内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(二十一)

2014-05-05 00:00:00 | 哲学

2. 2. 4 〈自己回帰性 retour sur soi

 自己回帰性 ― あるいは「巻きつき enroulement」― は、とりわけ見えるものと触れうるものとについて言われる。ここで問題になるのは、「私を貫き、私を見るものとする見えるもののそれ自身に対する関係」(« un rapport à lui-même du visible qui me traverse et me constitue en voyant »)、「私が作るのではなく、私を作る円環」(« cercle que je ne fais pas, qui me fait »)「見えるものの見えるものへの巻きつき」(« enroulement du visible sur le visible »)である(VI, p. 185)。

もう一度繰り返すが、私たちが語っている〈肉〉は、物質ではない。それは、見えるものの見る身体への、触れうるものの触れる身体への、巻きつきである。この巻きつきは、とりわけ、身体が物らを見ている最中、物らに触れている最中に、己を見、己に触れるときに観察される。この巻きつきの結果として、同時的に、身体は触れうるものとして物らの中に降りて行き、触れるものとしてそれらの物すべてを支配し、この関係、この二重の関係さえ、己の量塊の裂開あるいは分裂によって、己自身から引き出す。
« Encore une fois, la chair dont nous parlons n’est pas la matière. Elle est l’enroulement du visible sur le corps voyant, du tangible sur le corps touchant, qui est attesté notamment quand le corps se voit, se touche en train de voir et de toucher les choses, de sorte que, simultanément, comme tangible il descend parmi elles, comme touchant il les domine toutes et tire de lui-même ce rapport, et même ce double rapport, par déhiscence ou fission de sa masse » (ibid., p. 191-192).

 見るものは、見えるものの世界の中で見えるものとして、言い換えれば、見えるものの見えるもの自身への関係として現実化される。見るものに見るもの固有の存在を与えるのは、見るものと見られたものとへの見えるものの分割、言い換えれば、見ることを引き受けるものと見えるものとしてそれを取り巻くものとへの見えるものの自己分節化である。触れるものについても同様なことが言える。
 〈自己回帰性〉は、したがって、自らの内面に閉ざされたような自己閉鎖性でもなく、出口なき回路内の反復的な循環性でもなく、まったく逆に、自己から外に出ることである。なぜなら、〈可視性〉の「小片・小区画」(« parcelle »)として実現されることによって、〈自己回帰性〉は、他の何ものかがそこへと到来する可能性への無限の開けをもたらすからである。〈自己回帰性〉は、このようにして、「現実が、自己自身の中から自己自身を超え自己自身を構成し行く、自己構成の過程」(西田幾多郎全集第八巻二三三頁)を世界にもたらすのである。