内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

項目がすべて動詞の哲学事典はいかがでしょうか

2021-08-21 18:24:22 | 哲学

 今日も両膝がだるい。走る距離を9キロに減らし、残り1キロは歩く。第二回目ワクチン接種の今月25日までは毎日走るつもりだが、日毎の体調と相談して、距離にはこだわらないようにする。接種翌日と翌々日は、体調にかかわらず、ジョギングは休む。ウォーキングも体調によりけり。少しでも懸念があれば、自宅で安静にしているつもりである。
 生まれてこのかた基礎疾患がまったくなく、渡仏後25年間、手のかぶれで皮膚科に数日通ったことが20年近く前に一度あるだけで、それを除けば、健康診断書を発行してもらうため以外に病院に行ったことさえない。だが、過信や慢心は禁物だ。今回接種を受けるのは、少なくとも数年に渡る十分な治験を経ていないワクチンである。どのような副反応を起こさないともかぎらない。
 万全の体勢で二回目接種に臨むべく、明日から断然禁酒する……のは、意志薄弱な老生には土台無理な話なので、節酒(接種とかけたオヤジギャクじゃありませんよ)することにした。明日から接種前日まで、一日のワイン摂取量をボトル半分に制限し、接種当日及び翌日(体調によっては翌々日も)禁酒することをここに誓います。まさに断腸の思いである。というわけで、今日は、この未曾有の過酷な試練に備え、一本以上飲むことを自分に許可した(って、あんた、バカなの?)。
 さて、事典には実にさまざまな種類があるが、やはり論文とは違ったそれに相応しい文体がある。小生が常日頃親しんでいる事典は、Dictionnaire du Moyen Âge, PUF, 2002 ; Dictionnaire de l’autobiographie, Honoré Champion Éditeur, 2018 ; Vocabulaire européen des philosophies, Seuil & Le Robert, 2019 であるが、今回の項目執筆にあたってもお手本としてしばしば参照している。これらの事典はそれぞれに個性がある。当たり障りがなくて「客観的な」記述を踏み越えた知見が随所に披瀝されている。それがとても興味深く、かつ参考になる。
 事典といえば、項目としては言葉が並んでいる。しかも、多くの場合、それらの言葉は名詞である。当たり前のことのようだが、今日、佐野眞一の『宮本常一が見た日本』(ちくま文庫 2010年)を読んでいてハッとした。
 渋沢敬三は、戦中、中世の絵巻物の中から今日の民衆生活につながるものを書き抜いて、字引きならぬ絵引きを作るという企画を立ち上げた。戦後、渋沢没後もこの企画は継続され、宮本常一はその中心的な役割を果たした。この企画は、『絵巻物による日本常民生活絵引』(角川書店 全五巻 1964年)として結実する(その後、総索引が別巻として増補された平凡社版が1984年に刊行される)。

この「絵引」の卓越したところは、衣類や帽子などの名詞だけではなく、「赤ん坊に乳をふくませる」「棒で叩く」「石を投げる」といった所作を示す動詞とも対応していることである。われわれはこれを活用することで、現代人が使っているモノや、現代人のふるまいや仕草が、昔どうだったかを一目瞭然に知り、同時にその変遷に思いをいたすことができる。(283頁)

 事典的思考はとかく名詞中心になりやすい。しかし、私たちの生活はさまざまな動作・行為・行動からなっている。項目が動詞だけの哲学事典があってもいいのではないかとふと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


一つの古語の意味の変遷と展開を観念の冒険史の一筋として読む ― 方法としてのメテクシス

2021-08-20 13:21:45 | 哲学

 今日はいつもより少し早く4時36分にジョギングに出発した。昨晩から両膝関節の周囲が少しだるく、いつものようには走れなさそうなので、早めに出て、少しゆっくり走り、自宅に帰り着く時間はいつも通りにするためである。昨日とはまた少し違うコースにしたが、やはり自宅からあまり離れないようにした。結果として1時間2分で10キロ走る。
 文学作品に現れたある古語の意味を哲学的に考察するために私が採用した方法は、一言でいうと、その語の意味の変遷をその原義から現代的用法まで観念の冒険史の一筋として追跡し、現代哲学においてその言葉が開きうる新しい視座の可能性を示すことである。より詳しく言えば、西洋哲学にない「日本固有なもの」をある言葉の中に無理やり押し込んで悦に入るだけの尊大な文化主義や、西洋哲学のある概念との間にありもしない共通性を捏造して、日本文化の地位を引き上げようとする卑屈な普遍主義を排し、その言葉が日本の思想史・精神史の中でどのような世界了解を可能にし、またそれがどのように変化していったか、あるいはその変化にもかかわらず保存され続けている何らかの不変的要素があるのかどうか観察し記述することである。
 しかし、その変化の歴史の追跡結果を単に「客観的に」記述することがこの方法の最終目的なのではない。その変化の歴史の中に、その言葉に内包された精神的エネルギーの放出・発散の契機と、意味論的に近接する他の言葉との接触と相互分節化・差異化を通じてのエネルギー量の増減の契機とを捉え、それらの契機を経て現在なお生きているその言葉の生命の持続を観念の冒険史の一筋として記述し、その記述そのものを通じてその言葉が現在なお保有しているエネルギーを解放して、現代哲学に一つの新しい視角を開き、その冒険史を未来へと開かれたものとして自ら受け継ぐという「主体性」もこの方法には含まれている。
 つまり、この方法を自ら採用する者は、自分の考察と思考もまた、たとえそれがどんなにささやかなものであれ、観念の冒険史の中に書き込み、一人の「当事者」として、考える我が身をもって、予見不可能なものを常に孕んだその冒険に関与・参加しなくてはならない。これを私は方法としてメテクシスと呼ぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


話題1-タンパク質摂取量大幅増→体脂肪率低下 話題2-事典の記述スタイルの多様性

2021-08-19 14:57:20 | 雑感

 時間は昨日とまったく同じだが、今日は走るコースを途中から変えた。走り出してすぐどうも体が少し重く感じられ、もし自宅から遠く離れてしまったところでさらに体調が悪くなると、そこからの帰りがしんどくなるので、自宅を中心として半径1キロ以内をジグザグに走るコースに変更した。時速10キロのペースはもうほぼ身についているので、そのペースを守れば、コースにかかわらず、1時間10キロは達成できる。今日は1時間で10,2キロ。今日のシューズはミズノ Wave Inspire 17。
 一昨日辺りからはっきりと現れはじめた体組成計の数値の変化は今日も同傾向を示している。体脂肪率が下がり続け、今日の計測では13,6%。この数値の推移は、運動量の変化だけをその要因としているのではないと思われる。というのも、ここ数日、鶏肉料理を中心としてタンパク質の摂取量を大幅に増やしているからである。このことも数値の変化と関係しているだろう。
 さて、先日来、ある項目の原稿執筆を依頼されている辞書について何度か話題にしているが、言葉の意味を説明する言葉の辞典ではなく、それはヨーロッパ・アジア言語の中の数百の哲学・美学・批評概念を説明することを主旨としているから「事典」と呼ぶ方が相応しいだろう。
 言葉の辞典にもそれぞれ個性があるし、記述のスタイルも一様ではない。しかし、語源・語義・語構成・用例・類語・対義語など、基本的な構成要素は共通している。それに対して、事典の方は、分野・目的・用途等に応じて、各項に盛り込むべき諸要素も記述のスタイルも多様である。
 一般向けの言葉の辞典であれば、各語の日常的な使用における意味が記述の基軸になり、その語が哲学的にあるいは思想史上重要な概念であろうが、そのことについて立ち入った記述はされない。例えば、『新明解国語辞典』(第八版)で「主体」を引いてみると、「①自分の意志で行動するととらえられる人(もの) ②組織などを作る上で中心となるもの」と定義されている。ハンディな国語辞典としてはこれで十分だろう。
 ところが、これが哲学事典ともなれば、まったく事情が異なる。どれだけの内容を盛り込むかは事典の規模にもよるから一概には言えないが、少なくとも西洋哲学史におけるその原語の歴史の略述と「主観」との意味の違いの説明は必要だろう。日本思想史事典であれば、「主体」がなぜいつどのような思想史的文脈で「主観」に取って代わるようになったかの説明は必須である。
 哲学・思想関係の事典で、日本語のある古語を項目として立てる場合、もう一つ気をつけなくてはならないことは、その語の歴史性と概念性を区別する必要があることである。例えば、「さび」を項目として立てる場合、古典の中での用例から帰納的にその意味を規定する歴史的記述と美的理念としてその特異性を説明する美学的記述は明確に区別されなくてはならない。しかも、適用される分野によって意味が異なる場合、そのことも説明しなくてはならない。
 私が担当する概念は別のやっかいな問題を抱えている。古語としては、古代から近世末まで、まったく日常語として使用されてきた語なのだが、二十世紀になって日本固有の美的理念の一つに祭り上げられてしまったのである。しかも、それは西洋近代美学に対する批判をその契機としている。だから、古語として取り扱うかぎり、古語辞典の記述をそのまま仏語に訳せば事足りるのだが、その同じ語がなぜ日本の現代美学思想の錦の御旗を飾るようになったのかの説明は、その古語としての記述とはまったく「水と油」のごとくに混ざり合わない。しかも、その語が現代思想のコンテクストの中で「伝統的理念」として「加工」され喧伝されるに至ったカラクリについては、すでに見事な先行研究があり、それに付け加えるべきことは私にはない。
 これら「水と油」の二つの記述を並列することも事典としてはありだろう。しかし、それでは哲学的につまらないと私は考えた。別の記述方式はないか、というよりも、言葉への別のアプローチの仕方はないか、この一年折に触れて考え続けてきた。この問いに対する答えは明日の記事で話題にする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ジョギング日記 ― ただ単純に思う、こうして走れることがありがたい、と

2021-08-18 18:50:18 | 雑感

 4時48分から5時48分まで昨日とまったく同じコースを走る。このコースは全長11キロある。今日は1時間で10,3キロ走る。同じ時間で昨日より300メートル多く走れた。ちょうど1時間走ったところでウォーキングに切り替える。スピードアップした分、クールダウンのために自宅まで歩く距離が短くなる。
 7月前半に、アシックス、ミズノ、ナイキと、メーカーを異にした三足のジョギング用シューズをほぼ同時に購入し、以後日毎に履き替えている。以前にも書いたように、履き始め直後は、アシックスが一番走りやすかった。その後印象が変わった。いろいろなファクターが関係しているであろうから、単純に一般化はできないが、私個人の実感は以下の通り。ソフトランディングのミズノとナイキは長い距離を気楽に走るのに適している。アシックスはそれらに比べてソールがやや固めだが、つま先の蹴り出しがしやすく、比較的短い距離をハイスピードで走るには前二者より適している。今日はそのアシックスで走った。最後の2キロは無理なく8分を切ることができた。
 走行距離を2キロ短くして体への負担を軽くしたことと関係があるのかどうかまだわからないが、体脂肪率がまた下がりはじめた。ジョギング後の今日の計測で15,4%。なんらスポーツ科学的根拠なしに言うのだが、日毎の筋肉への負担が少ない分、筋肉の疲労回復も早くなったこともそれと無関係ではないのではないだろうか。
 なにはともあれ、こうして気持ちよく走れる体を恵まれていることはほんとうにありがたい。水泳を朝の日課としていたときもそうだったが、傍から見れば無意味なことかも知れないし、いずれにせよ些細なことにすぎないが、本人としては、一日をまず何か小さな目標を達成したことから始められるだけで嬉しい。
 朝食後、午前中は、辞書項目の原稿執筆に集中。筆が走った。書けば書くほど、その続きが書きたくなった。今まで手帳に書きつけてきた断片が一定のロジックにしたがって集積しはじめた。この調子で書き続ければ(そうは問屋が卸さないかもしれないが)、あと二日で制限字数の倍になってしまうだろう。それはそれでよい。第一草稿にはぶち込めるだけぶち込む。そこから削りに削って仕上げる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


二十世紀日本の哲学・思想史に関するクイズ二題

2021-08-17 18:19:56 | 哲学

 4時48分から5時48分までの1時間で10キロ走る。原稿執筆が終わるまでジョギングの目標値をこのように少し下げることにした。距離にして2キロ、時間にして12分、これまでの目標より減らした。それだけでも随分違う。走り終えたとき、少し物足りなさを感じるくらいだ。でも、この程度の運動量でも体調の現状維持には十分だろう。
 今日から、日本語で書かれた哲学論文の仏訳の査読を始める。ストラスブール大学の哲学雑誌編集担当者から七月に依頼された仕事である。これも辞書項目執筆同様、八月末が締め切り。全集版で数頁の短い論文だが、その筆者である日本人哲学者が明治四十三年二十五歳のときに『哲學雑誌』に発表した論文であり、後年の独自な哲学において展開される諸問題のいくつかが萌芽的に含まれている点において興味深い論文だ。
 仏訳者(匿名化されているので誰かはわからないことになっている)は、論文の筆者によって和訳のみが本文に引用されているすべての文献の欧語原典に当たり、それらの和訳と原典本文との異同を調べ、原典に忠実かどうか、どの点で原文から離れているかを脚注に丹念に示してある。この点、翻訳に伴う注解として模範的である。不足を言うとすれば、この論文が筆者のその後の哲学の展開にとってどのような意味を持っているかの説明が訳者序文の中にないことである。
 さて、ここで第一問です。この日本人哲学者とは誰でしょうか?
 ある語の定義をその原義に基づいて定式化することは、同じ語を使用してそれぞれに立論している複数のテキストの議論を手際よく整理するために有効な手段の一つだ。しかし、その定式化から逸脱する用法をすべて排除する本質主義は、まず、通時的観点から、その語の歴史的変遷を無視するという行き過ぎを犯している。他方、共時的観点から見ても、同じ語が分野によって多かれ少なかれ異なった意味で同時代に使われることは珍しいことではない。だから、ある概念とある語とを一対一対応させるような本質主義的記述は、通時的にも共時的にも、その語の本来の生きた用法のダイナミズムを見失わせる危険なしとしない。
 私が担当する辞書の項目である一語は、一見この上なく単純な日常語であり、現在もその語を核とした種々の慣用表現がほぼ自明のごとく一般に流通している。ところが、戦後、その同じ語が文化主義的な普遍化の危険にしばしば晒されてきた。その語は、一意的に或る文化的価値と等価と見なされ、かつ他の文化には見られない日本独自のものの見方・文化的価値・世界観等を表現しており、したがって翻訳不可能であるという主張とともに、錦の御旗のように振り回された時期が七十年代末以降しばらく続いた。そのたった一語が、日本「独自」の文化を海外に向かって喧伝したい日本人たちも、その語の中に西洋には見いだし得ない「東洋的」で神秘的でさえある文化の粋を「発見した」と思い込んだ欧米人たちも熱狂させた。
 この説明にはちょっと意地悪な揶揄と誇張があります。ここで、第二問です。この一語とは何でしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「人生において、遅いとか早いとかいうことはございません。思いついた時、気がついた時、その時が常にスタートですよ」― 中村元の言葉

2021-08-16 21:31:32 | 雑感

 4時起床。4時42分ジョギング開始。昨日とほぼ同じコース。往路、昨日よりちょっと遠回りした。6時ジャスト自宅帰着。1時間18分で13キロ。6分で1キロのペースを守れた。ずっと同じペースで走ったのではない。往路はかなりダラダラ。復路、調子がいいのでペースアップ。運河沿いの最後の直線コース2キロ余り、8分で走り切る。
 体組成計の数値がどうであろうが、体脂肪率がやや高めであろうが、体感として体がとても軽い。そのこと自体が気持ちを前向きにしてくれる。
 今日のシューズはミズノの Wave Inspire 17。購入はちょうど一月前。最初はソールがちょっと柔らかすぎるかなと感じたけれど、接地の際のソフトランディングを可能にしているその特性を生かして、歩幅を大きめに取り、接地の際の反発力をうまく利用して弾むように走ると、アレグロ気分で快適に走れる。各メーカーのシューズの特性に合わせて走り方を微調整するのは、今では楽しみでさえある。
 帰宅後、湯船に浸かりながら、植木雅俊『仏教学者 中村元 求道のことばの思想』(角川選書 2014年)の電子書籍版読了。記述には重複が多いなど、構成には難がある。しかし、師への深い敬意に隅々まで貫かれた、ほんとうにいい本だと私は思う。本書から引用したい中村元の滋味溢れる言葉は多数ある。一つだけ引用しよう。それは、四十歳過ぎてからサンスクリット語を中村の指導で学び始めた著者が「もっと早く来ればよかった」と中村に後悔を語ったときの中村の応えである。

植木さん、それは違います。人生において、遅いとか早いとかいうことはございません。思いついた時、気がついた時、その時が常にスタートですよ。

 朝食後、昼食抜きで、午後6時まで、ある事典の執筆担当項目の下書きのための資料読み。もう下調べは十分。ノートもたくさん取った。いい原稿が書けそう。明日から本格的に原稿執筆開始。日曜日までに仕上げる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


終戦か敗戦か、鎖国は事実か ― 歴史を学ぶということ

2021-08-15 19:13:31 | 雑感

 午前4時起床。4時58分、ジョギングに出発。6時10分までの1時間12分で12,3キロ走る。シャワーを浴び、ジョギングウエアを洗濯し、脚部をマッサージしてから、体組成計で計測。BMI 19,7(この三ヶ月で確かに痩せた。ウエストは70センチジャスト、三ヶ月前より4センチ減。大腿部も目に見えて細くなり、三ヶ月前にはちょっときつかったズボンが今ではゆるゆる)。にもかかわらず、体脂肪率は 19, 3% 台と高止まり。内臓脂肪レベル5,0。皮下脂肪率は悪化の一途。つまり、もう脂肪からのエネルギー供給を期待できない筋肉を運動で酷使しているために、筋肉量が減少し続けているとしか考えられない。少し休ませてあげたほうがいいのかな。
 今日は日本では「終戦記念日」だ。そう命名することが歴史的事実に照らして間違いではないにしても、私はこの偽善的な名称がずっと嫌いだった。この日、戦争は単に終わったのではなくて、敵味方問わず、途方もない数の犠牲者を出して、日本は敗戦したのだ。数十年前のこの日、「今日は終戦記念日ですね」と、何気なく、普段身近に接する機会があった、尊敬おく能わない老婦人に話しかけたら、即座に、そして、きっぱりと、「私にとって、今日は、終戦の日ではなく、敗戦の日です」と切り返されたことがある。それは私を嗜めるためではなく、ご自身の戦争体験が自ずとそう言わせたのだとすぐにわかった。それは私にとって忘れがたい経験で、以来、終戦という言葉に隠された欺瞞に敏感になった。
 今日、午前中、1時間ほど、修士論文を指導している学生と ZOOM 面談をした。前半は、声に出して読む日本語レッスン。彼女の修論のテーマと直接関わりのある荒野泰典の『「鎖国」を見直す』(岩波現代文庫 2019年)の一部を読ませ、間違った読み方、曖昧な読み方を矯正し、かつ修論にとって大事なところを日本語で説明する。後半は、フランス語で彼女の質問に答える。修論のテーマは、対馬藩の近世外交史であるとしても、対馬が日本史上、地理的・政治的・地政学的に置かれてきた特異な立場を古代から近世までざっと概観する一節を序論に組み入れたほうがいいだろうという前回の私の助言にしたがって、古代における対馬(津島)の歴史と神話との関係に関して彼女が調べた資料についての質問。論文の主題ではないから、6世紀からすでに伊勢・壱岐と並んで卜部を輩出する国として認知されていたことを示せば十分だろうと答える。ただ、白村江の戦い以降、国家防衛上の重要拠点としての役割が大きくなっていくことは触れたほうがよいと付け加える。
 歴史そのもの、あるいは歴史的事実そのまま、などというものはどこにも存在しない。誰がいつどのようになんのために過去を捉えなおし、それをどのような歴史観に基づき、どのような語彙で記述しようとしたかについての考察抜きに歴史研究はありえない。
 江戸時代の日本が鎖国だったか、鎖国ではなかったか、そのいずれかに決着をつけることが研究の最終目的ではない。どうしてそのように相異なった見方が成り立つのか、それぞれの根拠を明らかにすることが大事だ。端的に言えば、「開/閉」という二者択一的思考は不毛である。そもそも「鎖国」論は、西洋起源の近代的かつ外在的な視角の産物に過ぎず、それを幕末から明治にかけて「逆輸入」した結果、1970年代半ばまでの百年余り、日本人はその見方に囚われきたのであり、19世紀の前半まで、江戸時代の人たちは「「鎖国」している」などという意識はほとんど持っていなかった。
 ざっとこんな話をした。「論文、いい感じで進んでいると思うよ」というと、「ありがとうございます。論文書きながら、毎日発見があって楽しいです」と嬉しそうに答えてくれた。
 面談から2時間ほどして、「嬉しい知らせです」と、「10月末にオープン予定!!対馬市朝鮮通信使歴史館」という記事を送ってくれた。「修論提出前に、国境が再び開かれたら、是非行ってみたい!」そうなるといいね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


カラダ日記(承前)― 現在の体の状態を企業の経営状態に喩えると

2021-08-14 12:58:47 | 雑感

 昨日、二時間余り午睡にまどろんでしまった。それでも11時頃に就寝しようとした。しかし、寝つけない。無理に寝ようとしてもどうせよく寝られないから、起き出して午前2時半まで Isabelle StengersPenser avec Whitehead. Une libre et sauvage création de concepts, Éditions du Seuil, collection « L’ordre philosophique », 2002 を読み続ける。睡魔到来。2時間ほど寝て、4時半起床。
 5時15分、ジョギング出発。トロトロ走り出しながら、今日はどのコースを何キロ走ろうか、体の調子と相談して決める。体は軽い。ナイキのペガサス38も脚に馴染んできた。膝から下をできるだけリラクッスさせ、足首も柔らかく動かすようにし、ソールの反発力をうまく利用すると、それだけ楽に走れる。だけれど、1時間10キロのペースは私にはまだちょっときついようだ。それで、今日もタイムを気にせずに20キロ走ることにする。
 コースは昨日とほぼ同じだが、マルヌ・ライン運河沿いの歩行者・自転車専用道路に入る前に遠回りをして距離をかせいでおき、運河沿いの折り返し地点からは自宅まで最短コースを走れば20キロになるように調整した。今日は早朝から晴天。復路、右手にシュヴァルツヴァルトの稜線がよく見え、その上に昇る朝日が視界左側に広がる牧草地を黄金色に輝かせていた。2時間7分で20キロ完走。昨日よりさらに2分遅い。
 さて、ここからは昨日のカラダ日記の続きである。
 体組成計で体脂肪率を測るタイミングとして、激しい運動や入浴の直後は避けるべきとどの体組成計の説明書にも書いてある。だが、ジョギングから帰ってきてすぐに、敢えて測ってみた。体脂肪率がなんと21,7%にまで跳ね上がっている。それに対してBMI 20,1。骨格筋率も昨日よりさらに下がっている。内臓脂肪レベルは5,5。
 昨日立てた「仮説」を検証するために、体の水分をできるだけ絞り出してみようと、計測後すぐに熱い湯船に1時間余り浸かった。その上で再度計測。BMI 19,4、内臓脂肪レベル 4,5、体脂肪率 18,6%。
 体重が減ったのは当たり前だ。大量の汗をかき、脂肪も若干は燃焼したであろうから。それが証拠に内臓脂肪レベルが 4,5 まで下がっている。これは、6年前に購入したオムロンの体組成計での観測史上(って気象庁じゃないんだから)、最低である。それにもかかわらず、体脂肪率は高め、つまり皮下脂肪率が高いのである。
 昨日の立論に従えば、この結果は、脂肪の絶対量が増えたことによってではなく、筋肉量が減ってしまったことによって説明できるはずである。それにしても、有酸素運動だけでは筋肉量を増やすことはできないというエヴィデンスだけでは説明になっていない。なぜ、ジョギングを継続した結果として、ここまではっきりと骨格筋率が減少し、体脂肪率が上昇してしまったのか。
 以下、昨日の立論を前提として、一企業とそのメインバンクとの関係に喩えて、その理由を説明してみよう。筋肉をマッスル・コーポレイション(以下MCと略す)、脂肪をファティ銀行(以下FBと略す)と呼ぶことにしよう。
 MCは、この三ヶ月、それまでの停滞気味だった自社事業を抜本的に見直し、リストラなきスリム化を目指してきた。しかし、急激な変化は自社社員及び業務提携している諸企業に混乱と誤解を招く恐れありと賢明にもジャッジした経営陣は、スリム化第一段階として、自社社員全員に対して、自分たちそれぞれの責任部署での業務全体を見直し、無駄を省くように求めた。この一ヶ月は予想通りの成果を挙げ、それだけ経営の健全化にも一定のポジティブな指標が現れた。
 第二段階は、企業体力の増強と持続的発展というより積極的なスローガンのもと、もともとの得意分野でのより競争力ある事業展開と新しい分野への参入ための戦略立案が経営者会議において目標として決定された。社長以下経営陣の陣頭指揮の下、社員全員一丸となり、結果として、目覚ましい業績を上げることになる。ここまでは、メインバンクであるFBとの関係も良好そのものであった。
 ところが、第三段階で示された数値目標は、いささか野心的にすぎ、エヴィデンスが得られていないのではないかと周囲から危惧された。MCは目標達成のためにFBに融資の増額を求めた。しかし、FBはこれ以上増額することはできないとそれを拒否してきた。そこで、MCは自社保有資金を新事業展開に投入するしかなくなってしまった。ところが、この投資は本社の通常業務全体の縮小なしには成り立たない。結果として、新事業展開のためにMC全体の事業規模を縮小せざるを得なくなってしまったのである。
 要するに、MCのあまりにも性急な事業展開のためにFBの通常融資では間に合わなくなり、MC自身の身を削るしかなくなってしまったのである。
 ここまで書いてきて、なんなのですが、な~んかぜんぜん面白くないし、わかりやすくもないなぁと気づきました。
 もしここまで辛抱強く読んでくださった方がいらっしゃったとすれば、深甚の謝意を表します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


カラダ日記 ― なぜ毎日ジョギングをしているのに体脂肪率が上昇傾向にあるのか

2021-08-13 19:30:03 | 雑感

 今朝、ちょっと寝坊。5時少し前に起床。今日はジョギング休んじゃおうかなと少しだけ怠け心が兆す。でも、すぐに気を取り直し、ジョギングウエアに着替え、ジョギングシューズの紐をキュッと締める。すると、「よっしゃ~ぁ」と気合が入る(ホント、単純な作りの脳ではあります)。
 5時22分に自宅出発。でも、やっぱりちょっと体が重い。今日は1時間10キロのペースはあきらめて、タイムを気にせず、とにかく12キロ走ることだけを目指す。途中で調子が出てきたらペースを上げよう。そう思いながらトロトロ走る。
 コースはその日の気分で選ぶ。森の中はとても気持ちが良いのだが、気温が上がると、血に飢えた藪蚊軍団が容赦なく襲ってくる。今日は早朝すでに18度くらい。森は回避。マルヌ・ライン運河沿いの遊歩道を北西に向かって行けるところまで行き、同じコースを戻ってくることにする。
 ペースは一向に上がらないが、体調が悪いわけでもないし、脚がだるいわけでもない。40分過ぎたところで、今日の目標を20キロ走に切り替える。復路、反対方向からやって来るジョガーが視界に入ると(直線コースが主だから、数百メートル先でも視認できることが多い)、格好つけてちょっとペースを上げる(なんという、浅はかな見栄っ張り)。結果、20キロを2時間5分で完走。
 ここ数日、体組成計の数値にそれまでにない変化が見られる。体重は目立って減り、BMIが19,5まで落ちたのに対して、8月に入ってずっと14~15%台をキープしていた体脂肪率(最小は12,7%)が逆に17,7%まで上昇した。内臓脂肪レベルは5~6で安定している。ところが、皮下脂肪率が上昇し、骨格筋率がやや下がり気味だ。しかし、体重の減少に伴って、体幹と両脚部の皮下脂肪はさらに減っているように見える。この一見不可解な変化の理由を素人なりに考えてみた。
 毎日これだけ有酸素運動をしているのだから、体重に占める脂肪の絶対量が増えたとは考えにくい。それにもかかわらず体脂肪率が上昇したということは、骨格筋量が減少しているからだろう。確かに、有酸素運動だけでは筋肉量を増やすことはできない。それにしても、はっきりと数値に現われるほど骨格筋率が減少したのはなぜか。
 一つは、食事内容のせいではないかと思われる。体内で糖質や脂質などのエネルギー源が不足すると、筋肉中のタンパク質を分解してエネルギーに変える「異化(カタボリック)」という現象が起きてしまう。特に摂取カロリー総量を制限してはおらず、朝昼はちゃんと食べている(夜はほとんど食べない)が、筋肉量を維持するのに必要な栄養素がバランスよく摂取できていないのかも知れない。
 もう一つは、筋肉中に含まれる水分量の減少である。ただ、ジョギング前には、浄水器を通した水あるいは緑茶500ml程度、ジョギング後には、緑茶・紅茶・牛乳・豆乳・アーモンドミルク・オレンジジュース・果物カクテルジュースなど、その日の気分で飲み物の種類は変わるが、総計少なくとも1リットルは水分を摂取している(もちろんワインは除く)から、この後者の理由はあまり説得的ではない。
 以上の前提と推論が正しいとして、体脂肪率の減少と骨格筋率の上昇のためにどのような対策を講じるべきか。食事に関しては、これまでの野菜を主とした食事から、肉・魚および適度な炭水化物を含んだ食事内容に切り替えてみよう。運動に関しては、スクワットを取り入れ、かつジョギングコースに点在する運動器具を使って、筋肉量を増やすことを試みてみよう。
 25日のワクチン第二回目接種の日までこのメニューを続け、有意な数値の変化が見られるかどうか自己観察することにしよう(なんか夏休みの自由課題みたいですね)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


複合的で相互依存している経験のしずく― ホワイトヘッド『過程と実在』より

2021-08-12 20:46:06 | 雑感

 4時48分から6時までの1時間12分で12,3キロ走る。目標達成。やっとのことではないが、余裕でという感じでもない。体を重く感じたり、息が苦しくなったりすることはなかった。何日か同じペースで走ってみよう。
 今日は昨日よりもさらに夏らしい天気で、気温も夕刻30度に達した。湿度は50%以下。洗濯物がよく乾く。ちょうどヴァカンスの真ん中あたりだから、日中でも辺りは静まりかえっている。毎夏詮無く思う、こんな日がずっと続いてほしいと。
 ホワイトヘッドの『過程と実在』の次の箇所を読んで、これは一つの「縁起の思想」と呼んでもよいのではないかと思った。

‘Actual entities’— also termed ‘actual occasions’— are the final real things of which the world is made up. There is no going behind actual entities to find anything more real. They differ among themselves: God is an actual entity, and so is the most trivial puff of existence in far-off empty space. But, though there are gradations of importance, and diversities of function, yet in the principles which actuality exemplifies all are on the same level. The final facts are, all alike, actual entities; and these actual entities are drops of experience, complex and interdependent.

Process and Reality, Free Press, p. 18. 

「活動的存在」―「活動的生起」とも呼ばれる―は、世界を構成する究極の実在的事物だ。なにかもっと実在的なものを見いだそうとして、活動的存在の背後を探してもなにもない。それらは、互いにちがう。神は、ひとつの活動的存在である。そして、はるか彼方の空虚な空間における最も瑣末な一吹きの存在も、そうなのだ。重要さに段階があり、機能もさまざまだが、現実が示す原理において、すべては同一レベルにある。究極的事実は、一様にみな活動的存在なのだ。そして、この活動的存在は、複合的で相互依存している経験のしずくである。(『過程と実在(上)』30頁)