
今日はネタがないので、先日の埼スタのトークショーにいたレジェンドから、元浦和GK土田尚史さんを取り上げます。これまで選手、コーチとして現場一筋だった土田氏ですが、今回GKコーチを退任して社長付となり、本人曰く「51歳にして新入社員だよ」というビジネスの世界に入ることになります。そんな土田氏の記憶です。
土田は1990年、当時の日本リーグ三菱に、大商大を卒業して入団しています。当時はまだプロ選手は稀で、土田も三菱で空調機メーカーの仕事をしていたと聞きます。そんな土田の環境が変わったのは1993年のJリーグ創設で、NTT関東から獲得した田北雄気というライバルと、一つしかないGKのポジションを争うことになります。当時、土田と田北とは緊張関係で、口もきかないという関係でした。
当時、Jリーグは史上空前のブームに沸いていました。突然、駒場スタジアムや国立競技場が満員になるという環境の変化に、サポーターとどうやって関わっていけばいいか困惑する選手が多かった様子ですが、土田は異彩を放っていました。当時、1994年の試合で、ゴール裏のサポーターに向かって手を叩き、「応援してくれ」と指示を送っていたのです。
また、大原に練習を見に行ったときの対応も他の選手とは違いました。金網越しにGK練習を見ていた私に向かって「今日は暑いよね」とGK練習で汗を流しながら休憩中に声をかけてきました。いい意味で、サポーターを「積極的に利用した」GKでした。事実、ゴール裏のサポーターの声で相手のフリーな選手に気づくこともありました。
土田は指示の声の大きさと、横方向の反応の良さを持っていましたが、ゴールキックがハーフウェイラインまでしか飛ばないという欠点がありました。本人曰く「中学生より飛ばない」と認めており、これもあって日本代表などに呼ばれることはなかったですが、浦和の一時代を支えた熱血漢GKとして、今でもプレーを思い出せるほどです。
土田は2000年、選手とGKコーチを兼任することになり、事実上引退することになりました。それから18年、GKコーチとして都築や山岸を育てました。これからの人生も、充実したものであって欲しいと、かつてのサポーターとして願っています。
土田は1990年、当時の日本リーグ三菱に、大商大を卒業して入団しています。当時はまだプロ選手は稀で、土田も三菱で空調機メーカーの仕事をしていたと聞きます。そんな土田の環境が変わったのは1993年のJリーグ創設で、NTT関東から獲得した田北雄気というライバルと、一つしかないGKのポジションを争うことになります。当時、土田と田北とは緊張関係で、口もきかないという関係でした。
当時、Jリーグは史上空前のブームに沸いていました。突然、駒場スタジアムや国立競技場が満員になるという環境の変化に、サポーターとどうやって関わっていけばいいか困惑する選手が多かった様子ですが、土田は異彩を放っていました。当時、1994年の試合で、ゴール裏のサポーターに向かって手を叩き、「応援してくれ」と指示を送っていたのです。
また、大原に練習を見に行ったときの対応も他の選手とは違いました。金網越しにGK練習を見ていた私に向かって「今日は暑いよね」とGK練習で汗を流しながら休憩中に声をかけてきました。いい意味で、サポーターを「積極的に利用した」GKでした。事実、ゴール裏のサポーターの声で相手のフリーな選手に気づくこともありました。
土田は指示の声の大きさと、横方向の反応の良さを持っていましたが、ゴールキックがハーフウェイラインまでしか飛ばないという欠点がありました。本人曰く「中学生より飛ばない」と認めており、これもあって日本代表などに呼ばれることはなかったですが、浦和の一時代を支えた熱血漢GKとして、今でもプレーを思い出せるほどです。
土田は2000年、選手とGKコーチを兼任することになり、事実上引退することになりました。それから18年、GKコーチとして都築や山岸を育てました。これからの人生も、充実したものであって欲しいと、かつてのサポーターとして願っています。
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