本書は、2009年5月に京都の日文研で行われたワークショップの記録である。2010年に以文社から刊行されている(こちらが出版社による同書の紹介)。「近代の超克」論へのそれまでにない多角的なアプローチを野心的に試みた、きわめて示唆と刺激に富んだ大変読み応えのある論文集である。
酒井直樹による「序 パックス・アメリカーナの下での京都学派の哲学」を読みながら、幾度も立ち止まって考えさせられたが、来月のシンポジウムでの自分の発表内容にも関連する次の一節は、さらに私自身で考えなければならない問題提起を含んでいる。
京都学派の哲学の研究において、朝鮮、台湾、その他諸国民と日本との関係が無視されてきただけではなく、アジアにおける日本の植民地支配の正当性を普遍主義的な哲学用語を用いて生み出すことに、明らかに京都学派のメンバーたちが加わっていたという事実が、ずっと看過ごされてきた。日本と西洋という二項対立の枠内に事物を配置してしまうことで京都学派の哲学を真剣な比較研究の対象とすることができなくなり、さらに、日本の知識人たちがアジアの諸国民との関係において、疑いもなく植民支配者の立場に立って哲学してきたという歴史的事実から目がそらされてきたのである。西洋対日本という枠組みを設定することによって、意図的に避けられているのは、西洋であろうと日本においてであろうと多様な哲学的企てを同じ分析のまな板に置いて、それらが植民地の権力関係に関与したという観点から研究することである。実際のところ、その抑圧は研究対象よりもむしろ、研究主体をとりまく諸条件に関係している。たいていの場合、それは京都学派の哲学を学ぶ者によって暗黙の支持を受けていた日本を特別視する(あるいは逆に西洋を特別視する)例外主義に由来するのである。戦後日本の文化的国民主義が民族的例外主義への傾向を有していることはよく知られている。しかし、われわれは合州国と西欧における日本を対象とした地域研究、そして京都学派の研究をしばしば束縛している諸制約につきまとってきた例外主義を、いまだ適切に歴史化しえていない。(22-23頁)
フランス語圏での日本哲学研究の現状に関して言えば、この酒井の見解に対して若干の留保を付けたくもなるのだが、それはともかく、確かに、日本の植民地支配と普遍性を主張する当時の哲学的言説との関係はこれまでちゃんと考察されてきたとはもちろん言えない。近代日本の哲学に関わるこの問題を回避したままでは、しかし、いわゆる西洋哲学も十分には考察され得ないのだから、哲学研究に携わる者であるならば、少なくとも一度は真剣にこの問題を考え抜く必要があるだろう。
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