アートプラス京めぐり

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大聖寺  臨済宗系の単立寺院  御寺御所ともいわれている

2015年10月16日 16時15分21秒 | 寺院

 

 

岳松山と号する臨済宗系の単立寺院で「御寺御所」とよばれ、門跡寺院です。

当寺は足利義満が室町殿内に一宇を建て、次いで禅尼の没後、

その遺言によって寺となし、大聖寺と号した。

正親天皇皇女入室のときには、当寺を以て比丘尼御所第一位の綸旨を賜った。

それから光格天皇皇女永潤尼公に至るまで、歴代皇女が相次いで入室され、

明治維新後は上臈役をつとめた華族の息女が住持することになった。

創建以来、兵火によって寺地を転々としたが、

当初の岡松殿址に戻ったのは元禄9年(1696)である。

現在の本堂は昭和18年(1943)東京青山御所より移したもので、

本尊釈迦如来像、および地蔵・観音像を安置する。

寺宝には、歴代天皇の宸翰・御物。江戸中期の有職雛がある。新婚雛の愛称がある。

 

 

 


三時知恩寺  浄土宗

2015年10月16日 12時02分55秒 | 寺院

 

 

 

浄土宗の尼門跡寺院(代々皇女や摂関家息女が法脈を継いだ寺院)である。

14世紀半ば、後光厳天皇の皇女・見子内親王によって創建された。

内親王は深く仏教に帰依し、宮中に安置されていた唐の善導大師像を当寺に賜った。

崇光天皇の旧御所・入江殿を賜って寺院に改めたことから入江御所とも称される。

厚く浄土宗に帰依した後柏原天皇(在位15001526)は、国の平和と国民の安泰のため、

宮中で善導大師の六時礼賛(一日6回礼賛を行う法要)を勧められた。

そのうち昼の3回は当寺で勤修するように定められたことから、

寺号を三時知恩院としたと伝えられる。

以来、皇女が相次ぎ入室され、明治維新に及ぶ。

天明8年(1778)の大火で堂宇は焼失し、

現在の堂宇は桃園天皇女御・恭礼門院の旧殿を賜り再建されたものである。

なお、善導大師像は秘仏で、毎年3月14日に開帳される。京都市

 

 

ここは 何でしょう

 

塀の中なので お寺の境内にある

 

しかし、 さらに ブロック塀があって 寺とは区切られています

 


報恩寺  鳴虎の報恩寺といわれる、古い石橋、つかずの鐘、黒田長政  話題が多い

2015年10月16日 07時26分03秒 | 寺院

 

堯店山と号し、浄土宗知恩院派 江戸時代からの名刹。

享保・天明の大火に類焼し、本堂は未だ再建されていない。

皇室とのゆかりは深い

寺伝によると、もと法園寺といい、一条高倉付近にあったが、

文亀元年(1501)後柏原天皇の勅により報恩寺と改め、

浄土宗の寺となった。

 

 

 

門前の石橋は、慶長7年(1602)の刻銘がある。

京都市の古い石橋の1つに挙げられている。

 

天正13年(1585)豊臣秀吉の命により現在の地に移ったとつたえる

 

 稲荷神社

石鳥居は大正12年2月 建立

 

 

地蔵堂

 

 

 

客殿(方丈)に安置する本尊阿弥陀三尊像、

後柏原天皇御下賜の宝物など多数ある。

 

 

 

 

秀吉が聚楽第に住んだ頃、当時の寺の住職、

甫公秀吉のおじに当たるといわれ、

その縁か秀吉はたびたび寺を訪れていた。

寺には虎の図がある。細かい筆で毛の1本1本まで丹念に描かれていて、

1メートルほど離れて見ると、虎が画面から浮き上がって見える。

このことが気に入った秀吉は聚楽第に持ち帰った。

ところが夜になると何やらおろそしぃ物音がする。

どうしても寝付けぬ秀吉は

「これは虎が寺に帰りたがって鳴動しているのであろう」

と考え、さっそく虎の図を寺に返したという。

これが現存する「鳴虎の図」である。

四明陶佾の署名があり、宋から明の時代に中国で描かれたと推定される。

 

 

 

御陵だ

後西天皇皇女  賀陽宮墓

 

 

 

 

鐘楼

境内の鐘楼にかかる銅鐘は古い慣わしの方法にのっとって作られている。

 

 

 

寺の鐘(平安時代後期、重要文化財)には悲しい話が伝わっている。

西陣の織屋の織女と丁稚が、

毎夕仕事の終わりの合図となっていた寺の鐘が

「8つ鳴るか、9つ鳴るか」で言い争い、

負けた方はどんなことでもするとカケをする。

年かさの丁稚は寺男に今晩だけは8つにしてと頼みカケに勝つ。

さんざん悪口を言われた織女は、悔しさのあまり、

これをうらんだ織女は鐘楼で首をくくった。

それ以来、そこには織女の霊が現れるようになり、

また、その鐘を撞くと不吉なことが起こるようになったため、

朝夕に鐘を撞くのをやめて、大晦日の除夜の鐘だけ撞くことにした。

人はこれを「つかずの鐘」と呼び、織女の霊をなぐさめた。

 

境内墓地には

徳川家康の臣阿部正勝父子の墓、

秀吉の侍尼仁叔周孝尼の墓、

伏原・能楽の観世家の墓、

 

 

 

 黒田官兵衛の子、黒田長政はこの寺で

元和9年(1623)8月4日に56才で亡くなっている。

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