数ある『賞』は人の努力とは無関係のものと、苦労の末やっと戴けるものに分類する
ことができます。前者の例としまして、長屋の八っあんや熊さんのような、この私も含
めた庶民を苦しめる税法をこさえたり、宍道湖のゴズみたいに人が呉れるものは節
操なく頂いてしまう偉い先生方がごく当然のような顔をして授与されるものもあります。
しかし、どう考えたって庶民と『賞』の接点は見出せないのであります。強いて言えば
町内の運動会の参加賞位。
でもアマチュァ無線というタコ部屋に足を突っ込んだおかげで庶民の私も分け隔て
なく賞の道が開けたのであります。
今まで、賞に飢えて悶々としていたのではありません。また小銭が貯まったから何か
少しでも栄誉なるものに触れたくなったのでもありません。
昭和64年1月5日、アメリカアマチュァ無線連盟から小包が送られてきました。それは
昨年の10月末に送ったDXCC (DX Century Club)アワードの申請結果が詰め込まれ
た、私にとっては貴重品でした。小包にはこちらから送ったカードと審査の結果、当ク
ラブ員への入会資格を与える旨が記載された通知書がありました。(DXCCとは外国
との交信数が100以上になったと認定されれば加入が許され、以後は25か国単位で
追加ができる)申請の結果は119カ国との交信を認めるとのこと。
2月にはそれを示す賞状が送られてきて、額に入れ飾っています。
昭和61年の夏から秋にかけてのあの時期が私にDXへの興味を深くさせたのです。
今更、繰り返して言うまでのことではありませんがOMから『DXをやっている人に悪い
人はいない、悪い人も私たちのようにいい人になれるから』と諭され、のめり込んでし
まい今ではドップリ首まで。『やれ!と言われて、その気になーあって』
早速、HFの局免許を申請し昭和62年3月にDXとの卜ンツーが始まりました。最初の
頃は7メガ帯でソ連のお相手ばかりしていましたがそれでも結構、楽しんでやってい
たと思います。春の本格的なDXシ—ズンになるとバンド中が活気を呈しこれが正に
DXと気をよくしFB、FBの連発。相手が住所はパリなんて打ってくると気分が大きくな
り煙草屋が1キロも先にあることをツイツイ忘れてXYLを捕まえては『マダム、ちょっと
コーシープリーズ』とすっかり国際感覚、豊かな気分を満喫していました。ですから
交信した国の数がいくつなんてことは別の次元だったことは確かです。始めたてで
すから当然のこと交信する国は次々と新しい国で、数は増え続けました。その年の
暮れには70ケ国との交信を成果にDXCCは翌年に夢を託すことになりました。
HFを始めた時、10ワットの無線機と4メーターのルーフタワーを屋根に設置
しそこに7/21メガの八木アンテナで運用していました。10月には100ワットにアップ
しましたが大半のQSOは50ワットで運用して、感じでは八木アンテナに10ワット、そ
れに根性があれば100ケ国は以外と早く交信出来ると思います。
ニューを追いかけ続けるDXレースは相手に勝つために設備の拡充を余儀なくさせ
ているのが現状です。
昭和62年7月、14.5mのクランクアップタワーを建て、今その上に14/21/28メガ5エ
レの八木アンテナを乗せています。
(中略)
DXCC申請後にもニューへの執念は衰えるどころか一段と激しさを増し168カ国と
の交信になり、これからはもっと力が入るのではと思っています。
無線に限らず多くの情報を集め活用する、また情報源を絶やさない者が先を歩け
るようになっています。無線クラブの中でも強力なネットが出来れば素晴らしいこと
だと思います。
DXCC取得までに多々、ご教授いただいたOMさんに感謝しつつ 73(Good bye)
(平成1年3月)
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