頂を撮影したものです。真ん中やや右の山上に模擬天守が見えています。

 後方を遮断された状態になり、但馬にまで進出した吉川元春は軍勢を引き返すことになりました。
 結果として、毛利方の但馬国人は孤立することになります。

(2)天正8年(西暦1580年)になると、播磨(はりま、現在の兵庫県南部)方面が、羽柴秀吉によって再度平定される事になります。毛利勢と戦うに当たって、山陽方面は秀吉が、但馬方面は、竹田城城主である弟の秀長が担当することになります。
 下の写真は、有名な竹田城の雲海です。

 4月に始まった但馬攻め、5月には平定完了となります。
 但馬の毛利方は前述のように孤立していましたから戦意がありません。次々に降伏していきます。

(3)豊岡城(とよおかじょう)の山名四天皇の最後一人・垣屋豊続(かきやとよつぐ)も奮戦むなしく降伏。
 下の写真は、豊岡の観光地図です。現在の豊岡城は、神武山公園(じんむさんこうえん)となっています。


(4)山名 堯熙(やまな あきひろ)の有子山城(ありこやまじょう、山城)も激戦の末に落城。
 下の写真は、江戸時代初期に造られた出石城(いずしじょう)ですが、後方に見える山が有子山城です。


(5)「旅日記 山陰海岸」で紹介した場所にも秀長の但馬攻めに関係した城がありました。
 下の写真は、「旅日記018 山陰海岸(8) かすみ丸遊覧船」でも話をしました「塔の尾城」の直下の岸壁です。この上に海城がありました。兵庫県・香美町(かみちょう)の海岸にあります。

 塔の尾城は、室町(南北朝)時代に築かれた城で、長氏という一族の城でしたが、天正8年の秀長による但馬攻めで落城となりました。
 静かで、美しい海岸ですが、このような場所にも戦国時代の嵐は吹き荒れていたのです。

(6)戦国時代の有名な大名で城造りの名人と呼ばれた藤堂高虎(とうどうたかとら)がいます。22万石の大名にまでなりましたが、この当時は、羽柴秀長に300石で仕えていました。
 下は、愛媛県の今治城(いまばりじょう)にあった藤堂高虎の銅像です。

 この藤堂高虎も、香美町南部の小代谷の地侍(国人)のゲリラ戦には大分苦戦したようで、何度も痛い目にあったようです。天正9年に但馬平定に貢献した事により、3000石の鉄砲大将になりました。

(7)下の写真は、「旅日記012 山陰海岸(2) 居組・諸寄の漁港」で話をしました浜坂の城山公園にある「芦屋城跡」です。塩冶高清(えんやたかきよ)が居城する海上交通を確保する為の海城でした。

 芦屋城、天正8年の秀長の但馬攻めで落城しましたが、この塩冶高清は城を退却後、鳥取城の北にある雁金山城(かりがねやまじょう)を築き、翌・天正9年に鳥取城を攻める秀吉軍に対抗する毛利方として戦いを続ける事になります。
 この塩冶高清、秀吉からは「山賊衆」と呼ばれる程、山陰の地の利を生かして、山の中を神出鬼没に兵を動かすことが得意でした。

(8)下の写真は、「旅日記020 山陰海岸(10) 城崎の竜宮城・来日岳」の城崎(きのさき)の円山川(まるやまがわ)河口にある気比の浜(けいのはま)です。奥に見える岬の左手にある家のある付近が現在の津居山です。

 城崎(きのさき)の津居山を根拠地としていた奈佐日本之介(なさやまとのすけ)も、同様に鳥取城の北にある丸山城(まるやまじょう)を築き、鳥取城を攻める秀吉軍に対抗する毛利方として、塩冶高清と共に戦う事になります。奈佐日本之介の方は、秀吉から「海賊衆」と呼ばれています。

(9)下の写真は「城002 鳥取城と鳥取砂丘(2) (鳥取県・百名城63番)」に見せた鳥取城の写真です。
 天正9年、鳥取城は秀吉に包囲されます。鳥取城の守将は毛利一族の吉川経家(きっかわつねいえ)です。
 
 秀吉の鳥取城攻めは「兵糧攻め」で、兵量を買い占めた話は有名です。
 陸の補給路の途中になる伯耆の南条氏(羽衣石城)が織田方に寝返り、鳥取城の周辺が秀吉軍に包囲された為、海上輸送に頼る事になります。
 鳥取城(吉川経家)~雁金山城(塩冶高清)~丸山城(奈佐日本之介)が、唯一の海上補給ルートなっていて、兵糧攻めの最中でも物資補給を行っていたが、中間点の雁金山城を、秀吉軍の宮部 継潤(みやべ けいじゅん)に落とされ、港も海上封鎖された為、補給が不可能となりました。塩冶高清は丸山城で奈佐日本之介と共に戦い続ける事になります。

 秀吉の兵糧攻めの結果、城内の兵士らの飢えと疲労を考えた吉川経家の鳥取開城が、秀吉に受け入れられ、鳥取の戦いは終わる事になります。
 戦後の処置において、秀吉は、吉川経家の器量を認め、生きて毛利家に返し、鳥取城の元・山名家の家臣や塩冶高清・奈佐日本之介を切腹させようとします。
 これに対して、吉川経家は、経家自身の生還を固辞し、塩冶高清・奈佐日本之介の助命しようとしたため、経家を含めて全員切腹となってしまいました。
 こうして、山陰方面の織田家の秀吉と毛利家の戦いは終わり、天正10年の山陽方面の備中高松城攻め、本能寺の変、そして、秀吉の中国大返しへと続いて行くのです。

 今年は、NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」の年ですが、但馬方面の攻略では秀吉の弟・秀長が中心でしたので、出番がありませんでした。
 但馬地方の出石そばは有名で、出石城の近くには、皿そばの店が数多くあります。その中に「官兵衛」という店がありましたので、食べてみる事にしました。見ての通り、つゆに玉子やトロロなどを入れて、好みに合わせて食べられるので、楽しかったです。

 食べ終わった皿も見て楽しめます。町中の店の皿そばを1皿ずつ食べ歩くことも可能で、面白いかも。


 鳥取の羽衣石城や、但馬の出石城については、いつか時間がある時にとさせていただきます。

 前回までのブログは、ブログ右欄の「カテゴリーアーカイブ」にある「訪城記」をクリックすると、過去のお城周りのブログ一覧が表示されます。
(1)竹田城とその周辺の過去のブログは、
 「城001 天空の城 竹田城(1) (兵庫県・百名城56番)」
 「城001 天空の城 竹田城(2) (兵庫県・百名城56番)」
 「城001 天空の城 竹田城(3) (兵庫県・百名城56番)」
 「城003 天空の城 竹田城・再訪(1) (兵庫県・百名城56番)」
 「城003 天空の城 竹田城・再訪(2) (兵庫県・百名城56番)」
 「城003 天空の城 竹田城・再訪(3) (兵庫県・百名城56番)」

 「城007 秀吉の但馬攻め(1) 竹田城・羽柴秀長」
 「城007 秀吉の但馬攻め(2) 朝来市の陣屋」
 「城007 秀吉の但馬攻め(3) 古墳の宝庫」
 「城007 秀吉の但馬攻め(4) 秀長の但馬平定、そして鳥取へ」 (今回分)

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。

 次回は、大和郡山城の話の続きです。
 テスト的に、「城007 秀吉の但馬攻め」と「城008 大和郡山城」を並行して進めてみます。
 後で見ると分かりにくくなると思いますので、話しが一段落した所で、番号整列の為、順番を入れ替えます。
 次々回の「訪城記」は、「秀吉の但馬攻め」の続きです。

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城007 秀吉の但馬攻め(3) 古墳の宝庫

2014年09月02日 00時10分01秒 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、織田信長(おだのぶなが)配下の羽柴秀吉(はしばひでよし)の但馬攻めから、少し脱線して、朝来市の古墳についての話となります。但馬(たじま)の現在の兵庫県・北部にあたります。今回は、少し脱線して、古墳の話です。
 さて、前回、話をしました糸井京極陣屋(いといきょうごくじんや)のあった和田山町立郷土資料館には、
 下の写真のように小さな前方後円墳の復元があります。

 説明板も載せておきます。

 「くまドン」も知りませんでしたが、実は兵庫県は、日本の都道府県の中でも古墳の数が日本第1位!と古代遺跡の宝庫でした。(第2位が千葉県!!!は予想外でしたが、第3位・鳥取県、第4位・福岡県、第5位・京都府と続きます。)
 遺跡の数も日本第2位と歴史の古さを感じます。

 今回は、竹田城(たけだじょう)の後に、丹波柏原陣屋(たんばかいばらじんや)を見て、篠山城(さきやまじょう)に行く予定でした。途中に「道の駅 但馬のまほろば」があり、「城001 竹田城」の初回に登場した近畿最大の円墳「茶すり山古墳」に関する資料館も併設されています。入口には、銅鏡の巨大レプリカがありました。

 下の地図の真中左の青丸が「道の駅 但馬のまほろば」の所です。見ての通り周辺に古墳・遺跡が沢山あります。

 大和政権(やまとせいけん)の勢力傘下の王の墓について説明がありました。

 銅鏡も展示されていました。左が飛禽鏡(ひきんきょう)、右が内行花文鏡(ないこうかもんきょう)です。

 特に飛禽鏡というのは、数が少なく珍しいらしく、全国でも12例ほどだそうです。(数自体は、今後の遺跡調査で変わっていくでしょうが、珍しいこと自体は変わらないでしょう)
 その他に、馬具や装飾品などの展示もありました。

 古代においては、日本でもガラスが製造されていたようですが、中世には衰退して、江戸時代の西洋ガラスの隆盛を待つ事になります。

 古墳の埋葬品である朝顔形埴輪(はにわ)の展示もありました。


 最後は、道の駅にいたハクセキレイの写真です。

【ハクセキレイ】
 主に水辺に棲むが、都市化に順応した鳥で、水辺が近くにある場所ならば畑や市街地などでも生息しています。
 雑食で、水辺や土中など棲む昆虫やミミズなどがエサですが、近年は人間のこぼした食べ物を食べるようになり、尾を振りながら都市の路上や草地を歩きまわる姿が当り前のような時代となっています。
 以前は北日本が生息域でしたが、都市化に順応した為、昭和40年代ごろから関東など南に生息域を急速に広め、現在では九州まで生息域を広げています。
 一応、日本固有種のセグロセキレイは都市部に順応しておらず、河川域に分布しているので、ハクセキレイとセグロセキレイの生活圏は、棲み分け(すみわけ)になっているようです。もっとも、セグロセキレイも台湾方面に生息域を広げているようですが。

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 「城007 秀吉の但馬攻め(1) 竹田城・羽柴秀長」
 「城007 秀吉の但馬攻め(2) 朝来市の陣屋」
 「城007 秀吉の但馬攻め(3) 古墳の宝庫」 (今回分)
 「城007 秀吉の但馬攻め(4) 秀長の但馬平定、そして鳥取へ」


 今回は、これで終了とさせていただきます。
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 次回は、大和郡山城の話の続きです。
 テスト的に、「城007 秀吉の但馬攻め」と「城008 大和郡山城」を並行して進めてみます。
 後で見ると分かりにくくなると思いますので、話しが一段落した所で、番号整列の為、順番を入れ替えます。
 次々回の「訪城記」は、「秀吉の但馬攻め」の続きです。

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城007 秀吉の但馬攻め(2) 朝来市の陣屋

2014年08月29日 00時10分03秒 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、織田信長(おだのぶなが)配下の羽柴秀吉(はしばひでよし)の但馬攻めの続きです。但馬(たじま)の現在の兵庫県・北部にあたります。但馬方面は、秀吉の弟である羽柴秀長(ひでなが)の担当になります。

 4月に旅行した時は、竹田城の桜も終わっていて、朝霧もありませんでした。そこで、朝来市内の竹田城周辺にある陣屋を少し見てみる事にしました。予定外ですので、事前調査も不足して、行きあたりばったりです。
 竹田城の北側には和田山(わだやま)の町がありますが、そこから北北西に2km程離れた寺内・糸井地区に「和田山町立郷土資料館」があります。ここは、江戸時代の陣屋があった所です。

【糸井京極陣屋(いといきょうごくじんや)】
 江戸時代の4代将軍・家綱(いえつな)の寛文8年(西暦1668年)に、京極高盛(きょうごくたかもり)が丹後(たんご、現在の京都府北部)・田辺藩(たなべはん)3万5000石から、但馬・豊岡藩(とよおかはん)3万5000石に移封になります。この時に、分家の京極高門(2000石)が建てた陣屋です。
 明治以降は小学校として利用されていましたが、下の写真のように陣屋の表門が現存しています。

 門の奥に見えるのは、和田山町立郷土資料館(右)と幼稚園(左)です。
 駐車場から見た石垣ですが、門の付近も、きれいに良い状態で石垣が残っています。

 この付近には、高生田城(たこうだじょう)という山名氏の山城があったそうです。この城は、山名氏配下の福富甲斐守という人が守っていたと伝えられますが、天正5年、秀長が竹田城を攻める前に落とされた城です。ただし、小さいながらも堅城で、かなり苦労したようです。

 下の写真は、朝来市の土田地区の町並みで、奥に見える山沿いの町が寺内・糸井地区です。高生田城のあったのは、左後方の山の付近かな(?)

 糸井陣屋の近くに、もう一つの陣屋がありました。和田山の町から国道9号線沿いに西に1km程の所に土田地区があります。こちらは、出石藩(いずしはん)5万石の小出(こいで)家から1500石で分家した小出英直が建てた土田陣屋(はんだじんや)があり、明治になるまで続きました。
 写真のように、現在は住宅地となっていますので、何もありませんでした。後で調べた所、移築された門が、教蓮寺(和田山町高田119)に山門として残っているそうです。
 土田陣屋の場所を探していると、下の写真のような、土田城の標識(右下)がありました。

 土田城は、上の話にでてきた高生田城の出城(支城)としての役割です。おなじく、秀長の竹田城攻めで落城しました。
 先にネタばれをしますと、上の写真の後方に見える山が、土田城(はんだじょう、山城)です。
 そうとは知らず、「くまドン」は、城跡の標識の道を進んでいきます。少し上った所に神社がありました。

 神社の石垣が古くて立派でした。城の一部かな?と思いました。この先に、道も無いので引き返すことにしました。

 帰り道に地元の年輩の方に出会いましたので、土田城の事を聞いた所、後方の山頂が土田城で、「昔は山に登る道もあったけど、今はもう誰も通らないから無理だろうな・・・」と教えていただきました。(ありがとうございます)

 羽柴秀長が但馬に攻め込み、山名家の家臣が必死に守った時代も、天下泰平の江戸時代と明治以降の激動の歴史の中に埋もれ、平和な現代においては、遠い昔の話となっています。

 せっかく、ここまで来たのですから、土田陣屋を探している時にあった地元の神社の写真も載せておきます。

 神社の説明板もなかったのですが、地元の人以外でブログに載せているのは、「くまドン」ぐらいでは・・・・・


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 「城007 秀吉の但馬攻め(1) 竹田城・羽柴秀長」
 「城007 秀吉の但馬攻め(2) 朝来市の陣屋」 (今回分)
 「城007 秀吉の但馬攻め(3) 古墳の宝庫」
 「城007 秀吉の但馬攻め(4) 秀長の但馬平定、そして鳥取へ」

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城007 秀吉の但馬攻め(1) 竹田城・羽柴秀長

2014年08月28日 07時55分15秒 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回からは、秀吉の但馬攻めです。但馬(たじま)の現在の兵庫県・北部にあたります。まず、先頭は、「城001」と「城003」でも話をした「天空の城」として、大人気の竹田城(たけだじょう)です。平成25年度は、とうとう年間入場者数が50万人を突破しました。「くまドン」も2回行ってますので、その中の一人です。

 今回は、今年の4月に行った時の話ですが、下の写真は、昨年の10月に竹田城に行った時の写真です。
 夏から秋にかけて、雲海の発生する確率が上昇していきますので、楽しみな季節になってきました。

【竹田城(たけだじょう)】 百名城56番(スタンプはJR竹田駅)、国指定史跡
 別名:虎臥城(とらふすじょう)、「天空の城」、「日本のマチュピチュ」
 分類:山城
 場所:兵庫県朝来市(あさごし)和田山町竹田字古城山169
 特徴:天守は無いが、天守台を始めとする山頂に並ぶ石垣群は見事です。
     秋から冬にかけてのよく晴れた早朝に朝霧が発生することがあり、
     近くの展望台からの雲海に包まれた城の姿や、竹田城から見下ろす風景は、まさに絶景!!!
     (ただし、雲海の発生は、その時の運任せ。)

 さて、日が暮れる前に、朝の撮影スポットの立雲狭(りつうんきょう)にロケハン(下見)に行きます。
 竹田の町から、円山川を渡り、車道を登っていくと、ホテル立雲狭(ビジネス客も可と書いてありました)の看板があります。ここを右折して、細いが舗装されている林道を登っていくと、ある程度の広さがある駐車場に着きます。
 駐車場から登ってすぐの所に、第三展望台があります。竹田城が見えます。


 さて、「なぜ、竹田城が先頭になるか?」ですが・・・・
(1)安土桃山時代の天正5年(西暦1577年)10月に、織田信長(おだのぶなが)は、羽柴秀吉(はしばひでよし、豊臣秀吉)を播磨(はりま、現在の兵庫県南部)に派遣して、播磨の攻略を始めます。対抗するのは、毛利方に味方する播磨の諸勢力です。
 この時、羽柴秀吉を迎えたのは、小寺(こでら)家の家臣で、姫路城主だった黒田官兵衛(くろだかんべえ、黒田孝高)です。羽柴秀吉が播磨に入った時は順調で、播磨の諸将は味方になります。
 (この辺は、平成26年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」で見た方も多いと思いますので、省略します。)

 立雲狭は、竹田城のある古城山(標高354m)と竹田の町の横を流れる円山川を挟んで、東にある朝来山(標高756m)の中腹にあります。

 無数の奇岩・巨岩・滝が点在する景勝渓谷であると同時に、但馬吉野とも称される山陰随一の山桜の名所です。毎年桜の開花期にあわせて立雲峡桜祭りが開催されます。
 4月に立雲峡に行った時は、1週間遅く、桜はすでに散っていました・・・・・・・・残念!
 それでも、雲海発生時に霧を発生させる円山川の堤防には、遅咲きの桜並木が満開でした。


(2)早くも、天正5年11月には、播磨の上月城(こうづきじょう)を攻めると同時に、秀吉は弟の羽柴秀長(ひでなが)を別働隊3000人で北の但馬方面を攻めることになりました。
 姫路城と竹田城の間には、生野銀山(いくのぎんざん)があり、この銀山を管理する太田垣氏(おおたがきし、山名四天王の一人)の竹田城を落として銀山を入手して、但馬方面の足がかりを作る事が目的でした。
 竹田城は秀吉軍のものとなり、羽柴秀長が城代(じょうだい、城周辺の守備)として治める事になりました。
 この時は、順調に山名家の豊岡城まで進攻しましたが、土地の地侍(土豪)にゲリラ戦術を仕掛けられて敗北し、竹田城付近まで後退することになります。
 その後、播磨の諸将が毛利側に寝返り、背後の荒木村重(あらきむらしげ)の謀反(むほん)するなどして、その対応に追われ、但馬方面の攻略は後回しとなります。

 とりあえず、夕日を狙いましたが、竹田城は山の中にありますので、山並みの中です。

 竹田城の見事な写真をブログを載せているkainaka-2さんは、竹田城の夜景の写真が得意で、「くまドン」も撮影してみたかったのですが、連日の早起きで、さすがに夜間撮影は、きつくなっていましたので、食事をして寝る事にしました。
 宿は、今回も和田山にあるビジネスホテル好日でしたが、前回、美味しい但馬牛を食べた和田山の国道沿いにある「太田家」さんは、満員御礼であきらめました。(やはり人気あります!)


(3)天正6年4月に明智光秀(あけちみつひで)の丹波(たんば)攻めが始まると、羽柴秀長は織田信長の命令により、明地光秀の増援に行く事になり、竹田城の東にある丹波柏原方面に兵を進めます。
 「城006 兵庫県の織田家(3) 丹波柏原藩・変わりゆく時代」の中でお話ししましたが、下の写真の柏原の八幡神社は、この時に明智光秀の陣地となり、翌・天正7年に戦火により焼失しました。現在の社殿は天正10年に秀吉が再建させた建物です。

 翌・天正7年の6月に丹後の八上城(波多野秀治)が落城、8月に丹波の黒井城(赤井忠家)が落城となり、但馬の東側にあたる丹波(明地光秀)・丹後(細川藤孝)は、織田家の勢力圏となります。

(4)天正8年(西暦1580年)になると播磨(はりま)の三木城が落城するなどして、播磨方面が羽柴秀吉によって、再度平定されることになります。
 そして、羽柴秀長による但馬攻めが再開される事になります。この時、竹田城は、毛利方の太田垣輝延が再占拠していたそうですが、秀長軍6400人が攻め寄せ、再落城となったようです。
 再び、秀長は竹田城の城代として、竹田城を起点に但馬攻めを開始する事になります。

 翌朝、立雲峡に行ってみましたが、残念ながら雲海はありませんでした。
 春でも、条件が良ければ、雲海が見れるのですが、残念でした。


 次回の「秀長の但馬攻め」は朝来市の陣屋・城跡に関する話です。

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 「城001 天空の城 竹田城(1) (兵庫県・百名城56番)」
 「城001 天空の城 竹田城(2) (兵庫県・百名城56番)」
 「城001 天空の城 竹田城(3) (兵庫県・百名城56番)」
 「城003 天空の城 竹田城・再訪(1) (兵庫県・百名城56番)」
 「城003 天空の城 竹田城・再訪(2) (兵庫県・百名城56番)」
 「城003 天空の城 竹田城・再訪(3) (兵庫県・百名城56番)」

 「城007 秀吉の但馬攻め(1) 竹田城・羽柴秀長」 (今回分)
 「城007 秀吉の但馬攻め(2) 朝来市の陣屋」
 「城007 秀吉の但馬攻め(3) 古墳の宝庫」
 「城007 秀吉の但馬攻め(4) 秀長の但馬平定、そして鳥取へ」

(2)丹波柏原の八幡神社の話は、以下のブログの最後の所です。
 「城006 兵庫県の織田家(3) 丹波柏原藩・変わりゆく時代」

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。

 次回は、奈良県の大和郡山城の話です。
 テスト的に、「城007 秀長の但馬攻め」と並行して進めてみます。
 後で見ると分かりにくくなると思いますので、話しが一段落した所で、番号整列の為、順番を入れ替えます。
 次々回は、朝来市の陣屋・城跡の話の続きです。

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城006 兵庫県の織田家(3) 丹波柏原藩・変わりゆく時代

2014年08月23日 09時30分09秒 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、兵庫県にある織田(おだ)家の兵庫県・丹波柏原藩(たんばかいばらはん)の信雄系織田家の続きです。柏原陣屋周辺の歴史関連のスポットをいくつか取り上げる事にします。

 柏原八幡神社の駐車場から、西に少し離れた所に、大手門の太鼓櫓(たいこやぐら)が残っています。

【太鼓櫓(たいこやぐら)】
 柏原藩の時代には大手門の付近にあったもので、内部は三層になっており、最上層の桜上には「つつじ太鼓」という大太鼓があり、時報(時の鐘)や警報に用いたとされています。
 創建年代は不明ですが、陣屋創建に近い時代と考えられています。
 明治以降に、現在の場所に移されたと考えられています(これも年代不明)。


 結局、信雄系・織田家の柏原藩は10代続いて、幕末を迎える事になります。

【織田家廟所(びょうしょ)】 町の北東側にあります。
 信雄系・織田家の菩提寺・徳源寺のあった場所で、初代藩主・信休から9代目藩主までの墓があります。明治時代になると、廃寺となって、廟所(墓)のみ残ります。
 門をくぐり、階段を登ると、墓が並んでいます。下の写真の右側が初代~3代、正面奥が4・5代、左が6~8代藩主の墓です。9代目藩主の墓は写真の右外です。

 下の写真の真中の墓が信雄系・織田家の初代藩主・織田信休(おだ のぶやす)の墓です。
 なお、織田信休は、大和・宇陀松山藩においては、第5代藩主(最後の藩主)でもあります。


 丹波柏原藩の2つの織田家の歴史を見ると、質素倹約に努め、善政を行った賢君のおかげで領民が平和だった時代もあれば、贅沢な生活で財政を圧迫した暗君により、領民が苦しんだ時代もありました。これは、柏原藩だけの問題ではなく、江戸時代の他の藩でも、多かれ少なかれ、同じような事が発生しています。
 根本的に、幕藩体制(ばくはんたいせい)は、武家諸法度(ぶけしょはっと)などの幕府の掟(おきて)に従っている限りは、藩内部は治外法権(ちがいほうけん)のようなものです。藩主一人の善し悪しで、その時代が決まってしまうような不安定で、危険な要素を含んでいます。
 この事を考えれば、国民が国を治める政治家を選挙で選び、定期的にチェックする民主主義のシステムは、指導者の暴走を防ぐ為に必要不可欠なシステムなのかもしれません。同時に国民は、政治が正しいかどうかを判断する為の知識・知恵・能力、そして選挙の義務を負うのですが。

 町中で見かけた安藤広太郎(あんどうひろたろう)という人物の銅像です。
 「明治4年に柏原町で生まれた農学者で、寒さに強い稲を作りだし、冷害に苦しむ東北地方などの米の増産などの農業技術の改良と稲の研究に尽くした」と説明板に書いてありました。

 明治時代になると、近代教育が始まり、多くの人材が輩出されるようになりました。これらの人達は、明治と言う時代を担う為に、強い使命感を持って、社会に貢献しようとしてきました。また、一般の人達も、江戸から明治に激変した時代の荒波を乗り越える為に、生きていく為に必死になっていました。
 「くまドン」は、明治という時代は、一部の指導者だけが造りだしたのではなく、名も無き人達を含めた多くの人達の努力により、造りだされた時代と思います。
 (ただし、「くまドン」は健全財政が基本ですので、いたずらに盛り上げて騒いだあげく、財政や経営が悪化する原因になる資料館(ハコ物)などを造ろうとするのはお断りです。)
 ただ、明治時代の人達は、欧米という進むべき手本(てほん)があり、それを模倣(もほう)することにより、近代・明治という時代を造り上げてきました。現代の日本は成熟した先進国であり、他の国の真似(マネ)をするのではなく、自ら考え、造り出していかなければならない時代といえるでしょう。
 言い方を変えると、明治の日本は、欧米という教科書を見ながら勉強していた学校の生徒のようなものです。
 そして、現代の日本は、教科書もなく、今まで蓄積してきた知識や経験を元に、自らも考え、秩序だった思考により新しい方法を考え続けていかなければならない時代なのです。
 (「くまドン」は、高度成長期の成功やバブル時代の一時の好景気を忘れられない人達が、過去の政策をコピーしたかのような拡大政策自体が時代遅れであり、現在の日本にとって迷惑以外の何物でもないと思っています。)

 時間がなかったので、見学する時間はなかったのですが、柏原には、歴史の古い八幡神社があります。

【柏原八幡神社(かいばらはちまんじんじゃ)】
 創建は平安時代中期と古い。
 複合社殿(本殿と拝殿)は、安土桃山時代に再建された国の重要文化財指定です。織田信長の明智光秀の丹波攻めで、光秀の陣地となり、天正7年に黒井城の赤井直正との戦火より中世からの古い建物は焼失しましたが、天正10年に羽柴秀吉が黒井城主である堀尾吉晴に社殿の造営を命じて再建されたものだそうです。
 その為か、同じ丹波地方でも、ここ柏原の地では、あまり明智光秀は人気がありません。(もっとも、明地光秀の謀反で織田信長は自害したのですから、織田家の領地だった所で光秀の人気が無いのは当たり前かもしれません。)
 江戸時代の文化年間に三重塔も再建されています。
 神社にあった石碑の写真を追加しておきます。


 丹波市立柏原歴史民俗資料館は駐車場が少なく、柏原陣屋にもありませんので、丹波市柏原支所のすぐ北にある八幡神社付近には駐車エリアがあります。柏原の観光は、この駐車場の利用が楽です。

 最後は、木の根橋(きのねばし)です。ケヤキの大木の根が川をまたいで伸びています。

 このケヤキは幹径6m、樹高22mもあり、推定樹齢は1000年の大木だそうです。
 思えば、このケヤキは、この場所で丹波柏原の歴史を、ずっと見てきたのですね・・・・・・・・

前回までのブログは、以下の通りです。なお、ブログ右欄の「カテゴリーアーカイブ」にある「訪城記」をクリックすると、過去のお城周りのブログ一覧が表示されます。
 「城005 奈良県の織田家 織田信雄の宇陀松山城(山城、陣屋)」
 「城006 兵庫県の織田家(1) 丹波柏原藩・織田信包の家系」
 「城006 兵庫県の織田家(2) 丹波柏原藩・信雄系の織田家」

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。

 今年の3月から作り始めた奈良県の織田家の話の流れがやっと終わりました・・・・・(汗)
 次回の放城記は別の話となり、話の展開で、奈良県の大和郡山城の前に、兵庫県の城をいくつか入れさせていただきます。
 その前に名所江戸百景関連で、亀戸天神の例大祭があるので、取り上げます。今年は、四年に一度の本祭り。

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