集中講義3日目。まずは、昨日学生たちが提出してくれた小レポートについてのコメント。いずれのレポートにもなかなかいい質問や問題点をよく押さえた指摘が含まれていて、それら一つ一つについて私の解答、見解、疑問を述べる。ついで、『鏡の文化史』を「デューラーの自画像」についての箇所から読み続ける。18世紀以降については、私の方で簡単にまとめて、同書に基づいた西洋における「鏡の中の哲学史」を切り上げる。これで今日の演習の前半終了。
今日の演習の後半は、西田幾多郎の論文「場所」(1926)の読解。このテキストを選んだのは、他でもない、西田哲学にとって最重要なテキストの1つであるこの論文に、「場所」の説明として、鏡の比喩が何度か大事なところで登場するからなのだ。昨日の演習で辿り直した古代からニコラウス・クザーヌスまでの西欧における鏡をめぐる哲学的言説を手がかりとして、西田の「場所」を読み解いてみようというのが私の目論見。まず、西田哲学の展開過程を4段階に分けて図式的に示し、その中に「場所」論文を位置づけてから、テキストを読み始める。『善の研究』を学部時代に授業で読んだことがある学生はいたが、大半はこれが初めての西田哲学読解。彼らにとっていきなり「場所」を読まされるのは過酷な要求だったと思うが、それでも授業の最後までよく集中して付いて来てくれた。それは彼らが今日提出してくれたレポートを見てもわかる。それぞれ何とか西田の言おうとすることを捉えようと努力してくれている。明日はその後半戦。4時間以上も、この困難なテキストと向き合うのは容易ならざる作業だが、そこからそれぞれの学生が何かを摑んでくれることを期待している。
さて、昨日から始めたピエール・アドの Exercices spirituels et philosophie antique の紹介を続けよう。同書の巻頭論文はまさに "Exercices spirituels"と題されている。この論文は、アドが1977年度に École pratique des hautes études で行った講義内容をまとめたものであり、この主題を正面から取り上げた彼自身の論文として最も詳細なものである。今日から、数回に渡って、この論文に依拠しながら、アドによれば哲学的実践そのものである exercices spirituels (エグゼルシス・スピリチュエル)の内実を見ていこう。昨日の記事で述べたように、この術語の適切な日本語訳が見つからないので、これを以下ではESと略号で示す。
ES は、古代ギリシア・ローマの諸学派の中にもっとも容易にその実践例を見て取ることができる。例えば、ストア派にとって、哲学とは、抽象的な理論を教えることではなく、ましてやテキスト解釈ではなく、生きる技術であり、具体的な態度であり、ある生活スタイルのことであり、それは一人の人の全実存に関わる。〈知識〉だけが問題なのではなく、〈自己〉と〈存在〉にかかわることがらである。それは、実践する者をよりよく生きさせ、その人の人生全体を大転換させるようなものである。
古代哲学においては、ストア派に限らず、すべての学派にとって、人間の苦悩の主たる原因は、諸情念である。より正確に言えば、無秩序な欲望と度を越した恐れである。心配や不安の虜になることが、ほんとうに生きることを妨げる。それゆえ、哲学はまずもって、それら諸情念からの治癒術(セラピー)として現れる。学派ごとにそれぞれの治癒術があるが、それらの間の共通点は、個人の生き方・有り方に深いところで変容をもたらすものだということである。諸々のESは、まさにこの全人格的変容をもたらすことをその目的とする。