城郭探訪

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佐和山城 近江国(彦根)

2016年12月13日 | 山城

画像に含まれている可能性があるもの:屋外「澤山城図」
滋賀県犬上郡多賀町多賀大社「多賀大社社頭絵図」
(写真提供 長浜市長浜城歴史博物館)

お城のデータ

所在地:彦根市鳥居本町・古沢町 map:http://yahoo.jp/XyyV9G

現 状:山林(主郭部は公園)

区 分:山城

築城期:鎌倉期

築城者:佐保六郎時綱

改築期:織豊期

改築者:石田三成

廃城者:伊井氏

主な城主:佐保氏、小川氏・磯野氏・丹羽氏・石田氏・伊井氏

遺 構:曲輪、土塁、石垣、井戸、堀 

標高:233m 比高差:130m

目標地:近江鉄道:鳥居井本駅

駐車場:近江鉄道:鳥居井本駅

訪城日:2016.12.11

お城の概要

「三成に 過ぎたるものが二つあり 島の左近に 佐和山の城」とまで謳われたご存知、石田三成の居城であり、彦根城を眼下に見下ろす佐和山に築かれた城である。
近江鉄道鳥居本駅から国道8号線を彦根市街に向かって東進し、佐和山トンネル手前の川沿いを少し北に入ったところに大手門跡であるが、現在はここから登る事はできず。僅かに残る石垣を見ながら本丸に到達。 城址は彦根城築城期に徹底的に破却された。

本丸跡今は公園化し遺構は少ないが、虎口や天守台・角石垣・井戸等が残る

西眼下に後伊井氏の居城彦根城・城下町か一望できる。東側の旧大手門・城下町(三成時代)は鳥居本宿へ移動し寂しい。秋風が気持ちよかった。

お城の歴史

鎌倉時代、近江守護職・佐々木荘地頭であった佐々木定綱の六男・佐保六郎時綱が築いた砦が始まりとされる。

永正・大永年間(1504年~1520年)には六角氏の拠点となったが、戦国後期には六角氏の勢力は衰え、新興勢力の浅井氏支配下の磯野貞昌が入城した。

 元亀元年(1570年)、姉川の合戦後、佐和山城は織田方に包囲され、羽柴秀吉による「員昌に翻意あり」という流言を信じきってしまった浅井氏は、佐和山城への兵糧や兵士の輸送を取りやめた。これによって元亀二年(1571年)二月二十四日、八ヶ月に及ぶ激戦の末、ついに員昌は織田信長に降伏し、代わって織田氏家臣の丹羽長秀が入城した。

天正十年(1582年)、清洲会議で明智光秀討伐で軍功があった堀秀政に佐和山城が与えられた。

天正十三年(1585年)、堀氏が転封になると代わって堀尾吉晴が入城。さらに、天正十八年(1590年)七月には五奉行の一人・石田三成が入城し、荒廃していた佐和山城に大改修を行って山頂に五層(三層説あり)の天守を擁する近世城郭を築いた。

慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いで三成が惨敗を喫すると、徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城に猛攻撃を実施し、城を守っていた三成の父・正継、兄・正澄は自害して果てた。翌六年には徳川四天王の井伊直政が入城したが、井伊氏は新たに彦根城を築き、佐和山城は徹底的に破壊された。

  

 

 

 

佐和山城  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

彦根城より佐和山を望む
彦根城より佐和山を望む
城郭構造 連郭式山城
天守構造 五層(三層説あり。非現存)
築城主 伝・佐保氏
築城年 鎌倉時代
主な改修者 石田三成
主な城主 佐保氏、小川氏磯野氏
丹羽氏石田氏井伊氏
廃城年 慶長11年(1606年
遺構 石垣土塁曲輪、ほか
指定文化財 なし
位置 北緯35度16分46.2秒
東経136度16分8.13秒
佐和山城図

佐和山城(さわやま じょう)は、日本中世中期から近世初期にかけて、近江国坂田郡(現・滋賀県彦根市)の佐和山に存在した日本の城山城)である。現・佐和山城址。 坂田郡および直近の犬上郡のみならず、織豊政権下において機内と東国を結ぶ要衝として、軍事的にも政治的にも、重要な拠点であり、16世紀の末には織田信長の配下の丹羽長秀豊臣秀吉の奉行石田三成が居城とし、関ヶ原の合戦後は井伊家が一時的に入城したことでも知られる[2]

羽柴・豊臣の時代

天正10年(1582年)6月の本能寺の変の後に行われた清洲会議では、明智光秀討伐に功があった堀秀政に与えられ、秀政は翌年に入城した。これ以降は事実上、豊臣政権下の城となってゆく。堀秀政の留守中は弟の多賀秀種が城代を務めた。天正13年(1585年)には、転封となった堀家に替わって堀尾吉晴が入城。さらに、天正18年(1590年)には五奉行の一人である石田三成が入城したとされるが、三成の佐和山領有が文献上でみえるのは文禄4年からである。

  三成は、当時荒廃していたという佐和山城に大改修を行って山頂に五層(三層説あり)の天守が高くそびえたつほどの近世城郭を築き、当時の落首に「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と言わしめた。ただし、三成は奉行の任を全うするために伏見城に滞在することが多く、実際に城を任されていたのは父の正継であった。城内の作りは極めて質素で、城の居間なども大抵は板張りで、壁はあら壁のままであった。庭園の樹木もありきたりで、手水鉢も粗末な石で、城内の様子を見た当時の人々もすこぶる案外に感じたと記されている(『甲子夜話』)。

三成は関ヶ原の戦いに敗北した場合を考え、佐和山城での再戦を意図していたとされる。

佐和山城の戦い

慶長5年(1600年9月15日関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を猛攻撃した。城の兵力の大半は関ヶ原の戦いに出陣しており、守備兵力は2800人であった。城主不在にもかかわらず城兵は健闘し、敵を寄せ付けなかったが、やがて城内で長谷川守知など一部の兵が裏切り、敵を手引きしたため、同月18日、奮戦空しく落城し、父・正継正澄皎月院(三成の妻)など一族は皆、戦死あるいは自害して果てた。

家康に従軍した板坂卜斎は陥落した佐和山城に金銀が少しもなく、三成は殆んど蓄えを持っていなかったと記している(『慶長年中卜斎記』)]

徳川時代、そして、廃城

石田氏滅亡の後、徳川四天王の一人である井伊直政がこの地に封ぜられ、入城した。井伊家が、このまま佐和山城を利用すると、領民は井伊家が石田家を継承したような錯覚を抱き、領民達の前領主への思慕を断ち切ることができないことから、新たに彦根城築城を計画した。しかし、直政は築城に着手できないまま、慶長7年(1602年)に死去。計画は嫡子直継が引き継ぐこととなり、大津城・佐和山城・小谷城観音寺城などの築材を利用しつつ、天下普請によって彦根城を完成させている。佐和山城は慶長11年(1606年)、完成した彦根城天守に直継が移ったことにともない、廃城となった。なお、彦根城の城下町までを含めた全体の完成は元和8年(1622年)のことである。

佐和山城の建造物は彦根城へ移築されたもののほかは徹底的に城割されたため、城址には何も残っていない。しかしそれでも、石垣の一部土塁曲輪その他施設が一部に現存しており、また、ときとして新たに遺構が発見される。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・『ウィキペディア(Wikipedia)長浜歴史博物館

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