内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(二十三)

2014-05-07 05:05:00 | 哲学

2. 2. 5 〈相互帰属性 inter-appartenance〉(2)

 私が見ている世界は、見るものである私にとって確かに存在することを認めるとしても、見えるもの・見るものである私の身体は、それでもやはり、世界をそれとして構成している厚みと重みに属していることに変わりはない。

私の身体は、見えるものとして、大光景の中に含まれている。しかし、見るものである私の身体は、この見える全体と、それとともに見えるものすべてとを下支えしている。私の身体とこの大光景との間には、互いに他方への内挿と絡み合いがある。
« Mon corps comme chose visible est contenu dans le grand spectacle. Mais mon corps voyant sous-tend ce corps visible, et tous les visibles avec lui. Il y a insertion réciproque et entrelacs de l’un dans l’autre » (VI, p. 182).

 触れられるものとと触れるものとについても同様の記述をすることができる。何れの場合にも、ニ項間の関係は、いわば合わせ鏡のような関係である。互いに他方の内に無限に己を映し合う。見えるものと見るもの、触れられるものと触れるもの、どちらの対関係の場合も、その関係を構成するニ項の一方を他方に還元し尽くすことはけっしてできない。
 〈肉〉の相互帰属性について、もう一つ忘れてならないことは、触れるものと見えるもの、見るものと触れられるものとの間にもそれが成立するということである。

触れるものの見えるものへの、見るものの触れられるものへの登記さえある。そして、その逆もまたしかり。
« Il y a même inscription du touchant au visible, du voyant au tangible, et réciproquement » (ibid., p. 188).

〈肉〉の相互帰属性とは、それゆえ、知覚の領野には、感じるものと感じられるものとがそこにおいて分節化される基層があり、この基層において、感じるものと感じられるものとが互いに互いの価値を伝え合い、両者がそれぞれ他方へと変容するということを意味している。この基層は、感じるものにも感じられるものにも還元不可能であり、この基層こそ、感覚性のあらゆる変容を受け入れ、感覚性のあらゆる形を迎え入れることができる「場所」なのである。この「場所」を〈受容可能性 Passibilité〉と呼ぶことを私たちは提案する。この〈受容可能性〉において、自己表現的世界を構成する諸要素間の相互的表現関係が現実的に顕現する(西田における「表現」という概念については、第一章 3. 2. 4〈表現〉を参照されたい)。

 ここまで見てきたように、〈肉〉の五つの性質は、知覚世界のロゴスによって相互に緊密な関係にあり、そのうちのいずれかを分析すれば、他の性質へと導かれる。これら〈肉〉の基本的性質は、それらが知覚世界の諸属性であるかぎりにおいて、すでに『知覚の現象学』の現象学的記述の対象となっていた。『見えるものと見えないもの』は、知覚世界の諸属性というテーマを現象学的存在論の問題として取り上げ直す。両者のアプローチの決定的な違いと後者において新たにもたらされた問題連関はどこにあるのか。この問題を、次節において、知覚世界における奥行というテーマに焦点を合わせて考察する。その考察を通じて、私たちは、歴史的世界の根本的存在様式の基礎的次元へと立ち入ることになるだろう。