内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「真の常識こそ真の哲学である」― 西田幾多郎「『モンテーニュ随想録』推薦の辞」より

2021-04-20 15:52:20 | 哲学

 一昨日の記事で全文引用したパスカルの『パンセ』の断章には、パスカルがその断章を書く際に念頭に置いていたであろうと諸注釈書が指摘するモンテーニュの『エセー』の箇所がある。それは第一巻三章の冒頭である。

 Ceux qui accusent les hommes d’aller toujours béant après les choses futures, et nous apprennent à nous saisir des biens présents, et nous rassoir en ceux-là, comme n’ayant aucune prise sur ce qui est à venir, voire assez moins que nous n’avons sur ce qui est passé, touchent la plus commune des humaines erreurs, s’ils osent appeler erreur chose à quoi nature même nous achemine, pour le service de la continuation de son ouvrage, nous imprimant, comme assez d’autres, cette imagination fausse, plus jalouse de notre action que de notre science. Nous ne sommes jamais chez nous, nous sommes toujours au-delà. La crainte, le désir, l’espérance nous élancent vers l’advenir, et nous dérobent le sentiment et la considération de ce qui est, pour nous amuser à ce qui sera, voire quand nous ne serons plus.

 人間は、いつだって先のことばかり追い求めているではないかと批判して、未来のことは思いどおりにならないのだし、過ぎ去ったことよりも、つかみどころがないのだから、現在の幸福をしつかりつかんで、そこに腰をすえなくてはいけないと教える人々がいるけれど、彼らは、人間のあやまちのうちでもっともありふれたものに触れているのだ。まあそれは、自然そのものが、その仕事を続けていくのに役立つようにと、知識よりも行動のほうに執着するという、あのまちがった考え方をわれわれに刻みこんで、そうした道を進ませていかせるようなことを、あえてあやまりと呼ぶというならばの話である。われわれは自分のところになど絶対におさまってはいないで、いつでもその先に出ていくのだ。恐怖、欲望、希望といったものが、われわれを未来へと投げ出して、現在のことについての感覚や考察を奪いさり、将来、自分がもはやいない時分にはどうなっているのかとばかり考えさせて、時間をむだについやさせるのだ。(白水社版 宮下志朗訳 2005年)

 『パンセ』には、『エセー』を念頭に置いて書かれた箇所が多々あるが、ここもその一つであることは確かだ。しかし、両者を比べて読むと、考え方が微妙に違っている、というか、かなり違う。パスカルを読んでいると、何かこちらが責められているように感じることがあるけれど、モンテーニュは、こちらの駄目なところも「まあそれもしかたがないね、人間ってそういうものだよ」と許してくれそうな気がする。上に引いた箇所を読んでも、自然が自然自身のために人間にそう仕向けていることを人間の「あやまりerreur」というはちょっと酷かもしれないね、と受け止めてくれそうな気がする。
 西田幾多郎は「『モンテーニュ随想録』推薦の辞」(関根秀雄訳の初版が昭和十年に刊行されたときに寄せた推薦の辞)にこう書いている。

モンテーンは人を高めるものではない。パスカルはモンテーンの語は淫らだとすらいう。しかし彼は豊富な大きな人間性を有った人であった、いわゆる甘いも酸いも分った人であった。彼の前には私は何事も打ち明けて話すことのでき、それぞれに同情と教訓とを得ることのできた人であったように思う。

 1970年刊行の関根秀雄訳が青空文庫で読めるから、そこからも同箇所を引用しておく。

 人間が常に未来のものごとを追い求めるのを咎め、我々に「現世の幸福をしっかり捉えよ。そしてその中に安住せよ。我々には未来のことがらをとらえることはできないのだ。それは過ぎ去ったことがつかまえられない以上であるぞ」と教える人々は、いかにも人間の誤りの最も普通なものを衝いているが、きっとそういう人たちは、自然がその仕事を続けてゆくために我々に行わせることまでも、あえて誤りと呼びたいのであろう。自然は我々が知ることよりも活動することの方をいっそう熱望して、わざと我々の心の中に、他のいろいろな思想とともに、こういう誤った思想までも賦与してくれたのに。我々は決して我々の許にいない。常にそれを越えている。心配・欲望・期待は、我々を未来に向って追いやり、我々から現にあるところのものに対する感覚と考察とを奪って、やがてそれがなるであろうところのものに、いや我々がいなくなる後のことにまで、かかずらわせる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「未来は私たちにとってまったく現存しない」― パスカルのロアネーズ嬢宛書簡より

2021-04-19 10:50:53 | 哲学

 昨日の記事で全文引用した『パンセ』の断章に示されたパスカルの過去・現在・未来についての考え方は、1657年1月の友人ロアネーズ公爵の妹シャルロット宛の手紙の中にすでに示されている。セリエ版の脚注には、書簡の該当箇所が引用されている。同嬢宛の九通の書簡は、Desclée de Brouwer 版全集第三巻(1991年)に収録されており、プレイヤード叢書版二巻本パスカル著作集第二巻(2000年)にも全書簡が収録されている(ただし書簡の原本は現存せず、「抜粋」の六写本が伝わるのみ)。邦訳は、白水社の『【メナール版】パスカル全集』第二巻(1994年)に全通収録されている。この邦訳全集には、訳者石川知広氏による解題が書簡の前に付されており、シャルロット嬢とパスカルとの「霊的」交流について簡にして要を得た記述をそこに読むことができる。さらに、書簡の後には、同じく石川氏による詳細な解説(全書簡の長さに匹敵する長さ)があるのだが、それは後日別途紹介することにして、今日のところは、パスカルがシャルロット嬢に送った一連の「心霊指導」の手紙の中の当該の一節の仏語原文と白水社版全集の邦訳を引用するにとどめる(書簡のこの箇所は、岩波文庫版『パンセ(上)』(2015年)にも注に邦訳が示されている)。

 Le passé ne nous doit point embarrasser, puisque nous n’avons qu’à avoir regret de nos fautes. Mais l’avenir nous doit encore moins toucher, puisqu’il n’est point du tout à notre égard, et que nous n’y arriverons peut-être jamais. Le présent est le seul temps qui est véritablement à nous, et dont nous devons user selon Dieu. C’est là où nos pensées doivent être principalement comptées. Cependant le monde est si inquiet qu’on ne pense presque jamais à la vie présente et à l’instant où l’on vit, mais à celui où l’on vivra. De sorte qu’on est toujours en état de vivre à l’avenir, et jamais de vivre maintenant.

 過ぎ去ったことにけっして煩わされてはなりません。どうせ罪を悔やむことにしかならないからです。しかしそれにもまして、未来のことに心動かされるべきではありません。未来は私たちにとってまったく現存しないもので、それに追いつくことはおそらくけっしてないからです。本当に私たちのものである時間は現在だけですし、神のみ心に従って私たちが用いるべきものも現在だけなのです。何よりもまず現在においてこそ、私たちの思念は考慮に値するのでなければなりません。なのに、世はじっと落ち着いていることができず。そのあまり、ほとんど誰も現在の生活と自分が現に生きているいまの瞬間のことは頭になく、頭にあるのはただ、これから自分が生きることになる瞬間だけなのです。その結果、ひとは常に未来を生きるという羽目になり、けっして現在を生きることはできません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「存在するただ一つの時」― パスカル『パンセ』より

2021-04-18 23:59:59 | 哲学

 昨日の記事は、ここのところの気分を反映して、何とも情けない内容だった。少し気を取り直して、過去・現在・未来についての哲学者たちの言葉に耳を傾けてみることにした。
 時間についての哲学的考察は、古今東西それこそ枚挙にいとまがないが、今自分が向っている机と座っている椅子から動かずに手の届くところにあるパスカルの『パンセ』の一断章を少し長いが全文引くことから始めよう。断章番号はブランシュヴィック版で172、ラフュマ版47、セリエ版80である。

 われわれは決して、現在の時に安住していない。われわれは未来を、それがくるのがおそすぎるかのように、その流れを早めるかのように、前から待ちわびている。あるいはまた、過去を、それが早く行きすぎるので、とどめようとして、呼び返している。これは実に無分別なことであって、われわれは、自分のものでない前後の時のなかをさまよい、われわれのものであるただ一つの時について少しも考えないのである。これはまた実にむなしいことであって、われわれは何ものでもない前後の時のことを考え、存在するただ一つの時を考えないで逃がしているのである。というわけは、現在というものは、普通、われわれを傷つけるからである。それがわれわれを悲しませるので、われわれは、それをわれわれの目から隠すのである。そして、もしそれが楽しいものなら、われわれはそれが逃げるのを見て残念がる。われわれは、現在を未来によって支えようと努め、われわれが到達するかどうかについては何の保証もない時のために、われわれの力の及ばない物事を按配しようと思うのである。
 おのおの自分の考えを検討してみるがいい。そうすれば、自分の考えがすべて過去と未来とによって占められているのを見いだすであろう。われわれは、現在についてはほとんど考えない。そして、もし考えたとしても、それは未来を処理するための光をそこから得ようとするためだけである。現在は決してわれわれの目的ではない。過去と現在とは、われわれの手段であり、ただ未来だけがわれわれの目的である。このようにしてわれわれは、決して現在を生きているのではなく、将来生きることを希望しているのである。そして、われわれは幸福になる準備ばかりいつまでもしているので、現に幸福になることなどできなくなるのも、いたしかたがないわけである。

 確かに、「現在というものは、普通、われわれを傷つける」(« le présent d’ordinaire nous blesse. »)というところに私は同意せざるを得ない。さらに、行き過ぎたはずの過去も私を苛み続けるとつけ加えなくてはならない。他方、「ただ未来だけがわれわれの目的である」(« le seul avenir est notre fin. »)というところに対しては、では、その未来に何の希望も抱けない、したがって未来が目的にはなりえない場合はどうなるのかと反問したくなる。
 過去に戻ることも過去を引き留めることもできず、到達する保証のない未来に希望を託すこともできない以上、現在を、「われわれのものであるただ一つの時」(« le seul qui nous appartient »)を、「存在するただ一つの時」(« le seul qui subsiste »)を、それ自体は幸でも不幸でもないものとして、そのまま受け入れ、生きていくしかないのであろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


広大深淵な記憶の海の上を頼りなく心細く漂い続け、やがて藻屑と消える「私」

2021-04-17 14:43:15 | 雑感

 まったく思いもかけないときに、不意を突くように、自分が過去にしでかしたある失態あるいは失言が鮮明に蘇ってきて、それに一時苛まれ、いたたまれない気持ちになるということが私にはかなりの頻度で起こります。
 これもフラッシュバックと呼んでいいのかどうかわかりませんが、その失態や失言の多くは実に取るに足らないことで、しかも何十年も前のことで、その時その場に居合わせた人たちはおそらくもうまったくそれらのことを欠片も覚えてもいないだろうとわかっているのに、恥ずかしいやら情けないやら今またあらためて苦しまされる一方、なんで過去のそんな些細なことが今蘇ってくるのだろうと、自分で自分が恨めしくなります。
 少し冷静になって、どういう精神状態のときにこの現象が発生しやすいか、あるいはどういう状態のときには発生しなかったか考えてみると、現在の心に隙あるいは空虚感あるいは虚脱感があるときに発生しやすく、幸福感に満たされているか、そこまでいかなくても現在に充実感を感じているときには、まったく、あるいはほとんど発生していないことがわかります。つまり、現在に隙ができるときを過去は常につけ狙っていて、隙ありと見るや、思い出したくもないことを瞬時に再生させて、現在の私を苦しめ続けるのです。
 最近このフラッシュバック現象が特に頻繁に起こるのは、それだけ現在の私が空虚だからなのでしょう。それを否定することが私にはできません。それに過去にそれだけ失言と失態の数々を繰り返してきたから、現在の私を弄る「ネタ」には困らないということもあるのでしょう。それらのことを自ら積極的覚えておこうとしたことはただの一度もありませんから、それら諸々の「望まれない」記憶は、私の意志の制御を遥かに超えた貯蔵庫のようなところに常時保存され、たとえどんなに過去のことでも「生きた」状態で管理されており、いつでも現在に瞬時に送り込むことができるようになっているようです。
 見たくもない連日の夢といい、頻繁に繰り返されるこれらのフラッシュバック現象といい、自分でそうありたい「私」、まあ認めてやってもいいかと自分で許せる「私」は、実は私というもののごく一部でしかなく、「私」の言うことなどそもそも聞いてはくれない計り知れない何かもっと広大で深い海のようなものの上にこの「私」は頼りなく心細く漂っているだけで、やがてその海の藻屑と消えてしまうのでしょう。
 そう思うと、少しだけですが、救われたような気になります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


限りなく存在しなくてもいい私を思い知らされるとき

2021-04-16 21:00:50 | 雑感

 今日の記事も、気分的には昨日の記事の延長線上にあり、ちょっとわけのわからない話なのですが、あることがきっかけで、今、かなりがっかりしています。いや、ほとんど落ち込んでいると言ってもいい。
 以下、この類の話の場合のこれまでの例に倣って、特定の個人攻撃にならないように、一般化された漠然とした話し方になります。
 その人のために良かれと思って、こちらとしてはかなり誠心誠意対応したつもりなのに、相手からの反応は、驚くほどに否定的、いや、ほとんど攻撃的で、こちらからのそれに対する最初の反応としては、「えっ、どうしてそういうことになるの?」とショックを受けたままのちょっと呆然とした状態での独り言になるのですが、その後、少し冷静になって考えてみれば、「そうか、そうなんだね。私はぜんぜん君の気持ちがわかっていなかったんだね。こっちの独り合点、こっちがただ勝手に空回りしていただけで、それは君にとって迷惑以外のなにものでもなかったのだね」と合点がゆき、とは言いながら、謝って済むことでもなく、そうかといって、どう対応の仕方を変えればいいのかもわからず、途方に暮れ、卑怯にも逃げ腰で、かつ短絡的にも、「いっそのこと、もう、ぜんぶやめちゃおうかなぁ」と、もっとも安易な、しかしドラスティックではある解決策(いや、そうとも言えないか)が今目の前にちらついています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Laissez-moi tranquille !

2021-04-15 23:59:59 | 雑感

 決して特定の個人の攻撃にならないようにというこのブログの原則に従って、というか、もっと正直に言えば、保身のためでもあるのですが、と言っておきながら、何のことだか、誰のことだか、わからないようにするために韜晦的な書き方になりますが、ブログを公開するということは、それに対する意想外の反応もありうることを想定しなくてはならないのだなあ、と、今更ながら、改めて思わされることが最近あり、別にその反応に対応しなくてはならない義務は私には一切ないわけですが、こんなことに煩わされたくなければ、一番簡単な解決法はこのブログをきっぱり止めることだなあと真剣に考えざるを得なくなりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「花冷え」と「桜雨」― 美しい日本語の贈り物

2021-04-14 15:40:55 | 講義の余白から

 ストラスブールは三月下旬には暖かい日が続き、桜も一気に満開となり、四月の初めにはもうあらかた散ってしまった。その後、寒い日が続いている。ここ一週間ほど、早朝の気温は零下にまで下がっている。
 ここ何回か、授業の枕として、日本の季節や気候に関する言葉を学生たちに紹介している。日本とフランスとでは気候がかなり異なるから、日本では普通に使われている表現がそのままフランスの気候に適用できるわけではないが、こんな天気のときにはこんな言葉を日本ではよく使いますよ、という程度の一口知識のような話を枕として日本語でする。
 昨日の授業では、「寒の戻り」という言葉を紹介した。例えば、『日本国語大辞典』では、「晩春のころ、急に大陸性高気圧の勢いがもり返して、一時異常に寒くなること」とある。すかさず「晩春とはいつごろのことですか」と質問が出た。何月何日から何月何日までとは答えようがないから、東京あたりの気候を基準にして、「だいたい四月下旬くらいですかね」としか答えようがなかった。
 今のストラスブールの寒さは「寒の戻り」どころではなくて、農家では農作物への冷害が懸念されるほどである。
 桜が咲くころ、急に冷え込むことを「花冷え」という。この言葉、響きも形姿も喚起される情景もみな美しい。こっちではもうすっかり桜が散ってしまったから、授業で紹介するには時機を逸してしまったが、明後日授業で紹介しようと思う。
 『花のことばの辞典』(倉嶋厚監修 宇田川眞人編著 講談社学術文庫 2019年)では、「花冷え」は、「桜の咲くころに見舞う寒さのぶり返し」と説明されているだけでなく、「桜雨」の項にも見える。

桜の花を濡らして降る雨。桜の開花期には、〈花冷え〉という言葉があるように気温が下がり風が出て雨が降る。風に舞う〈桜吹雪〉も美しいが、雨に打たれる桜も風情がある。

 「桜雨」、この言葉もまた、響き、佇まい、情景、いずれも美しい。この語も「花冷え」と合わせて紹介しよう。ささやかではありますが、美しい日本語の贈り物をどうぞ受け取ってください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『イラストで見る昭和の消えた仕事図鑑』― 遠ざかる懐かしき昭和

2021-04-13 15:30:44 | 読游摘録

 本書の初版が刊行されたのは二〇一六年四月。それから五年経って、今年の二月に角川ソフィア文庫の一冊として第二版が出た。初版に加筆訂正を加えたと巻末にある。
 あまり感情移入せず、正確さを心がけつつ淡々とした筆致で一一四種の仕事が記述されていく。各項に付されたイラストも味わい深い。
 本書に取り上げられている「昭和の仕事」とは以下のような仕事である。「主に昭和の時代に見られた庶民の仕事で、現在は消えてしまったもの。仕事によっては、人力車などのように、昭和初期にはすでに姿を消してしまったものも含む。もうひとつは消えつつある仕事で、現在でも細々と続いているものの、最盛期が昭和の時代にあったものである。また、生業としては消えてしまったが、地域のイベントなどで行われている紙芝居屋など」も含まれる。要するに、「昭和を象徴するか、昭和に消えた仕事、昭和に全盛期を迎えた仕事などすべてひっくるめて」「昭和の仕事」と呼ばれている。
 取り上げられた仕事は、現行の「日本標準産業分類」(平成二十五年十月改定)を基準にして、「運輸」「建設業・金融」「情報通信」「製造・小売り」「飲食店」「サービス・その他」という項目ごとに分けられている。各項目内の仕事の配列は仕事名のあいうえお順になっている。
 図鑑形式だから、どこからでも興味のおもむくままにページを繰って楽しむことができる。目次を眺めていると、私にも懐かしい思い出がある仕事もあれば、よくは知らない、あるいはほとんど「未知」の仕事もある。どれもそれぞれに楽しそう。引用しだすとキリがなくなるので、一つだけ紹介しよう。
 「街角メッセンジャー」 なんか今でも映画かドラマのタイトルに使えそうな名だが、「公衆電話が普及していない時代に、手紙やメッセージを届けていた。駅前で小荷物を預かり運搬するなど、便利屋のような仕事も請け負った」と説明にある。「昭和二十年代の前半、新橋駅前に「よろず承り屋」が誕生した。まだ家庭に電話が普及しておらず、公衆電話もほとんどなかったこの時代に、急用で何とかして相手に伝言をとどけたいとき、承り屋で手紙などの伝言を渡すと、承り屋が自転車に乗って相手方に届けてくれた。これを街角メッセンジャーとも呼んだ。この種の仕事は地方や山村でとくに多く見られるようになった。」
「新橋の「よろず承り屋」には古物の賃借り自転車が一台、机が一台置かれ、便箋と封筒も用意されていた。この事業を始めたのは、満州引揚者の一人だった。昭和二十年代当時、少ない公衆電話には人が殺到し、しかも回線がよくなかったので、なかなか相手にも通じない。自ら電車に乗って相手の所に行こうとしても、混雑して乗れない。そんな時代のニーズをいち早く読み、電話代わり、電車代わりのサービスとして始めたのだった。」
 どうです。面白いでしょう。他の仕事も読んでみたくなるでしょう。あとはご自分でご購入になってお読みください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


たった一つだけでも「これが私の作品です」と言える仕事を残したい

2021-04-12 21:32:47 | 哲学

 先週土曜日、その前週金曜日に博論審査を受けた当人から、審査時の私の評言についての長い感謝メールが届きました。そこには、私には過分な言葉が綴られていました。そのメールの末尾に、度外れな長さを詫びると同時に、その長さが自分の感謝の気持ちを表していると受け取ってくれると嬉しいとありました。もちろんそれはメールを読めば誤解の余地なくわかることでした。すぐにこちらからも、審査委員に加われたことは光栄であることを伝える返事を送りました。その返事には、彼からの求めに応じて、私が気づいた誤記等の誤りの一覧表も添付しました。
 彼の博論を読みながら、そして今回の一連のメールのやりとりをしながら、私にも、甚だ遅まきながら、一つはっきりしてきたことがありました。それは、一言で言えば、もう残り時間は少ないのだから、余計なことはすべて排除し、一つだけでも「これが私の仕事です」と言って差し出せるものを残すことに全精力を集中しよう、ということでした。その一つだけの仕事が何をテーマとするのか、それはもう私には明らかなのです。
 こういう決断の機会を与えられたことを本当にありがたく思っています。これまでは、何か頼まれると、相手の希望を「忖度」なんかしたりして、割りとあっさりと引き受けていましたが、もうそういう中途半端は止めることにしました。今後、余程のことがないかぎり、私にとって「本質的」でない依頼は一切断ります。こう決断する以前に引き受けたいくつかの仕事はこの夏が締め切りなので、それらについてはもちろん責任を果たします。
 大した能力もない老生ですから、何か一つ、「これが私の作品です」と言えそうなものを残すには、それ以外の仕事はすべて排除しなくてはなりません。器用にあれもこれもというわけにはいかないのです。とはいえ、宮仕えをする身分である以上最低限果たさなくてはならない業務はもちろんこれまで通りこなしていきます。
 これまで何年にも渡って、「なにやってんだか」とモヤモヤとしていた気持ちが今はすっきりとしています。できるとしたら、俺にはこれしかないかな、という覚悟と確信と高揚感とともに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


三木清「習慣について」に対する網状参照増殖的読書法の適用

2021-04-11 05:52:03 | 講義の余白から

 修士一年の後期の演習「近現代思想史」で三木清の『人生論ノート』を読んでいることは、すでに何度かこのブログでも話題にした。
 七日の演習では「習慣について」を読んだ。演習に先立って、九名の履修学生たちには全文の仏訳を提出させる。それらを私が段落毎に切り分けて順に並べ、同じ段落の訳を連続して比較できるように編集する。それをパワーポイントでスライド化して授業で使う。こうしておくことで、学生たちは相互に自分以外の訳と自分の訳とを比較できる。語彙・構文の選択等でどれが妥当でどれがそうでないか一目瞭然になる。授業中に自分で訳の間違いに気づいたときにはすぐにその場で訂正できるようにパワーポイントを共有ドキュメントにしてある。
 一般読者向けのエッセイとしては内容的には難解なところもあるが、構文的には三木の文章はとてもフランス語にしやすい。だから、構文レベルで学生たちが間違えることはほとんどない。おかげで、すぐに内容理解に入っていける。しかも、仏訳作業の過程で学生たちがすでに十分に内容を理解できていると判断できる箇所は飛ばすので、一回二時間の演習で一つのエッセイを読み終えることは無理ではない。
 ところが、今回はそうはいかなかった。新潮文庫版でわずか八頁のエッセイの三頁しか読めなかった。それはもっぱら私の側に原因があった。習慣論は、博論以前からの私の研究テーマの一つで、今でも強い関心を持ち続けている。だから、三木のエッセイの通り一遍の読解で済ますわけにはいかなかったのである。三木のエッセイの注釈という名目で、アリストテレス、トマス・アクィナス、メーン・ド・ビラン、ラヴェッソンなどの習慣論(ラヴェッソンの習慣論については、2013年6月4日とその翌日の記事を参照されたし)を紹介したり、三木が言及している「模倣」がギリシア語の「ミメーシス」やラテン語の「イミタチオ」とはどう違うのかという問題に入り込んだりしたものだから、これではいくら時間があっても足りない。
 加之、「習慣は技術である」という三木のテーゼはどういうことを意味しているのか、三木の技術論を参照しつつ学生たちと議論したのだから、本文の読解が前に進むわけがない。しかし、問題の探求は、いわば螺旋状に深化、拡張されていく。「習慣」「模倣」「技術」など、日常言語としても普通に使用されるこれらの語の背景にどれだけの哲学史的奥行きがあるのか、それを探りながら読んでいけば、自ずと相互に連関する参照項目は増殖し、参考文献は増大の一途である。
 これもまた、昨日の記事で言及した「網状参照増殖」的読書法の一適用例である。不亦説乎。