施設での看取り・・若い介護の方たちの心のケアを

2015-07-31 21:16:20 | 看護師だった頃・看取り

今日の北海道新聞の生活欄は、 『「みとり」の場を考えましょう』 でした。

人生の最期を迎える場は、病院から施設や自宅へ・・・厚生労働省は、在宅での「みとり」を推進している。

 

しかし、現実には、自宅でのみとりは減り続け、現在役8割が病院、診療所で亡くなっている。

1975年くらいで、在宅死が減り、病院、診療所は、増える一方となった。

 

2014年の年間死亡者は、126万人、2030年には、160万人へ。

在宅とは、自宅のほか介護老人施設や特別養護老人ホームも含まれるという。

 

自宅に代わり、施設での看取りは増えていく。

今の高齢者も、子供に迷惑かけたくない

施設へ入るのが当たり前、という流れ。

私の祖母などは、自宅で大勢の家族や子供、孫などにみとられたが、今はもう、一般ではない。

 

その時の、ケアの主は、介護分野の方たち。

看護師も、新人時代の初めての死は、衝撃的。

 

介護士は、なお、教育の点でも、経験の点でも少なく、不安だと思う。

 

看護介護にかかわらず、若い人は「死ぬこと」などあまり考えないのではないだろうか。

「若いということや生が尊ばれ」「老いるとか死ぬとかがよくない」という日本の今の状況。

 

でも、誰でも迎えるのにと思う。

映画でも、本でも、何か想像していく、話し合うことが必要だと思う。

 

経験値が少ないことをどうやって、補っていくか。

教育もそうだが、死に接したときの、心のケアがとても大事だと思う。

 

先輩は、よく話を聴いてあげてほしい。

また、自分の経験を話したり、若い人が、一人で、いろいろ思い出して考えたりしないようにしてほしい。

 

これから、ますます、介護の方たちが、施設での看取りの経験を積んでいく時代になってきている。

 

それではまた。


逝く前に、クロッカス見てほしかったです。

2015-03-30 19:04:44 | 看護師だった頃・看取り

 

 

 

 

旭川も、やっと、クロッカスが咲きました。

小さいけど、強い感じの花です。

黄色のクロッカスを見てほしかった患者さんがいます。

 

ご本人に、「癌」だとは言わなかった時代のこと。

癌と言われれば、命はない と同じことでした。

 

富良野から来られた、50代の小柄な女性の方でしたが、肺癌でした。

乳癌の闘病記を書いた「千葉敦子さん」の本を読まれていました。

 

患者さんも、大体の人が、はっきり言わなくても、病気の程度はわかります。

今でこそ当たり前ですが、担当医師は、「告知した方がいい」という、その時代には、新しい考えを持っていました。

 

予後告知もしたかどうか。

予後とは、あとどのくらいの命かということで、これは恐ろしくて、なかなか聞けません。

 

とても静かに、ただ医師の話を聞いておられました。

娘さんが、お母さんの小さな肩を抱いて、倒れんばかりに歩いて。

その夜は、市内の娘さんのお宅に外泊されました。

 

自分の家族や、自分自身だったら。。。

 

とうとう意識が混濁し始めました。

庭の黄色のクロッカスが咲いて、元気出るかなとか思って、鉢に入れて持っていきました。

 

クロッカスは見てもらえませんでした。

その朝、早くに、亡くなっていたのです。

 

また、クロッカスを家に持って帰り、土に戻しました。

何で人は死ぬんだろっ。。。

 

今は、その頃より死が身近になっています。

死なない人はいないのですから、恐怖でも、何とか皆死んでいく。

こればかりは。。。

 

熊さんと八つぁん

「あの世はどんなところだい」

「いいところらしいよ」

「へえ~、どしてだい」

「戻ってきた人は誰もいない」

 

笑って死にたいものです。

それではまた。


家での看取り・・・祖母の息をティッシュでみた叔父

2015-02-01 15:13:20 | 看護師だった頃・看取り

                                                         

祖母が、逝ったのは、は92歳だった気がする。

 

明治の人らしく、芯がしっかりして、とてもきつく、野良猫などを追いかけたりしていた。

母は、そうとう苦労したらしいが、世の常で、孫にはとても優しかった。

今頃の季節には、朝、私の着るものを炬燵で温めてくれて、起きると着せてくれた。(甘えん坊でして(笑))

 

身体も丈夫で、田んぼや畑仕事にも、朝早くから遅くまで、精を出していた。

乳癌になったが、普段、身体が痛いだのと言ったことをあまり聞いたことがない。

 

最期は、膵臓か肝臓だったのか、細い管が入っていて、母と姉が、ガーゼなどを取り換えていた。

訪問看護などない時代で。

多分、もう治る見込みがなく、自宅にいたのだろう。

最期の時も、家の奥の6畳間に寝ていた。

 

私は、遠方におり、いよいよという時にやっと間に合った。

 

意識もなく、身体も痩せて、眼を閉じて、ただ寝ているようだった。

息も浅くなっていたが、急に「ふっ~」と大きな息をしたかと思うと、それきり。。

 

その時、叔父が、一枚ティッシを顔に持っていった。

「みんないいか、いいな」と言い、取り巻いている家族や親戚一同をぐるっと見回した。

息はしていないぞ、わかったか、皆よく見ておけ、というふうに。

それは、普通のおじさんだけれど、威厳に満ちた光景だった。

 

私が看護学生なのを知っていて、誰かが「脈見るか」と言った。

脈の触れない、手首の橈骨動脈のあたりをさわり、「いい」とかなんとか言った気もする。

 

在宅での看取りも望まれる今、考えると、明治の気骨のある祖母の最期は、それにふさわしかったと思う。

葬式でも、三男が「ばあばあは、最高だった」と言っていたのを記憶している。

 

夏休みの頃の炎天下、よく神社の境内の草取りをしていた。

一服に、神社で、真っ赤なかき氷を一緒に食べた。

私は、アイスを持っていくだけだったけど。。。


夜勤の朝の、青い夜明け

2015-01-21 21:18:51 | 看護師だった頃・看取り

                     

夜勤は、勤務につくまでが、いやでしたね~。(笑)

皆が寝ている時に、自分だけが布団から出なくてはならない、あのけだるさ。

今日のような、冬の冷えた日は、いっそうです。

(夜勤の看護師さん、お疲れ様です)

でも、白衣を着て、病棟に向かえば、シャキッと、仕事モードになります。

(不思議ですね~)

 

すごく好きだったのは、空がが少しずつ青くなって、だんだん夜が明ける時。

患者さんのラウンド(患者さんの観察や処置)が、一段落して、窓から、外を眺める時。

研ぎ澄ましたような、冴えた空気。

 

患者さんが、眠れているかな、具合悪くないかな.

ああ、大丈夫だと、安心して、外を眺める。

消灯までの戦争のような時間がうそのようだ。

優しい気持ちになる。

 

医療の内容が、濃密になるにしたがって、ピーピーという、アラームの音が増えていった。

やってもやっても終わらない処置や、ナースコールの嵐の時も。

夜中の緊急事態。

音をなるべくたてないで、でも、走る。

 

そんな日も多かったけれど、やっぱり、空気がピーンとなった、青い夜明けは忘れられない。

患者さんにも、私にも、みんなに、「朝になったら」って、新しい何かが来る気がして。


すっぽんぽんでオペ室へ。

2015-01-18 21:56:50 | 看護師だった頃・看取り

                                                                    

ope出しの時の、失敗をご披露します。

 

あれは、肝臓を診る、腹腔境の検査の時のことでした。

とてもお元気で気さくな、50代位の男性で、ストレッチャーに寝てもらい、ope室へ行きました。

 

帰室後、「いやいや、手術室の看護婦さんに、はいてないのって言われたさ」ようなことを言われました。

”ええっ~!!! はいてないとは?  パンツはいてて良かったのか。。恥ずかしい。。。”

私は、謝ることも、何か言うことも出来ず、患者さんもそれ以上は何も言われませんでした。

 

私は、どうしてそうなったのかわかりませんが、すっぽんぽんで患者さんをお連れしてしまいました。

私は、多分下を向いて真っ赤になっていたと思われます。

 

自分の娘のような、新米の私を気の毒に思って、何も言われなかったのでしょう。

優しい人でした。

 

看護師になっていくって、患者さんから様々なことを学び、少しづつ成長させてもらうことだと思います。

ありがとうです。。