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寺院伏0236  仏国寺  黄檗宗

2016年12月07日 08時48分17秒 | 寺院

 

 

天王山と号し、黄檗宗萬福寺に属する。江戸時代の延宝6年(1678)、高泉和尚がこの地にあった永光寺を復興して仏国寺と名付けたのが起源とされる。高泉和尚は中国福清の人で、寛文元年(1661)、隠元禅師の招きで来日し、萬福寺五世となり、元禄8年(1695)に没した。後水尾上皇より「大円覚」の宸筆勅額を賜り、往時、講堂を完備していたが、明治維新の後に荒廃し、現在本堂と庫裏をとどめるのみである。本堂には釈迦三尊と、高泉和尚が付近の藪の中に散逸していたものを拾い集め、修造した霊像といわれる毘沙門天を安置する。境内にある高泉和尚銅碑(重要文化財)は、正徳元年(1711)に鋳造された中国風の青銅碑として有名で、高泉和尚の教えを受けた近衛家熈の撰文、宝永3年(1706)に碑文を撰し、正徳元年(1711)に銅を以って鋳造したもので、この碑は書家としての家熈の代表的なものとされています。また、墓地には江戸初期の禅僧桃水和尚の墓、江戸初期の代表的茶人、作庭家で伏見奉行でもあった小堀遠州(遠江守政一)の墓などがある。 京都市

 

福聚 毘沙門天  天王山 佛国寺

 

 

桃水和尚、墓石は無縫塔で、表面に「円寂雲渓水公老宿之塔」と法名が記され、その前に「桃水和尚之墓」としるした石標が建っている。桃水は諱を雲関。慶長10年(1605)筑後(福岡県)柳川の生れ。7歳で肥後(熊本県)円応寺の井厳宗鉄の下で得度し、江戸吉祥寺や宇治黄檗の萬福寺にて修行した。のちに摂津法厳寺や肥前島原の禅林寺の住職になったが、寺院生活にあきたらず、ひょうぜんとして旅に出た。それより京都に来て浮浪者の群れに入り、一切の物欲を忘れ、無一物の生活をたのしんだ。『近世畸人伝』によれぱ、あるとき帰依の尼僧がはるばる九州より上洛し、桃水をさがし求め、四条河原の浮浪者の中にいるのを偶然発見し、是非とも帰国するようにすすめたが承知しない。よって新しい夜具を贈ったが、それも自分の用いるものではないと断り、揚句の果て、傍らの浮浪者に与えてしまった。これをみた他の浮浪者達は大いに驚き、これは凡人ではないぞと俄かにあがめ尊んだという。

座禅せば四条五条の橋の下行き来の人を深山木に見て

とうたった如く、雲の行くごとく、水の流れるがごとき生活であった。

また大津で草鞋をつくっていた頃、ある人が老いたる桃水をみて哀れみ、阿弥陀像を描いた大津絵を贈ったところ、桃水はそれを陋屋の壁にかけ、消し炭で

せまけれど宿を貸すぞや阿弥陀殿後生たのむとおぼしめすなよ

としるした。晩年は洛北鷹峯に住んで酢屋道全といい、角倉氏より提供された残飯を以って酢の製造販売をしていたという。天和3年(1683)9月、79歳で寂した。

生前黄檗の高泉和尚と親交があったので、没後仏国寺に墓が設けられたと伝える。

小堀遠州 の庭  ➡ 寺院左0216  金地院  臨済宗南禅寺派

                  神社伏0076-5 御香宮神社5  拝殿  名水・御香水

              擁翠園

小堀遠州作の木像 ➡ 妙心寺塔頭 麟祥院 は 春日局の菩提寺

小堀遠州 屋敷跡 ➡  小堀遠州屋敷跡  町の郷土史家からの発信

伏見の小堀屋敷を受け継ぐ ➡  野口家住宅  明治時代の商家

小堀遠州ゆかりの地  ➡  人物006  小堀遠州 

 

寺院 前回の記事 ➡ 寺院伏0235  本教寺  日蓮宗  洛陽十二支妙見めぐり 午

 

川柳

 

老人2人せんたく物に色がない   /笑う門

 

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