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しかし、言うまでもないと思うが、いくら文脈上自明な主語(「が」によって示される)および提題(「は」によって示される)を省略するのが日本語運用の一般的使用規則だからといって、それを乱用し、あまりにも極端に主語あるいは提題を省略してしまっては、日本人同士の間でも誤解が生じてしまう。それは、話し手・書き手と聴き手・読み手との間に同一の前提が十分に形成・共有されていないからである。
フランス人学生たちに日本語運用のこの一般的使用規則を説明するのに、日本語における日本人同士の間の「普通の」自己紹介の仕方を私はよく例として挙げる。日本語を習い始めた学生に自己紹介してごらんというと、まず例外なく、「私は〇〇です」と、文頭に「私は」を付ける。間違いではないどころか、「完璧な」日本語である。ところが、日本人は、まず、「私は」を付けない。いきなり「〇〇です」と自己紹介する。それが普通だ。なぜか。自己紹介をするというテーマが既に文脈として与えられているから、「私」を提題として明示する必要はもうないからである。これが日本語運用の一般的使用規則である。
「自明な」提題(「-は」)あるいは主語(「-が」)は省略されるという条件の共有が言説理解の前提となるという、日本語運用のこの一般的使用規則が、フランス人たちを悩ませる。命令文、一語文、省略表現、感嘆表現などを除き、そもそも主語のない文などフランス語にはあり得ないからだ。
そのような主語を欠いた文を目の前にするのは、彼らにとって、あたかも胴体部分だけを見せられて、誰だか当ててみろと言われているようなものである。彫刻に喩えれば、フランス語が「完全な」全身像であるのに対して、日本語は、トルソーのようなものに思えるのである。
もちろん、その部分から誰だか特定できる場合もある。しかし、それで日本語としては「欠けるところのない作品」なのだと自分を説得しようと試みても、その文に「文法的に欠落がある」という印象を完全に拭い去ることは、彼らにとって、箸で小豆一粒を摘むことよりも、麺類を音を立てて食べることよりも、難しいことなのだ。そして、その「欠落」を補うべく、できるだけその文の近くに答えを探そうとする。その結果、昨日の記事に例として挙げた訳ような「初歩的な」誤りを犯してしまうのである。
文脈依存性と自明的要素の省略志向とを強く有った日本語運用の一般的規則が、いわゆる「文法的に完全な」文を多用することを、「うるさく」、「ぎこちなく」、「不自然に」感じさせる。言い換えれば、その談話あるいは文章に瀰漫する「エーテル」を即座に感じ取り、その場面あるいはその文脈で、どの要素を省略しても誤解の余地がないかを瞬時に的確に判断できるということが、日本語がよく「わかる」ということなのである。それが「自然な」日本語が話せ、書けるということなのである。
だが、この「自然で」「調和した」日本語空間の中に、この一般的規則をまだ共有していない日本語話者が入って来たらどうするべきか。
私が英語を習い始めたときのことですが「喋るとき常に『I(私)』で始めなさい。」と指導されました。つまり「××はどこにありあますか」と聞くな、「俺は××へ行きたいんだ」と言え、という事です。何もかも全て「俺が」,「俺は」と言う訳です。これを思い出すたび「ああ実存主義が生まれたのも納得できるじゃないか」と私は思っちゃいます。