祖母が、逝ったのは、は92歳だった気がする。
明治の人らしく、芯がしっかりして、とてもきつく、野良猫などを追いかけたりしていた。
母は、そうとう苦労したらしいが、世の常で、孫にはとても優しかった。
今頃の季節には、朝、私の着るものを炬燵で温めてくれて、起きると着せてくれた。(甘えん坊でして(笑))
身体も丈夫で、田んぼや畑仕事にも、朝早くから遅くまで、精を出していた。
乳癌になったが、普段、身体が痛いだのと言ったことをあまり聞いたことがない。
最期は、膵臓か肝臓だったのか、細い管が入っていて、母と姉が、ガーゼなどを取り換えていた。
訪問看護などない時代で。
多分、もう治る見込みがなく、自宅にいたのだろう。
最期の時も、家の奥の6畳間に寝ていた。
私は、遠方におり、いよいよという時にやっと間に合った。
意識もなく、身体も痩せて、眼を閉じて、ただ寝ているようだった。
息も浅くなっていたが、急に「ふっ~」と大きな息をしたかと思うと、それきり。。
その時、叔父が、一枚ティッシを顔に持っていった。
「みんないいか、いいな」と言い、取り巻いている家族や親戚一同をぐるっと見回した。
息はしていないぞ、わかったか、皆よく見ておけ、というふうに。
それは、普通のおじさんだけれど、威厳に満ちた光景だった。
私が看護学生なのを知っていて、誰かが「脈見るか」と言った。
脈の触れない、手首の橈骨動脈のあたりをさわり、「いい」とかなんとか言った気もする。
在宅での看取りも望まれる今、考えると、明治の気骨のある祖母の最期は、それにふさわしかったと思う。
葬式でも、三男が「ばあばあは、最高だった」と言っていたのを記憶している。
夏休みの頃の炎天下、よく神社の境内の草取りをしていた。
一服に、神社で、真っ赤なかき氷を一緒に食べた。
私は、アイスを持っていくだけだったけど。。。