森寛斎(1814~94)は,長州出身の画家。
森徹山(1775~1841)に師事し円山派の画法を学ぶ一方で
討幕運動にも参加した。
維新後は京都画壇の研究団体如雲社の経営に努め,
画壇の復興に寄与し,この地で没した。
この石標はその邸宅跡を示すもので,
寛斎に師事した山元春挙等の寄附で建立されたものである
教育の大変革をめざした人達
幕末の「寄合」
幕末動乱の真最中、下京の画家、森寛斎宅へ集まった
幸野楳嶺・西谷良圃・熊谷直行・遠藤茂平らは寺子屋教育の近代化を議論していた。
彼等は新しい時代が到来することを予測し、
長州藩士、広沢真臣(さねおみ)を助言者として迎え、
異国の教育を福沢諭吉の「西洋事情」によって学んだ。
西谷良圃は奉行所に「口上書」を三度提出したが、幕府はこれを顧みず維新を迎えた。
富小路五条の本覚寺境内にある良圃の墓碑には、
「今や君、徳未だ顧れずして既に亡し。抑も天か命か。
嗚呼哀しいかな。友人 森寛斎撰す」とある。