お絵描き日記~イラストレーター照井正邦

職人、照井正邦の似顔絵、意匠など。画力の向上を目的に練習しています。

怒らない会をフォルテで叱ると、怒りだすかもしれない。(脳イメ雑記)

2021-05-03 06:37:51 | 雑記
そもそも論は否定されるのか。
人の言ったことを否定しない会話法がある。
そこで、そもそも論など、その会話法以上の話法を用いると、「否定しないことを否定しない」から始まって、「否定も肯定も否定しない」と続き、結果論として「否定することを否定しない」ようになってしまうと、真剣であったはずが滑稽な茶番になる情景が、常に前衛的でイノベーティブである絵描きは、概念として見えている。または、概念が苦手なアート気質の者が、「茶番になる情景」を茶番劇として演劇のように視覚的に見える場合もあり得る。
その感覚のすぐれた者は、末路の情景に陥らないために、いきなり他者の意見を否定したり、自己否定の理論を提示したりする。
そのときに、「ネガティブ思考ではいけないよ」など、論じる以前の何も知らない一般人としての会話を強いられてしまう。
その会話法を繰り返すことで、他の大きな枠組みである社会に知れ渡ると、「関わらない」あるいは、そう言えない心の制約がある者は、もっと大事な会話の場を作ろうとし、「否定しない会」にとって「否定する会」に思えるが、最終的に否定されない何かを見いだそうとしているのが想像できる。
一方、「否定しない会」が、結果的に社会から否定される日が浮かぶ。例えが代わるので関係がないと瞬間的に判断する人もいると思うが、「怒らない会」によって、叱る者が死に絶えてしまうのも浮かぶ。そうならないために、怒ると叱るの違いを論じようとした人々へ「テレビゲーム」などのような破裂音的話法に限定させた上で、「否定しない会」「怒らない会」が継続されていってしまうのだろう。あえて想像力なくその先の仮定を描き込むならば、「叱られる会」になってしまい、それを「怒る悪い人たちが増えた」と言って、別次元の、例えば国家的な組織へ流布されることを危惧している。
否定しない会に参加せずに絵を描いている個人的な話としては、叱ることが出来なくなった最悪な世界が見えてはいるが、そうはならないように「怒らない会に、怒られる絵」を描いてはいるけど、その「なんたらかんたら話法」を知らない賢人から、私は褒められてしまっている。
それは、もしかしたら、怒らない人たちがただ怒らないで耐えているだけかもしれないが。

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