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石碑   宇多源氏始祖追遠碑

2016年01月07日 08時03分02秒 | 石碑

 

 

 

宇多源氏の始祖とされる源雅信(920~993)追遠のために子孫が建立した碑。源雅信は宇多天皇の子敦実親王の子で、源姓を賜り臣下となった。居所から一条左大臣ともよばる。
 明治9年、明治天皇は華族制度を強固なものにするため、華族各家の系譜を調査、家系を分類し『華族類別録』を編纂させた。同分類の家が相互扶助することを目的としている。翌年、宇多源氏に分類された21家が、始祖雅信をしのび相互の親睦を誓ってこの碑を建てた。
 なお碑文中に「山城国葛野郡谷口村朱山始祖一條左大臣公之塋」(山城国葛野郡谷口村朱山は始祖一条左大臣公の墓所)という一節がある。朱山はおそらくこの碑の所在も含む龍安寺背後の山をさし、『京都府地誌』(京都府立総合資料館蔵)谷口村の条にも「一条雅信墓 朱山ニアリ」と記す。しかし『大日本史料』雅信没日記事所引『三僧記類聚』には「御室廟西ナル山上大石ソトハ者一条左大臣雅信公墓云々」と記す。また津久井清影(平塚瓢斎)『聖蹟図志』には御室八十八箇所の山中に「大岩下石槨左大臣雅信公」と記す。いずれも朱山とは違う山である御室仁和寺背後の大内山または成就山をさしている。

 

宇多源氏始祖追遠碑 碑文の大意  1877年建立

今上天皇(明治天皇)即位後,もろもろの制度が整った。そのうえで華族のゆくすえを憂慮され,歴史学者に華族家系の調査を命じられた。明治9年,華族の家系を分類しそれぞれの部類内で共通の祖先を奉じ相互に扶助し,家系がとだえないように配慮せよと命じられた。源雅信末裔の宇多源氏に分類された21家は同族の規則を制定した。翌明治10年,宇多源氏に分類される家では,共同で山城国葛野郡谷口村の朱山にある始祖一条左大臣雅信公の墓所に碑を建てたのである。
 さて,始祖は名は雅信,宇多天皇の第九子一品敦実親王の第一子である。母は藤原左大臣時平公の娘。延喜20年(920)に生まれたが系譜には年月を記さない。天皇の孫であることから出世が早く,貞元年中(976~977)には左大臣に任じられ従一位に叙せられた。正暦4年(993)7月29日に亡くなった。享年74。正一位を追贈された。世に一条左大臣とよぶ。
 雅信公は勤勉実直で世慣れたかたである。朝早く朝廷に出勤し遅くなって退出し,職務をきちんとはたした。そのいっぽうで和歌や蹴鞠がじょうずで,音楽にもたくみであった。このような能力をもって円融・花山・一条の三代の天皇に仕え,声望はならぶ者がなかった。なくなった時は世をあげて悲しみにくれた。公の履歴は家譜や歴史書にくわしい。公は17歳になると源姓をたまわった。朱雀天皇承平6年(936)12月1日のことである。それ以来子孫は多く,その由来にちなみ宇多源氏と称し,他の源氏と区別した。
 天保13年(1842)は雅信公850年忌だったが,そこに至る間,永い年月と争乱を経て子孫はちりじりとなり一族集まって祭典を挙行することはなかった。その年も京都在住の数家があつまり,かりに木の標識を建てただけにとどまった。いまありがたい明治の世に遭遇し,今上陛下のありがたい思し召しもあり,同族がここに集まり始祖を厚く追懐することができたので,石碑を建てて永遠に残すことにした。なんとすばらしいことではないか。そこでこの碑文で概略を示し子孫に告げるものである。二十一家の姓名は碑の裏面に録した

正三位   慈光寺有仲、正四位   大原   重實、 正四位   五辻   安仲、 従四位   綾小路有良

従四位   黒田   長知、  従五位   京極   高厚、   従五位   三宅   康保、 従五位   京極   高富

従五位   京極   高典、  従五位   森川   俊方、  従五位   黒田   長徳、  従五位   竹腰   正舊

従五位   庭田   重文、  従五位   西五辻文仲、  従五位   山崎   治敏、  従五位   朽木   綱鑑

 従五位   京極   高徳、 従五位   亀井   茲明、   谷      益道、  毛利侃次郎、   建部   子

 

 

   



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