レッズの公式発表で、リカルド・ロドリゲス氏の新監督就任が発表になっていましたが、今の時点では情報を持っていないので、現浦和コーチの平川忠亮さんの現役時代の記憶を書きます。平川は、小野伸二と清水商業でチームメイトでしたが、高卒で完成していた小野伸二とは違って遅咲きの選手で、筑波大学を卒業して浦和入りします。
当時、平川は右アウトサイドに定着していた山田暢久のバックアップとしての期待でした。右利きの平川ですが、当時のオフト監督は平川に左アウトサイドへのコンバートを命じます。平川は彼なりに左アウトサイドへの適応を考えて、右足のアウトサイドですらすようにクロスを上げるなど工夫を見せて、それまでの左アウトサイドだった路木からポジションを奪ってトップチームに定着します。
当時のチームメイトの岡野雅行氏が「チームで一番の身体能力を持っている」と評したスピードが彼の武器で、カウンターを食らうと真っ先に戻って来られる危機管理要員としての期待でした。また、この左アウトサイド挑戦が効いて、複数のポジションをこなせるのも彼の強みになります。左右のアウトサイド、右ストッパーなどが可能なユーティリティプレーヤーでした。
平川自身は、思い出に残るプレーとして、2007年のACL準決勝の城南一和戦のPK戦を挙げています。当時、リーグ戦とACLの掛け持ちで苦しんだ浦和は限界状態でしたが、この試合では「勝つとすればPK戦に持ち込むしかない」とチームはまとまっていました。平川は最もプレッシャーがかかると言われる5人目のキッカーを務めて成功し、浦和が決勝に進んだ、サポーターとしても思い出深い試合です。
私自身が平川の記憶で大きいのは、2011年の残留争いの裏天王山のアウェイ福岡戦です。この試合は浦和が勝てばほぼ100%残留が決まる試合でしたが、引き分け以下だと翌日に試合を控える甲府が俄然やる気が出る状況でした。そんな試合で、ベテランの坪井と平川が落ち着いてボールをさばいて落ち着かせ、この残留決戦を2-1で勝ち切った記憶があります。
また、平川は4バックのSBに置いても大丈夫で、歴代監督に4バックの監督がいても対応できる能力がありました。さすがに現役の最後の方はスピードは落ちていましたが、それでも35歳近くまでスピードを持っていました。長持ちでいい選手だったと、今でも試合前の練習でピッチに立っている姿を見て思い出します。
当時、平川は右アウトサイドに定着していた山田暢久のバックアップとしての期待でした。右利きの平川ですが、当時のオフト監督は平川に左アウトサイドへのコンバートを命じます。平川は彼なりに左アウトサイドへの適応を考えて、右足のアウトサイドですらすようにクロスを上げるなど工夫を見せて、それまでの左アウトサイドだった路木からポジションを奪ってトップチームに定着します。
当時のチームメイトの岡野雅行氏が「チームで一番の身体能力を持っている」と評したスピードが彼の武器で、カウンターを食らうと真っ先に戻って来られる危機管理要員としての期待でした。また、この左アウトサイド挑戦が効いて、複数のポジションをこなせるのも彼の強みになります。左右のアウトサイド、右ストッパーなどが可能なユーティリティプレーヤーでした。
平川自身は、思い出に残るプレーとして、2007年のACL準決勝の城南一和戦のPK戦を挙げています。当時、リーグ戦とACLの掛け持ちで苦しんだ浦和は限界状態でしたが、この試合では「勝つとすればPK戦に持ち込むしかない」とチームはまとまっていました。平川は最もプレッシャーがかかると言われる5人目のキッカーを務めて成功し、浦和が決勝に進んだ、サポーターとしても思い出深い試合です。
私自身が平川の記憶で大きいのは、2011年の残留争いの裏天王山のアウェイ福岡戦です。この試合は浦和が勝てばほぼ100%残留が決まる試合でしたが、引き分け以下だと翌日に試合を控える甲府が俄然やる気が出る状況でした。そんな試合で、ベテランの坪井と平川が落ち着いてボールをさばいて落ち着かせ、この残留決戦を2-1で勝ち切った記憶があります。
また、平川は4バックのSBに置いても大丈夫で、歴代監督に4バックの監督がいても対応できる能力がありました。さすがに現役の最後の方はスピードは落ちていましたが、それでも35歳近くまでスピードを持っていました。長持ちでいい選手だったと、今でも試合前の練習でピッチに立っている姿を見て思い出します。