内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(二十六)

2014-05-10 00:00:00 | 哲学

2. 3. 1 予備的考察(3)

 「引き受けられた状況」の例として、〈両眼の収斂運動-見かけ上の大きさ-奥行〉という三つの項の関係を見てみよう。前二者は奥行の原因ではない。もしそうであったならば、それらニ者だけで、他の要因一切なしに、奥行を生じさせることができることになってしまう。しかし、そもそも私が何ものかを見ようという意思を持たなければ、両眼の収斂運動も発生しないし、見かけ上の大きさを語ることもできない。私が何ものかを見ようという意思を持ってはじめて、この両者は動機としての価値を有つに至るのである。それゆえ、これら三項は「一つの状況から抽出された諸要素」であり、そのうちの一項でもその状況から切り離されてしまえば、三項ともそれぞれに固有の意味を失ってしまう(VI, p. 302, voir aussi p. 299-302)。
 奥行知覚において作動しているのは、「距離をおいて見る或る一つの仕方」(« une certaine manière de regarder à distance », ibid., p. 300)である。それに、私という見るものは、身体を持たない客観的で無限な眼差しのような観点に還元され得ないことは言うまでもないであろう。もし見るものが一切の延長を持たない観点で、公平で特定の利害に左右されない視力という以外の意味を持たないとすれば、ある対象が私から離れてゆき、次第に小さくなり、曖昧な漠然とした形姿になるという知覚的事実が理解できなくなってしまう。知覚空間は奥行のうちで私に与えられる。なぜなら、それは、見ることによって把握する能力、私の身体という「私は…することができる」(« je peux ... »)の有限なシステムが有っている能力に対して与えられるからである(voir ibid., p. 302-303)。
 この見ることによる把握が私に与えるものは、相互に内含された諸側面の同時的現前である。私が奥行のうちに手前から遠くへと置かれた物らを見るとき、私の眼差しは、それぞれの物をその在る場所において捉えるのであり、互いに部分的に隠されていることもわかっている。或る物の後ろに在る別の或る物は、部分的に隠されたままでそこに在るというその在り方をその場で表現している。私が自分の前にのびている道を見つめるとき、その道は、地平線に向かって私から遠ざかるにつれて次第に収斂していくように見える。そのとき、遠く離れたある地点における見かけ上の道幅は、その場で、私がそこに近づいたときに見せるであろう姿を、今ここにいる私に対して表現している。このような道の両辺の見え方を、メルロ=ポンティは、「奥行のうちの平行線」(« parallèles en profondeur », ibid., p. 302)と呼ぶ。私が一個の立方体を見つめるとき、斜めに見られた側面は、正面から見れば見ることができる正方形を、そこにおいて、今表現している。これらすべて知覚経験は、知覚の領野を織り成している諸部分の間には、相互に他を表現し合う内的連関あるということを示している。
 知覚の領野における諸部分の共存という経験は、同時性の経験であり、したがって時間性の経験である(voir ibid., p. 306-307)。私がある光景を奥行の内に見るとき、私は、或る物の近くに、そして別の或る物からは離れた場所に居り、けっしてそれらに対して同時に同様な仕方で存在しているのではない。私が目の前にしている物については、私はそれを見ているだけではなく、それを手に取ってみることもできる。ところが、私から離れたところにある物は、別の仕方でそこにある。例えば、私は、眼差しによってそれをすでに捉えているが、まだ手に取ってみてはいないという仕方で。あるいは、私は、今もなお眼差しによってそれを捉えてはいるが、もはやそれは私の手の届かないところにあるという仕方で。ある物が多かれ少なかれ離れたところに今在るということは、その物が未来あるいは過去の中にすでに入りこでいるということにほかならないのである。