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城郭探訪

yamaziro

多賀大社(たがたいしゃ) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2013年01月07日 | 探訪「近江水の宝」

多賀大社(たがたいしゃ)は、滋賀県犬上郡多賀町多賀にある神社である。 伊邪那岐命(イザナギ)・伊邪那美命(イザナミ)の2柱を祀り、古くから「お多賀さん」として親しまれた。 また、神仏習合の中世期には「多賀大明神」として信仰を集めた。

式内社で、旧社格は官幣大社。現在は神社本庁の別表神社である。

当社にはお守りとして杓子(しゃもじ)を授ける「お多賀杓子(おたがじゃくし)」という慣わしがあるが、これは「お玉杓子」や「おたまじゃくし」の名の由来とされている。

歴史

由緒

和銅5年(西暦712年)編纂の『古事記』に「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」と当社の記載がある。

『日本書紀』には「構幽宮於淡路之洲」、すなわち「幽宮(かくれみや)を淡路の洲(くに)に構(つく)りて」とあり、淡路島に「幽宮」を構えたとされる。

『古事記』以前の時代には、一帯を支配した豪族・犬上君の祖神を祀ったとの説がある。 犬上君(犬上氏)は、多賀社がある「犬上郡」の名祖であり、第5次遣隋使・第1次遣唐使で知られる犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)を輩出している。

藤原忠平らによって延長5年(927年)に編まれた『延喜式神名帳』では、当社は「近江国犬上郡 多何神社二座」と記載され、小社に列した。 「二座」とあるため、この時代にはすでに伊邪那岐命・伊邪那美命2柱が祀られていたと分かる。

なお、摂社(境内社)で延喜式内社の日向神社は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を、同じ摂社の山田神社は猿田彦大神を祀る。 多賀胡宮とも呼ばれる別宮の胡宮(このみや)神社は、伊邪那岐命・伊邪那美命・事勝国勝長狭(コトカツ クニカツ ナガサノミコト)の3柱を祀り、多賀社の南方2キロメートルの小高い丘(神体山)に鎮座する。 授子・授産、鎮火の神として崇敬される。

「お伊勢参らばお多賀へ参れ」

多賀大明神

室町時代中期の明応3年(1494年)には、神仏習合が進み、当社には神宮寺として不動院(天台宗)が建立された。 神宮寺配下の坊人は全国にお札を配って信仰を広め、当社は中世から近世にかけて伊勢・熊野とともに庶民の参詣で賑わった。 「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」 「お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」との俗謡もあり、ここに見る「お多賀の子」とは、伊勢神宮祭神である天照大神が伊邪那岐命・伊邪那美命両神の御子であることによる。 なお、社に残る垂迹曼荼羅(すいじゃくまんだら)は坊人が国を巡行して神徳を説く際に掲げたものである。 また、多賀社が隆盛したのは、近江国が交通の結節点だったことにもよる。

長寿祈願

多賀社は、特に長寿祈願の神として信仰された。

俊乗坊重源

鎌倉時代の僧である俊乗坊重源(ちょうげん)に以下の伝承がある。東大寺再建を発念して20年にならんとする齢61の俊乗坊重源が、着工時に成就祈願のため伊勢神宮に17日間参籠(さんろう)したところ、夢に天照大神が現れ、「事業成功のため寿命を延ばしたいなら、多賀神に祈願せよ」と告げた。 重源が多賀社に参拝すると、ひとひらの柏の葉が舞い落ちてきた。 見ればその葉は「莚」の字の形に虫食い跡の残るものであった。 「莚」は「廿」と「延」に分けられ、「廿」は「二十」の意であるから、これは「(寿命が)二十年延びる」と読み解ける。 神の意を得て大いに歓喜し奮い立った重源は以後さらに20年にわたる努力を続けて見事東大寺の再建を成し遂げ、報恩謝徳のため当社に赴き、境内の石に座り込むと眠るように亡くなったと伝わる。 今日も境内にあるその石は「寿命石」と呼ばれる。 また、当社の神紋の一つ「虫くい折れ柏紋」はこの伝承が由来である(今一つに三つ巴がある)。

豊臣秀吉

天正16年(1588年)には、多賀社への信仰篤かった豊臣秀吉が「3年、それがだめなら2年、せめて30日でも」と母の延命を祈願し、成就したため社殿改修を行い大名に与えるに等しい1万石を寄進した。 境内正面の石造りの太鼓橋(大僧正慈性により寛永15年〈1638年〉造営)は「太閤橋」の雅名でも呼ばれる。

喪失と再建の江戸期

元和元年(1615年)には社殿が焼失したが、寛永10年(1633年)に徳川家光が再建を命じ、5年後に完成した。明和3年(1766年)には屋根の葺き替え等の大改修が成る。 ところが、安永2年(1773年)にまたも焼失。天明2年(1782年)にも火災に遭った。 寛政3年(1791年)には暴風で社殿が倒壊した。 このように江戸期の多賀社は災難続きであったが、その都度彦根藩および幕府からの手厚い寄進・寄付が行われた。

明治以降

明治初年の神仏分離令を機に廃仏毀釈の動きが広まり、多賀社の神宮寺も廃絶した。 別当職不動院は1868年(明治元年)に復飾せられ、境内にあった全ての神宮寺は払拭せられた。

多賀社は、1871年(明治4年)に県社兼郷社、1885年(明治18年)に官幣中社となり、1914年(大正3年)に官幣大社に昇格した。 1947年(昭和22年)「多賀大社」に改称した。

近年の改修と造営

1930年(昭和5年)、本殿を改修。 大社造の本殿等の屋根の檜皮葺(ひわだぶき)の葺き替え、ならびに参集殿新築造営は、1966年(昭和41年)から行われ、1972年(昭和47年)に完成した。 また、当社は2002年(平成14年)から「平成の大造営」を行っており、2005年(平成17年)の時点で一部は竣工している。

社殿

この節は執筆の途中です この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
  • 本殿
  • 拝殿
  • 一の鳥居・常夜灯 - 彦根市高宮町 高宮郵便局の脇にある。

文化財

重要文化財

  • 紙本金地著色調馬・厩馬図 六曲屏風

名勝

  • 奥書院庭園

滋賀県指定有形文化財

  • 奥書院
  • 多賀大社鳥居
約3キロメートル離れた彦根市高宮町にある
  • 紙本著色三十六歌仙絵 六曲屏風
  • 梵鐘
  • 大太刀 - 2件
  • 鉄黒漆塗二十八間筋兜
  • 多賀大社文書 - 136通

町指定有形文化財

  • そり橋
  • 多賀大社建造物 11棟

ほか

祭事

新年恒例の能舞台での神楽
  • 1月1日 0時 歳旦祭(さいたんさい)
  • 1月3日 11時 翁始式(おきなはじめしき)
  • 2月3日 午前11時/午後 2時 節分祭(せつぶんさい)
  • 2月11日 10時 紀元祭(きげんさい)
  • 3月17日 11時 祈年祭(きねんさい)
  • 4月25日 米寿莚寿祭(べいじゅえんじゅさい)
  • 3月下旬 勧学祭(かんがくさい)
  • 4月5日 金婚莚寿祭(きんこんえんじゅさい)
  • 4月22日 8時から終日 古例大祭(これいたいさい)
  • 5月5日 11時 神恩感謝祭(しんおんかんしゃさい)
  • 5月17日 11時 御日供講大祭(おにっくこうたいさい)
  • 6月7日 御田植祭(おたうえさい)
  • 6月30日 15時 夏越の大祓式(なごしのおおはらえしき)
  • 8月3日~8月5日 午後7時一斉点火 万灯祭(まんとうさい)
  • 9月9日 13時 九月古例祭(これいさい)
  • 9月20日 古稀莚寿祭(こきえんじゅさい)
  • 9月14日 喜寿莚寿祭(きじゅえんじゅさい)
  • 9月27日 池坊献華式(いけのぼうけんげしき)
  • 9月28日 多賀講講社大祭(たがこうこうしゃたいさい)
  • 9月26日 抜穂祭(ぬいぼさい)
  • 10月3日 観月祭(かんげつさい)
  • 10月5日 傘寿莚寿祭(さんじゅえんじゅさい)
  • 10月17日 神嘗祭当日祭(かんなめさいとうじつさい)
  • 10月21日 10時 献茶式(けんちゃしき)
  • 11月3日 明治祭(めいじさい)
  • 11月8日 金咲稲荷神社例祭(かねさきいなりじんじゃれいさい)
  • 11月15日 大宮祭(おおみやさい)
  • 11月23日 11時 新嘗祭(にいなめさい)
  • 12月20日 早朝 御煤祓式(おすすはらいしき)
  • 12月23日 11時 天長祭(てんちょうさい)
  • 12月31日 15時 大祓式(おおはらえしき)
  • 12月31日 除夜祭(じょやさい)

例祭

  • 毎日 7時 御日供祭(おにっくさい)
  • 毎月1日,15日,28日 月次祭(つきなみさい)
  • 毎月1日 7時 お朔日(ついたち)参り

お多賀杓子

拝殿内にある「お多賀杓子」

元正帝の縁起

多賀社のお守りとして知られるお多賀杓子は、元正天皇の養老年中、多賀社の神官らが帝の病の平癒を祈念して強飯(こわめし)を炊き、シデの木[2]で作った杓子を添えて献上したところ、帝の病が全快したため、霊験あらたかな無病長寿の縁起物として信仰を集めたと伝わる。 元正天皇のころは精米技術が未発達で、米飯は粘り気を持つ現代のものとは違い、硬くてパラパラとこぼれるものだったらしく、それをすくい取るためにお多賀杓子のお玉の部分は大きく窪んでいて、また、柄は湾曲していたとのことで、かなり特徴のある形だったという。 なお、現代のお多賀杓子はお玉の形をしていない物が多く、今様の米に合わせて平板な物が大半である。 このお守りは、実用的な物もあれば飾るための大きな物もある。

なお、多賀社より数キロメートル西にある「飯盛木(いもろ-ぎ)」は、帝の杓子の素となった木の枝を地に差したところ根が生じて大木に育ったものと伝わる。この飯盛木には、男飯盛木と女飯盛木の2本がある。

お多賀杓子・お玉杓子・おたまじゃくし

かつて際立った形状であった「お多賀杓子(お-たが-じゃくし)」は、「お玉杓子(おたまじゃくし、玉杓子お玉)」の語源になったと考えられる。               カエルの幼生「おたまじゃくし」は、「お玉杓子」から派生した名称なので、「おたまじゃくしの語源もまた、「お多賀杓子」ということになる。 後者のような言語的変化は、形状の相似によると思われる。

交通アクセス

公共交通

  • 東海道新幹線米原駅から近江鉄道本線乗り換え、高宮駅で多賀線乗り換え。多賀線終点の多賀大社前駅から徒歩10分。
  • 東海道本線(琵琶湖線)彦根駅から近江鉄道本線乗り換え、高宮駅で多賀線乗り換え。多賀線終点の多賀大社前駅から徒歩10分。
  • 東海道本線(琵琶湖線)南彦根駅からバスで10分。

自動車

  • 名神高速道路彦根ICから国道306号を多賀方面に向かい、多賀交差点。※名神高速道路多賀サービスエリア内から歩行者通路あり。
  • 国道8線から外町交差点から国道306号を多賀方面15分。あるいは、国道8号高宮交差点から多賀方面10分で多賀交差点。

トピック

近江鉄道本線は、運行主系統が米原駅~八日市駅~近江八幡駅となった現在でも、米原駅~貴生川駅(JR草津線)が正式な区間である。 これは同鉄道の創立時、多賀大社と縁の深い伊勢神宮に向けて、官鉄(国鉄)の草津線・関西本線・参宮線等を介して結ぼうとしたためと言われる。 なお、「近江鉄道宇治山田延伸構想」がこの経緯に詳しい。


来年のNHK大河「軍師官兵衛」

2013年01月07日 | 武将

=長浜市 発祥の地、全国PRで集客=

黒田氏の始祖「黒田判官」を祭る黒田廟所(長浜市木之本町黒田)

 来年二〇一四年のNHK大河は、秀吉の軍師、黒田官兵衛(注)を描いた「軍師官兵衛」。黒田氏は伊香郡黒田村(長浜市木之本町黒田)が発祥の地とされる。戦国大河の聖地を歩きながら、集客に向けた長浜市の取り組みを聞いた。

市内に廟所や古戦場など史跡点在
観光パンフ、イベント館で紹介


 黒田氏の祖は、近江国伊香郡黒田村の荘園領主で黒田判官と呼ばれた。JR木ノ本駅から徒歩十五分の邸宅跡(長浜市木之本町黒田)には、黒田判官を祭る黒田廟所や先祖の地を顕彰する石碑がある。
 ゆかりの地はこのほか、羽柴秀吉が柴田勝家との信長後継者争いで勝利し、天下人への足掛かりとなった賤ヶ岳古戦場(長浜市木之本町大音)がある。官兵衛は勝家方の勇将、佐久間盛政の猛攻に遭うも、奮闘し守り抜いた。
 長浜市から少し足を伸ばせば、天下分け目の関ヶ原古戦場(岐阜県関ヶ原町)。官兵衛の息子・長政が、東軍の主力として参戦する一方で、隠居の官兵衛も東軍として居城の豊前中津城(大分県)を拠点に次々と西軍方の城を落とした。

 

黒田官兵衛をアニメ風にデザインした観光パンフレット

 長浜市は、このように点在する史跡をPRし、大河ドラマをきっかけに観光客を呼び込もうと、のぼり旗を市内観光施設に掲げ、観光パンフレット=写真=を県内外で配布している。
 また、戦国大河ふるさと博の閉幕に伴って昨年十二月閉館予定だった「きのもと館」(同市木之本町木之本)については、官兵衛関連資料の追加展示を行い、今年三月末まで期間延長している。
 同市観光振興課は「まだイベントは具体化していないが、まずは全国へPRしていきたい」と、今後の盛り上がりを期待している。
 黒田官兵衛(一五四六年~一六〇四年)秀吉の軍師として、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、九州攻め、小田原攻めなど幾多の戦いで天下統一に貢献したが、その後は優れた軍才を疎まれた。関ヶ原の戦いでは東軍につき、九州で挙兵して四方を攻め取った。晩年は表舞台から遠ざかり、風流を愛し京に没した。

 

http://shigahochi.co.jp/info.php?type=article&id=A0012006

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秘話探訪 ふるさと報知随想 東近江“狛犬ものがたり”

2013年01月06日 | 観光ボランティアガイド

=江戸末期の作品は3例「供出」された狛犬も 中島 伸男=

(写真1)天神社(東近江市佐野町)

■狛犬の原型は「獅子」
 狛犬は「高麗から渡って来た犬」という意味でその名があるが、原型は獅子である。百獣の王・獅子が霊獣として造形化され、はるばる西方からシルクロードを経て日本に渡ってきた。 
 昔は宮中の帷(かたびら=隔ての布)や御簾(みす=竹の「すだれ」)が風で揺れるのを押さえるために使われていたという。
 やがて狛犬は、霊力をもつ神宝として神社本殿の奥に納められるようになり、時代を経るにしたがい魔除けの役割を担って内陣から外陣へ、さらに社殿前へと進出していった。
 風雨に晒されることから石造の狛犬があらわれ、形態も大型化した。江戸時代には「魔除け」「招福」を祈願する庶民が、狛犬を寄進するようになった。これら神社境内に寄進された狛犬を、一般的に「参道狛犬」とよんでいる。
■江戸末期の作品三例
 東近江市内でもっとも古い参道狛犬は、佐野町・天神社の本殿前一対(写真1)である。その台座には「弘化四歳丁未十一月」(西暦一八四七年)と刻まれてあり、いまから一六六年前に奉納されたことが判明する。たて髪を長く彫った雄渾な作品で、歳月を経たにもかかわらず風化が少ない。台座には「奉納・朝日講」、「功徳者」として戸田久右ヱ門ら十一名の名前が読み取れる。同社・氏子総代を長くつとめておられる大澤勇さん(佐野町)に、「朝日講」についてお尋ねしたが、このような名称の講は現存せず狛犬の由緒は不明である。阿形・吽形ともに、右足を少し前に出したポーズが珍しい。

 

(写真2)日吉神社(東近江市今崎町)

 御代参街道に面した今崎町・日吉神社二ノ鳥居前の狛犬一対も古い(写真2)。「文久三亥年正月吉日」(一八六三)の銘がある。願主は「向善五良」。向かって右の台座には「初老厄除」、左の台座には「海陸安全」と彫っている。願主・向善五良は、「万善」向井一生さん(八日市金屋一丁目)の五代前に当たる人物で、薬種商として北海道松前に渡った経歴をもつ。狛犬はずんぐりした体型で、全体に細工が少ない。尻尾が短いが、これは江戸期につくられた狛犬の一つの特色である。
 江戸末期の狛犬が、東近江市にはもう一対ある。大浜神社(伊庭町)本殿前のものである。狛犬の高さは五十四センチと小振りで、石灰角礫岩(地元では美濃赤坂産大理石とも)が使われている。阿形・吽形ともに右足を上げているが傷みが激しく、阿形の右足は根元から折れている。台座の銘から「文久四年甲子年正月吉日」(一八六四)「寄進かねいち中村氏」と読み取れる。地元の歴史に詳しい村田恒治郎さんは、伊庭の有力者であった中村金一郎(中村博さんの曽祖父・嘉永元年生れ)によるものであろうと推定される。
 東近江市内の狛犬で江戸期製作と判明しているのは、現段階では以上の三例である。
 明治期に入ると、参道狛犬の寄進が増えてくる。中野神社(東中野町)鳥居前の一対が明治八年(一八七五)、野々宮神社(八日市金屋一丁目)本殿前の一対が明治九年(一八七六)、松尾神社(八日市松尾町)本殿前の一対が明治十一年(一八七八)とつづき、その後も明治期の作例は多い。
■「供出」された狛犬
 台座と、台座の上の狛犬の製作年代が異なっているケースもある。
 中野神社社頭の狛犬は、台座に「明治四十四年亥十月建之」と刻まれ、東京・灰谷儀助、大阪・灰谷善太郎ら灰谷家一族の名前が彫っている。
 しかし台座の上の狛犬の台には「昭和三十二年二月」として初老を記念した小梶正二郎ら十名の氏名が彫り込まれている。狛犬と台座に年代・寄進者の食いちがいが生じているのである。

 

(写真3)大森神社(東近江大森町)

 神社近くで理髪店を営む藤井季夫さんに、その理由を尋ねた。藤井さんは「子どものころ、狛犬に乗って遊んでいたが…」と記憶を辿られた結果、「狛犬に乗ったときの冷たかった感触」から、もとは青銅製の狛犬であったことを思い出された。太平洋戦争が激化した昭和十七年前後、金属類供出命令により撤去され、台座のみが残った。
 戦後十二年、当時、初老を迎えた人たちが再建されたものが現在の石造狛犬である。
 竹田神社(鋳物師町)本殿前狛犬の台座には、「昭和四十三年十二月再建」と彫られている。同社の場合は元の石造狛犬が風化し傾きがひどくなったので、「初代狛犬」寄進者の孫たちが再建されたものだという(外池文次さんのお話)。
■可愛い仔狛犬の姿
 向かって右側が阿形(口を開ける)、左が吽形(口を閉じる)であることは、すべての狛犬に共通する。しかし、どちらが雄でどちらが雌か、あるいは雌雄があるのかどうかについては「諸説」がある。
 狛犬とともに、玉石と仔犬(子獅子)を彫った作例がある。その多くは、右の阿形が玉石を押さえ、左の吽形側に仔犬が彫っている(五個荘奥町・奥村神社、八日市松尾町・松尾神社、八日市金屋一丁目・野々宮神社など)。そのことから、阿形が雄で吽形が「雌」とも考えられる。

 

(写真4)春日神社(東近江市妹町)

 しかし、右側の阿形狛犬に仔犬を彫った例もある。
 大森神社(大森町)鳥居前の狛犬(昭和十年三月)は、阿形側の足元に仔犬(子獅子)を彫っている。この仔犬は、首をひねった形でじつに愛らしい姿をしている(写真3)。高さが三〇センチもあり、親狛犬(九〇センチ)の三分の一である。親狛犬製作と同じ集中力を仔狛犬にも感じさせる。
 さらに、左側・吽形狛犬が押さえている玉石の細工も珍しい。手鞠型になっていて中にさらに小さな玉石が入っている。残念ながら石工の名が彫られていない。
■白布を巻いた狛犬
 春日神社(妹町)の鳥居前狛犬は、北海道有数の木材商として成功した中戸町出身の奥村徳蔵が、大正十一年、郷里の氏神さまに寄進したものである。この狛犬は大きな玉石に両の前足を載せ、腰を上げている(写真4)。このようなスタイルは尾道の石工が製作したもので、「尾道型狛犬」とよばれる。台座には「石工尾道市向島・恵谷喜一」の銘がある。
 筒井神社(蛭谷町)の一対(大正十三年、親王講および茨川・筒井円次郎奉納)は、狛犬が円形の台座に座している。木地師発祥の地として、轆轤挽きを意識した台座が製作されたのであろう。
 河桁御河辺神社(神田町)の狛犬(大正九年奉納)は、立派な石の玉垣に囲まれて鎮座している。
 兵主神社(野洲市五条)の本殿前狛犬(昭和三年奉納)は、阿形・吽形ともに細い白布でぐるぐる巻きになっている(写真5)。宮司さんに尋ねると、身体に不具合を抱えた人たちがその治癒を祈願し、患部にあたる場所に氏名を書いた布を巻いてゆくのだそうである。狛犬の頭や肩にも布が巻かれているが、やはり膝や腰に巻いた白布が目立つ。
■狛犬はいまも手造り
 狛犬台座に製作者名(石工名)が彫られている場合がある。
 布施神社(布施町)の狛犬(昭和三年八月)には「南五個荘・石寅作」とあり、昭和初期までこの地域に狛犬を彫る石工が存在したことを伺わせる。

 

(写真5)兵主神社(野洲市五条)

 多賀大社境内にある摂社・日向神社の狛犬(昭和六十年)には、長浜市・竹原石材店の銘がある。同石材店に照会してみると、狛犬製作は岡崎に発注し総仕上げを竹原石材店が行ったとのことである。狛犬製作には特別の技術が必要で、近年はほとんどが岡崎産になっている。
 岡崎石工団地共同組合・和出秀巳さんのお話によると、岡崎で切り出される花崗岩(三州御影石)に墨で狛犬の輪郭を描き、ベテランがいまも鑿と鎚で刻んでいくのだという。一対製作にふつう一ヶ月から二ヶ月を要するという。
■庶民の文化財―狛犬
 国や地方自治体が「文化財」に指定していなくても、私たちの周囲には、地域住民の暮らしや集落のちいさな歴史を物語るさまざまな石造品・建造物が存在している。それら「庶民の文化財」こそが、地域の雰囲気を醸し出しているといって過言でない。
 参道狛犬には、庶民のさまざまな祈願・祈念が秘められている。私は今後も神社参拝をかね、狛犬との愉しい出会いをつづけたいと願っている。
(注)上杉千郷著『狛犬辞典』・小寺慶昭著『京都狛犬巡り』を参照しました。
(野々宮神社宮司、八日市郷土文化研究会会長)

http://shigahochi.co.jp/info.php?type=article&id=A0012007

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誰も見たことのない!安土城の立体景観、リアルに描写

2013年01月06日 | 城郭・イベント情報

=山裾から眺める城と周辺風景の想像図=

iPadに映し出されたCG画像(画面には右の宣教師が映し出されている)

 近江八幡市が、花園大学と大阪大学との共同で研究を進めている「VR安土城プロジェクト」が完成しつつある。
 アプリケーションソフト「タイムスコープ」が使えるiPhoneとiPadで、安土城とその周辺の風景がコンピュータグラフィックス(CG)画像で見られるというもの。四月から一般公開される。
 現在、CG画像が作られているビューポイントは、「安土山大手門広場」、安土城外堀の「安土川」、「セミナリヨ跡」、「安土文芸セミナリヨ」、「安土城郭資料館」の五か所で、一般公開時には十二か所に増える。
 画像は、これまでの歴史資料や研究文献をもとに描かれた想像図で、端末機と連動し、安土山や安土城郭の光景が360度のパノラマで映し出され、戦国時代へのタイムスリップが楽しめる。


西方向から見た安土城天主 宣教師を描いたセミナリヨ跡付近の風景 夕焼けに映える安土城 安土城の中にあったとされる宝塔 安土城の特徴のひとつ、天主上部の建築様式 南西方向から望んだ安土城天主 iPadを手に持って回ると画像も回転する(公開実験で)

http://shigahochi.co.jp/info.php?type=article&id=A0012008

 

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週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)

2013年01月06日 | 番外編

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「近江水の宝」リーフレット

2013年01月05日 | 番外編

滋賀県教育委員会

「近江水の宝」リーフレット

 滋賀県教育委員会では、平成20年度より3ヶ年計画で、琵琶湖とその周辺の水に関する文化資産を滋賀県独自の特性ある資産として位置づけ、これらのうち特に優れたものを「近江水の宝」に選定して地域の資産として価値の定着化を行っているところです。

  「近江水の宝」の選定にあたっては、「琵琶湖(水)と人との共生の文化によって培われてきたのが近江文化であり、これを元に形成されたのが『近江水の宝』である」という視点を中心にすえ、全体として人と自然との関係の物語性が理解できるように、「うやまう」、「くらす」、「ゆきかう」、「つくる」、「めでる」、「おくる」という構成になっています。 

うやまう :【琵琶湖や水に対する信仰により生まれた宝】

くらす:【琵琶湖や水に関連する生活の中から生まれた宝】

ゆきかう:【琵琶湖と河川を利用した交通、交流から生まれた宝】

つくる:【琵琶湖や水に対する土木工事から生まれた宝】

めでる:【琵琶湖や水の美、或いはテーマとした美的創意から生まれた宝】

おくる

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このページの情報についてのお問い合わせ

所属名: 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課
電話: 077-528-4674
ファックス: 077-528-4956
メール: ma07@pref.shiga.lg.jp

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埋蔵文化財活用ブックレット

2013年01月05日 | 番外編

滋賀県教育委員会

埋蔵文化財活用ブックレット

※こちらは随時更新中です

埋蔵文化財活用ブックレット1(近江の山寺1)
湖東三山 西明寺・金剛輪寺・百済寺(PDF:1,719KB)

埋蔵文化財活用ブックレット2(近江の山寺2)
霊仙山と松尾寺の文化財(PDF:1,976KB)

埋蔵文化財活用ブックレット3(近江の山寺3)
長法寺跡-高島市鵜川-(PDF:2,113KB)

埋蔵文化財活用ブックレット4
鏡山周辺の文化財(PDF:2,458KB)

埋蔵文化財活用ブックレット5(近江の城郭1)
佐和山城跡-その歴史と山に残されたもの-(PDF:1,554KB)

埋蔵文化財活用ブックレット6(近江の史跡1)
史跡 近江国府跡(PDF:2,599KB)

埋蔵文化財活用ブックレット7(近江の城郭2)
小谷城跡をめぐる城々 -元亀争乱の舞台-(PDF:2,240KB)

埋蔵文化財活用ブックレット8(近江の城郭3)
清水山城館跡 -山城を楽しむ-(PDF:2,741KB)

埋蔵文化財活用ブックレット9(近江の城郭7)
京極氏遺跡群 -京極氏館跡・上平寺城址・弥高寺跡-(PDF:2,704KB)

埋蔵文化財活用ブックレット10(近江の城郭5)
水口岡山城跡 -秀吉政権要の城-(PDF:1,625KB)

埋蔵文化財活用ブックレット11(近江の城郭6)
観音寺城跡 -江南の雄 六角氏-(PDF:1,831KB)

埋蔵文化財活用ブックレット12(近江の城郭7)
八幡山城跡 -天下を継ぐ城-(PDF:1,535KB)

埋蔵文化財活用ブックレット15
景清道を訪ねて-安土から五個荘へ-(PDF:1,386KB)

埋蔵文化財活用ブックレット16
佐々木道誉の足跡と平清盛御落胤伝説を訪ねて-甲良から多賀へ-(PDF:1,146KB)

埋蔵文化財活用ブックレット17
東海道をめぐる攻防-米原・醒井・柏原をめぐる-(PDF:2,422KB)

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「福林寺跡磨崖仏を訪ねて」

2013年01月05日 | 遺蹟

現地説明板R8の小篠原の信号を野洲中学校方面へ

JR野洲(やす)駅の南東約1.3kmにある小磨崖仏群(しょうまがいぶつぐん)。

野洲中学校の裏道から林道を入った静寂な地に、ひっそりと横たわっています。
 磨崖仏は、大きな岩に高さ約45cmの地蔵菩薩立像13体が平肉彫りされています。

また、近くの大きな岩には、阿弥陀如来像2体と観音立像1体が彫り出されています。

どちらも室町時代初期の作とされ、小さいながらまるで木に彫ったように細かく繊細な造りです。
 この辺り一帯は古代から信仰の中心地で、この石仏からも庶民信仰がうかがえるようです。

 

野鳥を観察20分

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BSプレミアム【覇王伝説】 ~最強の戦国武将は誰だ?~

2013年01月03日 | 番外編

1月3日(木)放送
[BSプレミアム]後9:00〜10:59

【司会】爆笑問題

 大勢の武将が覇権を争った戦国時代。そこで一番強かったのは一体誰なのでしょうか? 織田信長? 豊臣秀吉? はたまた武田信玄? 誰しも一度は思う疑問に、とことん挑む歴史エンターテインメントです。


 今回は、テレビ史上初ともいえる戦国武将格付けランキングを実施。最初に独自アンケートで8傑をノミネートし、それぞれの指標ごとにランキングを発表、順位に応じて点数を与え、最後の合計点によって最終判定を下します。まず「軍事力」では、天下をとった武将たちが上位に。

 ところが、「外交力」や「健康力」「ファッション力」など様々な指標で武将の強さを測ると、がぜんランキングは混戦模様に! 果たして、最後に合計点が一番高いのは誰なのでしょうか? 格付け・比較することで、大河ドラマでお馴染みの戦国武将たちの知られざる素顔が見えてきます。

 そして、選りすぐりの専門家とスタジオ参加者の公正なる投票によって、大胆にも「最強の戦国武将」を決定。今求められるナンバー1武将は誰なのでしょうか? 次々に変化するランキングに、熱いスタジオトーク、わくわく感満載の120分をお届けします

http://cgi2.nhk.or.jp/navi/detail/index.cgi?id=12f21020130103

 

 

 

取材の協力依頼を、2012,11,2にメールで

【番組概要】NHK「覇王伝説 ~戦国最強武将は誰だ?~(仮)」

 

NHK「覇王伝説 ~戦国最強武将は誰だ?~(仮)」の番組を担当しております**川と申します。

以下、番組の概要になります。ご確認の程、宜しくお願い致します。 

□概要

時代は、大勢の戦国武将が覇権を争った戦国。その中から頭角を現し、天下を握ったのは、

信長、秀吉、家康。しかし、実はこの3人、ライバル武将が死んだ、強い同盟者に恵まれたなど   

数々の幸運のお陰で天下人に慣れたのも事実。

 

 本当は彼らよりも強かった戦国武将が他にいたのかもしれない?! 

そこで今回、「戦国武将格付けランキング」を実施。番組独自の様々な指標をもとに

戦国武将を格付けし、最強の戦国武将は誰かを決定する。

合戦勝率で一、二位を争う毛利と長宗我部。裏切りが少ない統率力は上杉が一番。

外交同盟力は北条や伊達に軍配。しかし…健康状態やイケメンぶりなら?!

 その知られざる素顔を掘り下げながら最強の武将を探る!   

データが示すのは、意外な武将の意外な事実。兵力や石高では信長・秀吉・家康に及ばない弱さを 

得意分野で補う戦国武将たち。

専門家や、街の人々の声、スタジオゲストの意見を織り交ぜながら最強の武将を選びます。

 

□放送予定日:《本放送》NHK BSプレミアム 2012年 1月3日(木)20:00~21:59(120分)=21:00~22:59でした

□MC:爆笑問題、NHK女性アナウンサー

□ゲスト:歴史専門家をはじめ、4〜5名を想定しています

お忙しい中 誠に 恐縮ですが、ご検討の程、お願い申し上げます。

 


野々宮神社で「女形の道中(おやまのどうちゅう)」元日奉納(一部始終)2012.1.1

2013年01月02日 | 観光ボランティアガイド

=野々宮神社で元日奉納=


 伊勢太神楽(国指定無形民俗文化財)の「女形の道中(おやまのどうちゅう)」で新年を迎える恒例行事が今年も、東近江市金屋一丁目の野々宮神社(中島伸男宮司)で行われる。
 除夜の鐘とともに拝殿前では、加藤菊太夫組による獅子三頭の「神来舞(しぐるま)」と「四方(よも)の舞」のほか、肩車に乗った獅子が女形に変身する華麗で難しい曲芸「女形の道中」(地方によっては「花魁道中」)が奉納され、氏子や初詣客らの一年の家内安全、無病息災などを祈願する。女形の道中を除く獅子舞は、元日七時からも行われる。
 同神社敬神女性部の八千代会による「年越しそば」の出店や、畑酒造寄贈の「甘酒の無料サービス」(元旦午前九時から正午まで 量限定)もある。

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