内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生命の本質は相互「媒介」(《 médiation 》)にあり ― ジルベール・シモンドンを読む(21)

2016-03-11 07:46:57 | 哲学

 今日も、生物レベルでの個体化の特徴を物質レベルでのそれと対比しながら論じている箇所を読んでいきます。
 まず、シモンドンがイタリックで強調している次の一文を見てください。

L’individu vivant est système d’individuation, système individuant et système s’individuant (p. 8).

 生きている個体は、個体化するシステムでありかつ自己個体化するシステムだというのです。
 これがどういうことなのかを説明するために、シモンドンは、「共鳴(あるいは共振)」(« résonance »)という概念を導入します。
 以下、シモンドンの文章をほぼそのまま訳しているところは、敬体つまり「です・ます」体ではなく、常体を使って区別します。
 生命体のシステムのなかには、内的共鳴(共振)と自己関係の情報への「変換」(« traduction »)とがある。物理の領域では、内的共鳴(共振)は、「自己個体化」(原文ではここだけイタリック)しつつある個体の限界を特徴づけるのに対して、生物の領域では、内的共鳴(共振)は、個体としての個体全体の基準となる。
 こうシモンドンは言ってるのですが、これだけではちょっとよくわかりませんね。もう少しシモンドンの文章を辿ってみてから、また考えてみましょう。
 生命の世界では、内的共鳴(共振)は、個体システムの内部にもあり、個体が自分の環境との間に形成するシステムの中だけではない。有機体の内的構造は、ただ単に完結した活動の結果として、内部領域と外部領域との間の境目において作用する「転調(あるいは変調)」(« modulation »)の結果として、(結晶化の構造ように)形成されるのではない。物理的個体は、常に「偏心的」(« excentré »)、つまり中心軸から遠ざかっており、常に自己自身に対して周縁に位置し、自己領域の縁でのみ活性的であり、真の内部性は有していない。それに対して、生命体は、真の内部性を有している。なぜなら、個体化がその内部で実現されるからである。生命体においてはその内部も構成するものであるのに対して、物理的個体においてはその縁でしか構成化が働いていない。
 シモンドンの言いたいことが少し見えてきましたね(えっ、どこがって?)。まだ続きがあるのですが、ここで私なりにシモンドンの考えを噛み砕いてみましょう。ただし、こちらの歯が砕けてしまわないように気をつけながら。
 物理的個体が個体として識別されるのは、その環境との関係においてのみであって、その際、その個体の内部は問題になりません。この意味で、物理的個体の個体化は、その環境と区別される境界域においてのみ観察されうることです。言い換えると、物理的レベルでの個体化とは、とどのつまり、外部から観察可能な、個体とその環境との差異化に尽きるということです。ところが、生命体は個体化している自己を自らその環境から区別しています。言い換えると、生命体は、その外部環境と区別される内部環境を有っていて、少し先取りしていうと、その内部環境と外部環境との間には情報形成・交換過程が成り立っており、それによって相互的に可変的な関係にあります。
 さて、あと一息で一段落読み終わりますから、もう少し頑張りましょう。
 物理的個体についても、その外形の内部ということは言えるわけですが、発生論的には、かつてそこは内部であったとしか言えません。どういうことかというと、個体化過程が進行している段階では、そのときその個体化が進行している場所をその周囲と区別して、それを個体化の内部と言うこともできますが、その個体化が完了してしまえば、もうそこには個体化過程そのものがないわけですから、その内部もなくなるということです。
 ところが、恒常的個体化過程にほかならない生命体は、自己を構成しているすべての要素とつねに同時的に存在します。つまり、それらの要素が相互的コミュニケーションをつねに現在のこととして保っているかぎりにおいて、生命体は生命体でありうるということです。生命体は、その内部において情報生成・伝達システムの結び目であるかぎりにおいて生きているのです。
 しかし、それだけではありません。生命体は、それ自体の内部が情報生成・伝達システムとして自己生成過程にあるだけではなく、まさにそのようなシステムとして維持されるために外部のシステムと恒常的に情報交換を行っています。この意味で、生命体とは、システム内システムです。そうであるかぎりにおいて、生命体は生命体として維持されるのです。
 今日のお話の要点を、ちょっと大胆な仕方で、一言にまとめてみましょう。
 生命の本質は、異なった次元にあるもの相互の「媒介」(« médiation » )にある。

 それではまた明日。御機嫌よう。















































生命体は自己情報化によって問題解決を図る個体である ― ジルベール・シモンドンを読む(20)

2016-03-10 06:50:27 | 哲学

 生命体は恒常的な「個体化の劇場」である ― これが昨日の記事で見た、生物レベルでの個体化の第一の特徴でした。
 今日の記事では、生物レベルでの個体化の第二の特徴を見ていきましょう。
 生命体は、ある一定数のバランスを保持するだけの自動機械に比されるうるものではありません。より単純なバランスから構成されるより高度なバランスの定式にしたがって複数の異なった要求の間に折り合いをつけるだけのものでもありません。生命体は、初発の個体化の結果であるばかりでなく、その個体化を自ら増幅するものでもあるのです。生命体は、サイバネティックスにおいてそうであるように、もっぱらその機能の観点から技術的対象の一つと見なすことはできません。自己増幅可能性という点において、生命体は、技術的対象には還元不可能なのです。
 生命体とは、「個体による個体化」(« individuation par l’individu »)だとシモンドンは言います(p. 28)。一度完成された個体化の結果として生まれた機能に還元されうるものではないのです。それだけのことなら、生産された機械と変わりませんね。
 生命体は、直面する問題を解決しようとするとき、どうするでしょうか。ただ単に自分を合わせる、つまり、自分が置かれた環境に対する自分の関係を変更しようとするだけではありません。それだけのことなら、ある程度まで、機械にもできます。生命体は、問題解決のために、自分自身を変えることもあります。新しい内的構造を自分から創り出すこともあります。生命に関わる諸問題が形成しているシステムの中に己自身を完全に導入することによって問題の解決を図る個体、これが生命体なのです。
 ここでちょっと先取りして、シモンドンにおける「情報形成」(« information »)という概念に触れておきます。
 普通、この原語は「情報」と訳されますね。あるいは訳さずにそのままインフォメーションと表記されたりもします。「巷に情報が溢れている」、「インフォメーション・センターにお問い合わせください」などとよく言われています。「遺伝情報」という言葉も今ではすっかり日常語になった感があります(もちろん、科学的にちゃんと理解できているかどうかは別として)。いずれの場合も、伝達される一定の情報という意味で使われるのが一般的です。つまり、「伝えられるもの」「伝えうるもの」という意味です。
 ところが、シモンドンがこの概念に込めている意味は違うのです。と言うよりも、はるかに広く、しかも創造的な意味で使っているのです。自らを伝達可能なものとして自己形成すること、あるいは何かに形を与えて伝達可能なものとすること、そしてその形成された形を他のものに伝達あるいは相互的に伝達する過程そのもの、その結果として形成される情報形成・伝達ネットワーク。 シモンドンにおいて、« information » という概念は、これらすべての意味を含んでいるのです。一言で言えば、情報形成・伝達過程の全体のダイナミクスのことなのなのです。
 さて、今日の本題に戻りましょう。
 生命体が解決されるべき問題系の中に自己導入するとは、どういうことでしょうか。この問いには、今瞥見した「情報形成」概念を用いることで答えることができます。生命体は、自らが情報ネットワークの一つの結び目と成って、自分がその中で働いている自分より高次のシステムと自分自身が組織しているシステムとの間に、相互伝達・相互作用の関係を形成することで問題の解決を図ろうとするのです。これが生命体に固有な問題解決方法です。
 今日の記事の要点を一言でまとめると次のようになります。
 生命体は、自己を情報化し伝達可能な媒体に自己変容することによって己が内属する情報システム内で問題解決を図る自己形成能力をもった個体である。

 それではまた明日。御機嫌よう。
















































「個体化の劇場」としての生命体 ― ジルベール・シモンドンを読む(19)

2016-03-09 02:52:00 | 哲学

 昨日一日だけシモンドンの連載をお休みしましたが、また今日から再開します(お疲れ様です)。
 ただ、文体を変えてみることにします。です・ます調にしてみようと思うのです。調であって体ではないのは、いわゆる「常体」もときに交えるからです。すでに何度かこの文体で記事を書いたことはありますが、それはどちらかというと内容が易しいか軽いときでした。まあ、ちょっとコーヒーブレイクみたいな感じで。難しい哲学的問題を考えるときにも、この文体を試みてみようというわけです。
 扱う問題自体の難しさがそれで軽減されるわけではもちろんありませんが、こうすれば自ずと読み手の方たちに語りかけるような調子になるし、その結果として、議論の進め方が少しは緩やかになるでしょう。その分だけ思考の速度を緩めて、しかし集中力を途切らせることなく、じっくりと腰を据えて考えていこうということでもあります。
 この文体変更には、さらに、この連載を読んでくださる方たち―たとえごく少数であるとしても―への感謝と敬意の気持ちを文章に籠めたいという意図も働いています。
 一文もできるだけ短くするつもりです。若い頃は、簡潔な文を好みました。格好良く言い切りたいって思っていました。いまでも冗長な文は嫌いですが、短い文がだんだん書けなくなってしまいました。何か言おうとすると、そのためにはこれも言っておかないと誤解されるし、あれにも触れておかないと不十分になるしなどと、次から次へと補足事項が頭に浮かんできて、結果として、何かごてごてした文になりがちなのです。このような文を臆病者的あるいは心配性的あるいは老婆心的悪文と呼ぶことにして、そんな文を書かないように自分を戒めます。
 というわけで、気分も新たに、シモンドンのILFIの読解再開です。

 一昨日の記事では、準安定状態から結晶体が形成される過程を物質レベルでの個体化の範型として見ました。
 前個体化存在の準安定性という概念は、生物レベルでの個体化を考える際にも適用可能だとシモンドンは言います。生物レベルでは、しかし、物質レベルと同じように個体化が発生するわけではありません。
 物質レベルでは、個体化がただ「瞬間的に」決定的に発生し、個体化後には、環境と個体という二元性を結果として残します。環境は、環境となることで個体ではなくなり、その分貧しくなり、個体は、個体となることで環境でなくなり、その分やはり貧しくなります。
 個体化によるこのような「貧困化」は、「絶対的起源」(« origine absolue »)に対しては、生物レベルでの個体化でも起こっているのだろうとシモンドンはまず留保します。なぜなら、前個体化存在の準安定性の裡にはあらゆる個体化を超え包む豊穣さが包蔵されていると見ているからでしょう。
 個体化は、しかし、生物レベルでは、絶対的起源に対しては貧困化であるとしても、物質レベルとは違って、「恒常化された個体化」(« individuation perpétuée »)を伴っています。これこそが生命そのものなのであり、この個体化は、生成の根本様式にしたがって恒常化されています。「生命体は、己のうちに恒久的な個体化活動を保持している」(« le vivant conserve en lui une activité d’individuation permanente », p. 27)。生命体は、物質レベルでの結晶体や分子化合物のように、個体化の単なる結果なのではなくて、「個体化の劇場」(« théâtre d’individuation »)なのだとシモンドンは言います(ちょっとかっこいいと思いませんか、この表現)。
 したがって、生命体の活動は、物理的個体とは違って、己自身の限界に限定されず、生命体には、恒久的なコミュニケーションを求める「内的共鳴」(« résonance interne »)のより十全な体制がその裡にあるのです。この内的共鳴体制が前個体化存在の準安定性を生命体に保持させ、この保持こそが生命の条件なのです。














































「「遠く悲しき別れせましや」あるいは亡児悲傷 ―『土佐日記』を読む

2016-03-08 06:17:00 | 講義の余白から

 今日は、シモンドンの連載をお休みします。
 その理由は、準備ができていないから、ということではないのです。シモンドンについて書くことならまだいくらでもあるのです。が、なにせテーマが途方もなく大きいだけに、ときどき息を入れないと、連載途中でばったりと心身ともに倒れそうで。
 今日は朝から夕方まで、明後日の講義の準備をしていました。その講義では、まず歴史物語をさっと一刷毛で説明してから(それで十分だと思っているわけではないのですが...)、日記文学の章に入ります。中古文学史では、『古今和歌集』、『竹取物語』、『伊勢物語』、『源氏物語』と来た後に、とりわけ力を入れて説明したいと思っているジャンルです。
 日記文学といえば、まず『土佐日記』からですよね。かの有名な冒頭の一文、「男もすなる日記といふものを、女もしてしてみむとてするなり」を解説するところから入るのが定石です。私もそれは昨年踏襲しました。
 でも、昨年は、通り一遍の、それこそ教科書的な説明だけで、すぐに『蜻蛉日記』に移ってしまいました。そして、『和泉式部日記』、『紫式部日記』、『更級日記』へと。だって、そっちのほうが私には百倍も魅力的な作品たちですから。
 でも、これはやはりちょっと不当な扱いだったなと今年は反省しました。なぜ紀貫之が女性に仮託してこの新しい文学ジャンルを創出したかをもっと立ち入って説明するべきだったなって思うようになったんです。
 当時としては未曾有の大胆なこの試みによって可能になったのはどのような表現なのか。『土佐日記』を読んで、自分が感じていることを自分が普段使っている言葉で表現していいんだって勇気づけられた女性たちが日記文学という新しいジャンルの担い手になっていくのですから、歌人としての異論の余地のない大功績はもちろんのこととして、日記文学の創始者としての紀貫之の果たした役割についてもっとちゃんと説明しないと、この問いには答えられませんよね。
 『土佐日記』の文学作品として画期性は、複数の観点から論ずることができますが、明日の講義では、特に、それまでの男たちの「晴れの文学」では不可能だった感情表現について、具体的に例を挙げて説明します。その中でも、『土佐日記』の主題の一つとされる「亡児悲傷」を取り上げます。
 この長くもない作品の中に、土佐赴任中に亡くなった幼娘への断腸の追懐という主題は、変奏されつつ繰り返し現れます。貫之の当時の実年齢からして、この亡児追懐の章節を虚構とする見方もありますが、たとえそうであったとしても、『土佐日記』の文学作品としての価値がそれで下がるわけではありません。なぜなら、幼き愛児を失った親の癒やされることのない悲しみが具象の中に普遍的に表現されているからです。

 『土佐日記』の最終パッセージは、愛児を失った親の切り裂かれる心そのものです。

 思ひ出でぬことなく、思ひ恋しきがうちに、この家にて生れし女子の、もろともに帰らねばいかがは悲しき。船人もみな、子、たかりてののしる。かかるうちに、なほ悲しきに堪へずして、ひそかに心知れる人といへりける歌、

生まれしもかへらぬものを我が宿に小松のあるを見るが悲しさ

とぞいへる。なほ飽かずやあらむ、またかくなむ。

見し人の松の千歳に見ましかば遠く悲しき別れせましや

 忘れがたく、口惜しきこと多かれど、え尽くさず。とまれかくまれ、とく破りてむ。





























































 


個体化の真の原理は媒介である ― ジルベール・シモンドンを読む(18)

2016-03-07 02:30:00 | 哲学

 シモンドンが個体化過程の物資レベルでの範型として挙げるのが、結晶体特に水晶体の形成過程であることはすでに述べた(こちらの記事を参照されたし)。
 この水晶体形成過程を考察することが、ミクロのレベルでの状態に基づいている現象をマクロのレベルで把握することを可能にする。この考察が、形成過程にある結晶体がまさにそれとして形作られていくときの活動の把握へと導く。この個体化過程は、予めそれぞれ別々に構成され存在していた形相と質料との結合ではなく、潜在性を豊かに包蔵した準安定的なシステムの只中に湧出する一つの解決である。このシステムの中に、いわゆる形相も質料もエネルギーも「先在」(« préexister »)しているということである。
 したがって、「個体化の真の原理は媒介である」(« Le véritable principe d’individuation est médiation », p.27)とシモンドンが言うとき、それは予めそれぞれに存在する諸項の間の媒介のことではないことは明らかである。互いに他を俟ってはじめて成立する諸項として生成する相互媒介性そのもの湧出が個体化だと言っているのである。
 シモンドンの個体化理論は、絶対媒介の論理に支えられている。非実体的個体化理論は絶対媒介を原理としている。
 ここに、私たちは、シモンドンの個体化理論と田辺元の絶対媒介の弁証法の接点を見出すことができる。





























新しい世界像の展開の先蹤 ― ジルベール・シモンドンを読む(17)

2016-03-06 00:04:00 | 哲学

 シモンドンは、個体化の結果として暫定的に得られたに過ぎない個体から事後的に世界を再構成するあらゆるタイプの思考を批判する。なぜなら、それはまさに本末転倒だからである。ところが、基底として何らかの安定的な自己同一的な要素を、単数か複数かの違いはあれ、何らかの仕方でいずこかに想定する思考は、およそ二十世紀の初めまで、西洋における物の見方や世界観を大きく規定してきた。しかし、いかなるタイプの同一性理論も現実を完全に説明し切ることはできないと考えるシモンドンは、それゆえ、真に包括的な世界像の構築を可能にする独自の新しい哲学を構想しようとする。
 安定的な同一性を根拠とする世界像を根底から揺るがす理論を生み出したのが二十世紀の物理学であり、シモンドンは、そこに自身が構想する個体化一般理論へと至る新しい世界像の展開の先蹤を見出す。シモンドンは、量子力学一般をよく理解していたようだが、特に波動力学に強い関心を示し、ルイ・ド・ブロイの著作を熟読していた。
 最新の物理学の成果の中にシモンドンが見ているのは、非実体的個体化理論の物質の世界における展開である。粒子と波動の二重性は、シモンドンによれば、前個体的存在の二つの表現の仕方として考察されうるだろう。このように物理の基礎概念が修正され組み合わされる必要があるということは、それらの概念がそれまではただそれぞれが「個体化された現実」(« la réalité individuée »)に適合しているだけで、そのままでは「前個体的現実」(« la réalité préindividuelle »)には適用不可能だということをおそらくは意味している。


























初元の「準安定(状態)」から生じる個体の相補性 ― ジルベール・シモンドンを読む(16)

2016-03-05 02:10:00 | 哲学

 個体化過程は、安定か不安定か、あるいは、運動か休息か、という、互いに他項を排除する二者択一的な思考では捉えることができない。そこでシモンドンが導入するのが「準安定(状態)」(« métastabilité »)という物理科学的概念である。
 この概念が個体化原理の説明として有効に機能するためにそれと同時に導入されるのが、一システムの「潜在エネルギー」、「秩序」、「エントロピーの増大」などの概念である。さらに、これらの諸概念をいわば統括する鍵概念として「(情報)形成」(« information »)が導入される。
 これらの概念が、前個体化存在(l'être préindividuel)から個体化過程で生じた個体を、二者択一的な思考とはまったく違った仕方で把握することを可能にする。
 この「準安定(状態)」概念を導入する頁は、私にはついていくのになかなか骨がおれ、無知ゆえのとんでもない誤解の恐れなしとしないが、そこでの「準安定(状態)」論を思い切って私なりにまとめれば以下のようになる。
 これらの概念とともに拓かれるパースペクティヴにおいては、ある個体が在るということは、もともとの準安定状態から、ある形の下に一定の情報が潜在エネルギーとして秩序づけられ、エントロピーの増大が制限されている状態あるいは負のエントロピー状態にあるということである。
 このように個体の生成を捉えるとき、個体が在るということは、準安定状態にある前個体化存在の過飽和あるいは過融解に対して、そこに一定の解決が与えられたということである。ところが、この解決は、その前個体化状態から生まれて来たものである。それゆえ、その「同じ」個体は、前個体化存在の自己差異化の結果として得られた対立項のいずれにも還元することができない。波動あるいは粒子、物質あるいはエネルギーという、個体把握の相補性もそこから説明される。
 逆に言えば、この相補性は、現実の原初的な準安定性の認識論的な反響だということになる。







































「緊張した過飽和状態にあるシステム」― ジルベール・シモンドンを読む(15)

2016-03-04 04:07:00 | 哲学

 ILFIの序論の昨日の続きを読む(p. 25, l. 33 -p. 26, l. 4)。
 繰り返しになるが、シモンドンにおける個体化を理解するためには、存在を、実体、物質、あるいは形相などと見なしてはならない。個体化は、「緊張した過飽和状態にあるシステム」(« système tendu, sursaturé »)と考えられなくてはならない。
 このシステムは、静止した統一体の次元を超えるものであり、それ自体で自足するものではなく、排中律を原理とする思考によっては適切な仕方で考えることができないものである。具体的存在あるいは十全な存在、つまりは「前個体化的存在」(« l’être préindividuel »)は、一つの統一体以上の存在である。
 この「前個体化的存在」が何を指しているのか、この文脈からわかる。それは、単に個体化に先立ち、個体化によって取って代わられる先行状態にある存在のことではない。そこにおいて個体化が発生するいわば無限に開かれかつ過飽和による緊張を孕んだ場所のようなものとして、つねに個体化をその実現過程へともたらすべく「そこ」にあるものである。
 したがって、個体化の一つの結果として形成された個体に特徴的な内的統一性と自己同一性は、排中律の適用を可能にする思考の条件であるがゆえにこそ、「前個体化的存在」には適用され得ない。
 このことは、モナドによって世界を事後的に再構成することはできないということ、そこにたとえ別の原理 ― 例えば充足理由律 ― を導入してモナドを宇宙として秩序づけようとしても結果は同じであることを意味している。
 個体の内的統一性と自己同一性とは、存在の一階梯にしか適用され得ない概念であり、その階梯は、個体化作用の後にしかやって来ない。つまり、この両概念は、個体化原理をそれとして発見するのには役に立たないということである。言い換えれば、その語の十全な意味で用いられた「個体発生」には適用され得ない。つまり、自己を重層化し差異化する存在のまさに存在として生成には適用され得ないということである。


















































「生成を通じての存在保存の原理」― ジルベール・シモンドンを読む(14)

2016-03-03 00:24:00 | 哲学

 ILFI の序論は、十四頁と比較的短いが、そこには個体化原理の一般理論が展開されており、後続の四部を理解するために必須の諸概念の基本的規定をそこに読むことができる。だから、ゆっくりと丁寧に読みながら、シモンドンが構想する哲学のよりよい理解に努めよう。
 昨日引用した一節の直後の一文は、イタリックで強調されている。

L’individuation correspond à l’apparition de phases dans l’être qui sont les phases de l’être (p. 25).

 個体化は、存在の諸相がそれとして現れることそのことである。
 個体化は、したがって、生成の終着点としてそれだけ切り離せるような結果のことではない。言い換えれば、個体化は個体化された個体に終わるものではない。存在の諸相が現れるということそのことを通じて個体化もまた現実化されつつあるからである。
 では、なぜこのような個体化が発生するのか。
 この問いに対する答えとして、シモンドンは、個体化以前の存在における「過飽和」(« sursaturation »)を個体化発生の初期条件として措定する。まだ生成過程に入る前の、複数の相に差異化されていない存在は、この過飽和という初期条件のゆえに、自己構造化を始め、個体とその環境とを現れさせ、初期の緊張状態に一つの解決をもたらしかつその緊張を構造として保存することからなる生成過程に入る。
 「生成を通じての存在保存の原理」( « le principe de la conservation d’être à travers le devenir »)を唯一の原理としてすべての存在とその生成(つまり個体化)を説明すること、これがシモンドンの哲学の根本的要請である。
 存在の保存は、構造と作用・操作との間の交換を通じて実行され、非連続な量子的飛躍による様々な均衡状態の継起を通じて継続される。

































生成は存在の一次元である ― ジルベール・シモンドンを読む(13)

2016-03-02 06:12:00 | 哲学

 ILFI の序論を少しずつ読み、読んだ箇所についての私なりの理解やそれに触発されて考えたことなどを記していくことにする。
 存在と生成とを対立させて考えるのが妥当なのは、存在のモデルとして実体を想定する思考の内部に限られる。その思考の狭隘さを批判するシモンドンは、それとは違った存在と生成との関係を提示し、それを展開していく。

Mais il est possible aussi de supposer que le devenir est une dimension de l’être, correspond à une capacité que l’être a de se déphaser par rapport à lui-même, de se résoudre en se déphasant ; l’être préindividuel est l’être en lequel il n’existe pas de phase ; l’être au sein duquel s’accomplit une individuation est celui en lequel une résolution apparaît par la répartition de l’être en phases, ce qui est le devenir ; le devenir n’est pas un cadre dans lequel l’être existe ; il est dimension de l’être, mode de résolution d’une incompatibilité initiale riche en potentiels (p. 25, souligné par l’auteur).

 生成は存在の一つの次元だと考えることもできるとシモンドンは言う。生成は、存在が己自身に対して位相をずらす能力、一言で言えば、自己差異化能力のことだと考えるのである。シモンドンにおいて、生成とは個体化に外らないから、個体化以前の存在とは、その内にずらすべき位相を有さない存在のことである。個体化がまさにその中で現実へともたらされる存在とは、己をいくつかの位相に分化させることによって、己うちに生じたある問題の解決、より端的言えば、緊張関係の解消が己のうちに現れて来るような存在である。この現れこそが生成である。生成とは、その中で存在が実在する枠組みのようなものではない。それは存在の次元なのであり、様々な潜在性を豊かに秘めた初元の共存不可能性についての一つの解決様式なのである。
 「前個体化的存在」(« l’être préindividuel » )は、その状態にとどまるかぎり、己のうちに最初から内含されている矛盾・葛藤・対立を解決あるいは解消することができない。個体化される以前の存在が生成過程つまり個体化過程に入ることによって、それらの問題に一つの解決がもたらされる。
 このような視角から存在と生成との関係を見直せば、生成過程において形成された個体は、それ自体で独立な自己同一的な実体などではなく、ある問題の解決として或はその問題に解決をもたらす媒介として働くものである。すべての問題が解決されるということがないかぎり、個体はつねに未完の生成過程の一階梯だということになる。