内的自己対話-川の畔のささめごと

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揺曳する哲学的精神の記録 ― メーヌ・ド・ビランの日記を読む(一)

2014-02-19 01:45:00 | 哲学

 哲学者がつける日記にもいろいろ種類があるが、その日記それ自体が自らの哲学を表現する重要な媒体だった哲学者たちがいる。そのようなフランスの哲学者たちの中で筆頭格なのがメーヌ・ド・ビラン(1766-1824)だと私は思う。
 生没年を見ればわかるように、フランス革命前後が青年期にあたり、フランス近代史の中でもとりわけ激動の時代を生きた哲学者であった。しかし、ビランはまた政治家でもあり、地方議会から中央政界にまで進出し、壮年期にはパリと出身地ベルジュラックとを行き来するような生活を送っている。革命前は一七八五年十九歳の時からルイ十六世の親衛兵、一七八九年の革命時はヴェルサイユ宮殿の防衛にあたり、奇跡的に死を逃れたと言われている。革命後一七九七年には五百人会議議員に選出され、帝政行政機関に属し、ナポレオンに対立する立場に立つ。ルイ十八世の下では、帝国議会財務担当を務める。地元の地方議会でも次々に要職を兼任している。
 他方、ビランの哲学は、「内感の哲学」あるいは「内面性の哲学」として紹介されることが多い。しかし、そのような哲学にのみ重点を置いた見方をすると、上記のようなビランの政治家としての経歴、それにともなって不可避的に発生した社交界での知名の人士たちとの交流がすっかり影に隠れてしまい、自分の内面世界をひたすら省察し続ける静謐な生活を送っていた書斎の哲学者であったかような誤った印象が生れてしまいかねない。確かに、ビランの日記には、議会での発言を嫌い、社交界での付き合いにうんざりしているような記述がしばしば見られるが、だからといって思索に明け暮れる田舎での隠棲生活だけに自足できるほど安定した精神の持ち主ではなかった。毎晩のように人を訪ね或は人を招き会食しているパリでは故郷での哲学的思索への沈潜を願う一方、生地の私邸にあっては自然の中での散策と静かな書斎での思索を楽しむ日々の中でパリでの社交生活を懐かしく思い出している自分に気づかずにはいられないビランの姿が日記から立ち上があってくる。健康には恵まれず、内臓疾患をかかえ、気候の変化には体が敏感に反応してしまう。日記には天候の記述が頻繁に出てくるが、それに応じて変化するビランの気分もあわせて書き留められていることが多い。両者は相俟ってあたかも「空模様即心模様」とでも形容できるような交錯した記述を形成している。
 政治と哲学、パリと地方、公生涯と私生活、社交と孤独、健康と病、議論と内省、気分の高揚と思索への沈潜など、様々なニ項間で揺れ動いてやまない精神の揺らめきの日々の記録がビランの日記だと言うこともできるだろう。このように様々なレベル・次元で対立するものの間に生きながら精神的生の平安の希求へと向かっていくビランは、絶えず「書く人」であった。ビラン固有の哲学研究として生前公刊されたのは、フランス学士院の課題懸賞論文に応募して「特別賞」を受賞した論文「習慣の思考能力への影響」(一八〇二年)だけで、他に公刊された小著・論文は他者の説の紹介に過ぎないが、他方で数千頁に上る様々な書き物が死後に残された。書簡、読書記録、手帳への覚書、講演草稿・原稿、ヨーロッパ諸国のアカデミーの懸賞受賞論文のオリジナルあるいはコピー、未完の著書の断片、そして青年期から最晩年まで断続的に書き続けられた日記(これは広い意味での日記で、その中には手帳・ルーズリーフ等に記された哲学的断片や心情の吐露がすべて含まれる。それに対して、ビラン自身が「日記」と呼ぶのは、一八一四年二月から死の二ヶ月前の一八二四年五月までの晩年十年余りの間に継続的に書かれた計四冊のノートのことである)。
 この日記には、自分の健康の脆弱さ、気分の移ろいやすさ、政治家としての公生活における軋轢等について延々と愚痴っぽい記述が続いたかと思うと、あたかも空を暗く覆う雲間から閃く稲妻ように、ある哲学的問題の核心にいきなり切り込んでいくような記述が突然現れるから油断がならない。哲学研究の分野では、そのような記述がビランの哲学的テーゼの例証として引用されることが多い。しかし、デカルト、マルブランシュに象徴される天才の世紀一七世紀後のフランスが生んだ最も偉大な形而上学者とベルクソンによって讃えられたこの精神の運動全体を把握するには、それら哲学的思索の前後の雑事・社交生活・家庭生活の記録、心の不安定・健康不安・実存的苦悩等を吐露する記述もやはり等閑視するわけにはいかないだろう。
 明日の記事から、何回になるかわからないが、揺曳してやまないビランの心の動きを日記の中で追いかけながら、ビランにおける日々の哲学的実践の姿を浮かび上がらせてみたい。