スポーツの試合は開催のメドが立たず記憶ネタを続けるしかないのが現状なので、写真の元大関霧島の陸奥親方の記憶を書きます。霧島は霧島山の登山口の鹿児島県牧園町(現霧島市)の出身で、中学を卒業して井筒部屋に入門します。出世は遅く、幕下を抜けるのに4年かかるなど、のちに大関になる力士にしては苦しんだ下積み時代でした。
その理由として、彼が体重110kgほどの軽量力士だったことが考えられます。当時の霧島の相撲は、低く当たって前みつを引けば驚異的な粘りが出ますが、軽量を突かれて速攻で狙われるとなかなか勝てない力士でした。そのため、突き押しの相手に弱かったこともあって、なかなか上位に通用するほどの力士にはなれませんでした。
霧島が変わったのは、平成元年に小結に昇進していた場所で、1勝14敗と大きく負け越した場所がきっかけです。何かを変えなければ強くなれないと実感した霧島は、プロテインを飲むなどの肉体改造に取り組みます。もともと、「バーベルが恋人」というように、力士ではウエイトトレーニングを始めた先駆者だった霧島ですが、この肉体改造で体重を130kg前後まで増量します。
これで、霧島の相撲は変わりました。力が強くなったことで、それまではできなかった吊り寄りを得意技の一つにすることができました。NHKの「この人この技」で霧島本人が話していたのによれば「180kgくらいまでは吊れる」と全盛期の吊りを振り返っており、千代の富士の1000勝がかかっていた相撲で吊りを見せて記録達成を阻止するなど、相撲でも成果が出てきました。
大関昇進は30歳のときです。入門から15年、91場所かかっての大関昇進は史上最も遅い記録です。大関としての霧島は、在位16場所優勝1回と平凡でしたが、それでも110kgの軽量力士だった当時の霧島を考えると、大きな成功を成し遂げたと言ってもいいと思えます。努力は報われることを教えてくれた、彼の相撲を見ることが、学生だった自分にとって楽しみでした。
今は、陸奥親方として弟子の霧馬山を幕内まで育てました。井筒部屋から横綱鶴竜も移籍してきており、今の陸奥部屋は活気が出てきたと思われます。彼も60歳を迎え、定年までは5年弱ですが、親方としてもある程度成功できたのかなと思います。懐かしい、青春時代の記憶が、彼が相撲の解説でテレビに出てくるたびに蘇ってきます。
その理由として、彼が体重110kgほどの軽量力士だったことが考えられます。当時の霧島の相撲は、低く当たって前みつを引けば驚異的な粘りが出ますが、軽量を突かれて速攻で狙われるとなかなか勝てない力士でした。そのため、突き押しの相手に弱かったこともあって、なかなか上位に通用するほどの力士にはなれませんでした。
霧島が変わったのは、平成元年に小結に昇進していた場所で、1勝14敗と大きく負け越した場所がきっかけです。何かを変えなければ強くなれないと実感した霧島は、プロテインを飲むなどの肉体改造に取り組みます。もともと、「バーベルが恋人」というように、力士ではウエイトトレーニングを始めた先駆者だった霧島ですが、この肉体改造で体重を130kg前後まで増量します。
これで、霧島の相撲は変わりました。力が強くなったことで、それまではできなかった吊り寄りを得意技の一つにすることができました。NHKの「この人この技」で霧島本人が話していたのによれば「180kgくらいまでは吊れる」と全盛期の吊りを振り返っており、千代の富士の1000勝がかかっていた相撲で吊りを見せて記録達成を阻止するなど、相撲でも成果が出てきました。
大関昇進は30歳のときです。入門から15年、91場所かかっての大関昇進は史上最も遅い記録です。大関としての霧島は、在位16場所優勝1回と平凡でしたが、それでも110kgの軽量力士だった当時の霧島を考えると、大きな成功を成し遂げたと言ってもいいと思えます。努力は報われることを教えてくれた、彼の相撲を見ることが、学生だった自分にとって楽しみでした。
今は、陸奥親方として弟子の霧馬山を幕内まで育てました。井筒部屋から横綱鶴竜も移籍してきており、今の陸奥部屋は活気が出てきたと思われます。彼も60歳を迎え、定年までは5年弱ですが、親方としてもある程度成功できたのかなと思います。懐かしい、青春時代の記憶が、彼が相撲の解説でテレビに出てくるたびに蘇ってきます。
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