昨日の記事で紹介した『鏡の文化史』の第3部は「不気味な奇妙さ」と題されている。全体として鏡の呪術性と魔術性が主題となっている。それはこの部を構成する3つの章のタイトルを見ても察しがつく。それぞれ、第1章「悪魔のしかめ面」、第2章「斜めの=横目の鏡と、鏡の策略」、第3章「鏡の破片=輝き」となっている(どうですか、読んでみたくなりましたか?)。この部については、しかし、後日紹介することにして、集中講義で中心的に扱う第2部について、さらに詳しく紹介していこう。
第2部もまた3章からなる。第1章「神の似姿として」、第2章「模倣の勝利」、第3章「自己考察のための自己直視」。第1章は、古代から中世を経て、ルネッサンスまでの、鏡像の宗教的・哲学的意味を通覧している。言い換えれば、今日私たちが日常的にいたるところで使用しているガラス製鏡の製造技術が生まれる以前の、2千年の鏡の歴史を扱っている。
古代ギリシアからヨーロッパ中世に至るこの長い歴史の中で、鏡、より正確には、鏡像は、感覚世界の仮象性・幻影性と永遠の真理との類似性という両義性をつねに持っていた。鏡に映っている姿は、オリジナルに似てはいるが、そのものではない。それに、オリジナルが鏡の前からなくなれば消えてしまう、儚い仮象にすぎない。鏡に映る自分の姿がそのまま自分の姿であると見なすとき、私たちはその鏡像がそこに現れるところの感覚世界の虜となり、その仮象性・幻影性に対して盲目になってしまう。言い換えるならば、鏡の前に立つ自分の身体がそこに在る感覚世界の反映しか鏡の中に見られないとき、私たちは感覚世界における己の姿に自己同一化してしまう。ところが、感覚世界に現れるその鏡像は、同時に、別の世界の〈影〉あるいは〈似姿〉でもあるのだ。このことに気づくとき、鏡の中の己の姿を通じて、そこにそれとしては現れていない別の世界、そこにおいては、感覚世界ではその影あるいは似姿しか見ることのできないものの元の姿が永遠の想の下に観想される不可視の世界への途が開かれてくる。つまり、古代から中世にかけて、感覚的可視の世界は、それ自体は儚い仮象の世界だが、それにもかかわらず、永遠の不可視の世界に何らかの仕方で似ているという思想が鏡像の両義性を規定してきたのである。その背景には、聖書の創世記に見られる、「人間は神の似姿に創造された」というユダヤ・キリスト教を貫く根本思想があることは言うまでもない。
『鏡の文化史』にも引用されているが、中世キリスト教世界最大の神学者と見なされているトマス・アクィナスは、その主著『神学大全』において、「鏡を用いて何かを見ることは、ひとつの原因をその似姿がそこに映っている結果によって見ることである。このことから思索が瞑想へと通ずることがわかる」(II, 2, q.180, a.3)と、鏡(像)の神学・哲学的機能を規定している。ただ、翻訳を見ただけではわからないことは、ラテン語原文で「鏡」に相当するのは speculum、「思索」は speculatio、「瞑想」はmeditatio であるということである。このトマスによる規定は、中世哲学における "speculatio"と "meditatio" との区別と関係を考える上で極めて示唆的である。さらには、この意味での「鏡(像)」"speculum"との関係において、「観想」"contemplatio"、「類比」"analogia"、「像」"imago" 等の関連概念についてのより明確かつ厳密な規定も与えられるように思われる。
話がちょっと専門的で、難しくなり過ぎたので、今日はここまでと致します。続きはまた明日。