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寺院下0263  光縁寺  新選組墓所

2015年05月20日 22時33分00秒 | 寺院

  浄土宗

新選組之墓

 

満月山と号する浄土宗の寺。慶長18年(1613)即玄上人の創建とつたわる。天明の大火に類焼し、本堂はその後の再建だが、本尊阿弥陀立像(室町時代)は火災を免れた。墓地には、近代画家の中島来章の墓、新選組の隊士・山南敬介ほか2名の墓。松原忠司ほか11名の墓。大石鍬次郎の実兄大石造酒蔵(非隊員)の墓がある。27名の墓碑が3つ並んでいる。いずれもささいなことから隊規にふれ、切腹や斬首の憂き目にあった隊士たちである。

 

幕末の文久3年(1863)、近藤勇を局長にして結成された新選組は壬生に駐屯した。山南は、近藤や副長の土方歳三らと結成時からの同志であったが慶応元年(1865)、屯所を西本願寺に移すことに反対し脱走。捕えられ切腹させられた。というのが定説となっている。なぜ山南の墓がこの寺に置かれたのか前住職の歓誉氏によると、「洛中との往来に隊士は綾小路を使った。寺が多いこの辺りで、ふと山南は光縁寺の山門の瓦にある紋が目に入った。丸に右離れ三つ葉立葵。自分の家紋と同じであった。住職は同じ年のころの三十代。自然、言葉を交わすようになったのでは・・・

 

現存する当時の過去帳には「沖田氏縁者」との記述もある。沖田とは、檀家に見当たらないことから、新選組の沖田総司ではないかとされる。寺では昭和50年(1976)、隊士の墓の横に供養碑を建てた。

 

現在の山門は昭和20年(1945)8且16日に強制疎開で壊されることになっていたという。約180年前に建立された本堂とともに幕末のころと姿を変えていない。司馬遼太郎氏も明治100年のころ寺を訪れていた。髪は真っ白で、じっと本堂やお墓を立って見ていたとのことです。

 

 

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