昭和四十年に京大に転任した機会に、山田晶は『神学大全』ラテン語原文で読む演習を毎週二つ行うことにした。しかし、それはなかなか進まない。
この調子でゆくと、《スンマ》全巻を読了するのに、二百年はかかりそうである。ということは、つまり、私たちの代には終わらないということである。しかし私はそれでよいと思っている。明治以来、日本の学者たちは、あまりに西洋の思想を早くとりこもうとあせりすぎたようだ。早く追いつこう、追い抜こうと、息切らしているようだ。何故そんなにあせるのか。学問の面白さは、涯しのない真理の大海のなかに身を投げ入れて、その一滴を味わうところにはじめて生じてくるのではなかろうか。(「聖トマス・アクィナスと『神学大全』」、『世界の名著 トマス・アクィナス』、14-15頁)
この箇所を読むと、今から三十年ほど前、院生のときに参加したアリストテレスの『デ・アニマ』の演習のことを思い出す。ギリシア語原文を英仏独の多数の注釈書を参照しながら読んでいくのだが、一語の解釈を巡って参加者の間で議論が延々と続き、読解は遅々として進まない。三時間の演習でたった二行しか読めなかったこともあった。
しかし、それでがっかりしたり、苛立ったり、先を急ぎたがったりする者はひとりもいなかった。むしろ、そこまで徹底して議論を尽くせたことの満足感が参加者全員に共有されていた。
そのようないつ終わるとも知れぬ共同読解作業から私は実に多くのことを学んだ。そこで初めて哲学することの醍醐味を味わったと言ってもよい。その演習を通じて学んだ「遅読」の方法は、今もなお、私にとってテキスト読解の基本である。
我々は知識という大海の岸辺で貝を拾う子供にすぎない、と。