
西陣織の技術改良に貢献した五世伊達弥助(1838~92)は,ウィーンの万国博に派遣された四世伊達弥助の跡を継ぎ、特に美術織物の発展に力を注いだ。五世弥助は明治23(1890)年,明治天皇が名古屋に行幸した時に宴に召され,帝室技芸員の称を賜わり,名工として知られる。明治以降,西陣織物業界は技術革新を積極的に追及することで新時代を乗りきろうとした。四世・五世の伊達弥助はその象徴ともいうべき人物で,この碑は五世伊達弥助をたたえることで,同時に西陣の新時代へ向けた努力を後世に伝えようとしたものである。
西陣名技碑
本碑は明治28年「平野神社境内」に建設されると当時の新聞記事に記す/現在地はもと平野神社社地で昭和12年に新道路建設のため北野天満宮に譲渡された
[副碑南]
西陣名技伊達弥助君碑記
室技芸員伊達弥助君没後数月織工某某等来謁予曰我西陣従古業織造家不断」
機杼声数百年于茲然大概不過継箕裘之業其技精妙織文高古足以発揚西陣之名」
于内外若君其人者未之有也明治二十三年
今上在名古屋行宮特召列 御宴尋為帝室技芸員賜年金若干実為異数是西陣」
之栄也請子記以伝不朽予曰方今誰有不識君名者乎聞大隈伯爵孺人某氏納君所」
織藕絲観音四十余体于関東諸名刹且供
皇后御覧賞賜 御製歌又聞君所得内外金銀賞牌不知其数其技之精妙可以證」
焉君技既達之九重納之名刹証之賞牌復何用予記某等曰然雖然伊達氏技芸之所」
造詣意匠之所淵源不可以不*因取行状於懐出視之状曰君小字徳松生京都市上」
京区堀川天神北街家世織綸子絹及五世祖某始織華紋考称弥助亦有巧名君襲其」
称少欲興父祖業従辻礼輔受画法及舎密術為人淳撲不喜浮薄嘗曰絢爛之極復古」
澹者物之情也今也宇内文物日開如泰西華麗俗亦当漸尚澹逸輸出物産于海外者」
不可不知也且泰西織造専用機械何足称人工其為美適眩俗眼耳故君所織専在手」
工好模古製華紋苟有不満意則考諸六法参以舎密術改作数次為忘寝食既成奇文」
隠暎光采沈鬱世称伊達錆織錆織者謂有古色也君有鑑識毎見名花異草怪禽奇獣」
及奇羅織文絵画雕鐫無論於天工人作注視把玩以研究之傍亦為人考訂必竭心思」
嚮者有第三回内国勧業博覧会宮内省臨時全国宝物取調局及京都市工業物産会」
等之設也皆以君為審査官君検討精覈評論正当而西陣物産之名大興蓋君之力也」
先是京都近国罹水災西陣将饑君特興工場以賑之就業者若干人称曰救助機及君」
歿識与不識無不哀惜痛歎予喟曰有之哉技進于道者不独西陣名声実関国家福利」
予今叨為京都美術協会会頭不可以不文辞某等請也於是乎記勒之石
大勲位貞愛親王題字
明治廿六年九月 従三位勲三等【北垣国道撰文 正八位巖本範治書】
[副碑北]
賛成諸彦
枢密院顧問官正三位勲一等子爵佐野常民
宮内次官従三位勲一等花房義質
北海道庁長官従三位勲二等北垣国道
枢密院顧問官正三位勲二等九鬼隆一
従二位勲二等子爵品川弥二郎
従二位勲一等伯爵大隈重信
正四位勲四等前田正名
発起人
西陣織物製造業組合員
委員今西平兵衛 同 松木安次郎
同 山田泰蔵 同 池田有蔵
同 小林伊之助 同 吉田善助
同 佐々木清七 同 榎並治兵衛
同 内藤小四郎 同 橋本伝兵衛
同 稲田卯八 同 亀山利兵衛
同 松室以忠 同 大川半兵衛
同 河井長蔵 同 諏訪栄三郎
同 富田半兵衛 同 金田太七
同 浜田儀八郎 同 津田源七
同 藤村岩次郎 同 磯田栄太郎
同 谷 新七 同 大橋宗助
同 長谷川杢次郎 同 小西善兵衛
同 小林清三郎 同 鳥居喜兵衛
同 人見勘助 同 伊達忠七
石工中村寿田
西陣名技碑 碑文の大意
帝室技芸員伊達弥助氏の没後,織工等がわたし(筆者北垣国道)に面会していわく,西陣は古くから織物を業とし,織機の音が数百年来とだえたことがない。しかし多くは伝来の技術を継ぐだけである。過去をしのぐ織物を作り,西陣の名を内外に轟かせた伊達氏のような例はいまだかつてない。伊達さんは明治23年,明治天皇の名古屋行幸に際し,特に召されて御宴に列した。ついで帝室技芸員に任命された。まことに西陣の栄誉である。そこで伊達氏を顕彰する文章を書いていただき(これを石碑に彫り),この栄誉を未来に伝えたいと。
わたしは答えていわく,伊達氏の技は天下に明らかである。聞くところでは大隈重信伯爵夫人は伊達氏が織った藕絲観音40余を関東の著名寺院に納め,皇后の御覧に供したところ,皇后は感心して御製の歌を賜ったと。また伊達氏が獲得した国内外の賞牌は数えきれないほどである。これらのことは伊達氏の技術のすばらしさを証するものであり,このうえ拙文の必要があろうかと。
織工等いわく,それはそのとおりだが,まずはその技の源流を知っていただきたい,と略歴を見せた。
略歴にいわく,伊達氏は幼名徳松。堀川天神北街に生まれ,綸子絹織を家業とした。五世前の先祖某がはじめて華紋を織りだした。父も弥助と称し巧者として名高い。伊達氏は若いころから祖先の業をさらに盛んにしようと思い,辻礼輔という人に画法と化学を学んだ。派手なことを嫌う性格で,絢爛豪華が極まれば枯淡な味わいに戻るのが常である。西欧でも次第に枯淡な味が好まれるようになるだろう。外国に製品を輸出しようとする者はここのところを知っていなければならない。西洋の機械で作った製品などは目に心地よいだけのものだと言っていた。氏は寝食を忘れ手織の技術を極め日本古来の織物を改良し「伊達錆織」という織物を作り出した。錆織というのはその古色をおのずから発揮するという意味である。
伊達氏は自然物と人工物とを問わず見る目があり,草花から生物,美術品に至るまで目に触れるものを研究してやまなかった。第三回内国勧業博覧会や宮内省臨時全国宝物取調局の設立,また京都市工業物産会などでは公平な審査官をつとめ,西陣の名声が大いに揚がったのはまったく伊達氏のおかげである。先年京都一帯が洪水の被害を受け,西陣機業が甚大な損害をこうむった時,伊達氏は救援のため工場を設立し人々を救った。そのため恩恵を受けた人はこの工場を「救助機(はた)」と呼び徳とした。
氏が没したとき,知るも知らぬも誰彼となく悲しんだ。わたしも嘆きに耐えず思わず口ばしったことに,この人は技術が道に通じるということを体現した人である,氏の業績は西陣だけでなく国家のために貢献したことでもあると。
わたしはいま京都美術協会会長を席を汚しているから,文章がまずいからといって執筆を辞退するわけにはいかない。あえて碑文を書く次第である。
伊達彌助氏顕彰碑
京都市上京区堀川通寺ノ内上ル天神北町に住み、世々弥助を名乗り織物製造を業とし美術織物の改良進歩に寄与し、特に伊達の錆織考案など有名にて我国織物業界の名工として大なる功績を残し、明治25年3月20日54歳にて没す。その功を顕彰するためこの名技碑を建設す。
石碑 前回の記事 ➡ 石碑右0151 法眼宅間勝賀終焉地
関連記事 ➡ 石碑6 ジャガード渡来100年記念碑 西陣織会館
五七五
一病で済ませてくれぬレントゲン /下戸
京ことば ベッタリ いつも一緒。居続けて。そのまま。
「あの二人、いつもベッタリヤワ」
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