鈴木宗男ランド ブログ by宗援会

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宗男日記から

2007年05月22日 | Weblog
ムネオ日記
2007年5月20日(日)
 参議院創設60年で昨日、今日と国会を開放し、多くの人に身近に参議院を見てもらっている。とっても良い企画と考えながら、同時に7月には参議院選挙があり、参議院が問われる事になる。
 参議院は「良識の府」「再考の府」として二院制の重要性、衆議院のチェック機関としての役割があったが、2年前の郵政解散で参議院は死んでしまったと言って良い状況になった。参議院のあり方、真の「上院」としての立場をしっかり確立しなくてはいけない。
 17日「ファーラム神保町」で、私は参議院の定数を今の242から125、約半分にする。中長期的国家戦略、少子化、年金、教育、外交、防衛・治安等は参議院でじっくり腰を据えて議論する。衆議院のカーボンコピーと言われない為にも内閣総理大臣経験者、衆議院永年勤続議員を参議院にまわす。その事により、参議院の上院としての存在が出てくる等の提案をし、参議院議員選挙の公約としていきたいと話したが、その後、反応が多いことに驚く。
 「定数を半分に是非ともして下さい」「重い地位に就いた人が参議院に優先的に廻ることは、自(おの)ずから参議院の存在感が出てくるので良い事です」といった声が寄せられる。自信をもって大改革に向けて前進したい。
 憲法改正手続法(国民投票法)が成立し、憲法の中でも参議院のあり方を考える時に来ている。私の提案がいずれ国家の課題として議論される事を期待してやまない。
 胆振管内(壮瞥町、洞爺湖町、白老町)を廻り、各地で後援会挨拶廻り・懇談をし、苫小牧市に入り市政クラブで記者懇談会。皆さん、参議院選挙北海道地方区の多原(たはら)香里(かおり)さんの事に大きな関心を持っており、私から多原(たはら)さんの人となりを紹介し、7月の参議院選挙の意義を話す。週刊誌の選挙情勢なども参考に話しながら、現時点における私なりの分析を披露する。皆さん、それなりに理解して頂いたと思う。
 多原(たはら)香里(かおり)さんも精力的に北海道を廻っており、段々エンジンがかかってきている。人一倍努力した者が栄光の座・当選につながる事であり、先ずは本人が一生懸命頑張る姿をアピールする事が一番であり、更に二人三脚でやっていきたい。
鈴 木 宗 男
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ムネオ日記から

2007年05月22日 | Weblog
ムネオ日記
2007年5月19日(土)
 12時から南青山会館で中曽根康弘先生を囲む会に出席。中曽根先生が拓大の総長をされていた昭和42年から46年までの学生による1週間早い中曽根先生の誕生日を祝う会である。久し振りに同期の仲間とも顔を合わせ、過ぎし40年前からの今日迄が想い出される。
 中曽根先生が総長就任挨拶で、「私学には建学の精神がある。早稲田大学・大隈重信の独立の精神、慶応義塾大学・福沢諭吉の自由の精神、我が拓殖大学は桂太郎の開拓の精神がある」と熱きメッセージを発してくれたことを今も鮮明に覚えている。
 89才の中曽根先生が今日も矍鑠かくしゃくと拓大のこと、日本のあるべき姿を約40分話されたが、まさに歴史の生き証人である。私も心からの敬意を表して中曽根先生にご挨拶したが「よくきてくれた」と喜んで頂き、感激だった。
 私は昭和45年3月、卒業式で中曽根先生から卒業証書をもらい、記念写真を撮ってもらった。すでに中川一郎先生の秘書をしていたので卒業式終了後の謝恩会の席で「中川一郎君は将来あるから鈴木君もしっかり頑張りなさい」と言われたものである。私なりに夢と目的を持って働き、秘書として「鈴木あり」と言われるまでになった。35歳で衆議院議員に当選。49歳で国務大臣を拝命することが出来た。30代で国会議員。40代で大臣と考えていたので、計算通りの歩みだった。更に内閣官房副長官、自由民主党総務局長と順調な歩みをしたが、国策捜査により一頓挫してしまった。
 中曽根先生も殖産住宅事件、リクルートと、証人喚問され大変な経験をされたが乗り切り、天下人になった。エラーとファインプレーは「紙一重」と言われるが、私も小渕総理が倒れなければ、森総理がもう一年続いていればと、詮せん無いこととは知りながら、政治家としての宿命を感じた一日でもあった。5年前、あれだけのバッシングを受けながら国政に復帰できただけでも奇跡を起こしたと思いながら、その奇跡をつくった事を誇りにしながら次の闘いをしていくしかない。
 週刊文春の松山千春さんの記事をムネオ日記に昨日載せたが多くの人から「感動しました」「松山さんの人柄を知りました」「松山さんも鈴木さんも情じょうの人ですね」「鈴木さんも松山さんも義理堅く人間関係を大事にしていますね」「日本人として忘れてはいけない心を知らされました」等々のありがたい声を、メッセージを頂く。あらためて今日あるのは人間関係だとつくづく感じながらこれからも原点を忘れず鈴木宗男なりのドラマをつくっていきたい。
鈴 木 宗 男
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2007年05月22日 | Weblog
ムネオ日記
2007年5月19日(土)
 12時から南青山会館で中曽根康弘先生を囲む会に出席。中曽根先生が拓大の総長をされていた昭和42年から46年までの学生による1週間早い中曽根先生の誕生日を祝う会である。久し振りに同期の仲間とも顔を合わせ、過ぎし40年前からの今日迄が想い出される。
 中曽根先生が総長就任挨拶で、「私学には建学の精神がある。早稲田大学・大隈重信の独立の精神、慶応義塾大学・福沢諭吉の自由の精神、我が拓殖大学は桂太郎の開拓の精神がある」と熱きメッセージを発してくれたことを今も鮮明に覚えている。
 89才の中曽根先生が今日も矍鑠かくしゃくと拓大のこと、日本のあるべき姿を約40分話されたが、まさに歴史の生き証人である。私も心からの敬意を表して中曽根先生にご挨拶したが「よくきてくれた」と喜んで頂き、感激だった。
 私は昭和45年3月、卒業式で中曽根先生から卒業証書をもらい、記念写真を撮ってもらった。すでに中川一郎先生の秘書をしていたので卒業式終了後の謝恩会の席で「中川一郎君は将来あるから鈴木君もしっかり頑張りなさい」と言われたものである。私なりに夢と目的を持って働き、秘書として「鈴木あり」と言われるまでになった。35歳で衆議院議員に当選。49歳で国務大臣を拝命することが出来た。30代で国会議員。40代で大臣と考えていたので、計算通りの歩みだった。更に内閣官房副長官、自由民主党総務局長と順調な歩みをしたが、国策捜査により一頓挫してしまった。
 中曽根先生も殖産住宅事件、リクルートと、証人喚問され大変な経験をされたが乗り切り、天下人になった。エラーとファインプレーは「紙一重」と言われるが、私も小渕総理が倒れなければ、森総理がもう一年続いていればと、詮せん無いこととは知りながら、政治家としての宿命を感じた一日でもあった。5年前、あれだけのバッシングを受けながら国政に復帰できただけでも奇跡を起こしたと思いながら、その奇跡をつくった事を誇りにしながら次の闘いをしていくしかない。
 週刊文春の松山千春さんの記事をムネオ日記に昨日載せたが多くの人から「感動しました」「松山さんの人柄を知りました」「松山さんも鈴木さんも情じょうの人ですね」「鈴木さんも松山さんも義理堅く人間関係を大事にしていますね」「日本人として忘れてはいけない心を知らされました」等々のありがたい声を、メッセージを頂く。あらためて今日あるのは人間関係だとつくづく感じながらこれからも原点を忘れず鈴木宗男なりのドラマをつくっていきたい。
鈴 木 宗 男
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ムネオ日記から

2007年05月19日 | Weblog
ムネオ日記
2007年5月18日(金)
 昨日発売の週刊文春5月24日号の【特集ワイド ホントにあった本当に泣ける話】に、「松山千春が語る亡き恩人に捧げる一輪の赤いバラ」という記事があり、感動する。全文を掲載するので読んで戴きたい。
 松山千春(51)のステージで本人に寄り添うように置かれた一輪の真っ赤なバラ。そこには、鈴木宗男擁護、スキンヘッドの強面といったイメージからは窺い知れない、亡き恩人との秘話があった―。
  千春本人が振り返る。
 「竹田さんとの出会いは最悪だった。とにかく恐かった。一緒に仕事をするようになっても、すごく厳しくて、よく怒られた。でもそれも、いま思えば、優しさだったんだと思う」
 千春(当時19)と札幌STVラジオのディレクター竹田健二さん(当時34)が出会ったのは75年4月。北海道足寄町のアマチュアシンガーだった千春は「全国フォーク音楽祭」帯広大会に出場し、高校時代に作った『旅立ち』を歌った。その審査員が竹田さんで、新人発掘で全国に名を知られた仕事人だった。歌い終わった千春に対する批評は、ひとこと、
 「ギターが悪いな」
 ギターは高校時代にバイトして買った5千円のもの。鼻っ柱の強い千春はすぐさま食って掛かった。
 「俺はギターの品評会にきたんじゃない。歌はどうだったんですか、歌は」
 竹田さんはそれに答えず、「松山君、コピー曲を歌ってくれ」。
 千春はしかたなく、風の『22才の別れ』を歌った。竹田さんはそれっきりで、千春は落選を確信した。前年の同じ大会でも『旅立ち』を歌って落ちていたし、なにより自分の歌が認められていないみたいで癪だった。ところが千春は合格し、札幌で開催された全道大会に進んだ。ニッカーボッカーにサングラス姿の千春が、肩で風を切ってステージに登場するなり、会場の5千人が爆笑した。千春は相変わらず突っ張っていた。審査員の間では「歌はいいが、態度がでかくて生意気だ」と言われ、結局落選した。
 「松山、ちょっとしたらラジオで使うかもしれない。そうなったら出てこれるか」
 千春が帰る間際そう声を掛けてくれたのは、意外にも、あの竹田さんだった。
 しかし、札幌から電車を乗り継いで片道8時間以上かかる山あいの田舎町に住むアマチュアシンガーにとって、ラジオ出演は夢のまた夢。期待などしていなかった。千春は足寄でまた、普段の暮らしに戻った。
 父親は足寄のローカル新聞を発行、たった一人で切り盛りし、長男の千春は集金の手伝いをしていた。しかし実家は貧乏のどん底で、新聞の収入だけでは食べていけず、母親が工事現場の出稼ぎをして家計を助けていた。冬はすきまから雪が吹き込み、家の中に吹き溜まりができるようなボロ家。恥ずかしくて友達を家に呼べなかった、と笑う千春にとって歌が心の支えだった。小学生の時、公民館で聞いた岡林信康の歌に感動しフォークシンガーを夢見た若者は、働きながら現実に埋もれていく―。が、そんな千春の元に突然、電話があったのだ。
 「新番組やるから、おまえのコーナーもたないか」
 あれからちょうど1年。竹田さんは周囲を説得し、番組を用意してくれていた。
 ラジオとはいえ、デビューもしていない無名の新人を抜擢することなど、前代未聞のこと。舞い上がる千春に対し、竹田さんは厳しい条件をつきつけた。
 「君のコーナーは15分間。毎週2曲、新曲を発表する。1ヶ月で8曲。半年で48曲。アルバムが四枚できる計算だ。千春、どんどん曲を書かなきゃだめだぞ」
 ラジオ出演が始まり、千春は夜行列車で足寄と札幌を往復した。その間、千春は精力的に曲を作った。と同時に、千春と竹田さんの二人三脚の日が始まった。竹田さんは荒削りながらまっすぐな千春の歌声に魅せられていた。最初に会った時の「ギターが悪い」という表現は、「歌は申し分ない」という最上級のほめ言葉を意味していた。
 夏が過ぎ、曲が貯まったのを見計らって、竹田さんは会社に千春のレコーディングを申し出た。しかしSTVラジオでは大反対があった。「あんなどこの馬の骨かわからんやつをレコーディングして、どうなるんだ。赤字を作るだけだろう」「深夜番組一本しかやっていないし、若造が調子に乗るだけだ」などという意見。それに対し竹田さんは、
 「それなら、俺の退職金前借りさせてもらいます」
 と、会社を説得したという。その熱意が実って、ついに東京で念願のレコーディングが叶った。本当の勝負となるデビューシングルのA面は、さんざん悩んだ末、「俺と千春が出会った最初が、『旅立ち』だ。これでいこう」という竹田さんのひと声で決まった。
 77年1月、リリースされた『旅立ち』が大評判となり、道内のラジオのヒットチャートでは一位を獲得。千春は瞬く間にスターへの階段を駆け上がっていく。そして竹田さんは変わりなく、千春を陰で支えていた。周りから「恋人よりも真剣につきあっている」と言われた。その一方で、竹田さんは千春の巣立ちを予感していた。あと2、3年もすれば千春は足寄から全国へ羽ばたくだろう。その時ステージの袖で千春の歌う姿を見ていたい、そう心から願った。
 6月に出したファースト・アルバムも好調で、8月には道内7カ所を回るデビューコンサートも決まった。多忙な合間を縫って、竹田さんが千春を連れて行ったのは札幌の楽器店だった。
 「千春、残念なんだけど、楽器っていうのは声と違って、値段が高いものほど音がいいんだ。コンサートをやるんだから新しいギターでなくちゃな」
 竹田さんは出世払いだ、と言い、マーチンを買い与えた。「竹田さん、もうギターのせいにはできないですね」。二人は大笑いした。
 そして迎えたデビューコンサートで、千春は札幌厚生年金会館を超満員にした。公演終了後、竹田さんはしんみりと語りかけた。「おまえをこの世界にひきずりこんだのは俺だから、一生つきあっていこうな。俺は一介のラジオ局のディレクターだけど、おまえがどうなっても最後まで責任持つ。俺のできることはなんでもする。喧嘩しながら、やっていこう」
 8月26日、千春は竹田さんに電話を入れた。
 「明日の函館公演来てくれますよね」
 「わかった。ところで、今からニッポン放送の人と会うんだけど、オールナイトニッポンでやってみないか」
 「全国区じゃないですか」
 「ラジオはおまえの個性が生かせる媒体だ。やってみたらどうだ。明日午前10時にSTVにきてくれ。ま、その時ゆっくり話そう」
 ところが次の朝、STVに行った千春に知らされたのは、竹田さんの突然の死だった。急性心不全、享年36。終始元気な声だった最後の電話から数時間後のことだったという。
 信じられなかった。「コンサートはやめだ」と泣きじゃくる千春。だが竹田さんの声が聞こえたような気がした。
 「千春、甘っちょろいこと言うな、お前はプロなんだぞ」
 その夜、千春はアンコールで『旅立ち』を、涙を流し声をか嗄らして歌った。
 《私の瞳が ぬれているのは 涙なんかじゃないわ 泣いたりしない
 この日がいつか 来る事なんか 二人が出会った時に 知っていたはず
 私のことなど もう気にしないで あなたはあなたの道を 歩いて欲しい》
(「旅立ち」松山千春 作詞・作曲)
 竹田さんは千春のために東京の仕事を取り、北海道を離れたがらない千春の旅立ちを準備していた。竹田さんが生前思い描いたように、千春は全国区のスターとなった。
 デビューから30年余、千春は竹田さんを赤いバラに見立てて、ステージに飾っている。
 最後に千春本人が語る。
 「今もずっと感謝してます。俺はこれまで長くやってきたけど、曲作りやコンサートの時なんか、竹田さんに、これでいいですか、って問いかけることもある。ただ、それに対して答えが返ってこないのが、さみしい」
 そして千春は、真っ赤なバラの理由をこう語った。
 「ギター一本でステージに立つと、なんとなくさみしいから。いつもそばにいて、見守ってくれているような気がするんだ」
 以上である。
 亡き竹田さんとの事は松山千春さんからも良く伺っていた。人生の出会い、巡り合わせ、不思議なものである。竹田さんがお元気でおられたら、大きくなった、あの足寄から出てきて日本を代表するトップシンガソングライターになった千春さんに、何と言ってくれるだろうか。「千春これからだぞ、千春の出番は。千春、これからが千春の本舞台だ」と竹田さんが言っているように私には聞こえてくる。
 今、日本人が失いかけている「情じょう」「義理堅さ」を忘れていない千春さんに日本人の心を見た。私自身、千春さんのお陰で今日ある者として、「心友しんゆう」に心から感謝するものである。久し振りに胸が熱くなる人間関係に触れ、勇気や感動を戴き、千春さんありがとうと、「大空と大地の中で」を口ずさむ。 福島県で高校生が母親を殺したり、愛知県では立てこもり事件で警察官が死傷したりと、悲しい、恐ろしいニュースに愕然がくぜんとする。何という世の中になってしまったのか。前途有為ぜんとゆういだった林一歩巡査部長に、心からのご冥福をお祈りしたい。
 心を失った日本人が多くなったことは、モノ・カネ優先できた政治に責任があると自責の念を持ちながら、心の通った政治の実現を目指し、頑張っていきたい。その勝負は7月の参議院選挙だ。弱者・女性の視点から立ち上がった多原香里たはらかおりを当選させる事である。

本日提出した質問主意書1件

№155 2007年5月15日に明らかになった1972年の沖縄返還を巡る日米密約についての米国立公文書館所蔵の一連の公文書に関する質問主意書
● 本日受領した政府答弁書3件
・ №146 北方四島への日本国憲法の適用に関する質問主意書
・ №147 竹島への日本国憲法の適用に関する質問主意書
・ №148 太平洋戦争中の中華民国国民政府の性格に関する質問主意書
※質問主意書の内容は下記の衆議院HPでご覧頂けます。
衆議院ホームページ
鈴 木 宗 男
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宗男日記から

2007年05月19日 | Weblog
ムネオ日記
2007年5月17日(木)
 7月の参議院選挙に関連して、またぞろ各党ともタレント、Jリーガー、プロ野球選手、テレビアナウンサー等、政治家として何をやるかよりも知名度に頼る、先に「名前ありき」みたいな流れになってきている。参議院は良識の府、再考の府と言われてきたが、今、二院制としての参議院のあり様が問われている時に、各党とも国権の最高機関たる「院」についてどれほど考えているのか疑問に思う。
 特に、憲法改正手続き法が成立し、安倍首相は「改憲」を参議院の争点にすると言っている。平成17年8月、郵政民営化法案が参議院で否決されると、時の小泉首相は解散の挙に出た。この時、参議院はなくなってしまったと言って良い。7月の参議院選挙はまさに参議院の存在を示す絶好の機会なのに、大所高所の議論が出てこない。「上院」として参議院を位置付ける為にも、私は次の様な提案をしたい。

242の定数を125へと約半分にする。人口100万人に1人の計算である。

予算や条約だけでなく、法案の審議は全て衆議院に優位性を持たせる。

参議院は6年間選挙がないのだから、国家の中長期的政策、福祉、少子化、教育、外交、防衛、治安等の国家基本戦略についての議論をする場にする。予算や条約だけでなく、法案の審議は全て衆議院に優位性を持たせる。

内閣総理大臣経験者、衆議院議長経験者は参議院に移る。

各党の永年勤続衆議院議員、最高裁長官経験者も参議院にまわす。
 この様な改革を行えば、参議院が日本の知恵袋となる。そしてタブーなき議論、専門的議論をしていけば、おのずから参議院に対する見方が変わり、チェック機関としての重みが増し、国民に理解される真の二院制になると私は考える。新党大地として、7月の参議院選挙では堂々と以上の事を訴えていきたい。14時半からの「フォーラム神保町」でも、この話をさせて戴いた。単なる参議院の改革ではなく、「大改革」をして国民の負託に応える様にしていきたい。
 フォーラム神保町では、7月の参院選で北海道地方区から出馬する新党大地副代表の多原香里たはらかおりさんがアイヌ民族の歴史を30分話し、7月に向けての決意表明をする。普段聞かれないアイヌ民族の話に出席者が耳を傾けて下さり、ありがたかった。
 質問の中で「知名度が低いからしっかり頑張りなさい」といった声もあった。真摯に受け止めていきたい。先週選挙予想を出した週刊誌では「台風の目は『女ムネオ』」とも出ており、これから更にアピールしていきたい。

本日提出した質問主意書2件

№153 特命全権大使の免官に関する三回目質問主意書

№154 1981年5月に行われた日米首脳会談をめぐる閣内不統一に関する質問主意書
※質問主意書の内容は下記の衆議院HPでご覧頂けます。
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