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石碑上0149 寮病院碑

2018年02月16日 15時59分06秒 | 石碑

 

石碑  療病院碑

京都府立医科大学と附属病院の前身である医学校と療病院は、1880年(明治13年)7月18日、現在の広小路の地に約6年の歳月を費やし、粟田口青蓮院内に設置された仮病院から新築移転した。日光宮里坊、二絛、正親の三旧邸の跡地に、ライプチッヒ大学病院をモデルにした療病院8,451坪(27931㎡)および医学校693坪(2、290.9㎡)の当時としては最高の施設が誕生した。工事には府民が無償奉仕し、落成式には槇村正直京都府知事、萩原三圭医学学校校長、ドイツ人教師ハインリッヒ・ボト・ショベイら多数が出席したが、「療病院の竣工を歓喜する満都の人気をわかし、種々の余興を催して蝶舞雀躍、その盛況は開都以来未曾有のこと」といわれた。後日、開院を記念して建てられたのが療病院碑であり、瀬田真黒石でできている。碑は設立当時、正門を入ってすぐ左側に建っていたが、旧臨床講堂南側、記念講堂跡地の中庭を経て、2001年(平成13年)2月に現在の場所に移された。

 

明治の初期、東京遷都によって「平安京の都」から「地方都市となった京都の衰退をくいとめ、新時代に生きる都市として再生させるため、勧業政策と教育政策が槇村正直や京都府顧問山本覚馬(後の初代府議会議長、初代商業会議所会頭)らによって強力に推進された。その政策の1つとして、青年蘭方医明石博高が中心になって1872年(明治5年)11月、青蓮院にヨンケル・フォン・ランゲックを招いて、ドイツ医学を主体とした療病院と医学校が設立された(同年9月、木屋町二条に仮療病院開設)。設立は京都府の費用のほかに、京都の名だたる寺院や祇園の芸妓など花柳界、さらに一般府民、市民の浄財、拠出金や寄付金によった。

療病院という名称は、設立基金の発起人である3人の寺院住職、東山天華(永観堂禅林寺)、与謝野礼巌(岡崎願成寺、与謝野鉄幹の父)、佐久間雲巌(慈照寺)らによって、593年(推古元年)に聖徳太子の建立した四天王寺の四箇院(施薬院、療病院、悲田院、敬田院)の1つにちなんで命名された。療病院が寺院の中に配置されていたことは、単に人々の病を治すという機能だけでなく、心の痛みや死への不安を癒す慈悲の精神に裏打ちされていたことを示す。本碑文には、京都府立医科大学が千年の都に培われた歴史の礎の上に誕生したことを示す表現が随所にみられ、本学草創の理念が力強く語られている。

療病院碑(読み下し分抜粋)

ひとにして疾病なるや、学ばんと欲すれば能はざるなり、人に尫羸なるや、勉めんと欲すれども、亦能はざるなり、学ばず勉めざれば、何を以てその才を殖やし、その家を富まさんや、夫れ、人材乏しくして民戸貧しきは、及ち国の病なり、是の故に、施政の務めはいまだ民の疾病を除きて、その健康を保つより急なるは有らざるなり我が府、維新の聖旨を奉じ、つとに種痘術を行ひ、駆疫法を布き、遠く名医を海外より徴し、以て衛生医薬を改良し、まさに大いに救済するところ有らんとす。

(療病院建設の経緯・・・中略)

今より後、民の疾病を除きてその健康を保つは、難きことにあらざるなり、こひねがわくば、後に政をこの土に為す者、能くその始を思ってその終わりを善くし、敢えてこれを廃墜有ること莫く、斯民をして永く明治の皇沢にうるおはしめよ。因りてその顛末を記し、石に刻して以人に告げしめんとす。

明治13年12月

 

 

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