アートプラス京めぐり

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京都市外も始めました 先ずは京都南部から

間部詮勝寓居跡

2015年10月05日 14時01分52秒 | 石碑

 

間部詮勝寓居跡

間部詮勝(1802~84)は越前鯖江藩主で,寺社奉行・大坂城代・京都所司代を歴任して老中となった。

水野忠邦(1794~1851)と合わず引退するが,井伊直弼(1815~60)により再度老中に登用され,

将軍後継問題・安政五カ国条約締結などにあたる一方尊王攘夷派を弾圧した。

安政5(1858)年9月,幕府が調印した日米修好通商条約に激怒した孝明天皇(1831~66)を

説得するため上京し,寺町通二条下るにあった妙満寺に滞在した。

この石標は間部詮勝が滞在した妙満寺の跡を示すものである。

妙満寺は昭和42年に岩倉に移転した

この地には、昭和43年(1968)まで、約400年にわたり顕本法華宗の本山・妙満寺があった。

現在は左京区の岩倉幡枝に移転した同寺に、

安政5年(1858)、幕府の老中・越前鯖江(現在の福井県)藩主 間部詮勝が滞在し、

「安政の大獄」と呼ばれる志士の弾圧を指揮したという。

 井伊直弼が大老となり、勅許を受けずに日米修好通商条約に調印したことで、

尊王攘夷派などの反対が高まると、井伊大老は、詮勝を京都に送り、

朝廷との交渉にあたらせるとともに、志士の弾圧に乗り出した。

詮勝は、安政5年(1858)9月に京都に入り、翌年3月まで滞在し、朝廷、公家と交渉する一方、

町奉行所を指揮して、梅田雲浜ら志士を次々逮捕した。

後に、詮勝は井伊大老と意見が合わず、老中を罷免されたうえ、処罰を受けた。

  京都市

昭和四十三年十一月   京都市

 


久坂玄瑞、吉田稔磨 寺島忠三郎 等 ゆかりの地 石碑

2015年10月05日 10時28分26秒 | 石碑

 

久坂玄瑞・吉田稔磨  等 寓居跡

此南西  吉田稔磨所縁  塩屋兵助宅跡 伝承地

この南 池田屋事件 望月亀弥太 終焉伝承地

法雲寺の所在地(現 京都市中京区河原町通二条上ル清水町)は、もと鴨川の河原であった。

「河原町」の地名はその名残である。

地域一帯が埋め立てられ、都市域となったのは、豊臣秀吉時代以後、徳川時代初期の慶長・元和年間ごろ(おおよそ1600年~1624年ごろ)と思われる(京都図屏風)貞享2年(1685)刊行の「京羽二重」巻2に「役行者塚」の存在する場所として当寺が紹介されており、それまでに創建していたといえる。元和5年(1619)以来、長州毛利屋敷が至近の河原町御池に存在していたため、幕末期には毛利家臣が多くこの周辺に居住した。

たとえば久坂玄瑞(のちの義助)が「京都御屋敷の後」(木屋町通御池付近)に、佐世八十郎(のち前原一誠)、楢崎兄弟(弥八郎、仲助か)、寺島忠三郎、中谷正亮、堀真五郎らと同居し(文久2年5月1日付妻 杉文宛久坂書翰)、桂小五郎(のちの木戸孝允)が「木や町三条(二条の誤りか)下ル一番路」(文久3年8月7日付桂宛寺島忠三郎書翰)に住居していた。

 法雲寺もその一つとして使用された。文久2年7月、中老格長井雅楽殺害に失敗した久坂らは、家老浦靭負に自首し、同年8月4日、謹慎のため当寺に入った。ともに当寺の謹慎したのは、寺島忠三郎、野村和作(のち靖)、堀真五郎、福原修蔵も慰問したほか、松島剛蔵(小田村伊之助の実兄)らも訪れている。

同年7月17日、万延元年(1860)から亡命生活を送っていた吉田栄太郎(のちの稔磨)が、伏見街道で世子毛利定広(元徳)に自首し、当寺に謹慎した。文久2年8月13日付 妻杉文宛の久坂玄瑞書翰によれば、「最近は栄太郎も拙者と一緒になり日夜話などをしていますので、(栄太郎の)母も安心いたすようお伝えなさるのがよろしい」(意訳)とある。

当寺は元治元年(1864)の甲子戦争(禁門の変)の戦火を免れた。明治元年11月当時の伽藍は、中心部に本堂、それに接続して東に書院・台所が南北に位置していた。その南には独立して観音堂があったが、その後消失した。(京都府庁文書)。現存の本堂・書院・台所は全く幕末当時の建物であり、そのいずれかに久坂らが居住していたのである。

 

稔磨は同年8月13日に、久坂らも同年9月12日謹慎が解かれ、当寺から離れた。なお、稔磨が懇意にしていた塩屋兵助方も至近の二条寺町東入ルにあったとされる。塩屋は「正義之者」で、元治元年6月の池田屋事件で亡くなった稔麿の死の詳細を夫婦個別にその叔父里村文左衛門に伝えた。また、稔麿から預かった「用心金」30両も送り返している。池田屋事件のおりは、河原町二条下ル東側にあった角倉与一邸脇で割腹遺体が確認されており、それが土佐浪士望月亀弥太と理解されている。

2015年7月 歴史学者 中村武生

関連記事 ➡ 久坂玄瑞     長州藩邸址  どんどん焼けの火元か

 


野口家住宅  明治時代の商家

2015年10月05日 09時15分26秒 | 建築物・明治・大正など

 

野口家は代々呉服商を営んできた商家で、また禁裏へも出仕していたと伝えます。

現主屋は元治元年(1864)の大火後に再建されたもので、

表の店舗棟と奥の居住棟を玄関棟で接続した表屋造りの形式となっています。

間口約7間半の規模を有し、店舗棟は南より土間・南ミセ・北ミセを配して、

さらに北側は狭い庭として通りとは高塀で区画しています。

土間の奥は玄関ニワで、これに面して玄関が開き、その北には仏間・茶室が続きます。

最も奥の居室棟は南端に土間を通して、床上は土間沿いに台所2室をおき、

北寄りは座敷(主室12畳半、次の間7畳半)となって、仏間との間には坪庭がつくられています。

全体にやや複雑な平面構成をしていますが、

それはこの主屋が一度に建てられたものではないためで、当初は南寄りの約4間のみでした。

明治4年(1871)に座敷が移建されるとともに、北ミセ・仏間等が増築され、

さらにその後茶室が建てられて、ほぼ現在の姿になったのは明治中頃と思われます。

 

なお、座敷はもと伏見の小堀屋敷にあったとされるものを、伏見の豪商松屋彦兵衛から購入、

移建したものであることが、当家に残る古文書からわかります。

主室は1間半の床の間と1間の違棚を備えて、端正な中にしゃれた数寄屋風書院の構えをもち、

長押の釘隠し金物や天袋の引手金具の意匠に、小堀遠州との関わりの深さを思わせます。

この住宅は、一部改造部分が見られるものの、

京都の町屋を代表するものの1つとして貴重で、またその座敷は立派です

 

小堀遠州 ゆかりの地  ➡   人物006  小堀遠州 

 


秦家住宅 明治初期の建物

2015年10月05日 08時18分33秒 | 建築物・明治・大正など

 

 

 

秦家は、もともと12代にわたって薬屋を営んできた老舗で、鉾町に位置しています

建物は、表の店舗部と奥の居住部を玄関部で結んだ表屋造りの形式になり、

元治の大火後に再建されたものです

建築年代は店舗部が最も古くて明治2年(1869)、また玄関部と居住部はこれより多少遅れると伝えます。

店舗部は間口5間、奥行き2間で南端に通りニワを配して正面に大戸を開き

その北にはミセ・コシノマの2室を続けています。

ただ、南より3間半をつし2階建てとするのに対して、コシノマの部分のみ平屋建てとなることから、

この部分は年代が少し下る可能性があります。

ミセには置看板を据えて座机のまわりには結界を装置し、

また表構えは2階に額縁付のむしこ窓を開いて、その前には屋根付の大きな看板を作り付けとし、

商家らしい趣を伝えています。

店舗部奥の玄関部は平屋建で、南端の玄関ニワに面してゲンカンをおき、

その北はチャノマとなって、さらに坪庭が配されています。

チャノマは現在4畳半ですが、もとは3畳敷で、

店舗部と居住部を結ぶ廊下的機能を有していたものと考えられます。

この奥に続く居住部は2階建てで、南寄りに通る土間に沿って居室が2列に並んでいます。

この住宅は明治期のものですが、下京の伝都的商家の面影をよく残すものとして評価されます

なお、登録部部は店舗及び玄関部です。京都市文化観光局

 

玄関前のこの2ケ所の四角の蓋は祇園祭のとき山車の柱を建てるためのもの

アスファルトでは弱いので石で造られています

 


山本亡羊読書室旧蹟 江戸時代の植物学2万巻の資料が保存されている

2015年10月05日 06時13分09秒 | 史跡・旧跡

 

贈正    五位    山本亡羊読書室旧蹟

昭和六年八月 京都史蹟会  

山本亡羊(1778~1859)は京都の本草学者。薬草園を備えた読書室(学校)を開いて門弟の養成にあたった。

この読書室は儒医である父封山が,西本願寺文如上人(1744~99)の学問所を下賜されて

開いたものであったが,禁門の変(1864)で焼失した。この石標は山本亡羊の読書室跡を示すものです。

 

江戸後期に本草学者として活躍した山本亡羊の邸宅(読書室)です。

亡羊は名は仲直、通称永吉 安永7年(1778)儒医山本封山の次男としてここで生まれた。

小野蘭山について本草学(植物学)を学んだ。

蘭山が幕命で江戸に下向後は京都の本草の中心となり、

邸内に薬園を設け、内外の薬草を栽培し、また自宅で物産会を催すなど医薬会の発展に貢献した。

亡羊が講習所とした「読書室」は、今は家の名となっているが、

もとは父封山が西本願寺の18世文如上人の学問所の一宇(読書室)を賜ったもので、 

蛤御門の変で類焼した。今のはその後の再建。

2万巻に及ぶ蔵書は、多くの標本類とともに今なお保存されている。

亡羊は安政6年(1859)11月27日、82歳の高齢で亡くなった。

亡羊の子は父の遺業をついで一家をなした。

墓は深草の宝塔寺にある