安ワインしか飲まない。別にそう決めているわけではない。経済的事情からそうせざるを得ない。ざっと計算して、年間二百五十リットルはワインを飲んでいる。それを二十数年続けているから、少なく見積もっても、総計五千リットルには優に達している。自慢ではない。無駄だったとも思わないが、もちろん必要だったわけでもない。
飲みすぎて失敗したこともなくはない。いや、少なからずあった、と正直に言おう。でも、まあ、飲めば楽しかったことのほうが圧倒的に多かった。ちょっと恥ずかしい失敗をしたからといって、金輪際酒など止めてしまおうなどと短絡的で思慮に欠けた決定をしなかったことは我ながら褒めてよいかもしれない。
安ワインでも不味いわけではない。少なくとも、肥えていない私の舌にはそれなりに美味しいワインは日本円にして数百円でいくらでもある。ただ、安さは危険である。つい酒の旨さのありがたみをないがしろにしてしまいがちだ。酒を味わうこともせず、ただ酔うために飲むのは、そもそも酒に対して失礼だ。それに、言うまでもなく、飲み過ぎは体に良くない。
「旨い」文章にはその懸念がない。いくらでも、何度でも、読めばいい。読みすぎて体を悪くすることはない。実際、長年、そうやって文章を味わってきた。
今日もまた、そんな極上の文章に出会えた。それだけで今日は佳日だった。それに、酒と違って、同じ場所に居なくても、電子媒体を介してその文章を皆さんと分かちあえる。
さあ、どうぞ、ご一献。
わたしは本を読むのが遅い。それでずいぶん損をしているかもしれないが、この年になればいつも勉強や仕事のために本を読んでいるわけではないから、読める本が二倍になっても別にありがたいとは思わない。だからどこまでも我流で読む。読みたいと思う本は、活字を目で押さえるようにして読む。というよりも、むしろ本がそういう読み方をわたしにさせるのである。いい酒が呑み方を教えるようなものであって、旨いから欲張ってもっと呑もうとしても酒がそうはさせない。旨ければ旨いほど酒というものは、まるで味を愉しめといわんばかりに呑み手の手を止めさせて、じっくり呑むように誘ってくれる。本も、コクのある、いい文章に出会うと、読みながら立ち止まって、いま読んだ数行を読み返すことがある。文章の味わいをもう一度味わって、言葉のどこにあの味わいがあるかを知りたいと思うからだ。いうまでもないが、文章の味わいというのはそれを書いた人間の味でもある。
保苅瑞穂『モンテーニュの書斎』(講談社、290頁)
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