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長友佑都の記憶

2020-04-03 23:08:31 | ワールドサッカー
とりあえず、行けるところまでは記憶ネタで持たせるということにして、日本代表の左SBといえばこの人、長友佑都選手の記憶を書きます。長友の名前を初めて聞いたのは、明治大学3年生のときのU-23代表の消化試合、マレーシア戦です。当時から、左右両方のSBができるのが売りで、この試合ではゴール前に飛び込んでヘディングシュートも決めています。

もっとも、長友は遅咲きの選手で、大学でも2年生の途中までレギュラーではなく、1年生のときは応援団で太鼓も叩いていたと聞きます。それでも、その身体能力の高さは多くの人に知られることになり、大学4年生のシーズンを大学でなくFC東京でプレーするという大きな決断をすることになります。これでプロとなり、学費の心配をしなくてよくなったと、母子家庭で育った長友としては安心できた決断でした。

入団1年目から背番号も5と即戦力の扱いで、当時の味スタでは長友がボールを持つとその高い身体能力で何かをしてくれるのではと期待して、歓声が沸くほどでした。当時、FC東京とは海外移籍への条件を決められており、「チームでレギュラー」「U-23代表入り」「代表入り」「クラブでタイトル」などありましたが、それをすべてクリアしたことでセリエAの下位チーム、チェゼーナ入りを果たします。

チェゼーナではその身体能力を生かして何度も上下動をしていましたが、FWが決定力不足で長友の頑張りはあまり生きないチームでした。しかし、チェゼーナで半年プレーしたところで、強豪インテルからシーズン途中で完全移籍のオファーが届きます。さすがにインテルともなれば、即レギュラーなどという環境ではないですが、周りが代表キャプテンや代表100試合などのレジェンド揃いだった強豪の一員になります。

当時、ポジション争いをしたルーマニア代表DFキブは、長友には絶対にポジションを渡さないと必死で、負傷しても交代を拒否するほどでした。長友本人にとっても、インテルという環境は「毎日がW杯本大会のよう」というレベルの高い練習が日々行われており、ここで活躍したことで代表の左SBのポジションを不動にします。

ロシアW杯で妻が妊娠中でW杯に呼べなかったという理由で、36歳で迎える次のカタールW杯こそ見てもらいたいと、代表でのプレーを続行しています。長友に残されたキャリアは長くはないでしょうが、日本人では有数の身体能力を遺憾なく発揮した、思い出に残る選手という印象が強いです。

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