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ジーコ監督の記憶

2020-05-18 21:28:24 | ワールドサッカー
トルシエ、オシムと来ればこの人に触れざるを得ない、元日本代表監督ジーコ氏の記憶を書きます。ジーコは選手時代の実績が1982年、1986年のW杯とあり、選手としては世界の名手ということは間違いないですが、監督としては初の監督が日本代表ということで手腕はどうかと当時思われていました。

ジーコ監督のキーワードには「自由」が挙げられます。トルシエ監督時代には戦術的な縛りが厳しかったので、中田英寿、中村俊輔、小野伸二、稲本潤一の4人のMFに自由を与えればどれだけ創造性のある攻撃ができるかというのが、彼の「戦術」でした。自由を与えられているというのは試合前のウォーミングアップにも表れており、最後にブラジル体操で集合する前は、各自が自分の好きな方法でアップしていいルールでした。

しかし、今振り返るとジーコ監督の時代にはおかしな起用もありました。まずは「海外組」というだけで判で押したようにスタメンが確約されていました。当時の日本代表は国内組で行われる親善試合と、海外組も入れた公式戦の両方が行われていましたが、親善試合ではスタメンの遠藤保仁と小笠原満男は、海外組が戻ってくる公式戦になると常にベンチに回されてしまう不遇な立場でした。

また、2004年の1次予選の初戦のオマーン戦で、40度の熱を出していた柳沢をスタメン起用したという謎の采配もありました。柳沢は発熱故に、飛行機の便を遅らせたほどの重症でした。この試合は久保のゴールで辛くも1-0で勝利し結果だけは出ましたが、このあたりでサポーターも「ジーコ解任運動」を起こしたほどでした。

それでも、ジーコの持っていた運の強さは相当のレベルでした。1次予選では2戦目のシンガポール戦で「引き分けなら解任」と当時の川淵三郎キャプテン(会長)も腹を括ったほどでしたが、藤田俊哉のゴールで辛くも2-1と勝利して首がつながります。1次予選を通過した後の最終予選でも、初戦の共和国戦で1-1の同点から、ロスタイムの大黒のゴールで辛勝した試合もありました。

予選を通ることはできましたが、当時は中田英寿ら黄金世代の全盛期でした。それほどのメンバーを、W杯本大会で1分け2敗の成績で敗退させてしまったのは事実です。今となっては、このときはもっといい監督候補もいたのではと、残念な気持ちも残った印象です。

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