石田神社
本殿は簡素な建物。宮寺の遺物とみられる十三重の石塔(南北朝)がある。拝殿には明和2年(1765)在銘の算額な5問の和算問題が彩色付きで示してある。
上津屋里垣内にある当社は、里・浜・東(木津川対岸城陽市)の三集落の氏神で牛頭天王社と称し、明治になって石田神社と改称した。
祭神は素戔嗚神で牛頭天王と同体で、当地が度々木津川の水害に見舞われたためか、疫病に対する守護神として信仰された。
当社に伝わる「天王神社記」によると、起源は大宝2年(702)隣村内里の山中に現れた素戔嗚神を上津屋の地に祀ったことに始まるという。治承4年(1184)源三位頼政の兵乱で社殿は焼失、復興のために文治4年(1188)源頼朝により神事料を寄進された。その後元弘の乱で笠置山参陣の際に楠正成が当社に立ち寄り願文を奉納したと記されている。
鳥居東の神輿蔵横に立つ十三重の石塔は、その形状から南北朝時代のものという。
近年社殿から発見された棟札によると、永禄元年(1558)社殿造営の後定期的に檜皮の葺き替え修理が行われていた。現在の本殿は嘉永4年(1851)の造営になり、神社に残る古文書や浜上津屋の伊佐家文書からも社殿普請や遷宮等の様子がうかがえる。
他には庄屋伊佐政徽が明和2年(1765)奉納した算額(和算問題を図入りで示す)があり、京都府で八坂神社に次ぐ古さをもつ。
氏子中の努力で古文書や棟札等の貴重な資料を豊富に伝える神社である。
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