内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

反時代的学問としての「読書の学」― 吉川幸次郎『読書の学』について

2021-06-01 14:34:24 | 読游摘録

 昨日の記事の話題は何か唐突な感じを与えたかも知れない。このブログで取り上げる話題は、その日その日の思いつきでもいいのだから、唐突だったとしても、出し抜けだったとしても、別にかまわないわけだが、昨日の話題に関して言えば、私自身にとってはふと思いついただけのおざなりな話ではなかった。
 その前の日まで五日間連続で吉川幸次郎の『古典について』を取上げたが、同じく吉川の『読書の学』(ちくま学芸文庫 二〇〇七年)も並行してところどころ読み直していた。こちらはその電子書籍版を昨年十二月に購入したが、そのときは読んだ感想をすぐにブログに書きつけなかった。その『読書の学』の中に、昨日の記事のようなことを考えさせるきっかけになった学問論が展開されているのである。本書は、一九七一年から一九七五年にかけて筑摩書房の雑誌「ちくま」に連載された文章からなり、一九七五年に単行本として刊行された。
 その学問論の要点は以下の通り。現代の学問においては、書物は、広い意味での内的あるいは外的事実の獲得のために読まれるので、その事実が獲得されてしまえば、用済みであり、書物の言語は、忘れられ、棄てられる。現代の学問は、事実に執着し、事実を伝える言語の形態を深く問わない。書物を主な考察対象とする人文科学でさえそうであるのだから、「事実そのもの」を扱うとされる社会科学の分野や、ましてや自然科学の諸分野においては、言語に対する執着は希薄となる。あるいは、自分たちの研究分野で必要とされる言語にしか関心を示さず、それ以外については、言われた内容、伝えるべき事実が大事であって、言語表現そのものは二の次となる。しかし、言語もまた事実であり、伝えられる事実は言語と独立に存在するものではない。ここに言語形態そのものを考究対象とする学問が成立する理由がある。ただし、ここでいう言語形態とは、言語学の対象としてのそれではなく、認識・思想の表現形態としての言語である。したがって、新聞雑誌に掲載される、読み捨てればよいような文章は対象とはならない。この認識・思想の言語表現の諸形態を研究対象とするのが「読書の学」である。
 思い切って要約してしまえば、これが吉川の所説である。が、このように暴力的に要約してしまうことがまさに読書の学に反する態度である。読書の学は、「何をいっているかを知るだけで満足する見方、それに満足せずして、いかにいっているかを、著者の心理に立ち入って把握する能力」だからである。このような能力は、「ゆっくりした時代にこそ高まる」と、「読書力について」という別の文章の中で吉川はすでに書いている。
 実際、前田英樹が『愛読の方法』(ちくま新書 二〇一八年 本書については昨年十二月に四回取上げている。こちらがその初回)の中で『読書の学』に言及している箇所で言っているように、吉川は、この読書の学を「手を変え、品を変え、執拗に」説いている。『読書の学』はもともと一般読者向けに書かれた文章でありながら、具体例として上げられた詩句の注解は、確かにいささか度が過ぎると素人には思えるほどに詳細である。
 吉川が『読書の学』を書いてから四十五年以上が経っている現在、私たちは吉川の時代には想像もできなかった速さで、恐ろしく大量の文章を時々刻々発信し、受信している。いちいち表現の仕方になんか注意していたら間に合わない。少しくらい間違っていたって、通じればいいではないか。そのほとんどは記憶されることもなく、使用後は忘却されるのだから。学問においてさえ、細かい字句に拘っていては「生産性」が上がらない。表現に彫琢を施している暇はない。どんどん論文の本数を増やさなくては、「業績」を評価してもらえない。
 現代において、読書の学は、反時代的学問である。まさにそうであるからこそ、存在意義があると、あるいは死守しなくてはならないと、吉川の文章を読みながら、老生は愚考した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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