一昨日昨日と丸山眞男の竹内好についての文章 ― あるいは談話といったほうがいいかもしれないが ― を取り上げようと思うきっかけになったのは、鶴見俊輔『竹内好 ある方法の伝記』の「あとがき」に引用されていた丸山の談話「好さんとのつきあい」を読んだことだった。この談話は、竹内好が亡くなった1977年の翌年に出版された魯迅友の会編『追悼 竹内好』に収録されたのが初出で、今では『丸山眞男集』第十巻に収められている。私の手元にはどちらの本もないので、鶴見の本からの孫引きになってしまうが、単に竹内好評として優れていると思われるからというだけでなく、一個の人格として他者に対する時の基本姿勢ついて大切なことが言われている箇所だと思うので、引用の最後の一文を除き、引用全文を引く。ただし、予め断っておくと、私は以下の引用に示されている丸山の考えにはニつの点において批判的である。その二点については引用後に述べる。
好さんという人について、ぼくの好きな点の一つは、自分の生き方を人に押しつけないところなんです。よく好さんのことを「厳しい」という人がいるでしょう。でもね、いわゆる「厳しい評論家」というのは、たいがい他人に厳しい割合には自分には甘いんです。で、自分の生き方を基準として他人を裁く傲慢なところがあります。が、好さんにはね、自分とちがった生き方を認める寛容さがあるんです。もちろん人の身の処し方については非常に厳しい意見をもっていますよ。でも、その人が単に世間体とか時流とかに従うのではなく、その人なりの立場から一つの決断をした場合には、自分ならばそう行動しないと思っても、その人の行き方を尊重するという、原理としての「寛容」をもっていました。それは残念ながら日本の知識人には非常に珍しいんです。他者をあくまで他者として、しかも他者の内側から理解する目です。これは日本のような、「みんな日本人」の社会では育ちにくい感覚です。日本人はね、人の顔がみなちがうように、考え方もちがうのが当たり前だ、とは思わない。言ってみれば、満場一致の「異議なし社会」なんです。ですからその反面は異議に対する「ナンセンス」という全面拒否になる。もっとも日本にも「まあまあ寛容」はあります。集団の和を維持するために「まあまあ大勢に影響はないから言わせておけ」という寛容です。そういう「寛容」と「片隅異端」とは奇妙に平和共存する。だけれども、それは、世の中の人はみんなちがった存在なんだという、それぞれの個性のちがいを出発点とする寛容ではないんです。好さんの場合、おそらく持って生まれた資質と、それから中国という日本とまるでちがった媒体にきたえられたことがあるんでしょうが、彼のゆたかな他者感覚は島国的日本人と対照的ですね。これは個人のつき合いだけでなく、実は彼の思想論にも現われています。(鶴見俊輔『竹内好 ある方法の伝記』一九八-一九九頁)
竹内好評としての当否を問うことは私にはできない。親友の丸山眞男がこう言うんだから、竹内好はきっとこのような人だったのだろうなという以上の感想はない。それは賛嘆の念とともにであるが。他方、私が読んでいて、印象づけられもし、また疑問符を打たざるを得なかったのは、まさに丸山の竹内評の二つのキーワードである「原理としての「寛容」」「他者感覚」についてである。
前者に関しては、丸山が竹内に即してこの言葉を使う限りでは、竹内の人としてのあり方の基本を示すものとして何ら批判はないのだが、引用の後半に出てくる「それぞれの個性のちがいを出発点とする寛容」という一般化された寛容の定義には同意できない。ただ、それは「寛容」をフランス語の tolérance と等価と仮定しての話であり、この問題ついて説明しだすと長くなるので、それは明日の記事に譲る。
後者の「他者感覚」については、丸山が七〇年代に入ってからしきりにこの言葉を使うようになったこともあり、問題化するのは、この言葉が出てくるテキストに一通り当たって丸山の意図を十分に理解してからでなければできないが、すでに何度かこの言葉に丸山の他のテキストでも出会ってきているので、それも含めて率直な感想を述べることが許されるならば、「他者をあくまで他者として、しかも他者の内側から理解する目」と言われると、そんなの土台無理でしょ、あるいは百歩譲ってそれができたとして、そのとき、その他者はもう他者でなくなってしまうんじゃないですか、と反問したくなるのをどうすることもできない。この問題についても日を改めて考えてみることにする。