城郭探訪

yamaziro

仮称)石馬山城 近江国(能登川)

2016年03月08日 | 山城

石垣城郭の先進地 南近江の城郭を学ぶ

近江石垣城郭の魅力

ウッデイパル城郭フオーラム 講師:長谷川博美氏

 後藤但馬氏館 佐生日吉城(佐野山城・佐生城) 北向観音 仮称)伊庭山城 仮称)北須田山城 石馬山城 見学会参加しました

 

ここから、仮称)石馬山城域

お城のデータ

所在地:東近江市(旧神崎郡野登川町)北須田 map:http://yahoo.jp/6IMaJE

現 状:明神山 山林・神社

区 分:山城

築城期:織豊期か?

築城者:栄螺坊か?

遺 構:石垣・土塁・曲廓・虎口・横堀・竪堀

標 高:336m 比高差:226m

目標地:石馬寺・・山頂の雨宮龍神社

駐車場:石馬寺参拝者駐車場

訪城日:2016.2.27

お城の概要

 仮称)石馬山城は、繖山の同じ山魂にあり、観音寺城と支城の佐生日吉城や和田山城への繋ぎ城か?(今は、繖山魂の伊庭山ハイキングコースになっているが、)

石馬山頂部(標高301m)を雨宮龍神社を主郭にプリン型で、北に副廓の縄張り普請で、帯廓、犬張り、主郭尾根筋や東廓も自然の地形を利用した畝状竪堀で堅固な城郭!

 城郭に興味のないハイカーには、単なる神社・縦走路の一部なのであろう。

お城の歴史 

信長公記 十三巻 天正八年 2、売僧不許  無辺の事

 このころ、無辺と名乗る廻国の客僧が石場寺(東近江市五個荘町石馬寺)に、栄螺坊の在所にしばし滞在していた

この無辺は常々より奇特不思議の力を持つと評判の者であり、それを聞いた下々の者達は心付けを捧げて噂の秘法を授かろうと、日夜宿所に集まっては門前に立ち暮らすありさまとなっていた。

 すると3月20日になり、その騒ぎを耳にした信長公から「その者の風体を見たい」との希望が出された。このため栄螺坊が無辺を連れて安土城へ参上することとなった。無辺来るとの知らせを受けた信長公は城の御厩に出、ここに通された無辺の姿をまじまじと見つめたが、なにやら思案の体であった。

 やがて信長公が口を開き、「客僧の生国は何処ぞ」と問うた。これに対し無辺は「無辺」とだけ答えた。さらに重ねて信長公が「唐人か、天竺人か」と尋ねても、ただ「修行者」と答えるのみであった。しかし業を煮やした信長公が「人間の身で生地が三国の外にあるとは不審である。さては化物の類であろう。ならば火炙りにしてくれるゆえ、火の用意をいたせ」と周囲に命じると、無辺はその一言に恐怖して「出羽の羽黒の者」と口を開いたのだった。

 それを聞いた信長公は、「ただの売僧ではないか。そもそも日頃より生まれた場所もなければ住む所もないと申し、仏法を広めるためといって人からの進物を一切受け取らず、宿の者に与える汝の態度は一見無欲のようではある。が、その宿へ幾度も立ち帰っているようでは到底無欲などとは言いがたい。とは申せ、そんな汝でも奇特の力を備えていると聞き及んでいる。ならばここでその力を見せてみよ」とせまった。

 しかし、無辺は一向に奇特の力を見せられなかった。その様子を見た信長公は「惣別不思議の力を持つ人というものは顔形から眼色まで衆に優れたものであるのに、客僧はその姿山賤にも劣る。その身で女子供を騙して国土の財を費えさせしこと、曲事の極みである。この上は無辺に恥をかかせるべし」と断じ、俗家並みに蓄えていた無辺の髪を所々はさみで切り落とさせた上で裸にして縄をかけ、その姿で町中を通らせて城下から追放したのだった。

・・・さらに信長公は、栄螺坊に対しても「なにゆえ城近くにあのような無頼者を留め置いた」と問いつめた。これに対し栄螺坊は「石馬寺御堂の雨漏りを直したきゆえ、勧進集めのために暫時置いておりました」と言上した。すると信長公は栄螺坊に銀子三十枚を与えたのだった。

・・・その後の3月25日、信長公は奥の嶋山(近江八幡市長命寺山)がけで狩り(鷹狩り)に出、そのまま28日まで鷹野(鷹狩り)を行った。そして狩りの間世話になったとして永田刑部少輔へ葦毛の馬を、池田孫次郎に青毛の馬をそれぞれ与えたのち、安土へ帰城した。


山麓 御都繖山 石馬寺

〒529-1401 滋賀県東近江市五個荘石馬寺町823番地  TEL 0748-48-4823(代)

石馬寺(いしばじ)は今からおよそ1400年前の推古2年(594)。
  推古天皇の摂政であった聖徳太子が「霊地は近江国にある」と占い、駒の蹄に任せて永久に鎮護国家、仏法興隆を祈る道場を求めていました。
そして繖山(きぬがさやま)の麓辺りに来ると、駒は歩みを止めて進まなくなり、傍らの松の樹につないで山に登ったところ、瑞雲(※1)がたなびく風光明媚な風景が広がっていたのです。
 聖徳太子は「積年の望みをこの地に得たり」と深く感動して再び山を下ると、松の樹につないだ駒が傍の池に沈んで石と化していました。
この奇瑞に大いに霊気を感じ、直ちに山を『御都繖山(ぎょとさんざん)』と名付け寺を建立し、馬が石となった寺、つまり『石馬寺(いしばじ)』と号されたのです。
その際に記された聖徳太子直筆『石馬寺』三文字の木額(※2)、及び太子が駒をつないだ松の樹は本堂に安置しております。
また、この時に聖徳太子が書かれた額の文字を石碑やパンフレット当のロゴに使わせていただいております。(当HPでは右下部に使われています。)
また、石と化した『石馬』も寺に至る石段下の蓮池に現存しております。霊験として語り継がれる、石馬寺が持つ霊力・霊気をあなたの心や肌で感じて下さい。

※1 「瑞雲」 めでたい兆しとして出現する、紫色や五色の珍しい雲
※2 「聖徳太子直筆『石馬寺』三文字の木額」 聖徳太子直筆と伝わる額の文字を、石碑やパンフレット等のロゴに使用しており、当HPの画面右下部でも表示しております。

 

東近江市五箇荘町石馬寺にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は御都繖山(ぎょとさんざん)。本尊は十一面千寿観世音。

≪石馬寺の歴史≫HP参照


石馬寺は聖徳太子の建立以後、法相宗、天台宗と転宗し、近江源氏である佐々木氏の篤く帰依するところになりました。

 しかし永禄11年(1568年)、織田信長の上洛に抵抗した佐々木承禎との戦いによる戦禍を受け、伽藍や院坊のことごとくが信長による兵火に遭い、昔日の壮観を二度と見ることが出来なくなりました。

さらに、豊臣秀吉が天下を取ると寺領及び山林を没収され、山主や僧徒は退散を命じられた。

慶長8年(1603年)、徳川家康により『石馬寺』が復興。

寛永11年(1634年)3代将軍家光公上洛にあたり、旧神埼郡能登川町(現東近江市)に造営された御茶屋御殿(伊庭御殿)を移築して大方丈としました(旧本堂)。

正保元年(1644年)11月、宮城県松島にある瑞巌寺の雲居国師を中興祖として招き、臨済宗妙心寺派の寺院として現在に至ります。石馬寺は、国の重要文化財に指定されている仏像11体をはじめとして、掛軸等、数多くの仏教美術を所蔵しています。
掛軸は非公開ですが、重要文化財に指定されている仏像等については、常時一般公開しております。

重要文化財(国指定)

阿弥陀如来座像    (平安時代)
十一面観世音菩薩立像(2体)(平安時代)
役行者大菩薩腰掛像   (鎌倉時代)

 

 

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参考資料:新発見山城見学会資料(レジュメ)、『ウィキペディア(Wikipedia)』、信長公記、石馬寺HP

    本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!! 


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