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背番号71からの出発(秋山幸二)

2014-09-03 18:10:46 | 他スポーツ
今日は浦和のナビスコ杯準々決勝ですが、平日夜の試合の即日更新は例によって勘弁していただき、穴埋めネタを用意しておきます。今回は西武黄金時代を支えた主砲、秋山幸二さん(現ソフトバンク監督)の思い出です。

秋山は1981年、西武にドラフト外で入団しています。当時の背番号はなんと71で、俺はコーチで入団したのかと本人もびっくりでした。すぐに戦力になり、背番号も24になりましたが、あれほどのスーパースターが背番号71をつけていたのは驚く事実です。

当時の西武ライオンズファンブックを今でもとっておいていますが、当時はドラフト1位の石毛に注目が集まっていて、秋山の写真は小さいものが1枚だけでした。まだ、当時の西武は強いチームの基礎にしようと積極的にドラフト外の選手を採用していたので、秋山もそんな大量採用の一人でした。

しかし、秋山はのちに日本シリーズで本塁打を打ってバック宙でホームインしたパフォーマンスで有名になったように、卓越した運動神経の持ち主でした。コンスタントに30本を超えた本塁打と、俊足を生かしたセンターの守備で、西武の中心選手になりました。

ただ、秋山はその能力の割には西武では大事にされていなかった印象です。理由は打率が2割5分ほどと低いことでした。当時の森監督は選手を駒と割り切り確率を重視した野球をしたので、バントもできずいつ本塁打が出るかわからない秋山より、確実に四死球を選んで塁に出る石毛を重用しました。

そのため、FAになったら引き留めは困難と判断した西武のフロントが、FAまであと1年というタイミングで当時のダイエーホークスにトレードに出してしまいました。広くフェンスが高い福岡ドームが本拠地になった秋山は、本塁打より安打を打ちに行って、売り物の長打力は落ちてしまいました。

それでも、ダイエー、ソフトバンクと王監督に信頼され、コーチ、監督と務めた秋山は、きっと福岡に行って良かったと思います。西武ファンの私は、チームの看板選手だった秋山のトレードは衝撃的でしたが、本人のためには良かったと今では割り切れるようになりました。

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